2016年04月15日

他者のカルマを受ける怖さ (事業失敗のカルマを受けた怖さ)


他者のカルマを受ける怖さ


(事業失敗のカルマを受けた怖さ)


その人は事業に失敗した。でも最近までその人は成功していたと見られていた、あの人は誰でもとれない資格をとっていたから回りから優秀な人だと見られていたし自分もそう思っていた。
現実は事業に失敗して多額の借金をかかえていたのである。
その人の事業は全国を相手にして金持ちをターゲットにした建築関係の仕事である。
別荘のようなものを提供することだった。
資格をもっていたからはじめたのである。
でもそもそもそれには無理があった。大きな設備投資もしたこともありそれも重荷になった。
自分は別にその人とは家族とも関係してない、でも親の代から深い関係があった。
親というのではないが自分の家族はその人の家族が病気になったとき看護婦ということで助けたのである。それを恩に思ってくれたので自分の家族が病気になったときは多少は助けてくれた。


でも今度は自分が病気になったときは別である。直接自分が助けたりしていないしそれよりその人にはもう自分を助ける余裕も何もないのである。
多額の借金をかかえているから自分が病気になり弱体化したときチャンスになった。
借金を要求するのには好都合だったのである。
自分は自分自身のカルマもあった、それは両親ともいえる家族には自分は一番良くされてきたから介護とか世話するのは当然であり懸命に介護した。
一人は認知症だったからひどかった。そのことを延々とプログで書いてきた。
自分自身のカルマは自分で清算するしかなかった。
でも他人のカルマまで背負うことは本当に加重であり恐怖である。
病気のとき責められることは辛い、でも相手は何も感じていない
自分だけの借金のことしか頭にないからである。
その時相手がどう思っているかというとこれも怖いことだが自分が死ねば財産がえられるとか思っていたのである。
それは殺人までいかなくてもそういう動機があり意志が生じていたことはそれに匹敵するのである。


何もそういうことはこの世の中で兄弟でも財産争いで普通に起きていることである。
それが推理小説のテーマである。遺産争いが一番そのテーマになっているからだ。
要するにこの世に起きることで自分が当事者にならないかぎりその恐怖を知ることはできない、ドラマを見ていればただ面白いとなるだけなのである。
それはあれだけの津波の被害でもこの辺で身近に起きていてもそうだったのである。
自分の親が子供が死んだらその悲しみは深いものとなる、でも近くにいてもその被害にあわない人は感じないのである。
家も流されたわけでもないし家族を失ったわけでもないからである。
これは別に自分が非情だからではない、みんな他人の不幸でも無関心なのである。
ただ自分の身にふりかかったときは全く違うのである。


今回は自分の身に直接ふりかかったからその痛みと恐怖は今でも消えないのである。
そして他人のカルマを受けることは本当に怖いことである。
自分の家族が自分自身が病気で苦しんでいるとき多額の借金をかかえた人が来たらどうなるのか?
また金がない人がきて被害にあったらどうなるのか?強盗にあい殺された人も普通にいる
それもやはり他人のカルマを受けることなのだろう。
自分が犯罪にあったのもそうである。そしてそういう不満のある人は必ずやつあたりする、それで死んでいる人もいるのが普通である。
つまり他人のカルマによって死ぬということさえあるのがこの世である。
しかしそうした相手が意外と他人に恐怖を与えても感じていないのである。
実際は笑っていたのである。これは借金するのに好都合だと笑っていたのである。
そして死ねば財産が自分の物になるとなるから死ねばいいとさえ思う
それは保険金殺人と同じである。それは親戚でも財産争いで普通に起きていることなのである。

結婚すると好きだとか愛だとか甘いものでしてもあとで相手の家族のカルマを負うこと強いられるから怖いということがある。
もちろん結婚する前にもそういうカルマがあるということを知ることもある
家族の中に良からぬ人がいるということも知る、でもわからないこともある。
それが隠されていることもあるから怖い、それが表面化したのは老人になってからだったということも普通にある
いづれにしろ60代以降になると病気になりやすいしカルマが逃れがたく現れる
カルマの総決算が強いられるのである。それがまさに自分にも起きたのである。


なぜか自分の家系をたどると父方の方で二軒も事業に失敗している、兄弟という関係ではない遠い親戚といものでもそうである。
その家の跡は今では駐車場になり何もない、もう一軒もやはり60代以降になり事業に失敗して自分がそのカルマを受けることになった。
そして母方の方も事業で失敗したことが一家離散の悲惨な結果になったのである。
事業の失敗というとき第一20人に一人くらいしか成功していないのである。
するどどれだけの人が事業に失敗して悲惨な結果になっているか?
事業の怖さは親戚だとかなると否応なく連帯保証人とかにさせられる
これも共同責任になるから怖い、その悲劇はいくらでも現実にあるからめですらしくないただこういうことも実際に自分の身にふりかからない限り常に他人事なのである。
シリアであれだけ悲惨でも同じである。
もし日本人が難民化したらどうなるのか?それすらありえる。
将来アメリカと中国とロシアの板挟みになり日本が分裂したりしてシリアのようにならないとも限らないからだ。


とにかくカルマは他人に負わせるとさらにその人のカルマは重いものとなる
自分のカルマは自分で清算するほかないのである。
自分に事業の失敗のカルマを負わせる、それも自分が病気であり弱いときそういうことしたらさらにカルマは重いものとなってゆく
結婚でも必ず嫁いだ先の家のカルマを背負うことになるし逃れられないから怖いのである昔は家同士の結婚だったというときそれも家がもっているカルマがありそれを考慮すればその方が安全だとなる、どうしても結婚では家のカルマを受けざるをえないからである。親のカルマを子が受け継ぐのも普通にある、親と同じような運命になる不思議がある。
それはカルマの法則といってもいい、例外があっても法則のようにそうなっている
ただ誰でもカルマは背負っている、カルマのない人はいないのである。
金持ちで恵まれているのも危険である。何か困難があったとき耐えられないとなる
切り抜ける術もないとなり破綻してしまうだろう。


