2016年04月28日

心に青雲のフログの趣旨は何なのか? (キーワードは「相互浸透」「像で認識しろ」など)



心に青雲のフログの趣旨は何なのか?


(キーワードは「相互浸透」「像で認識しろ」など)


ここも毎日読んでいる。批評家として優れていると思う、相反するところもあるが共感している
フログでは毎日読むのが少ない、それだけ書き続けることが大変なのである。
言っていることが首尾一貫している、内容も濃いものがあるから軽々に批判できなくなる俳句とか短歌を自分は作っているからそのことを批判しているから興味をもった

著者は人間の認識がどうして作られるのかを追及していることは確かである。
自分は相当旅したからそのことからいうといつも書いてきたけど最初は鉄道の旅が主だった、だから今でも鉄道が好きなのである。
でも鉄道の旅は人間が認識を作るのにはいいとはならない、鉄道の旅で認識したのが鉄道の駅名でありそこから何か地名に興味をもつようになった。
鉄道の旅は自分は暇だから普通車にのる、すると景色も見るのだが駅にとまると駅名が気になる、そこがどういう場所なのかということを駅名で記憶しているのである。
人間は自然でも旅するのにも何か手がかりというかとっかかりが必要になるのだろう。
それで歌枕ができた、その場所を象徴的に示す場所としてそこは寄るべき場所としてできた。人間はそうした目印になるものがないと不安になるからである。


人間が認識するというとき一番むずかしいのが地理とか地形とかを理解するときである。これだけは地図をみてもテレビを見てもわからないのである。
その場に立たない限りわからない、高さとか風と光でその場で感じるものはとてもテレビとかでも伝えられないからである。山でも遠くから見るだけでもいいが実際は上ってみれば一番いいのである。ただ登山となると体力がない自分には重圧であった、でもシナイ山まで上ったことがある。そこは草木一本もない荒寥とした山々である。岩山である。
外国の山は一般的に岩山である。中国でもそうでありだから荒寥としている
そこかに本当にモーゼが上り十戒を授かったのかとなる、それは本当に厳しい自然であるさらにヒマラヤも一回上ったけどこれも日本では想像を絶する世界である。
なぜなら富士山の高さまで上ってさらに8000メートルの山を見るからである。
そういうものを認識すること自体実際に体験しなければできない、実際は6000メートルくらいまで上らないと実感できないのである。そうなると体力的に厳しいから上れないとなる

この自然を認識するとなると本当は超人的体力がないとできないともなる
山という巨大なものに接するとき人間も山を認識するとなると山と心も体も同化するということか必要になるからである。
だから正岡子規が病人で俳句でもろくなものができなかったというのはそのためである。それは啄木にも言えることである。でもあの若さであれだけのものを作れたということに自分は凡才だから感心する、どうして自然に対する感性がそんな若くしてもてたのかとなる

自分は子規の「写生俳句」を基に作ってきた。その写生俳句というのが心の青雲の著者が言うように感情をぬきにしたものだったのである。
俳句は短いから悲しいとか淋しいとかうれしいとか感情的な言葉を入れると表現できないから写生に徹しろとして子規が唱えたのである。そこに功績があったのである。
だからいま写俳という分野がデジタル化ハソコンに生れたことでもわかる
写生俳句は写真と相性がいいのである。写真は見たままを写すから写生俳句になるのとか共通しているからである。
ただ写生俳句は深く鑑賞できないものにはつまらないとなるかもしれない、これのどこがか芸術なのとなってしまう。「鶏頭の一四五本もありぬべし」というのがそうである。
これが俳句なの芸術なのとなってしまう。
要するに一本あるのと三本あるのと五本あるのと花でも感覚的に違ってみる、だから数にこだわるのである。ただこれを鑑賞するとなるとこれのどにか個性があり芸術なのかともなる

八重桜風雨の中に赤く咲く

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今自転車で買い物に行き雨にぬれた、まさにこの時八重桜は咲いていた、赤いというとき風雨の中でも赤いということである。
これは写生なのだが自分が風雨の中にあったからその赤さを感じたのである。
赤いというとき何かあたたかいとかにも通じている、写生俳句は背景を読まないとイメージしないと平凡なものになるのである。鑑賞するものによって左右されるのが写生俳句なのである。

