2016年04月13日

なぜ相馬藩では津波のことが記録されなかったのかー続編?


なぜ相馬藩では津波のことが記録されなかったのかー続編?

南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説はやはり津浪に由来 (続編)


相馬藩の中世の館

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青い線で囲んだところが海側に港をもって勢力もっていた

藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。




相馬藩では確かに一行正式の記録として相馬藩政記に700人生波で溺死と記されているから慶長16年の津波の被害があった。
ただ正式な記録としてはこれしかないのである。
これだけの被害があったのにこれしかない、一方で戦で戦い誰が手柄をあげたとか世継ぎ問題とかは仔細に記されている
それより津波の被害のことをもっと記されてもいいはずである。


ただそこには当時の時代の影響があった。まだ相馬市がこの地域を支配していなかった。戦国時代であり戦乱の時代であり相馬氏が進出してきたのだがそのとき中世の館があり土豪が館を構えて各地を支配していた。
だからこの地方の歴史をたどるときはその中世からふりかえる必要がある
相馬氏の進出径路で書いたように相馬氏は小高から入って支配してきたのだが中之郷(原町)になるとまだ支配領域に入っていない、深野(ふこうの)とかは中世の館とつく地名が二つありそこで大原に支配地域を広げた。そこはまだ開墾されていない大原だったからである。
それから大原→小池→栃窪という径路で支配してきている
栃久保には相馬氏の家臣が入ってきているからである。
そして柚木も相馬氏の支配地域に入っていた。

つまりそれ意外は相馬氏の支配地域に入っていないので抵抗勢力として残っていたのである。
その中世の館をもって支配していた土豪は海岸線に勢力をもっていた。
それは鎌倉時代にもすでに船が使われて商業が行われ貿易が行われていた。
海岸線には港の機能がありそこに力を土着の豪族が住んでいたのである。
だから小高でも岡田氏がいて岡田館があり岩松氏の伝説でも鎌倉から船で烏崎に来て今の館に住んだ、その時船で来たとあるから船がすでに運行していた時代なのである。
ただ岩松氏の場合は磐城から船で来たらしいという説がある。
それにしても太平洋の荒い海をすでに船が荷物を積んで運行していたのである。
岩松氏が屋形に住み最近津波の跡に主に鎌倉時代の住居跡が発掘された。
つまり海老村は蝦夷のエヒから来ていて弥生時代の縦穴住居もあったということは古くから人が集まり住んでいた場所だったのである。そういう適地だったのである。

ではどうして相馬氏の相馬藩に津波のことが記されなかったのか?
そのことを解く鍵は中世の屋形の配置を見ればわかるし岡田氏とか泉氏は
相馬氏の支配下にはいったあとでも有力な相馬藩の地位についていた。
そして相馬氏の進出径路でわかるように中世の館のある海岸地帯は相馬氏は進出できなかった。
津波が来たとき被害を一番受けたのはこうした港をもっていて船ですでに貿易していた豪族であった。相馬藩政記はあくまでも相馬氏の記録でありこうした中世からもともと住んでいた土豪の記録ではない、だから相馬氏が戦いに勝ったことなどを仔細に記録しているのである。手柄話である。誰でも戦争では手柄話がしたい、それが話題の中心となる。
でもそれはもともといた中世の館をもって支配していた人たちがいてその人たちの関心はまた違っている
でも記録するのは相馬氏でありそうした土豪達ではなかったのである。

そして唯一津波の被害にあった当時の状況を語るのがこの伝説なのである。

中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし。
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、

天守閣造営のときとあるからこれはまさに相馬氏が中村に城を移して天守閣を作る時だったから慶長津波のすぐ後のことである。
ビスカイノの残した記録に中村にたちよりその時城を再建中だったというとき城の工事がはじまっていたのだが地震が来て破壊された、その時津波の被害もあったのである。

相馬利胤にビスカイノが建築中の建物が破損して再建中とあり中村の町も「海水の漲溢により海岸の村落に及ぼした被害の影響を受けたり


岩本氏の指摘ではそうなっているからこれは明確に津波の被害が地震の被害があった
でも利胤は津波については何も記していない

だからまちがいなく慶長津波の被害を語っているのである。
そういう大きな被害があり津波の被害があったときまだ相馬氏が支配した領域は狭いのである。小高は先に支配したとしてもあとは大原→小池→栃久保(栃窪)とかであり磯部館がありそこに佐藤氏が勢力をもち鬼越館を築いた。伊達氏との勢力争いもあり相馬氏は実際はそうした回りの勢力との戦いで精一杯だったのである。
そして津波の被害にあったのはそうした昔からもともといた海側に勢力をもった港をもっていた豪族だった。
その中世の館をもった豪族が慶長津波の被害を受けた。つまり相馬氏が進出する時、そうした勢力が津波で弱体化したのである。それは相馬氏にとって都合がいいものだったのである。
別に相馬氏の被害にはならないのである。今のように南相馬市全体という感覚は支配も政治も成り立っていないからである。
相馬氏はこの一帯を支配するために戦いに勝つことが一番大事だった
となれば当然そうした戦いのことを仔細に記録する、でも津波のことは相馬氏には打撃にならなかったのである。かえって好都合だったのである。
これは相馬藩ということが成り立たない時代だからそうなったのである。
伊達藩ではすでに津波にあった地域は支配下にあるからその被害が伝えられた。


ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。


海水でなぜ洗うのか?それは津波に由来しているのである。普通海水では洗わない、でも津波のときは海水で洗ったとなる。そういう津波の記憶がそうさせているともとれる
ここは何か津波をイメージさせるのである。

そして重要なのは相馬市の諏訪神社に津波の船つなぎ伝説とか残っている、それは全く根拠のないものでもない、なぜなら小泉川を津波が押し寄せればそういうことがありうる
津波の特徴はいろいろあるがまず川を遡るということに注意しなければならない
そして土手がないときだと津波の水が平地にあふれるのである。
真野川でも津波が上ってきたから危険だった。
でも真野川は河川改修して川幅を広くして土手も頑丈にしたのである。
その前は二回もこの辺では水害にあっている。真野川の下流は土地が低いのである。
岩沼の千貫山神社の繫船の伝説も当時の阿武隈川との関連で川を遡った津波でそこまできたということもイメージ的には無理がないのである。
大川小学校の悲劇も川を津波がさかのぼってきて起きたのである。

海老村の大工の善次の伝説は当時の状況を語っている、海老に津波があり大工の善次はそのことが気にかかっていた、でも相馬氏から中村城の天守造営にたずさわるよう要請されたことで悩んでいた。
天守閣造営より当時の中世の館をもって支配していた土豪の命令に従いたかったということもあるしそう命令されたこともありうる、屋形には二つの中世の館があり一つは寺である。寺も要塞だったのである。そういう中世のもともと支配していた土豪の支配下にあり一方で相馬氏が進出して天守閣の造営を命じられて板挟みで悩んでいた。
そこに津波も来て複雑な心境になっていたのである。
大原と関係していたのはまさに相馬氏が進出してきた径路にあり相馬氏の勢力が徐々に広まっていたのである。その圧力は大きなものになっていたのである。
それでこのような伝説が生れて残ったのである。


それから柚木も相馬氏の支配地域にはいった所でありそこに八沢浦での津波の伝説が残っている、「急ぎ坂」とかてんとう念仏などの伝説である。
これはやはりリアルな津波を経験した表現だから信憑性がある。
ここで注目せねばならないのは柚木でもそこは相馬氏の支配下にあったところであり中世の館をもった支配下から相馬氏の支配に移った場所なのである。
諏訪神社の船繫ぎ木の伝説も相馬氏の支配下になったときのことである。
それに何が意味があるのかとなると中世の館をもって支配した領域には津波の伝説は残っていないのである。
ただ双葉にも津波の伝説らしいものが残っている、でもそれが津波に由来するかどうかは不明である。魚畑(いよばたけ)という大熊町史にのっている魚が泳いでいたというけどそれは津波なのだろうか?
なぜなら大熊は相馬氏の支配地域に慶長津波の時は入っていない、それでもそうした津波の伝説が民間で残ったのか?その辺がまた謎になる

ともかく戦国時代の影響で津波のことは余り語られなかった。侍は戦争のことが一番大事であり相馬氏にとっては土着の中世の館をもって支配する土豪の地域は詳しく知ることができなかったのかもしれない、それでおよそ700人溺死とか記しただけだったとなる
この海老村の大工の善次の伝説を読み解けば津波のことが明確になるかもしれない、
とにかく問題はあまりにも資料がが少ないということだったのである。


相馬氏進出の経路 (文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)

タグ:津波の記録
posted by 老鶯 at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

郷土史の基本は村の新旧を知ること (一地域の新旧も歴史であり重要)


郷土史の基本は村の新旧を知ること


(一地域の新旧も歴史であり重要)


郷土史をどういうふうに研究するかとなるといろいろあるが基本はやはり村の新旧を知ることである。
前にも書いたけどそもも明治以降なら時代を間違いることはない、現実に祖父母まで生きているとき接している、自分の父親は明治生まれだから明治と大正が逆になるはずがない、でも江戸時代になると時代を間違うのである。
「天保」となると古い感じになるが実際は天保生まれの人は明治で活躍した人なのである江戸時代では時代をとりちがえる、つまり父親が祖父母となり祖父母が父親のようになる、普通はそんなことありえないのだけど江戸時代になると新旧がわかりにくくなる