自分のカルマもあるが他者のカルマを背負わされることも怖い、自分には自分のカルマを背負うことと他者のカルマを受けることの二つが同時に起きた。
悪いことは重なるし良いことも重なる、だからこの十年間は辛酸をなめた。
カルマの法則はこれは確かにありそれは現実としてあることを誰でも人生経験で知る
誰かを苦しめたものはまた誰かに苦しめられるのである。
これはまちがいなくあることでありカルマの法則なのである。

荒れ模様の中で今年の桜も散る



荒れ模様の中で今年の桜も散る



日本なれ海の光りて朝桜


昨日は風に吹き散る桜かな今日は静かに小雨に散りぬ

目覚めれば風に吹き飛ぶ花びらや今年の桜散るも早しも

風荒れて残れる花をしばし見つ今年ははやも散りにけるかな

風荒れて桜をゆする咲きし間も今年短き落ちつかぬめかも

花散らしなお風うなり夜となる名残を惜しむ間も短しも



ひさかたの ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 

この歌はひかりのどけきだから風が吹いていない穏やかな日に散る桜である。
でも静心なくというのは穏やかな日でも桜が咲くとそれはすでに散ることを予感させる
今年は風が何度も吹いた、吹かない日がないくらいだった
それも風が強いのである。それで今日も桜が激しく風に揺すられていたのである

花の命は桜の命は短い、そこに日本人の美学が形成されたということはある。
戦争中は若い人が多く死んだから桜にその心が反映されやすかったのである。

たれこめて 春のゆくへも 知らぬまに 待ちし桜も うつろひにけり

桜はあくまでも「晩春を彩る代表的な景物」であり、その花が散ること、
つまり「春が終わる」ことを惜しみ嘆いているのです。
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桜を散る桜を人間の命にたとえたのは戦争中だけでありそれまではただ季節が移るということで桜をとりあげていた
静心なくというとき桜は風に散りやすいからそうなる、風騒ぐというときそれは心も騒ぐということに通じている。
花が散るというとき死をイメージしても不思議ではない
自分の今回の歌も何か死をイメージしている、命が短いというときそうである。
でも桜は毎年咲くのだから咲いて散るのだから命短しとするのはあわないのである。
どちらかというと華やかに儚いというかそういうものの象徴になる

一時に花みな散りぬいさぎよし若き命の今はなしかも

これは自分で作ってみたがこんなふうに戦争のときは桜は歌われていたのである。
こういうことは今は批判されている、戦争を賛美するものだったとなる

はかなくて過ぎにしかたを数ふれば花に物思ふ春ぞ経にける  101式子内親王
みよし野の高嶺のさくら散りにけり嵐もしろき春のあけぼの  133後鳥羽院

これなんかも別に命のことではない、春の象徴として桜があった。
人間の命として桜にたくしていはいない、ただ静心なきとさせるのが桜なのである。
それが死と結びつく、桜は何かそうして死を予感させるものがあったのかもしれない。

朝倉氏が織田信長と戦っているとき家来の武将が桜の歌を残した。それは山桜でもない、糸桜だったのである。糸桜は枝垂桜であるから染井吉野のように華やかには散らない
だから散るという歌はないのである

折りを得て けふ咲く花は君がため今一しほの色やそひけむ 信忠

枝垂桜だったら散るというより枝垂れる色がにあう。この時第一城であっても今のように染井吉野のよう花は咲いていないのである。明治以降に桜の木がどこにでも植えられて飾るようになった。
ただ糸桜は枝垂桜は城内に咲いていたのでこういう歌を残したのである。

自然には人間の心が心境によって絵でも文学でもなる、俳句でも短歌でもそうである。
でも桜だけが命ではなく多くの花もやはり人間の心がたくされる、花の命は短いというときそれは人間のことでもある。
だから普通の花でも咲いて枯れれば死ぬと見るのである。
それは生き物だからそうなる、そして墓にさす花は枯れるがいやなのである。
枯れたままになってさしてあるのが嫌なのである。
それからいつでも造花がさされているのもいやなのである。
造花はやはり生きていないからである。花は枯れても生き物だから違う。
だから時々彼岸でなくても生きた花をさしておきたいとなる
要するに桜でも普通の花でも生きてやがて死すというのは無常であり運命である。
樹ですら千年生きてもいつかは死んで土に還るのが定めである
それは生きものだからそうなっているのだ。
だから桜だけがはかないとかではない、みんな花の命は短いのである。


ここに生きここに死すなれ桜かなまた咲くべしや年はめぐりぬ

桜は日本人の心 (ともに栄えるのが格差がないのが日本の文化)

これは土着的なものとして見た桜である、もともと桜は農耕と関係していた。
それで桜が咲いたら種をまくということで種蒔き桜などがある
桜を戦争のときのように死のイメージとしてだけみてはいない
栄えるものの象徴としても桜はあったのである。
タグ:桜散る