ともかく人間は病気になれば病的な見方しかできない、これはどうにもならないのである自然は病的なものではない、健やかであり生命力にあふれた存在でありそんな病的な人が見るのとはまるで違った強力な存在である。
自分は体力的に劣っているからなんとか体力をつけようと努力してきた、でも天才ならすでにそういうものがエネルギーが過剰に与えられているから努力しなくてもできる
そういう点で自分と心の青雲の著者は共通したところがあるので共感している
自分が師とした上野霄里氏は天才であったから偶像化される
天才と凡人の差があるからそこに偶像化する危険性があったのである。
心の青雲の著者の言っていることは理解しやすいのである。天才的なものは凡人にはついていけないのである。

彼のキーワードも理解しやすい、「相互浸透」なども最初わかりにくかったが最近はわかってきた。相互浸透とはレクサスとか高級車に乗ればその車と相互浸透して心も影響するというのは具体的でわかりやすい、自分は車に乗らないからそのことがイマイチ理解できないが例としては面白い
例えばホテルでもビジネスホテルとか安ホテルにとまると相互浸透するということはあるだろう。自分は貧乏旅行者だからまずそんなホテルとは縁がなかった
それは人間でも言える、くだらない奴とつきあっているとどうしても相互浸透してゆく、だからつきあう人には気をつけろとなる、それは会社でもそうである。
その会社で日々仕事していればそこにいる人と相互浸透してゆくことはさけられないのである。


例えば介護施設で働く人を知っているがその人は変な人しかいないというときその本人が一番変な人だったのである。まともでないのである。
介護関係とか施設には最低辺の人しか集まらないというときいろいろな問題が起きても当然なのである。
そういう最低辺の人が相互浸透している場所が介護施設だからである。
だからそういう場所に施設に入るのは怖いことだと思った、介護とか人が一番大事なのだがその肝心の人が最低辺の人しかいない、常識すらない人もいるだろう。
そこは誰もやりたくないからそういう人たちが集まってくる
またそういう相互浸透するという場はカルト宗教団体にもある、そこにはどんな人でも受け入れる、性悪だろうが何だろうが関係ないのである。一票になればとんな人でもいいのである。そういう人たちが相互浸透してゆくとどうなるのかということである。
どろどろとしたものが地獄の釜のようになっているかもしれない、なぜ出家したかとなると俗世間にいれば必ず相互浸透せざるをえないからである。この世の汚れに染まらざるを得ないからである。
夫婦でも相互浸透してゆるのがさけらさない、日々接しているのから当然だとなる、それで歴史でも王様とか殿様でもその妻妾口だして政治をまげるということがあったのもそのためである。


人間は基本的にみんな頭脳で認識を作っていると思っている、認識は体でも作っているのである。風を感じるのは体の神経であり熱でも寒さでもそうである。
だから自然を外界を認識するというとき車だと認識ができなくなる
まず風を感じないということが致命的なのである。風土というとき風と土であり風を感じないことは風土も感じないのである。
太平洋沿岸は春になると(東風-コチ)が吹く、それは三月のはじめころから吹く、それでこの辺では原発事故があったとき三月十一日が東風が海から山に吹いて飯館村から福島市とかまで影響したのである
これはまただ別であるが風を感じないと風土を感じないということがある
今年の桜は絶えず咲いてから風が吹き荒れていた、その風を感じて桜を見るのである。

ともかくこの世界を自然でも認識することは容易ではない、頭脳だけでは認識できないからである。
便利になるとかえって認識の領域は広がっても中味の濃い認識はできない
新幹線で東京から青森まで三時間でに行って何を認識したかとなると何もないとなってしまうだろう。
一方で船で名古屋まで行き名張を通り奈良まで自転車で行ったときはその行程を制覇したという満足感があり日本の一部を認識したとなる
だから江戸時代の人の認識と今の時代の人の認識したものは違っている
歩いて認識したものと歩いて旅して認識したものは違っているのである。
だから意外と今の人は近くのものを認識していないのである。自分もすぐ近くにある六号線の山にあれだけ山桜が咲いていたのを発見したのははじめてだったというのもそうである。他の人も車で通るからほとんど認識していないのである。
そういうことが現代では非常に多いのである。

