2016年04月07日

介護十年をふりかえる(2) (愛なき世界はいくら文明が発達しても人間を幸福にはしない)


介護十年をふりかえる(2)


(愛なき世界はいくら文明が発達しても人間を幸福にはしない)


愛なき世界


ご飯を与える
その行為はただ相手の腹を満たしてやるだけなのか?
それは愛がともなっていた
母が子供に乳を与える
ご飯を与える
それは生命を維持させるためものなのか?
それは愛があってしている
ぺっトに餌をやるのもただ腹を満たしてやるだけなのか?
そこには愛があり与える
人間はパンのみに生きるにあらず
人は愛して愛されることを望む
ただ金を与え物を与え食物を与えることに満足しない
愛がないときいくら金も物を与えても相手も満たされない
病院では医者は高価な医療機器で患者をみる
看護師も体をみる
でもそこに愛が欠けているとどうなるのか?
患者はそのことに気づく
なぜ延命治療するのか?
そこに愛はなくただ人間を物ののようにみて
ただ延命を計っている
それが意味がないとはいえないにしても
その意味を見いだすのは医者や看護師ではない
愛ある家族のみがその延命に価値を与える
なぜなら家族は愛をもって接しているからである
医者や看護師の努力が無駄ではない
ただそこに愛が欠けている故に満たされない
それは母親が子供にたた食べ物を与えているのではない
乳を与えているのではない
そこに愛情がある故に子供は満たされる
もしその食事が貧しいものでも満たされるだろう
愛さえあれば・・・・・
機械が遂にはコンピュターが病気を判断する時代になる
でも機械にはコンピュターには愛がない
コンピュターには感情が生まれない
遂には医者も看護師も機械に変わる
しかし愛が人間には必要であり機械には代われない
科学技術がいくら発達しても
愛なき世界は荒野なのである。
貧しい時代には愛があったが豊かな時代には愛が欠ける
そのどちらが幸せだったのかもわからない
いくら豊になり科学技術が発達しても
愛なき世界は荒野なことは確かである。


貧しきも愛の手をもて与えらる物に価値あり思うべきかな


つくづく自分の介護の十年間の経験は何だったのか?
介護が終わったあとでそれぞれ考えることがあるだろう
介護は長い、十年といったら十年一昔になるから長い
今の時代は介護という仕事が増えたことは確かである。
家族でもそうだし介護士とかでも介護という仕事が課せられて増えたのである。
85才とか高齢化になるとどうしても最後は介護状態になる
女性だと90才頃から病気にならなくても弱り介護状態になる

ただ介護でも50代とかなると仕事の盛りのとき男性がやらせられるのは辛い
十年間も介護に時間を奪われることがいいのか、辛いとなる
自分の場合は特別親には良くしてもらったから当然だったともなる
でもふりかえると十年は長かったなと思う
だから終わってみると気がぬけたようになってしまった。
そしてこの辺ではいろいろなことがありすぎたのである。

津波だ原発事故だとかその他自分の一身上でもいろいろなことがありすぎたのである。
30年間はほぼ無事平穏であったのと比べるとあまりにも違いすぎたのである。
巨大な渦にまきこまれての渦からぬけだしたら白髪の老人になっていたとかなる
今の感覚はそんなふうになっている


今の時代は豊で便利でも何か肝心の愛が欠けている社会である。
病院でも設備は立派だし高価な機械があり医者も看護師がいたとしても何か無機質であるその病院という建物にも機械にもコンピュターにも医者にも看護師にも愛というのが感じられないのである。
結局人間はやがてロボットに看護され介護されるとかなったら嫌だろう
今だって人間は何かロボットのようになっているかもしれない
情や愛なき世界となっている、だから必ずしも豊になり便利になり長生きできてもそれが幸福になっているどうかは別問題である。

介護した体験では家族の場合だったら食べ物を出すにしてもそこには愛がありしている
それは家族でも母親が食べ物を与えるときやはりただ物を与えるだけではない、愛があるでももし子供にも金をやるから外で買っておいでとなったらどうなるのか?
そこには母親の愛情もなく育ち情なき人間になってゆくかもしれない
だから乳を子供に与えろというときこに子供と母親が愛情で結ばれるからだとなる
それは哺乳類が生まれたときからししている生命の営みなのである。
そういうものがなくなるときどうなってゆくのか?
何か子供の虐待とか動物でもありえないことが起きている
それは哺乳類という動物以下に人間がなってゆく、これだけ文明が発達してもそうした根源的なものを欠けてゆくとき文明というもの自体の疑問が生まれるのである。


いづれにしろ自分は今年の春は何か花見するのでも気乗りがしない
60年も一緒にいた家族が二人死んで気がぬけたようになってしまった。


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2016年04月08日

インターネットの検索で共通項目を探す (詩にもその手法が通じるー燃える樹という詩と自分の詩の共通性)


インターネットの検索で共通項目を探す


(詩にもその手法が通じるー燃える樹という詩と自分の詩の共通性)



― 燃える樹 ―


どっしりと
根をおろしたまま
もうどこへも
行けない
樹は樹であることを生きている

ふかく足をふんばり
たかく胸をふくらませ
ひろく腕をのばしながら
百年も千年も
いのちを
あたらしく
いのちを
ふかめてきた

樹も人もおもう心は同じ
春には若葉でわらい
夏は茂ることですずしい
秋はもみじした葉が
美しく舞うし
冬には
すっぱりはだかになって
自分をみつめる

寒風にふるえながらも
地底のあしうらから
天をさすほそい指さきへ
いくすじにもわかれて
たちのぼる
いのちのぬくみをだいている

くらやみに
しんといてついて
立つ樹
無心な樹よ
芯で燃える

みずかみかずよ/『こえがする』より



生きている樹の詩


樹のように偽りなき真を生きる
その芯は固く梢は鋭く天をさす
枝々はしなやかに伸びて鳥がとまる
新緑の若葉が風にそよぎ鳴り
かなたに残雪の嶺が高々と光る
誇らしく堂々と迫ってくる
峠を越え木蔭の道に休む
この荒木の幹の太さ、枝振りの良さ
真実に生きよ、自然は汝に呼応する
信頼の熱い血が脈々と樹に流れている
樹はものではない、生きている命
樹は根から幹から枝と血が通っている
鳥は甲高く鳴き樹々を喜々と移り飛ぶ
樹には初夏の眩しい光がさす
赤々とツツジはそちこちに燃え咲き
黒々とした岩に清水が轟き落ちる
樹は大地に深く根を張り生きている
樹は信頼と真に生きる
その樹に触れよ、その樹と握手せよ
その樹と触れて大きな力が湧いてくる
この世の人はみな偽りに生きる
それ故にその目は濁り体まで歪んでいる
汝は樹を友として天地に通ぜよ
樹は自然の中の一つの弦なり
天来の楽が汝にひびきわたるだろう
今風はそうそうと吹きわたりなお樹は伸びている
子供のように若人のように希望に燃えて伸びている
樹は若々しく四方に枝をのばす
ぴんと張りしなやかに枝を伸ばす
そこに鳥はとまりゆれ飛びうつる
樹は鳥とともに生きている
若葉は風にそよぎ初夏の光がふりそそぐ
かなたに残雪の嶺が光り迫る
樹は生きる歓喜にふるえている
樹の力は大地からわき上がる
大地と血脈を通じているゆえ喜びが深い
大地を離れると人の命は弱る
大都会はいくら繁栄しても不毛である
汝は樹とともに生きよ
樹の力を五体に感じよ
汝もまた樹とならむ