2016年04月16日

みちのく真野、桜田山に桜散る十首


みちのく真野、桜田山に桜散る十首


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桜田山万葉園


みちのくの真野のあわれも桜田山海を望みて花は散りにき

海望む桜田山に我が上り東風の吹きくる沖ゆく船見ゆ

年古りて桜田山や残る花散るもあわれも今日も風吹く

海望み沖行く船を我が見れば旅心わく春の朝かな

桜田山花の装い燕来る風のあらしもはや散りにけり

海望み桜田山や風あらく花の散りにきあわただしかも

万葉園久々にきて年深み松にしよりぬ春のくれかな

我が生や介護に十年その重み姉母死にてめぐる春かな

我が町を桜田山に望むかな姉母なしも花は散りにき

故郷は思い出深き姉と母眠れる所春のめぐりぬ

年古りて今いくたびの春なれや桜田山に望む海かな

海望み津波の跡の生々し帰り来ぬ人春はめぐれど

故郷に我も老いにき桜田山花は散りにきあわれ深まる

故郷に若き人しも育ちなむ我が老いつつも見まもりけるかな



桜田山に上ったのは数年ぶりというか上っていなかった。それはなぜなのか?
毎日十年は買い物であり介護に追われていた。
この介護の十年は自分の人生の大きな一部となってしまった。
何かに常に追われつづけてきたのである。
桜田山に上らなかったのは失敗だった、ここから海を望んだときそれが新鮮だった
もしかしたら三年くらい上っていなかったかもしれない
とにかくこの辺は津波が来て原発事故になっていらい落ち着かないのである。
それはここ十年は介護であり自分の病気やらで本当にめまぐるしく追われたのである。

30年くらいは平和であり自分は楽だった、その間旅に明け暮れた。
それで桜で思い出したのは

みちのくに桜咲く時西に行き京大阪は散りし後かな

つまり桜前線が西から東へと移ってゆくことで情緒が生れる、みちのくの桜はまだ咲かないというとき桜の咲くのを待っているというとき西は桜が咲き誇り栄華があったのである一方でみちのくの桜も散るしそのあとはさらに北へ向かえば弘前の桜が咲くとなる

稚内六月にしも桜咲き雨のふりにつ寒しを思ふ

稚内まで自転車で行ったとき六月まで桜が咲いていた、その時は寒かったのである。
ともかく人生60年とか団塊の世代も老人となり過去をふりかえるようになる
実際に同級生で死んだ人もいるし脳梗塞とかで手術してやせほそった同級生もいた。
団塊の世代もそういう人生の最終章に向かいつつあるのだ。

何かこの十年は介護であり津波原発事故でありめまぐるしく変わりあわただしいのである介護が終わったということでその時間の重みを知った。
介護がそれだけ長いということは人生の一部として課せられるようになったのである。

万葉園にも久々に行った、何か荒れていた。立て札に記された歌があった。

一つ松幾代か経ぬる吹く風の声の清きは年深みかも(万葉集、市原王)

南相馬市の鹿島区の真野は万葉集の歌にある。

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを (笠女郎)

これは必ず真野の草原となっているから草原(かやはら)だと思っている
でもこれは地名だったのである。だから草原(かやはら)をイメージすると変なものになるのだ、草原を萱の原とするとき全く違ったものになる
草原は地名だった、伽耶の原だったのである。津神社がつの神社でありそれがツノガノアラシトと関係していたように誤解される、津神社で津波と関係していたものはないのである。ツノとなっていればたいがいツノガノアラシト系統なのである。
韓国からの渡来人に由来した地名である。製鉄の技術集団が移動してきたためにつけられた地名であ。ただこれは本当にまぎらわしいのである。

いづれにしろ姉と母が死んだことは自分にとって大きな変化だった。この辺はみんなすさまじい変化に見舞われた。津波でもそうだしそのショックはまだ消えていない
ここ十年で経験した自分のことも生々しいのである
この十年は大きな重圧のもとで生きてきたのである。
だから何か常に生活でも心も負われて生活してきたのである。
そのうち十年がたち相当に老いて市ったとなる、この辺で大病したりすると同教生のようにさらにふけてしまうのである。
自分は体力的には立ち直っているからまだ死ぬのは早いかもしれない、でも何か人生の最終章に向かっていることはまぎれもない実感なのである。
今だから書くことが前に書いたことでもふりかえり書くことが増えた
いくら書いても書き切れないという状態になっている
介護から解放されたからパソコンでも記録したものをふりかえりまとめることが仕事になる、これも相当な手間なのである。





タグ:桜散る

空白地域で起きた熊本地震 (ここでも強い地震は起きないとされていた)


空白地域で起きた熊本地震


(ここでも強い地震は起きないとされていた)


90年のデータだけでは限界があるため、「自分の地域ではでかいのはない」
と、絶対に思わないように。安堵しすぎるのはかえって逆効果です。

なぜ熊本でもそういうふうに信じられていたのか?
これも百年単位とかで見ていると地震は起きない地域とみてしまう。
不思議にそれがだんだん信念までになってゆくのが人間だった
福島県の浜通りとかでも宮城県でも三陸以外はそうだった
すでに400年とか津波が来ていないからこの辺は津波が来ないとされていた


津波の空白地域に伝説が多いというとき宮城県の石巻辺りからは津波は来てない
慶長津波以来来ていない、そこで確かに伝説が多いとなる
それに注目して今回の津波を警告していた学者がいた
でも誰も本気で信じるものはいなかった
最近はボーリング調査で相馬市でも市街近くまで津波が来たことが証明された
それは貞観津波の砂だった。それを発表してから7年後に今回の慶長津波が来たのであるそれは科学的に証明されたから伝説とは違うのである
東京電力でも10メートル以上のつなみ想定していたのである。
ただその対策をとらなかっただけである