いづれにしろ介護十年もして旅もしなかったから自分の認識能力は衰えた。記憶する旅をしてきたがこれもいかに認識として記憶されるかにあった。
どうしても電車の旅だと記憶に残りにくい、認識として記憶されないのである。
歩いて旅人か自転車くらいまでは体で認識して記憶に残されるが車などだとそうはならない、認識は五感で感じることでありそれに体でも感じることなのである、だから地理とか地形とか頭で知っていても知ったことにはならないのである。
峠を苦労して上ったり距離感を感じるとかないとできない、だから像として認識するというときもやはりその像というのが常に身近にあって心に刻まれることが必要になる
つまり富士山がきれいに見えるところに住んでいれば富士山の像が心に刻まれて。ゆくのである、毎日高層ビルとか鉄塔とかそんなものばとかり見ているとどうなるのか?
そこには自然の像などは関係しない、人工的頭脳が作られてゆく、それがまさに著者が都会に住んでいて矛盾している点なのである。
都会では人工頭脳が作られてゆく、日々接するものに相互浸透して人工頭脳化してゆくのである。
タグ:心に青雲

2016年04月29日

八重桜(小さな町の散らし)



八重桜(小さな町の散らし)


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八重桜風雨の中に赤く咲く

八重桜ここに住みつく人のあれ

雉の鳴き鶯の鳴き蛙鳴く

原町の街の広しも夕燕

鶯の鳴いて種蒔く男かな

菖蒲咲き老舗のあらむ通りかな


通りにそ菖蒲の咲くもあわれかな人行くまれに店なく淋し

福祉の湯入りてあわれ我が一人白き菖蒲の咲きてひたりぬ

店もなき街の通りにあわれかな紫と白の菖蒲映え暮る

街中の畑に菜の花映えにつつ漬け物会社に働く人かな

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介護十年していたときほとんど遠くに行かない、一万の町の中でありあとは隣に4、5万の街がありそこにゆくだけである
ずいぶん生活範囲は狭くなったと思う
というのは絶えず遠くを旅していたのが自分だったからである。
10年くらいは海外旅行だったから余計にそうなる
それでも家事に追われて以前として忙しいのである。


冬は福祉の湯には行っていなかった、8時間くらい水につける電気であたためるものを使っていた。これは時間がかかりすぎるしシャワーは壊れたし自分の風呂は直さない限り十分には使えない、でも金がかかるからやめた
家を直すときりがなくなる、本当は古い家なので冬が寒いから直したいが金がかかりすぎる、福祉の湯は広いし泡が出るのもあるしシャワーでも使いやすいのである。
そしてそこでは入る人は少ない、いつも一人で入れるのがいいのである。
混むのはカラオケやっている時だけだろう

そういう点贅沢だと思う、何か一人暮らしは食事でも風呂でも共同的なものというか家でなくて外でできるのものがいい、一人分はだめんどうだしかえって金と手間がかかるからである。
湯に入りながら庭に白い菖蒲が咲いていたのを一人見ていた、のんびりしていい。
この街の新しい通りでもそこには店がないのである。
その通りに菖蒲が咲いているし菖蒲の季節である。
でも何か店もないのが淋しいのである。どこでも商店街は消滅している
でもなんか商店街がないということは街が死んでいることにもなる
通りもせっかく新しく作っても活きていないのである。

菖蒲が咲いて静かに老舗があるというのが何かあっている
もう一軒の店が成り立たなくなっているのだ
街というのはやはり田舎でも必要なものだと思う
街がないと店がないとその他何か街にあるべきものがある
そういうものがないと人間的暮らしができない
湯でも離れていると簡単には利用できないのが問題なのである。
福祉の湯は近いからいいのである。それでも冬は自転車だと湯冷めするから利用しなかったのである。