燃える樹というキーワードで検索したとき自分のこの詩が読まれた。
インターネットの検索はともかく共通なものを探すのに向いている
不思議なのはどういうわけかリンク元をたどってゆくとどういうキーワードで読まれたかわかる
グーグルで自分の「読まれない詩」というのが初めに出てきてそのあとに「燃える樹」という詩がフログに出ている
ただこの人の詩はその燃える樹しか出ていない、あとは詩集を買う他ない、それも3500円もする、何か詩というのはこうして詩集自体が高いのである。
そもそも詩は売れないものだからそうなる。小説のように売れれば安くなる。
売れないから詩集自体が高いのである。
出版社から出せばそうなる、インターネットとか電子本だったら安くなる


ともかく詩というと別に有名なものでなくても読まれないというより読む方法がないのである。
最近ヘルダーリンの詩を読んだ、普通だったらこれは前から読んでもいいはずである。
なぜ自分が読んでいなかったのかというとそういう詩集があることを知らなかったともなる、そもそも有名な人の詩でも読めない、買うことができないのである。
ただ最近アマゾンで詩集を集めている、その詩集は未だに文庫本でも高いのである。
つまり詩を知るとか詩を書くものにとって詩が読めないということが詩をより深くた探求できないものにしているのだ。

詩を創作しているとやはりこの詩人は自分と同じものを追及していることが理解できる
それはいろいろな外国の詩でも自分と同じものを追及していることで共感できる
芸術は世界で共感できるものである。ただ音楽とか絵画と違って言葉が障壁になって理解しにくいのである。
だからグローバルに詩を追及するのがむずかしいのである。
でもヘルダーリンを読んでいてこれは自分と同じものを追及していたと共感してそれが自分の作品と一つになっていることを知ったのである。
そういうことはインターネットの検索で起きていて利用している
そもそも本からだけの知的探求はインターネットととは違ったものである。
まずキーワードから共通項を探すということはできない、一冊の本はそこで完結しているからである。

でも創作する方になるとその部分的なものでも共通項をとりだして並べるとそれが一つの作品と化すのである、それを自分はこれからそうした創作したものをためして発表する
詩はそれぞれ違っているようで一つのものとして詩の世界ができあがる
個々のものが一つになってシンホニーをかなでる、そのために本当は詩が過去の偉大な詩人でもインターネット上に出ている必要があるのだ。
そうすれば共通項を検索できるからである。ただ詩でも芸術は内容を読むのは相当に芸術に通達しないとできない、共通項といってもその内容の共通項まで鑑賞して理解できるかとなるとなかなかできない
最近自分はそれができるようになった。それは自分も自然の中で詩を追及してきたからわかる
ここでは樹だか樹をテーマにしたそれぞれの表現があり自分のテーマは石である。
樹でも石でも人によって表現が違ってくるのである。
それが一つの石の世界を表現することになる、インターネット的手法が詩でも通用することはある、ただ詩はむずかしいから内容を読めないと何が共通しているのかわかりにくいことは確かである。

ともかく「燃える樹」と自分の詩がいかに共通しているかわかるだろう。
この人はすでに死んだ人だった、でもこの人を知っている詩を知っている人は本当に少ないのである。詩も知られないし詩人も知られないのが多いのである。
そこが詩を探求する大きな問題だったのである。


天をさすほそい指さきへ
いくすじにもわかれて
たちのぼる
いのちのぬくみをだいている

この表現は女性的でありまさに女性だから表現できたのだろう。
天をさす細い指さきとかはまさに女性の表現だからである。
この人の他の詩はどうかとなるとみんながいいわけではない、詩も自分でもそうだが駄作が多いということもある
だから詩集を買ってみてつまらないと損したとなるのである。
でも知的なものにはなにか無駄が多い、それでも詩集を集めていないと詩を探求できないのである。

タグ:樹の詩

2016年04月09日

花見(相馬市へ夜桜を見る)


花見(相馬市へ夜桜を見る)  

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新しき自転車買わむ燕来る

鳴きにつつ鳥飛び来る朝桜

朝夕に中館の桜家に見ゆ

この道のゆく人まれに花の影

故郷や母亡き後や花曇り

買い物や原町に来て夕桜

街道や枝垂桜の花の影

混むでなし六万石の花見かな

宇多川の橋を渡るや春の星

城下町枝垂桜や繊き月

夜のふけぬ枝垂桜に繊き月

五本松通りて帰る春の闇


眩しくも新田川に陽は落ちぬ岸辺の桜今盛りかな

訪ねれば一夜の嵐に櫻花散りにしあとや疾く時はすぐ

満開の桜を見れば風騒ぎたちまち散りぬ夢の跡かな

五本松夜に通るも我は知る我が帰りゆく春の夜かな

家に待つ人とてなしも何故や姉と母とは常にあるごとし

我が家に待つは誰なれ猫一匹待つとてあわれ春の夜かな


昨日は原町に行って今日は相馬市に行って花見である。中館は自分の家から見える中世の館である。お浜下りとかの祭りがあるところでこの辺では知られている

桜というのは咲いたと思えばすでに散ることを予感する


ひさかたの ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 

これは桜を象徴した歌だった。今回は特に感じた。最初から風が吹いたり荒らしになったりしてもう相馬市に行ったらいつも咲いている大きな木の桜はみんな散っていたのであるだから今年の桜は早く散った、咲いたと思ったら散っていたとなる

でもひさかたのひかりのどけきという日が今日もそうであり何日かはあった。
今日は暑いくらいだったからだ。

今日は介護もないので夜桜を見て帰ってきた。今までは7時ころまで必ず帰らねばならないのでそういうことができなかった。今は時間の余裕ができた。
でも不思議なのは誰も家に待っている人がいないということである。
それでも姉と母はいつも待っていた、それが60年もそうだったとするときなにかいるような気がする不思議である、やはり60年も一緒にいるとそか簡単には心から消えない
60年の歳月は長いのである。
五本松は夜でもここにあることが知っているのとにている。
60年も一緒にいれば例え憎んでいても記憶から消えなくなる
  