それが大事なのは原町でみると原町市となっているけどそもそも原町の市街地は新しい街である。そこは雲雀が原であり野馬追いのために馬を放し飼いにしていた広い牧場だっただから原町村となり野馬追いに出ていたのは一つの家だけである。
村の新旧を知るというとき一番の目安は中世の城館があったかどうかである。
これが意外と大事なのである。それは地名からわかる、館とか楯とかある

東北地方で「館」の名前がつく地名の由来と意味とは

東北に特殊な事情があり館という地名が多い、でもこの館は江戸時代前の地名でありそこが古い場所であることを示している
原町は新しいのであり原町で古いのは中世では泉館跡とか深野でもそうだが館という地名が二つあり古いのである。
誤解しているのは大原より深野は古い、深野には実際に古い墓があったことでもわかる。相馬氏は中世に土豪として土着していた人たちを征服した氏族である
例えば最近高校で習った西徹男死が死んだ、その住所が中館になっていた。
その中館が自分の家からいつも見えるのである。
今は桜が咲いているから身近だとなる、そこは南朝で滅びた一族が逃れたところであり由来がはっきりしているのである。
たいがい中世の館は小高い山に砦を構えて住んだ。磯部の鬼越館もそうである。
最近発掘された津波の被害を受けた海老村の跡は鎌倉時代だった
そこはすでに弥生時代の竪穴式住居跡もあったというから古いのである。
あそこは右田村より高台にあり住むには適地であり古くから港の機能があり江戸時代には船で米を江戸に運んでいたという、となるとそれだけの米を運ぶ船が出入りしていたのかとなる
鎌倉時代から住んだというとき南相馬市の鹿島区の屋形は岩松氏が鎌倉から来たことで有名である。
この岩松氏は一番古い氏族なのである、それは原町も支配していたし大倉とか飯館村も支配下に置いたのである。


前に相馬氏の進出径路について書いたが大原というとき深野はすでに中世の館があり地名として二つも残っている、大原は未開の地であり文字通り大原であり原町も原っぱだったのである。
そこに相馬氏が進出して支配したのである。
地理的にも大原というと深野より奥になるから地理からまず納得する、橲原でも江戸時代からあったとしても中世は森だった。
一方栃窪村は中世の館があったから古いとなる
こういうことは地元の人でも外から来た人だと余計にわからない、新旧を取り違えるのである。
八沢浦は江戸時代は浦であり港であり明治になって開拓された、小高の井戸川も大正になって開拓された場所なのである。
ただ小高は縄文時代の遺跡が多く古いのである。縄文時代の遺跡があるところは一番古いからである。そこは今回の津波の被害にあっていないのである。
縄文時代は海だったからである、津波では鹿島区では塩崎の船着という地名のすぐ近くまで津波が来たのである。古代には船の往き来があり海だったからである。それが津波で証明されたのである。

ともかく郷土史でも新旧を知らないと誤解が生れる、相馬氏が今の相馬市に城を移したのは慶長時代でありそれは津波の被害があった一カ月後だった。
損なときに何故城を移したのか、大工事をしたのか?それが疑問なのである。
その謎解きの一つとして海老村で大工の一人が大原と関係していて天守閣の普請に使われることで苦しんでいたのである。それは海老村に津波の被害がありそのために地元で働くために天守閣造営に使われるより津波の被害のために尽くさねばならないからであったかもしれない、「大原」と関係していたことはその時相馬氏が大原に進出していたからである。


相馬氏が進出した城のあるところはすでに伊達氏などの支配地であり黒木氏など黒木館などがあり有名である。中村とはもともとあった地名でありそれで相馬市はもともと中村市だったのである。そしてなぜ松川浦の近くの津波の被害にあった新田村に元禄の碑があったのか?
これも相馬氏が進出していち早く開拓が行われたためだとなる
この辺では元禄の碑はめったにないからである。
いづれにしろ新旧を知らないと歴史を知らないと俳句とか短歌にしろそういうものも深く味わえない、深野が大原より古いということを知るのと知らないのではやはり感覚的に違ってくる、栃窪村でも中世からある古い村だということを認識しないと自分が今回作った「花の影」という俳句も深くは味わえないしまた自分にしても歴史を知らないといいものは作れないとなる、全国でも歴史を知らないと俳句でも短歌でも作れないのである。
また深く味わえないのである。だから伊勢湾から名張を通り奈良に自転車で行ったときはそこは歴史の道であり意味深いものがあったと後でふりかえることができたのである。
それは一地域でも新旧があり大事なのである。
そういう歴史が原発事故で放射能汚染で失われことが大損失だった
人が住まなくなれば歴史も失われる、するとその地域の魅力も喪失する、栃窪村でも俳句にするにしても短歌でも深く味わえないものとなる
例えばアメリカの歴史は浅いからヨーロッパのような歴史がないから浅薄でありつまらないとなるのである。
タグ:村の新旧
posted by 老鶯 at 10:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)