桜は散って八重桜の季節に変わった、桜と八重桜はかなり違ったものである。
桜は散るということを前提にして咲いている、散るのが美しいのである。
桜はだから遠くで見るのもいいのである。
梅とか八重桜は近くで定着して見るのがにおうのがいいとなる
昨日は風雨の中に咲いていた、その赤さが何かあたたかさを感じた
八重桜は何かあたたかみを感じる花である。
ほわほわぽかぼかとした感じになる、これは桜といっても普通の桜とはその性質は全く違う。八重桜の方が何か人間をイメージするのである。

小さい町ではたいがい街中でも畑がある、そして菜の花が映えていた
そういう光景はなにか心をなごませるのである。
家で埋まっていたら嫌なのである。前は畑に菖蒲が咲いていたがそこは荒地になった
それも淋しいとなる、この辺の街の様子が大きく変わってしまった
新しい家がどのくらいたったのか三百軒なのかわからない、その数は小さな町にしては多いのである。
いづれにしろ自分の住んでいる街は一人暮らしには不便である。
特に気軽に入れるレストランとかがないことが一番不便なのである。
いつも行っていた仮設のあつみ食堂は臨時休業になりこれから再開するのかどうかもわからない、でも家があるかぎり簡単には移動はできないのである




タグ:八重桜

2016年04月30日

郡山市から会津(三島)に原発の爆発で逃げた人の話を聞く (飯館から霊山へ行く)


郡山市から会津(三島)に原発の爆発で逃げた人の話を聞く


(飯館から霊山へ行く)

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前乗という場所で壊される家

飯館村ではすでに千軒が壊されたというから驚き

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草野にできた復興住宅

中は相当に広い、奥行きがある

子供をもった家族向きである。

4所帯が入れて四つつくるそうである。二つはできている

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増えたのは猿とイノシシである


霊山の紅葉館であった老人は郡山市の人だった
あの人は何か話好きだったからいろいろ話しした

「私はね、原発事故で爆発したとき、会津の三島に逃げたんですよ」
「郡山でも逃げた人があるんですか?」
「私はね、戦争経験しているから広島の原爆とか思いだ思い出したんですよ」
「あの爆発を見て危機を感じた人はいます、また感じない人もいました
自分は30キロからわずかにはずれていましたが危険を感じなかったですよ
30キロはずれたところは屋内退避と自主的に避難があった、バスが用意されてそれの乗らないとあとは避難できないと聞いたときそんな危険な状態なのかと思った」
「私はね、会津から三島の鶴の湯に逃げたんですよ、一カ月いましたね、でもそのあと原発の避難者がいっぱいおしかけて追い出されたんですよ」
「郡山だと避難命令など出ないから逃げた人はまれでしょう」
「そうですけど子供のとき一応戦争体験していますから逃げたんですよ」

この人は郡山市に60才頃なのか分譲住宅を買って大宮から移り住んだ人だった、それから20年とか住んでもう故郷の両親も死んだからここが故郷ですよと言っていた。
その老人は元から住んでいるわけでもなく仕事をリタイアして郡山に住んだ。
だから20年とか遊んで暮らす身分だったのである。全国を旅行したことも言っていた。
そういう老人も増えている、阿蘇で地震があったけど被害があったのは茨城県のツクバの人が地震と放射能をこけるたに移住したという、それも馬鹿見たなとさんざん言われている。放射脳だとかさんざんに言われる
まず郡山市でそれだけ危機感を感じるというのはやはりまれだろう。

ただその人は広島の原爆などのことを思い出して危機感をもったのである。
自分はあの爆発を見て危機感を感じなかった、そもそも放射能のこともわからなかったのである。
危機感を感じない人は感じない、浪江の人も一番危険な津島に逃げた。その時東電関係の人がいて放射能のことを知っていてこっちは放射線が高くなると街に引き返したという
街の方が海側だから0、5とか低かったのである。
爆発したときみんな混乱していた。異常に危機感を感じる人もいたが危機感を全然感じない人もいた、自分などはそうだった、飯館村でも爆発しても村長が避難するなととどめていたのである。それが批判されている。
これは放射能がわからないというより村長にしてみれば村民が出てゆくと困るからであるでも村長は村民を思うことで村長なのだけど村長は村長であるために避難させなかった。