相馬市は何かいつもしんとしている、それで夜の枝垂桜がにあっていた。
細い月がでていたのも良かった。城下町でしんとしているからふさわしい月だとなる
相馬市は何か墨絵のような感覚になる
ともかく今年は桜が散るのが早いからあと二三日が見頃でありあとは散ってしまう。




タグ:夜桜

2016年04月10日

タックスヘイブンとグローバル経済 (巨悪が見えたので怒りの対象となる)


タックスヘイブンとグローバル経済


(巨悪が見えたので怒りの対象となる)


そもそもグローバル経済を理解するのはむずかしい、学問的な理解と実際のグローバルー経済は違っている
自分自身も経済のことを言ってきたがわかっていない、グローバル経済は資本主義は資本もって株とかに投資しない限り具体的に理解できないのである。
だから貧乏人にはそもそも理解できない、自分ももともと貧乏人だから理解できていなかった
ただアメリカとかカナダに投資したことでグローバル経済の中に自分自身も入っていると実感したのである。
なぜそうなったかというと自分の金だからこそ関心をもつ、自分の金が増えれば喜ぶし減ればがっくりとくる、そしてどうして株が動くのか興味を持つ、最近は石油がこれほど世界の株価に影響することを知った。
石油は現代のエンジンだからそうなる、車であらゆるものが電気でも石油が必要であり石油が原動力となって現代の経済は動いている
アメリカもカナダも石油資源国だから石油が上がれば株も上がるのである。
石油から見るグローバル経済は分かりやすいのである。


グローバル経済とはなにかというと企業中心の世界経済のことであり今までの国が中心になった世界とは違う。それで良く多国籍企業にとっては国が邪魔だ、国境があり様々な文化の障壁があり自由な経済活動ができないとみる。
企業が物を世界的に売るとしたら国境がない方がいいし国がない方がいい、国がかかわると税金をとられるからである。そうしたら企業の収入が国にもっていかれるからである。アマゾンなどは国に税金を払っていないからもうけも大きい、それで無料で配達もできたのである。
それは利用する方にとっても便利であり自分はアマゾンでいろいろなものを買った。
だから多国籍企業でもいい面もある、一方で悪い面もある
すでにアマゾンでは国に税金を納めていないということは国にとっては損なのである。
国の税金は福祉などにも使われるから税金を納めないで経済活動することは国では困る


タックスヘイブンはグローバル経済の資本主義で必然的に生まれたのである。
国からは税金を取られる、税金をとられないようにするにはどうするか?
大企業はその税金を逃れるためにタックスヘイブンが生まれた、これは世界中がそうなっているとき共産主義でも中国でもロシアでもグローバル経済の中に組み入れられているから同じだった。
グローバル経済は国があれば国境があり自由に出入りできないとか、文化があると言葉もいろいろで興隆できないとか、イスラムは豚肉を食べないとか食文化もあり世界に売れないから困るとかある。
それでコカコーラ会社なら世界中に売りたいからそうした食文化もない方がいいとなる

タックスヘイブンは素人的にみれば多国籍企業が国に税金を納めたくないということから起きている、国が邪魔でありではどうしたら税金逃れるするかとなるとタックスヘイブンに逃すとなった。
税金をとる政府の首相すらそうしていた。自分たちは税金を下々のものから苛烈にとり税金は払わないで蓄財する
こういうことは国の支配者がしてきたことだけどグローバル経済では多国籍企業がそうしている
中国では庶民が薪までとった栃の実とかまで税金がとられると嘆いていた。
そういう仕組みがグローバル経済でも成り立っていた。ただ国も役人も首相などもそうしていたが大きなものは企業である。

現代の支配者は国の政治家ではない、多国籍企業でありその幹部だとなる
東電をみればわかるけどあそこも国のような巨大な会社だったのである。
結局国とは何か?それを考えるとこうした巨大な企業の手下になってたのである。
政治家から官僚から検察関係から警察関係からマスコミから東電の天下り先と利益を受けるものとしてあった。
そして「安全神話」が作られて事故になった。
現代は国というものだけを見ていただけではわからない、中国の政府の幹部も首相もロシアでも上層階級がタックスヘイブンに金をあづけていた。
世界が上層階級と下流階層に分化している、そしてそうした階級化はグローバルの中で資本主義の中でシステム化されていたのである。

正直株とかはグローバル経済では小金持ちではもうからないシステムになっている
結局銀行の手数料とか株の世界的下落とかなり自分も損したから馬鹿らしいとなる
株でもうけるのは大金持ちであり大企業とかでありそうしてもうけた金はタックスヘイブンに蓄財されていたのである。それには税金もかからないのである。
こうした巨悪は見えない暴かれないのである。
東電とかの原発事故も津波がこなかったら暴かれなかったのである。
カルト宗教団体なども巨悪なのだけどこれも暴かれない、何か巨悪は見えないし暴かれない、巨悪とは巨大な権力をもつゆえに暴きようがないのである。
グローバル経済のこうした巨悪は隠されていた、それが暴かれるのかとなるとわからない中国などはすでに報道を禁止しているからである。インターネットでも検索できなくしている。

セブンイレブンのこうした実態は、マスコミではいっさい報道されない。 
週刊誌や新聞にとって、いまやコンビニは最大の販売所となっており、とりわけ最大手のセブンイレブン 
においてもらえるかどうかは、死活問題になっているからである。 
セブン&アイ会長の鈴木敏文は書籍の大手取次会社トーハンの出身者であり、いまもトーハンの 
取締役である。 


ここでも大企業は権力をもつからこういうことができる、マスコミは大企業の宣伝費で経営するから批判できない、カルト宗教団体でも創価なども権力をもっているからマスコミは批判できない、要するに権力をもてばこの世の中は濡れ手で粟になる。
だからこそ権力を追及しているのである。
そして資本主義というのは別に地位とか土地があるとか何かではなく金が最大の力となる社会である。
別に地位がなくても学歴がなくても何がなくても金さえあればどこの国だろうが豊に世界できるという社会である。
戦前とか農業社会だったらまず土地が資本であり土地がないとしたら何の力ももていない、工業社会とか金融社会とかなると金がもの言う社会になったのである。
だから資本主義はユダヤ人が考えたものだというがそもそも農業社会では起こり得ない、工業社会になったときグローバル経済になったのである。
イギリス人がタックスヘイブンの先駆者であるということもそれを示している
イギリスは最初はアメリカが支配者になる前は世界を支配していたからである。
グローバル経済の基を作り出したのはイギリスだったからである。
そのイギリスに対抗したのが日本だったのである。
イギリスと衝突してアメリカと衝突したのは日本が明治以降力をつけたからである。