三陸辺りでは百年単位くらいで津波が来ているから津波の伝説は少ないというのはそれは時間感覚でそうなっている、伝説はそうしたリアルな体験が忘れられて伝説になる
要するに人間の時間感覚が短いことが最大の問題なのである。
人間の時間感覚はせいぜい祖父母の代までは現実に知っていているからリアルである。
でもその先になると現実感覚がなくなる、顔も見たこともないし例え親がその祖父母のことを語っても想像することによってしかわからなくなる
すると想像するということは何か誇大に解釈したり勝手に想像力で事実をまげる
小説のようにしたりする、事実が事実ではなく想像の世界に入ってしまうのである。
だから相馬藩で津波の時復興事業として中村(相馬市)に城を移転した、それは公共事業だったとか言う人がいた。それが有名な学者だったというのだからこれも変なものだったのである。
そしてそのことを公共事業としての城の移転と築城と相馬藩では津波の被害にあった人たちを援助したということを書いていた。
そんな事実が一かけらもないのに小説にしていかにも相馬藩では藩の民を大事にしていたかと宣伝していたのである。
事実はその逆であり津波の被害を逆に相馬氏が利用して戦国時代に支配を確立した
津波の被害者のために相馬藩で何かしたなど資料もなにもないのである。


人間の弱点は時間感覚が短いことなのだ。だから時間感覚の長い地球を相手にするときさらに誤解が生れる、それは地球というとてつもない長い時間で生成されたものを相手にするからである。
それは人間の有史以来までさかのぼる時間感覚なのである。
千年単位で起きることを知ることは容易ではない
人間は百歳まで生きてもそれしか生きていないからである。

なぜ熊本で地震が起きたのだ、ここには地震は起きない地域だ

これは福島県とかの浜通りでも盛んに言われたことなのである。
でも慶長地震と津波は400年前にきて700人溺死と記されていた。
空白地域はかえって危険だったのである。
長い間地震は起こらないとか津波が来ないという空白地域こそ危険だったのである。
なぜならそれはすでに次の大きな地震が起きる時期にきていたのである。
慶長地震津波から訳400年でこの辺にも大津波が来たからである。
「災害は忘れたころにやってくる」というときそれは人間の時間感覚が百年とか短いからなのである。
もし人間が長い時間感覚をもっていたら大災害はさけられる
そして長い時間感覚をもたないもの、文明とかでも危険になる


現代の科学技術文明は百年くらいで急速に自然の中で生れた、そこには相当な無理をしている
だから原発事故でも起きた、これは日本の自然と適合するのではない、地震が多いし危険なのである。稲作文明は自然と長い時間のなかで23千年以上のとかで日本の自然に適合したものなのである。
エジプト文明の三千年でもそうである。自然に適合した文明は長命であり百年くらいでは崩壊しない、それで縄文文明でも弥生文明でもマヤ文明でも千年以上とか普通であり寿命が長いのである。
現代文明の危険は自然と適合した文明ではないから寿命が短いから自然災害で崩壊しやすい危険も大きいのである。


とにかく日本ではここに地震が起こらないとか津波が来ないとか一つの固い信念のようになることは危険だったのである。
日本はもともと地震列島であり災害列島なのである。おそらく年号が変わりやすいのは災害をまねがれるためだったのかもしれない、平成と天皇が代わり変えた
それが皮肉なことに平成どころではなかった、それが願いにしてもその反対の災難の時代だった
天皇の役目が日本では自然災害が起こらないように八百万の神に祈ることでもあった
それだけ日本は自然災害が多い国だったのである。
そして今空白地域になっいるのが関東であり東南海地帯である。
ここでは大地震が大津波が起こると予定されている、それはここも地震や津波が長い間起きていなからである
ただ空白地域にならないのはここには人口が密集しているからみんなそのことで心配しているから注目されているのである、北海道辺りだと人口が少ないから被害にあっても日本全体にはさほど影響しないとなる、九州もそういうことがあった
東京が壊滅したら日本は終わりだとという今の事情が反映して騒ぐのである。
フクシマの原発も東京を守るために離れて作られたのである。
東京が首都でありここだけは死守せねばならないということでそうなった
そのために地方は犠牲にというなってもいいという国の意志であり政策だったのである。政治がそうさせたのである。


もしかしたら今安全なのは東北と北海道かもしれない

東北は今は余震もおさまった、巨大なエネルギーを放出した

関東は危ない

福島県も今は安全

放射能より地震で死ぬのが怖い

福島県や東北や北海道に逃げろ


これは冗談でないかもしれない、そういう危機が迫っている
タグ:熊本地震
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2016年04月17日

巨大地震が連続して起きた慶長時代とにている (東北と九州(熊本)に起こり今度は関東へ迫る恐怖)



巨大地震が連続して起きた慶長時代とにている


(東北と九州(熊本地震)に起こり今度は関東へ迫る恐怖)

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慶長伊予地震 - 1596年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0、寺社倒壊等。中央構造線沿いと推定される地震。
慶長豊後地震(大分地震)[4] - 1596年9月4日、豊後国をおそった地震。M 7.0〜7.8、死者710人。中央構造線と連続している可能性がある別府湾-日出生断層帯で発生した(上記地震との)連動型地震とされる。
慶長伏見地震[5][6][7][8] - 1596年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。有馬-高槻断層帯、あるいは六甲-淡路島断層帯における地震とされる。上記二つの地震に誘発されて発生した可能性がある。


慶長地震[9] - 1605年2月3日、南海トラフ巨大地震の一つとされてきたが、伊豆小笠原海溝付近震源説や遠地津波説など異論もある。M 7.9〜8.0。紀伊半島沖と房総沖が連動したとする説もあり、M 8.4〜8.5ともされる。津波地震と考えられており、地震動による被害は少なかったが、現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万人を数えた。


会津地震(慶長会津地震) - 1611年9月27日、会津地方をおそった直下型地震。M 6.9。寺社損壊、死者3,700人。
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波)[10][11] - 1611年12月2日に三陸沖を震源として発生した地震でM8.1(8.1-8.7の諸説あり)。ただし、津波の痕跡の範囲などから、この従来の定説に疑義があるとされ、千島・色丹沖の震源と連動した大地震・津波だったとする説もある。この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大。地震被害の記録はほとんど無い。
慶長十九年十月二十五日の地震 - 1614年11月26日に起こった地震。従来高田領大地震とされたが、会津から松山に至る日本各地に被害記録があり、震源は不明