今でもそうだが村民がいなくなったら公務員でも村長でも職を失う危機にさらされるからである。
そして爆発して大量の放射性物質が流れた、それは最初の一カ月間くらいずっと放射性物質は大量に飯館村とか福島市の方に流れたのである。
でもその間飯館村の村民は避難しなかったから被爆したと言われる
南相馬市では二三日間くらい放射線量は特別高かったがあとはどんどん低くなり影響がなかった。
今では0・2だが最初から0・2だったのである。樋とかを除いてはそうである。
郡山市でもそのくらいであり除染は必要ないと言われたそうである。自分の所でも0・2であり0・23以上しか除染しないのである。

飯館村の放射線量を計ったが佐須までゆく道の草むらは1、5とかであり佐須の牧草地は前は3あったが今はその半分になっている、木材は1であり前は3あったから低くなっている
意外と放射線量は低くなっている、でも自分の所は0・2から変わりないのである。

あの人はいろいろ話好きだったのだろう。ただ大宮から移り住んだ人だから歴史には詳しくない

「郡山にタダノ(多田野村)があるんですよ、そのタダノとこの霊山は関係している
南北の争いでそのタダノの人たちが落ち延びて南相馬市の鹿島に住んだんですよ、字は但野とか只野とかに変わっていますけどまちがいなく多田野村から来た人たちの子孫なんですよ 鹿島には只野、但野姓が多いんですよ」
「タダノ村は知っています、まあいろいろあるんでしょう」

その人は83才であり胃ガンで胃を切除している、だから孫とかは山に登ったが上れないと食道にいて話したのである。

帰りに佐須から草野によったら街の中に立派な復興住宅が建っていた。その回りは貧弱な住宅である。たいがい田舎では格安の住宅があるから貧弱である。家賃は4000円とか格安である。仕事している人がいた

「ずいぶんこれは立派ですね」
「中は広いですよ」
「子供をもっている家族向きですか」
「老人向きではない」
「飯館辺りはみんなやはり帰らないでしょう」
「こういう立派な復興住宅を作って帰って住まわせたいのかもしれさません」
「それはそうかもしれません、帰って住む人がいなくては村はやっていけまんせんよ」
「そういうことです」

本当にあの復興住宅は今まで見たもので一番立派であり住みたくなるような外観でもあり中もそうである。木造だからあたたかみもあるからいい。
来年で避難解除になるとしてどれだけの人が帰って来るのだろうか?
これも疑問でありそもそも村としてやっていけるのかという疑問がある
そもそも自治体が運営できる人口はいくらくらいなのかとなる、葛尾村は3000人くらいであり良く自治体として成り立っていると思った。
飯館村は6000人いたのである。自分の予想としては村として維持することがむずかしくなり自然公園みたくなってしまうような気もする、自然公園として管理する人は住むけど村として成り立つのかとなる、村というときそこには生業がないと成り立たない

その生業が放射能汚染されて食糧も自活できないとなると村として成り立つのかという疑問がある。
菊地製作所は村を維持するための会社になっているがそれだけで村が成り立つのかという疑問がある、第一千軒の家が壊されたのである。
その人たちは飯館村に住まないから自分の家を壊した、となるとその後に誰が住むのかとなる
福島市でも補償金で家建てたとかいろいす言われる、だから村に帰る人がこうなるとどれだけいるのか?村が成り立つのかという疑問になる

帰りは遅くなり夕方になり出てきたのは猿とたイノシシである、道まででてくるから警戒感がなくなっているだろう。
増えたのは猿とイノシシでありそのために駆除もしている、その檻もあった。
飯館村には山桜が咲き家々には枝垂桜が咲いていたが人は住んでいないから淋しいとなる
いづれにしろ津波や原発事故などでどれだけそれぞれの対応があったか知りえるのはほんの一部である。なぜなら福島県だけでもその被害者は膨大になっているからである。
一人一人がどういう対応とったとかその後どうなったのかなどわかりえようがないのである。

タグ:飯館村
posted by 老鶯 at 21:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連