グローバル経済は具体的に目に見えてわかりにくい、でも今回のタックスヘイブン問題はその巨悪が目に見えてさらされた。
だから下級階層はその悪が具体的に見えたので攻撃しているのもわかる
中国人が薪とかにも税金がかけられて栃の実までとかあらゆるものに税金としてとられ搾取されてきた。その嘆きは今もつづいている
ただその搾取が見えないのが現代だったがタックスヘイブンは具体的に見えたから世界中で搾取されている人たちが怒りとなり暴動となるとか言われる
つまり中国などで酒池肉林とか王が権力を消尽する、それが目に見えてわかるから革命が起きたのである。
現代は具体的にその悪が見えないから革命が起きにくいのである。誰が敵なのか見えないからである。
posted by 天華 at 15:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年04月11日

抽象画(水の変化-続編-changes of water)



抽象画(水の変化-続編-changes of water)


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光の翼



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山の抽象画を縦にしたらこうなった、自然でも岩石のなかを流れるのを見ている
抽象画も自然にあるものをイメージしているのである。



これは自分のものがあるが他者のものも変化させた
それで前も言っていたけど著作権の問題がでてくる
でもそんなことを指摘されるかとなるとインターネット上ではむずかしいだろう。
自分の絵を元にしていたらそういうことはない
何か抽象画からは抽象画になりやすい


今回は具象画をイメージして流れを作った、自分は全く絵を描けない、でも抽象画だと絵らしくなるから面白いからしているだけである。
芸術性としてはかなり低いけどそれなりに創作になるということでしているだけである。

タグ:流れ

フラワーアレンジメントの本を作る


フラワーアレンジメントの本を作る


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トルコ桔梗と万寿菊

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 (つぼみ)


 

万寿菊トルコ桔梗のともに咲きその色深め家にしあるかな

大輪の紫濃き牡丹かな我が家の主我なりしかも

風荒れて夕日のさしぬ満開の桜しばし惜しみぬ


今日は寒い、風が北風であり寒の戻りである。でも今頃の季語にはないだろう
今年の気候は寒暖の差が激しいことである。
寒いと思ったら暑くなり暑くなったら寒くなる、こういう変化は体に良くない
風がビュービュー吹いて満開の桜に夕日がさしている光景も何か今までに経験していないつまり気候とは毎年違っている、人間が60年生きても70年生きても毎年違ったものを体験しているのである。
その大きなものが気候なのである。その気候によってものの見方も変わってくる
もう桜は満開だけど明日かあさってかもう散っていると感じる
今年の桜は本当にそういう感じの桜だった


フラワーアレンジントは自分の一つの仕事である。これは別に特別の技術は必要ではない生け花を習わなくてもできる、ただ美的感覚がないとできないともなる
花を見て美しさの感覚を養うということもある


写真を絵画風にパソンコでしたものはトルコ桔梗の群青色がいい、それと万寿菊というのが対称的に映える、そして花は何日か一週間くらい最低見ていないと心になじまない、映えないのである。
だから家の中で毎日見れる所に置くのがいいのである。
自然の花はいろいろ花があっても一つの壺に入れてみることはできない
みんなばらばらに咲いているからである。
フラワーアレンジメントは外国の花でも一緒にさして映える
そのコントラストがいいのである。

今は1000円くらいでも写真の本が作れる、それを今作ろうとしている
パソコンでも注文してつくった。キタムラプリントとかは相馬市のイオンにあるので便利である。
結局これも機械化で人がいらなくなるというときそうである。
パソコンがしているのであり人はパソコンの補助にすぎない
パソコンのソフトがすでに人間の代わりになっている、だから人間はこれから高度な仕事を要求される、パソコンにやれないような仕事である。
芸術はパソコンにはできない、小説をパソコンが書いたというときそれはやはりパソコンにある膨大な情報がキーワードでつながるということはありうる
人間の経験していることはパターン化できる、犯罪の動機などもたいがい決まっているのである。

いづれにしろパソコンでは一つのフラワーアレンジメントを見たとしてそれを鑑賞はできないだろう。色で判別できてもそれをどう鑑賞するかとなるとできない
だから俳句の一つも短歌もできないのである。

2016年04月12日

花の影(栃窪へ行く)


花の影(栃窪へ行く)

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助の観音

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上萱

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八木沢の麓の大芦とかは人が住んでいない
ここには犬の墓があった

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大原だけどここには人が住んでいない



栃窪に枝垂桜や葉山かな

石一つここに変わらず花の影

栃窪に古りにし家や花の影

栃窪に蓮華畑や眠る人

頂きに咲きて散りにき山桜

山鳩の驚き飛びぬ花の影

犬の墓ここにありしや夕桜

大原の蔵ある家や夕桜

深野のユッサに寄るや夕桜



風に散る枝垂桜や街道に影なしつつもこの家の古りぬ

ようやくに助の観音に着きにり残れる花を見て帰るかな

上萱になお残り咲く山桜またここにより帰りくるかな

山深くさえづり聞こゆその声のひびき鎮まる余韻に暮れぬ

新田川の上の岸辺に誰か見るキクザキイチゲの咲き開かむとす


カメラのレンズが汚れてきれいに写真かとれなかった。街道の枝垂桜は趣がある。
反対方向から撮ったら影がうまくでていた。
街道は道が細いのである。それが街道の面影を残していることなのである。
六号線のようになったらもう街道ではない、細いというとき「奥の細道」となるともっと細い道だったのである。
ただ今になるとあそこは車だと狭すぎるのである。

栃窪では畑とか田んぼを作るのはまだ少ないだろう。あそこは放射線量が高い、でも「花の影」というときそこに落ち着いた生活があるとき詩にもなる
そこにはまた暮らしがないとただ家があるというだけでは都会の郊外の家と同じである。山村の暮らしはもともと自然と調和していたから美しいとなる
貧しいが美しいとなる、その生活が放射能汚染で破壊されたのである。
あちこちに放射性物質を入れた袋があるのも嫌なのである。

葉山信仰は各地にある、ハは端にもなり当て字である。この信仰は田んぼと密接に関係していたのである。
比較的低い里山でありそこから田んぼに水を供給することで結びついていた。
これはだからどこにでもある神社である。
この辺では栃窪にあるのがふさわしいとなる、外にもあるが田んぼに水を供給するというとき栃窪がふさわしいとなるからである。

助の観音は飯館までの塩の道として有名である。助の観音とはまさに助ける観音だというときこの辺で泊まる場所だったのである。
ここまで自転車でのほって来るのか大変だった。電動自転車だからなんとか上れた。
つまりこうして苦しんでくるときその距離感を感じる、ああ、やっとついたというときそこがまさに助の観音だったのである。
歴史を実感するにはだから車だとあまりに便利だとできないのである。

そして上萱(うえがや)についた、一本の山桜がなお残り咲いていた。今回は山桜でも結構散っていた。これは染井吉野ではない、山桜は染井吉野のような華やかさがないのである清楚であり派手ではないのである。この辺が何か混同している
普通は染井吉野を見ているのであり山桜はまた別である。
吉野に咲いているのも染井吉野だろう。あんなふうに華やかには山桜だったら咲かない