慶長伊予地震、慶長豊後地震、慶長伏見地震

は4日以内に連続して発生したものであるが、共通点は、これらの地震が

「中央構造線」

上で発生していることだ。

日本列島を縦断する

「中央構造線」。

この「活断層」が活動を活発化させていると考えられる


1596年9月1日 慶長伊予地震

1596年9月4日 慶長豊後地震

1596年9月5日 慶長伏見地震


1605年2月3日 慶長地震(南海トラフー関東地方)


1611年9月27日 慶長会津地震

1611年12月2日 慶長三陸東北


最初伊予(四国)で起こり継ぎに3日後に豊後(大分)で起こり一日後に伏見(京都)で地震が起きた。これは確実に連動して起きた。

次の1605年は謎の地震と津波と言われるのはなぜか不可解である。
慶長三陸地震津波の前に会津で地震が起きて七層の黒川城が崩壊した
それはのカ月後にだった


1596-1611(慶長時代)は戦国時代でもあり地震と津波の時代だった
問題はこの一連の地震は関係しているのかということである。

中央構造線で起きた伊予ー豊後ー伏見地震は確実に関係している
一週間以内に起きたからである。

その次の1605年になると9年後げありこの地震と津波のことは謎である。
これがもし本当であったとすると怖い
なぜなら今回の熊本地震と中央構造線でつながり関東地方にも影響がでてくる
ただ慶長地震の場合は9年後だからすぐに影響したわけではない

次の慶長会津地震は慶長三陸地震の3カ月後だからなんらか影響したと思われる。
何か今回の熊本地震でも慶長時代とにている

ただその方向が逆になっている
東日本大震災は東北でありそして茨城県から東京とか関東にその影響があるのか?
そこは謎であり南海トラフの大地震から大津波につながるのか?
そして九州とかの熊本地震につながっているのかとなる
ただその間に10年とか時間差があると地震や津波は関連がむずかしくなる
人間だと10年一昔になってしまうからである。10年後に起きても関連づけるのはむずかしくなる
ただ慶長時代はなんらか巨大地震が多く一連のものとして起こった可能性が大きいのである。
それをあてはめると何か今回の熊本地震は不気味なのである。

地震がなぜ予測できないのか?やはり科学というのは法則性を求めている
その法則があてはまらない、変則的に起きてくる
地殻がどういうふうに関係して連動して起きてくるのかわからない
それがいつ起きてくるかもわからない、一年後なのか5年後なのか十年後なのかもわからない、第一巨大地震のあとには百年後まで余震が起きるとなるともう忘れてしまうだろう
ただ不気味なのは南海トラフの大地震と津波が警戒されているのは東日本大震災でも熊本地震でも両方からの圧力が地殻にかかっているかもしれない、そしてそこが空白地帯になっているから危険なのである。
だから30年のあいだに巨大地震が起きるというときそれは確率的に言えるとなる
今回のように東日本大震災や熊本地震があるとそれは慶長時代とにているから余計に心配になる。そういうことが慶長時代に起きていたからである。
タグ:熊本地震(2)
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余花十句(夕暮れの街道を相馬市の城跡まで)



余花十句(夕暮れの街道を相馬市の城跡まで) 

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草青し雨濡れ夕べ春の虹

夕風にゆれやまぬかな山桜

薬師堂古き碑並び花散りぬ

街道に夕日さし松に山桜

花映えて鳩むれとぶや街の空

城跡に夕鶯や月もいず

四十雀枝わたるかな残る花

夕月や薄紫のつつじかな

城跡に余花のあわれやいずる月

人去りて眠りにつくや余花に月


城跡に残れる花や幾人か心静かに夕べ歩みぬ

夕暮れにかそかに残る花も散る城跡静か歩みけるかな

雨の後残れる花に夕日さしあわれ暮れゆく薬師堂かな

残る花薬師堂にそ散りゆくや夕日のさして我が通るかも

宇多川の岸辺にあわれ残る花夕べ歩める人の静けし

五本松一本欠けぬしかあれど五本松かな春の夕暮


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今日は雨がふり午後から晴れた゛その時虹がかかった、短い虹だった、春の虹だった
この時カメラをもっていなかったのが失敗だった、今はカメラを常時もっていなとシャッーターチャンスを逃し二度ととれなくなる

それから日立木の薬師堂を回り松並木の街道を通り相馬市の城跡に行った。
その時は風は吹いていなかった、雨にぬれたあとの散った桜が風情があった。
残り咲く花もまだ散らず城跡にひっそりと咲き行く人もまれだった
苗市が開かれていたが終わったらしい、薄紫のつつじが目をひいた
その時ちょうど月がでていた

今回は余花がテ-マになった、これはあまり人が多いと鑑賞できない
そもそも花見とかいうと大勢になるがそれだけではない、桜でもやはり美を鑑賞するとなると静かな方がいいとなる
大坂城とか京都の桜は歴史があり特別なものがある
ただ今は人が外国人でもこみすぎるから行きたくない
自分はもともと人嫌いであり人ごみが好きでなかった、今になると年とると余計にそうなった
若いときはどうしてもにぎやかな所がいい、でも年取ると一般的に田舎が好まれるのはやはり騒々しい所が嫌になるのである。
個人差があるかたいだいそうなるのが一般的である
自分の場合はある意味で異常だった
30年間恵まれてほとんど人と接していなかったのである。
ひきこもりといえばそうなる、ただその間旅していたからそれとも違う。