いづれにしろ人間はあまり変わりすぎることは良くない、この辺のテーマが変わらないということの価値を見いだしたのである。
つまり石と樹とか自然のものはそんなに変わらないから価値がある。
石だったら千歳の磐とかなることに価値がある
めまぐるしく変わる世界には疲れてしまう、特に老人は変化に弱い
ここにまた変わらずに同じ石があるということで落ち着くのである
この辺の問題は変わりすぎたことなのである。

そして人間が死ぬというとき栃窪では耕さない畑が田んぼになっている所が蓮華畑になっていた。その近くに墓地がある。というとき人はそこに眠っている
蓮華畑であれ菜の花畑であれそういう村に眠るのは幸せだとなる
死んでから関係ないというけど都会のような団地のように区切られた所に押し込められるのを見ていると嫌なのである。
人間は死んだら自然に帰るというけど都会にその自然がないのである。
だから限界集落でありそういう山村がなくなることは経済的な問題だけではなく精神的にも影響する、一万くらいの町でも自分の家の墓は狭い、だからなにか窮屈に感じる
広々としたところに墓地があるというのは墓参りにするにも気持がいいとなる
今回は上萱でチェーンがはずれた、それも深くチェーンが入りこんでとれなくなった。
前にもそういうことがあったが今回は元にもどすことがなかなかできなかった。
木の枝ではずそうとしたができない、木は折れてしまう、それで上萱から出た八木沢の麓に家がありそこが空家になっていてカスガイとした鉄が残っていてそれでなんとかはずすことができた
まず木ではできない、それで考えたことは木の道具では人間は田んぼすら開墾したり何もできない、鍬でも鉄が必要であった、その前は石器が必要であった。
木では道具にならないのである。もちろん武器にもなりにくい、石器は鉄の代わりになっていたのだ。石器というのはあまり注目されていないけど人間が手にした大きな道具だったのである。これは武器にもなったからである。
鉄が発明される前は石器でありこれでしとめた獲物でも切り裂いたりできたことは大きな進歩だったのである。


帰りは原町のユッサに来て食事して帰ってきた、遅くなったが介護がないので余裕である介護がなくなったことでまた旅もできるかもしれない、体力的にもまだ最後の旅ができるかもしれない、ただ新しい自転車をヤマハのロードの軽いのを買おうとしたが坂をとても上れない、2、5アンペアでは上れない、そしてスポーツタイプになると道がでこぼこうしていると危険にもなる、日本の道は舗装していても凹凸があり危険なのである。
今のヤマハのはマウテンバイクタイプだから重いが悪路には本当に強いし安定しているから事故になりにくい、自転車も結構危険な場合がある。
それで20年前だったのか前歯を三本くらい折っていた。その時頭をうちつけると死んでいたのである。このことを忘れていたが思い出してヒヤッとした。
誰でもこうして死の危険がありそこから助かったということはある
それは普通に生活していてもそうである。津波などもそうだった。
自転車だって相当に危険なのである。


注意→栃窪から上萱の道は車では通れません、道路が崩れていて通れません

2016年04月13日

郷土史の基本は村の新旧を知ること (一地域の新旧も歴史であり重要)


郷土史の基本は村の新旧を知ること


(一地域の新旧も歴史であり重要)


郷土史をどういうふうに研究するかとなるといろいろあるが基本はやはり村の新旧を知ることである。
前にも書いたけどそもも明治以降なら時代を間違いることはない、現実に祖父母まで生きているとき接している、自分の父親は明治生まれだから明治と大正が逆になるはずがない、でも江戸時代になると時代を間違うのである。
「天保」となると古い感じになるが実際は天保生まれの人は明治で活躍した人なのである江戸時代では時代をとりちがえる、つまり父親が祖父母となり祖父母が父親のようになる、普通はそんなことありえないのだけど江戸時代になると新旧がわかりにくくなる


それが大事なのは原町でみると原町市となっているけどそもそも原町の市街地は新しい街である。そこは雲雀が原であり野馬追いのために馬を放し飼いにしていた広い牧場だっただから原町村となり野馬追いに出ていたのは一つの家だけである。
村の新旧を知るというとき一番の目安は中世の城館があったかどうかである。
これが意外と大事なのである。それは地名からわかる、館とか楯とかある

東北地方で「館」の名前がつく地名の由来と意味とは

東北に特殊な事情があり館という地名が多い、でもこの館は江戸時代前の地名でありそこが古い場所であることを示している
原町は新しいのであり原町で古いのは中世では泉館跡とか深野でもそうだが館という地名が二つあり古いのである。
誤解しているのは大原より深野は古い、深野には実際に古い墓があったことでもわかる。相馬氏は中世に土豪として土着していた人たちを征服した氏族である
例えば最近高校で習った西徹男死が死んだ、その住所が中館になっていた。
その中館が自分の家からいつも見えるのである。
今は桜が咲いているから身近だとなる、そこは南朝で滅びた一族が逃れたところであり由来がはっきりしているのである。
たいがい中世の館は小高い山に砦を構えて住んだ。磯部の鬼越館もそうである。
最近発掘された津波の被害を受けた海老村の跡は鎌倉時代だった
そこはすでに弥生時代の竪穴式住居跡もあったというから古いのである。
あそこは右田村より高台にあり住むには適地であり古くから港の機能があり江戸時代には船で米を江戸に運んでいたという、となるとそれだけの米を運ぶ船が出入りしていたのかとなる
鎌倉時代から住んだというとき南相馬市の鹿島区の屋形は岩松氏が鎌倉から来たことで有名である。
この岩松氏は一番古い氏族なのである、それは原町も支配していたし大倉とか飯館村も支配下に置いたのである。


前に相馬氏の進出径路について書いたが大原というとき深野はすでに中世の館があり地名として二つも残っている、大原は未開の地であり文字通り大原であり原町も原っぱだったのである。
そこに相馬氏が進出して支配したのである。
地理的にも大原というと深野より奥になるから地理からまず納得する、橲原でも江戸時代からあったとしても中世は森だった。
一方栃窪村は中世の館があったから古いとなる
こういうことは地元の人でも外から来た人だと余計にわからない、新旧を取り違えるのである。
八沢浦は江戸時代は浦であり港であり明治になって開拓された、小高の井戸川も大正になって開拓された場所なのである。
ただ小高は縄文時代の遺跡が多く古いのである。縄文時代の遺跡があるところは一番古いからである。そこは今回の津波の被害にあっていないのである。
縄文時代は海だったからである、津波では鹿島区では塩崎の船着という地名のすぐ近くまで津波が来たのである。古代には船の往き来があり海だったからである。それが津波で証明されたのである。

ともかく郷土史でも新旧を知らないと誤解が生れる、相馬氏が今の相馬市に城を移したのは慶長時代でありそれは津波の被害があった一カ月後だった。
損なときに何故城を移したのか、大工事をしたのか?それが疑問なのである。
その謎解きの一つとして海老村で大工の一人が大原と関係していて天守閣の普請に使われることで苦しんでいたのである。それは海老村に津波の被害がありそのために地元で働くために天守閣造営に使われるより津波の被害のために尽くさねばならないからであったかもしれない、「大原」と関係していたことはその時相馬氏が大原に進出していたからである。


相馬氏が進出した城のあるところはすでに伊達氏などの支配地であり黒木氏など黒木館などがあり有名である。中村とはもともとあった地名でありそれで相馬市はもともと中村市だったのである。そしてなぜ松川浦の近くの津波の被害にあった新田村に元禄の碑があったのか?
これも相馬氏が進出していち早く開拓が行われたためだとなる
この辺では元禄の碑はめったにないからである。
いづれにしろ新旧を知らないと歴史を知らないと俳句とか短歌にしろそういうものも深く味わえない、深野が大原より古いということを知るのと知らないのではやはり感覚的に違ってくる、栃窪村でも中世からある古い村だということを認識しないと自分が今回作った「花の影」という俳句も深くは味わえないしまた自分にしても歴史を知らないといいものは作れないとなる、全国でも歴史を知らないと俳句でも短歌でも作れないのである。
また深く味わえないのである。だから伊勢湾から名張を通り奈良に自転車で行ったときはそこは歴史の道であり意味深いものがあったと後でふりかえることができたのである。
それは一地域でも新旧があり大事なのである。
そういう歴史が原発事故で放射能汚染で失われことが大損失だった
人が住まなくなれば歴史も失われる、するとその地域の魅力も喪失する、栃窪村でも俳句にするにしても短歌でも深く味わえないものとなる
例えばアメリカの歴史は浅いからヨーロッパのような歴史がないから浅薄でありつまらないとなるのである。
タグ:村の新旧
posted by 天華 at 10:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

なぜ相馬藩では津波のことが記録されなかったのかー続編?


なぜ相馬藩では津波のことが記録されなかったのかー続編?

南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説はやはり津浪に由来 (続編)


相馬藩の中世の館

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青い線で囲んだところが海側に港をもって勢力もっていた

藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。




相馬藩では確かに一行正式の記録として相馬藩政記に700人生波で溺死と記されているから慶長16年の津波の被害があった。
ただ正式な記録としてはこれしかないのである。
これだけの被害があったのにこれしかない、一方で戦で戦い誰が手柄をあげたとか世継ぎ問題とかは仔細に記されている
それより津波の被害のことをもっと記されてもいいはずである。


ただそこには当時の時代の影響があった。まだ相馬市がこの地域を支配していなかった。戦国時代であり戦乱の時代であり相馬氏が進出してきたのだがそのとき中世の館があり土豪が館を構えて各地を支配していた。
だからこの地方の歴史をたどるときはその中世からふりかえる必要がある
相馬氏の進出径路で書いたように相馬氏は小高から入って支配してきたのだが中之郷(原町)になるとまだ支配領域に入っていない、深野(ふこうの)とかは中世の館とつく地名が二つありそこで大原に支配地域を広げた。そこはまだ開墾されていない大原だったからである。
それから大原→小池→栃窪という径路で支配してきている
栃久保には相馬氏の家臣が入ってきているからである。
そして柚木も相馬氏の支配地域に入っていた。

つまりそれ意外は相馬氏の支配地域に入っていないので抵抗勢力として残っていたのである。
その中世の館をもって支配していた土豪は海岸線に勢力をもっていた。
それは鎌倉時代にもすでに船が使われて商業が行われ貿易が行われていた。
海岸線には港の機能がありそこに力を土着の豪族が住んでいたのである。
だから小高でも岡田氏がいて岡田館があり岩松氏の伝説でも鎌倉から船で烏崎に来て今の館に住んだ、その時船で来たとあるから船がすでに運行していた時代なのである。
ただ岩松氏の場合は磐城から船で来たらしいという説がある。
それにしても太平洋の荒い海をすでに船が荷物を積んで運行していたのである。
岩松氏が屋形に住み最近津波の跡に主に鎌倉時代の住居跡が発掘された。
つまり海老村は蝦夷のエヒから来ていて弥生時代の縦穴住居もあったということは古くから人が集まり住んでいた場所だったのである。そういう適地だったのである。

ではどうして相馬氏の相馬藩に津波のことが記されなかったのか?
そのことを解く鍵は中世の屋形の配置を見ればわかるし岡田氏とか泉氏は
相馬氏の支配下にはいったあとでも有力な相馬藩の地位についていた。
そして相馬氏の進出径路でわかるように中世の館のある海岸地帯は相馬氏は進出できなかった。
津波が来たとき被害を一番受けたのはこうした港をもっていて船ですでに貿易していた豪族であった。相馬藩政記はあくまでも相馬氏の記録でありこうした中世からもともと住んでいた土豪の記録ではない、だから相馬氏が戦いに勝ったことなどを仔細に記録しているのである。手柄話である。誰でも戦争では手柄話がしたい、それが話題の中心となる。
でもそれはもともといた中世の館をもって支配していた人たちがいてその人たちの関心はまた違っている
でも記録するのは相馬氏でありそうした土豪達ではなかったのである。

そして唯一津波の被害にあった当時の状況を語るのがこの伝説なのである。

中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし。
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、

天守閣造営のときとあるからこれはまさに相馬氏が中村に城を移して天守閣を作る時だったから慶長津波のすぐ後のことである。
ビスカイノの残した記録に中村にたちよりその時城を再建中だったというとき城の工事がはじまっていたのだが地震が来て破壊された、その時津波の被害もあったのである。

相馬利胤にビスカイノが建築中の建物が破損して再建中とあり中村の町も「海水の漲溢により海岸の村落に及ぼした被害の影響を受けたり


岩本氏の指摘ではそうなっているからこれは明確に津波の被害が地震の被害があった
でも利胤は津波については何も記していない

だからまちがいなく慶長津波の被害を語っているのである。
そういう大きな被害があり津波の被害があったときまだ相馬氏が支配した領域は狭いのである。小高は先に支配したとしてもあとは大原→小池→栃久保(栃窪)とかであり磯部館がありそこに佐藤氏が勢力をもち鬼越館を築いた。伊達氏との勢力争いもあり相馬氏は実際はそうした回りの勢力との戦いで精一杯だったのである。
そして津波の被害にあったのはそうした昔からもともといた海側に勢力をもった港をもっていた豪族だった。
その中世の館をもった豪族が慶長津波の被害を受けた。つまり相馬氏が進出する時、そうした勢力が津波で弱体化したのである。それは相馬氏にとって都合がいいものだったのである。
別に相馬氏の被害にはならないのである。今のように南相馬市全体という感覚は支配も政治も成り立っていないからである。
相馬氏はこの一帯を支配するために戦いに勝つことが一番大事だった
となれば当然そうした戦いのことを仔細に記録する、でも津波のことは相馬氏には打撃にならなかったのである。かえって好都合だったのである。
これは相馬藩ということが成り立たない時代だからそうなったのである。
伊達藩ではすでに津波にあった地域は支配下にあるからその被害が伝えられた。


ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。


海水でなぜ洗うのか?それは津波に由来しているのである。普通海水では洗わない、でも津波のときは海水で洗ったとなる。そういう津波の記憶がそうさせているともとれる
ここは何か津波をイメージさせるのである。

そして重要なのは相馬市の諏訪神社に津波の船つなぎ伝説とか残っている、それは全く根拠のないものでもない、なぜなら小泉川を津波が押し寄せればそういうことがありうる
津波の特徴はいろいろあるがまず川を遡るということに注意しなければならない
そして土手がないときだと津波の水が平地にあふれるのである。
真野川でも津波が上ってきたから危険だった。
でも真野川は河川改修して川幅を広くして土手も頑丈にしたのである。
その前は二回もこの辺では水害にあっている。真野川の下流は土地が低いのである。
岩沼の千貫山神社の繫船の伝説も当時の阿武隈川との関連で川を遡った津波でそこまできたということもイメージ的には無理がないのである。
大川小学校の悲劇も川を津波がさかのぼってきて起きたのである。

海老村の大工の善次の伝説は当時の状況を語っている、海老に津波があり大工の善次はそのことが気にかかっていた、でも相馬氏から中村城の天守造営にたずさわるよう要請されたことで悩んでいた。
天守閣造営より当時の中世の館をもって支配していた土豪の命令に従いたかったということもあるしそう命令されたこともありうる、屋形には二つの中世の館があり一つは寺である。寺も要塞だったのである。そういう中世のもともと支配していた土豪の支配下にあり一方で相馬氏が進出して天守閣の造営を命じられて板挟みで悩んでいた。
そこに津波も来て複雑な心境になっていたのである。
大原と関係していたのはまさに相馬氏が進出してきた径路にあり相馬氏の勢力が徐々に広まっていたのである。その圧力は大きなものになっていたのである。
それでこのような伝説が生れて残ったのである。


それから柚木も相馬氏の支配地域にはいった所でありそこに八沢浦での津波の伝説が残っている、「急ぎ坂」とかてんとう念仏などの伝説である。
これはやはりリアルな津波を経験した表現だから信憑性がある。
ここで注目せねばならないのは柚木でもそこは相馬氏の支配下にあったところであり中世の館をもった支配下から相馬氏の支配に移った場所なのである。
諏訪神社の船繫ぎ木の伝説も相馬氏の支配下になったときのことである。
それに何が意味があるのかとなると中世の館をもって支配した領域には津波の伝説は残っていないのである。
ただ双葉にも津波の伝説らしいものが残っている、でもそれが津波に由来するかどうかは不明である。魚畑(いよばたけ)という大熊町史にのっている魚が泳いでいたというけどそれは津波なのだろうか?
なぜなら大熊は相馬氏の支配地域に慶長津波の時は入っていない、それでもそうした津波の伝説が民間で残ったのか?その辺がまた謎になる

ともかく戦国時代の影響で津波のことは余り語られなかった。侍は戦争のことが一番大事であり相馬氏にとっては土着の中世の館をもって支配する土豪の地域は詳しく知ることができなかったのかもしれない、それでおよそ700人溺死とか記しただけだったとなる
この海老村の大工の善次の伝説を読み解けば津波のことが明確になるかもしれない、
とにかく問題はあまりにも資料がが少ないということだったのである。


相馬氏進出の経路 (文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)

タグ:津波の記録
posted by 天華 at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2016年04月14日

グローバル経済と郷土学 (遠くの人は外国人は本当に困ったとき助けるか?)


グローバル経済と郷土学


(遠くの人は外国人は本当に困ったとき助けるか?)

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「地域を守る看護」ー地元の病院



グローバル経済というときこれを理解するのはむずかしい、実感できない世界である。
具体的に日々の生活でわかっていることは金がすべての価値基準になっていることであるそんなこと誰にも言われなくても庶民でも日々の生活で骨身に沁みて知っている
金なしではどうにもならないということを知っている
ではそもそもこうしたグローバル経済とか資本主義の金がすべての価値基準となった世界があったのかというとない、時代的に封建時代というときヨーロッパにもあり日本にもあった。
その価値基準は金ではない、江戸時代の価値基準は米であり貨幣ではない、だから石高によって侍の月給は計られていた。貨幣ではないのである。

封建時代は土地が最高の価値をもたらすものでありその土地の上に支配体制ができた。
米や野菜でも土地がなくては何もできないからである
ユダヤ人は土地をもてなかったから諸国をさまよい、金融で生活する他なかった
それが資本主義の元になったという人もいる。
だから土地を基にある国家とか否定する、世界が国というものなくなって金が支配されるのがいいことになる、それは多国籍企業でも同じである。
国が関税とか税金をとられるから自由に活動できない、国境もないほうがいいのである。

ではグローバル経済と郷土学というとき何が関係あるのかとなる
最近のこの辺で市が開かれる人が一個500円のトマトを売っている、前は200円くらいだった、そのトマトは普通のトマトより味がいいし大きいのである。
ハウス栽培のより味がいい、形が丸くなく楕円形で大きいのである。
だから確かに一個の丸いトマトより大きい分三個分くらいあるかもしれない
でも一個500円は高いと思った、そこまでして買うかとなる

そういうトマトは東京とかの金持ちに売ればいい、でも今度は輸送量がかかるからまた金がかかる、でも東京では大金持ちがいるから売れる、地元ではそうしたうまいトマトも食べられないとなる
そういうことは魚でもそうなっていた、新鮮なうまい魚は東京に売られていた。
確かに松川浦でとれた石鰈などを2000円とかで買っていたことがあった
それでも魚は新鮮だとうまい、それだけの価値はあった
でも金だけが価値基準になる経済は地元に住んでも地元のうまい魚が食べられないとなるのも損である
何もこういうことはグローバルに起きているのである。
世界の貧しい国ではうまいものを世界に売っている、それで生計をたてているが自分たちは食べられないということが普通にあったからめずらしいことでもない
金が基準となるグローバル経済ではどこでもそうなるのである。


でも問題は人間が困ったとき本当に遠くの人が助けに来てくれるだろうか?
「遠くの親戚より近くの他人」というときこの諺の意味は遠くというとき隣の村でも当時は歩くのだから遠かった゛では病気になったりして看病してくれとなっても隣の村から来るにも手間である、すると隣近所に助けてもらった方がいいとなるのだ。
そういうことを原町の親戚の人が車でくるのにも手間だと思った
隣だったら歩いてでも簡単に来ることができるが原町でも遠いということを知ったのである。まして東京になったら遠くてどうにもならないとなる
外国だったら来ることも何することもできないのである。