ともかく何度も書いているけど相馬市はなぜ不思議なのか?
それは街なのにしんとしているのことなのである。
原町にはそういう感じはないのである
だから余花でも映えるとなる
人も去って街はねむりにつき余花と月のみが映えているのである。
そういう景色が心に映じて自分も眠りたいとなる
なぜならここ十年は介護に終われて疲れてしまったからである。
そして苦しみの連続だったからである。

五本松の一本は枯れて切られ根っこだけがあった。
それでも五本松である。
自分の家族も二人亡くしたが60年も一緒にいたのでいなくなったという感じがないのである。
これは今のところ謎である。そういうふうに親しい人が死んだときその後にどう感じるかはまだ何なのかわからない
でも何か消えた感じがしない、やっはりいるような感覚になるのが不思議なのである。
それは60年も一緒に同じ場所にいたことが影響しているのだ。
五本松でもやはりここにいつでも立っているから一本消えてもやはり五本松としてあるのとょにているのである。

今回は結構山桜は咲いていた、染井吉野はほとんど散った、余花になっていた
桜もこれでだいたい終わりだが実は桜前線はまだ北に向かうから桜はみれるのである。
ただ何か自分は介護十年で終わり家族が二人死んで疲れがでた
でも今回もかいごしなくていいから時間の余裕がありゆっくり帰ってきたのである。





タグ:余花

2016年04月18日

予知できない地震 (東北はかえって安全地帯になった?)


予知できない地震


(東北はかえって安全地帯になった?)

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今回の熊本地震はどうなっているんだろう?これほど頻繁に地震が起きるものだろうか。
東日本大震災でも大きな余震があったし余震がつづいていた
でもここでの余震は起こる回数が頻度が多すぎる
プレート型の地震とは違っている、まずプレート型は大きく一回本震が来たらあとは余震で徐々に弱まってゆく、それははっきりしている、本震以上の揺れはない

活断層型地震はプレート型の地震とは違っている、地中からぼこぼこと揺れている
まず断層がずれるのとプレートが移動するのは性質がそもそも違う。
それが予測をむずかしくしている
そもそも地震は予知できないし予測できないからいかに逃げるかを優先させろと科学者が言っている
どんな地震にしろ予測できないし予知できないし経験則でもわからない
ただ過去に歴史的にこういう地震があり津波があったということはある
それすら実際にはあてにはならない、それはあくまでも目安にすぎないのである。

「九州では地震が起こらない」これは福島県浜通りではこの辺では津波は来ないというのが確信とか信念までになっていたのと同じである。
では九州で地震が起こらないというとき過去を調べればやはり起きているのである。
日本では地震の起きない場所がないのである。


でも東日本大震災があったのだから九州が無関係とはならない、そういうことは警戒されるはずだったがしていなかった
西は安全だと思っていた、それがまた油断だった、日本列島は大陸と違って狭いのであるだから東北と九州は離れているから安全だなどということはありえなかった
だから東日本大震災があっても警戒しなかったのかとなる
これも油断だったとなる、でも東日本大震災であれだけのものを見ていたら警戒しているのが普通である。
東京などは備蓄したりと警戒して準備した、熊本県とかでは備蓄もしていなかったのである。東日本大震災があってもほとんど警戒しないし自治体でも備蓄ししていないのである
そして神戸地震の1・5倍とかのマグニチュードだったと規模が大きいのにそれほどの死者でもないし建物の被害があっても神戸のようにはならない
もし東京のような大都会の直下で起きたらどうなるのか?
それは神戸地震と同じような結果となる、そしたら東京に住んでいること自体相当なリスクではとないか?

ともかく日本列島は揺れている、それとも日本の神が怒っているのか?
それは何故なのか?それはただ地球では科学からみれば起こるもでありありさけられないとなる
自然界にもカルマがある、カルマをかならずめぐってくる、個々人は家族でもその地域でもカルマをになっている、だからそのカルマを受ける、それをさけることはできない
そしてそのカルマを受けてそのあとにカルマが清算されて平和がやってくる
そのカルマから誰も逃れることはできないのである。

だから東日本大震災ではカルマを東北では受けたけど巨大なエネルギーを放出したからカルマを清算したから何かかえって安全であるという感じになる
当分数百年はこんな巨大な地震とか津波は来ないように思うのである。
ということはかえって東北は安全地帯になっているかもしれないのだ
東京とかから西でも今回の九州のようにそこは危険なカルマが噴出してカルマを受ける
だから西は相当に危険になってきている
放射能だから東北から逃げろとか盛んに面白がって言っている人がネットにいたが
今度はその逆になる、西から逃げろ、放射能など怖がっている場合ではない
今の命が大事だ、今を生きることを優先すべきだ
東北は地震に関しては安全地帯だ
放射能より今の命だ、西は危ない、逃げろ・・・・となる
これもカルマの法則、因果の法則である。
他者の不幸が関係ないとみていても自分にふりかかってくる

いづれにしろまだ大きな地震が来るというとき予断ができない
経験則があてはまらないから自然は予知できないからそうなる
つまり何が起きるか誰もわからない、かえって政府でも気象庁でも学者でもわからないのだからいいかげんなことを言うな、それで被害が大きくなったという学者もいる
それより何が起きるかわからないからそのために備えろとなる

posted by 天華 at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2016年04月19日

抽象画(流れるーつづき)


抽象画(流れるーつづき)


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これはタコである


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a flower in the depth of the sea


波のつづきである。抽象画になりやすい過程がある
それをソフトでわかれば一連の法則のように抽象画ができる
だから創作といっても機械的作業だともなる
タグ:流れ

南相馬市五年後の復興の様子 (原町の大高ら小高へ行く)


南相馬市五年後の復興の様子


(原町の太田から小高へ行く)


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雲雀が原の5階建てのビル

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セシウムの除く試験用の菜の花畑


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長屋風の復興住宅

誰が入るのか?