原発事故でも一時南相馬市は陸の孤島と化した、放射能を恐れて外部から物が入って来なくなったのである。ガソリンもなく車も使いなくなった
外部の人だって放射能が危険となれば自分の命が大事だからちらあえて来ないのである。グローバル経済をどうのこうの言っても現実に否定できないようになっている
世界がそういうシステム化されているからここから一国だけ一地域だけが別個になることはできないようになっている
これを郷土学の観点から考えると福祉などの分野から考えると病気になったり介護になったりするとき実際に助けてくれるのは働いていくれるの地元の人である。
こういう人に直接接する分野は遠くから物を運ぶのと違うからそうなる
ただ介護でも施設があっても人手がないとかでよその施設に入った人もいる。
だから必ずしも今は移動が容易だから地元にこだわる必要はない社会である。


郷土学というときそれは何か?これは人間を自然をふくめてトータルに生きることであり考えることである、自分はそれを追及してきたのである。
例えば人間が死ぬというとき山に葬られ先祖になったというときそれは自然と一体化したことなのである。
死というものもその土地の自然と結びついて死があり死んだあとも先祖が見まもってくれるという思想はトータルにその土地全体を視野にして生きていることなのである。
現代とは科学技術が過度に発達してトータルに生きられないことが一番の問題なのであるそれは死という問題でもそうである。何か人間は死ぬともう部品のようにかたづけられるのである。
「お前の役目は終わった、あとは何もない」となるのも淋しいだろう。
先祖として山に眠り子孫を見守るという思想は都会から文明から生れないのである。
一代だけの部品化した生なのである。生でも死でも意味がもてないのである。

エジプト文明でも死は終わりではなくあの世まで継続していた、あの世でも生前と同じような生活をしていたのである。生と死が断絶していなのである。
そこにはトータルな生き方が生前から実行されていたからである。
グローバル経済は世界をトータルに生きるというものではない、そんなことは不可能である。それより世界がかえって部品化されて物でも何でも供給するようになる
それは自動車が生産するとき自動車が一つの世界となり世界中で部品を調達しているのとにている、だから自動車文明になってしまう。
そこには自然とはかかわりないし外にもトータルにかかわらない世界である。
自動車の価値がすべてになってしまう社会なのである。


ともかくうまい500円のトマトを地元でも食べたいと思う、でも500円出さないと売らない、これはうまいから外でも売れる、外に売り出そうとなる
東京なら金持ちがいくらでもいるから出せばいいとなる、そして地元の人はそのうまいトマトを食べられない、それがグローバル経済の矛盾なのである。
全部がそうでなくてもグローバル経済は世界が金で計られるときそうなりやすいのであるそうなると500円のトマトを高くて食べられなかった、もっと地元で食べたいのに食べられなかった、あの人は地元に貢献しているのかとかなんとかなる
もし病院に入院したりしたとき、この人はあなたの作ったうまいトマトを食べさせてもらいましたから世話しますよとかならないのである。
そんなこと今はいちいち考えないというのもそうだが郷土学の観点からすればそうなる
郷土学は人間をトータルにみる生き方見方なのである。
江戸時代から戦後の十年くらいはそういう自給自足の世界だった。国自体貧乏なのだからそもそも地方交付金とか生活保護すらない社会だった。
それで自分の家の隣の人は餓死して死んだ、というより子供がいたのだから子供が悪かったのだかそういう貧乏な人がいたのである。
現実はそういうこともあり貧乏でないからこそ理想論が過去を美化するということはた常にある。

矛盾しているのは自分が一時外国の株とかでもうけてわずかの畑を作っている人を援助したりした。その人は畑をやれたのは趣味程度だがグローバル経済で自分が田舎でも金が入ったからだとなる、そんなことは自給自足経済のときはありえなかったのである。
趣味で農業をしている人などいなかったのである。そこで米でも野菜でもとれなかったら餓死するとかの切羽詰まったものとしてやっていたのである。
豊になったからこそ農業もゆとりでやれる、減反にまでなっている
だから過去をすべて美化するのは問題である、でも世界をトータルに生きるということは人間の生を充実させる、それは継続して死も充実して継続した生がその土地にありつづけるとなる、グローバル経済をすすめるとある地域はのトータルなものは失われ自動車の一部品をだけを生産する場となったりする
国自体が日本では車とカメラだけを作っていろとかなる。
食糧は牛肉でもなんでも広大なアメリカで提供してやるから作らなくてもいいとなる
そういう極端になるのがグローバル経済なのである。

トータルになるより国すら部品工場のようになってしまうのである。
国でも地方でもそういうふうになるのは人間にとっていいのかとなる
限界集落をなくせとか都会の人が言うとき、都会的価値観だけが価値観ではないことを知るべきである。
地方から田舎から産み出すものがありそれが何かを知るべきである。
都会的グローバル経済的価値観を一方的におしつけるのは問題なのである。
もちろん地元の人ですら田舎ですら現代の都会中心のグローバル経済の価値観になっている、それは現実にそうなっているからでもあるがそこに疑問ももたないとなると都会人と同じになる
原発事故の被害で一番思ったことは人間が生きる基本となる水とか土とか食糧の生産にかかわるものが放射能で汚染されたことである。
土が水が汚染されたもう人間はそこに住めないのである。それが原発事故の恐ろしさだったのである。


確かにボランティアの人には助けてもらった。現実に復興で働いているのはほとんど外部の人であるのも事実である。
これも広域社会のグローバル経済のいい面としてあった。
外からの外国からの援助も受けることができるということがある。
一方でボランティと言っても一時的に来るのは楽だと思う、でも継続的にかかわるとなるとむずかしくなる、女川辺りでここに住んでくれるんだな、ずっと住んでくれるんだな、なら最後まで世話してやるとか言っていた。
そういう困窮したところをあえて選んで住むというのは容易でなくなる
地元で南相馬市で補償金でもめたたしたのやはりここに生きて死ぬという場だからである一時的に旅人のようにきてボランティアして帰るのとは違うのである。
たがいの要求も厳しくなったりもする、それはやはりここで生きて死ぬという場だからである、ただもともと住んでいた人が放棄したりしているのだから津波の被害地であり原発事故の被害地でもそこに住むこと自体容易ではない
郵便局に長くいたら8割は老人だった。ここは避難区域でないにしろそれだけ老人が多くなっている。これは全国的にそうだがこの辺は老人が外よりも多くなったのである。
原発事故では故郷に生きる生の継続が破壊されたことも大きな被害だったのである。



posted by 天華 at 17:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題