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縁側商店ーここしか店がなかった

弁当を売っていたので助かった

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津波でまだ残っている痛々しい松の木二本


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安政とある村上の城跡の下の墓地


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福岡と川原と記された道標

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この碑はどこから流されてきた

川原と福岡と記されているからこの辺ではあった

これは道標ではないかのかもしれない

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六号線そいの新築中の家

ここには人は住むのだろう


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獣がイノシシなどが増えているため


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ここは一番大きい放射性廃棄物場

六号線の両脇にある、太田である



今日は陸前浜街道を行き小高まで行って行って来た。
雲雀が原の所で復興団地の大きなのには驚いた。
五階建てでありこれは大きいなとみて思った
ここは一大復興団地になり一番大きい、5棟くらいあるのか、相当な人数を収容できる
これだけの大きなもを作るということはそれだけの需要があることになる
それはこの辺では小高とか避難区域になり帰らない人や大熊とか双葉、浪江からも移り住む人がいるからだろう
ただこれだけ大きいと一つの街を形成するようになる
原町は土地が広いから新しい建物が建つ
これだけのものが建つと収容される人も多くなる、その人数がどれくらいになるのか
でもここに入れば仮設と違って家賃がとられる、近くの復興団地でも家族7人とかで7万家賃がとられているとか小高の人が言っていた
これを払うとなると増える、ただそれだけの人が入るということはやはりこの辺は原発事故の避難者が多いからそうなる


ここから太田に出たら大田川の橋で住んでいる人にあった。

「菜の花畑にしただな」
「油もとるよ゛売り出している」
「油といっても今はいろいろあるけど昔は椿油とかあったからな」
「この辺では米は作らないみたいだな」
「もう米も畑もこの辺では作らないよ、試験用のは作っているけど」
「前から農業も後継ぎがいないとか言っていたからな」
「俺ももうやらないよ、俺はここに鹿島から婿に来たんだよ、あそこが俺の家だよ」
「なんか自分も年とったんだけど先のこと考えられないんだよな
庭に木を植えてもすぐに育たないから植えたくない、老人は先のことを考えられない
なんかこれからどれくらい生きてあとは墓のことなど心配するんだよ」
「自分ももう農業はやらない、もう年だしめんどうだよ」
「放射能被害で補償されればいいんだが・・・」
「この川が20キロの境目だったんだよ」
「自分の所も鹿島も真野川が30キロで境目として区切られた」
「俺はここで家に住めるから良かったよ」
「菜の花もきれいだけどな、米を作らないのは淋しいな」
「菜の花は湿気に弱いんだよ、乾燥しているといい」
「そうか、菜の花は湿気に弱いのか」

そんな話をして小高に向かった。
小高では小高川沿いの桜はみんな散っていた。小高神社に行っても桜はみんな散っていたた。ただ残った花がるはらはらと散っていた。
そして石段に蟻が出ていたのは奇妙だった
なぜなら小高はまだ誰も帰っていない、人が住んでいないのだ。
この光景も本当に奇妙であり不思議だとなる
何か人が住んでいないということは桜が咲いても花見もする人もいないから自然すら死んだようになるのかもしれない、だから蟻が出て歩くというとき常に蟻でもいれば人間をイメージしているのである。
蟻が春になり穴から出て働きだす、それは人間をイメージして蟻もあるし桜もあるし自然もある
それがないというということが不思議になる、まず人が住んでいない街ということが何なのかわからないということである。

小高の街中には復興住宅ができていた、長屋のような作りは共同性のある作りにした
でもそこに誰が住むのか?ほとんどが老人になるだろう。
老人ホームになるのかもしれない、ただ老人ホームは街から離れているより街中にある方がいい、街中で日々の生活の息吹が感じられるのがいい、街から離れるとそうした街の活気とかから離れて老人だけで孤立してしまうからである。

海の方に向かったらまだ津波の被害の家が残っていた。原町と鹿島でもたいがい津波の跡はわからなくなっている、かたづけられてしまっているからだ。
田んぼは原野化して津波の跡がそのつまになっている、ただタンポポが一面に咲いているし雲雀も鳴いていたが誰も人が住んでいないということはその鳴き声は人にはひびかないというのも不思議である、自分が訪ねたから自分にはひびいた。


そして小さな堀のような川から沼になった所に鴨がいた、渡り鳥であり春だからそろそろ帰ってもいいはずだがか帰らない、人がないなので居心地いいのかもしれない、ただ春の鴨という季語はあるから鴨も春にもいる
そして松の木が二本まだ残っていた、それは津波にも残ったからまだ痛々しいのである。ただ五年も過ぎて良く残っていた、外では枯れたり切られたりしているからである。

それから村上城の跡に上った、その途中に墓地がありこの墓地も江戸時代からあった。
たいがい墓地は江戸時代からあったところに作られているのが普通である。
安政とか天保があったからそれなりに古い、ただ江戸時代後期であり明治に近い
ここには一時城があったとしても余りにも短かすぎた、記録には残っている
でもなぜすぐにとりやめたきか謎でもある

田んぼの中に津波で流された一つの碑が残っていた
これには福岡と川原と記されていて道標だった
これも奇妙でありこれを見て福岡の方に向かったとなる
タンポポが畦道に咲いていたので気持良かったとなる


ここから帰りは六号線を行くと放射性廃棄物の処理場が道の両側に広がっていた
これは今まで見たのでは一番広かった。
こんなのばかりができるのは嫌である。
ただ小高にはもっと大きな処理場ができていると思ったがなかった。


ともかく小高は人が住まないと何か自然まで死んだ感じになる、老人でもいいから誰か住まないことには死の街から逃れられないのではないか?
ここをどう活かすか簡単にはその方法が見つからないだろう。
まず若い人が住まないというときではここをどのように活かすのかとなるとわからなくなる
これまでのように農業するのかとなるとこれもむずかしい、太田の農家の人がやめたということでもわかる
自給自足とか言ってもそもそも農業がしにくい、ただ何かそういう生活を若い人でも好む人がいて家とか土地とか援助すれば住む人もでてくるかもしれない
いづれにしろ帰らない人が多いというとき空家が増え土地も空いてしまうからである。
その土地をどう利用するのかとなると簡単な解決方法はないだろう。
原野化するとそこは湿地帯になり鴨とか鷺が来て住みやすいとなってしまう。
ただ人が住まない街、人が住まない家がこれだけ多いということこれは何なのだろうとなってしまう


俳句とか短歌は別に書いてみよう


タグ:小高復興
posted by 天華 at 18:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

復興を願いて小高の春二十首 (浜街道を小高へ)

復興を願いて小高の春二十首


(浜街道を小高へ)


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コブシ咲き高松の奥家一軒

芽吹きけり馬飼う家や相馬かな

津波にも残る御堂や蛙鳴く


海近く六号線や朝日さし鳥も飛びきて山桜映ゆ

東風吹きて樹々も芽吹くや朝日さし山桜咲く六号線行く

山桜風にそよぎてゆれやまじ浜街道を朝進みゆく

山桜松に映えにき東風吹きて散り舞う花びら浜街道行く

新田川瀬音のひびき山桜朝日のさして岸に映えにき

街道を行く人あれやチューリップここに映えにき朝の明るさ

小高にそ花みな散りぬ帰らざる小高神社に我がもうずかも

残る花小高神社に散りゆくやここに住む人なしも淋しも

人なしや小高神社の石段に蟻穴いでて働かむとす

津波にそ流さる社再建す誰か守るや雲雀なきしも

人住まぬ小高や原の広がりて雲雀なくかなタンポポの満つ

人住まぬ小高にあれど雲雀鳴く我にひびきて生きるものあれ

小高にそ津波の跡に松二本痛々しくも五年はすぎぬ

鴨なおも渡り去らじも沼に群れ小高に人は住まざりしかも

村上のに城のありしと望む海タンポポ映えてなにかありなむ

村上に波のひびきて山桜朝日のさして海を望みぬ

村上の社を誰かたずねなむ椿の散りてあわれなるかな

村上の墓地の古りしやあわれかな散りし椿や帰らざるかな

福岡と川原と記す碑の一つ田んぼに残る春のくれかな

雲雀鳴き復興ならむ小高かなタンポポまぶし海を望みぬ


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六号線は山桜が今盛りであり朝日に映えてきれいだった

敷島の やまと心を 人とはば しきしまの やまとごころを ひととわば. 朝日に匂ふ 山さくら 花 

これは山桜であり染井吉野ではない、そこがまぎらわしいのである。山桜は野生種であり染井吉野は江戸時代に品種改良したものである、本来の桜は日本では山桜なのである。

ソメイヨシノは加齢とともに危険度が増すことが分かりました。特に樹齢40年を超えると、危険度2以上の占める割合が極端に増え


ソメイヨシノが世の中に広まったのは江戸時代の終わりくらいですから、まだ150年経つか経たないか、まあそれくらいということになります。そうすると当然ながら、それ以前の古い木というのはないので、若い木しか我々は見ていないということになります。

山桜となるとその樹でも樺細工とか角館で作られているし丈夫である。山桜は丈夫であり染井吉野は枯れやすいのである、せいぜい150年が最高年齢としても明治からすでにそのくらいすぎているから寿命が樹としては短いとなる
山桜と染井吉野の相違はにていても大きい、山桜は野生種であり純白の花である。
染井吉野は艶なる花である、だから京都辺りだとにあっているのである。

山桜は六号線沿いにかなり咲いていた。今日は朝日がさしてきれいだった
まさに朝日にこ匂うように咲いていたとなる
山桜は風にそよいで咲くのもいい、浜街道は海が近い、そして東風(こち)が春になると吹いてくる、旅からは遠ざかっていたがまた旅に出る気分だった
生きている間に自転車でもう一度磐城まで行きたいとなる



小高は海の方ではまだ津波の跡が痛々しく残っていた
壊れた家も残っていたし田んぼは湿地になりまだ整地されていない
ただ除染は小高の方が進んでいると太田の人が言っていた。
帰還をすすめるためにそうしているのだろう
小高で感じたことは田んぼが一面に原になりタンポポが咲き雲雀が鳴いていた
それは原町とか鹿島とか相馬市や津波の被害地はそうなっていた
でももう湿地は埋め立てられたし壊れた家もない、小高はまだその点五年前のままの所が残っていた。


小高の復興というときやはり人がともかく住む、誰でもいいから住む、老人でもいいから住む、住まないとしたら人が入ってくる、それだけでも生きてくるものがある
雲雀の声が自分にひびいたとき雲雀も自然も花も生きるのである。
そこに人がいないと自然すら死んでしまうというものを感じるのである
一旦人が住んだ場所は人が住まないと活きてこないのである。
人が住まない太古の自然とは違い人間と共存した自然だったからなのである。


復興というとき歌や詩も力となる。雲雀が鳴いている、その歌は人間にひびくのである。人間にひびくとき最もひびくものとなる、活きるものとなる
それが誰も住まない来ないとしたらひびかないのである。
だからみんな帰らないとしてもそこには人間が入るべきなのである。
人間がいない世界は自然まで死んでしまうということになりかねないのである。
ともかく原っぱでもいい、そこを人間が通ればその道でも何でも活きてくるのである。

雲雀鳴き復興ならむ小高かなタンポポまぶし海を望みぬ