自給自足経済と広域グローバル経済の相違
(飯館村のまでいな、もったいないの生活の崩壊)
人間の心とういうのは変化しない面もあるがやはり時代が変わり環境が変わると変化する、ここ百年くらいの変化はすさまじかった。
もう千年くらいの変化を百年で経験したようなものである。
情報量は江戸時代の一万倍
移動流通は一千倍
消費量は一千倍
現在の日本は、エネルギーの78%、食糧(カロリーベース)の60%、木材の82%を海外からの輸入に頼っています
その変化はすさまじいのである。江戸時代と比べるとなぜ神主とか僧侶がいるかとなるとそれはそもそも住民がほとんど農民であり移動しないからである。
そういう職業は移動しない農民がいて成り立っていたのである。
これだけ車であれ電車であれ飛行機であれ何であれモバイル社会になると定着する自給自足文明とはあまりにも違っている
そして価値観でも変わるし人間の心も変わる
金がこれほど力をもつということもそうである。それは江戸時代でもそうではないかというと貨幣経済があってもこんなに金が力を持つということはない
基本的には自給自足経済だからである。
自給自足経済とは何かというとそれは「もったない」という価値観になる
その地域だけで生活するとなると何でも稀少であり価値が全然違ったものとなる
金をだしたからといって何でも買えるわけではない、第一車もないのだから流通し得ないのである。
自給自足経済はその土地のもので生活するとなると一木一草まで大事になる。
農家では納豆まで作り味噌も作り自給自足なのである。
そうなると味噌でもなんでも貴重なものとなる
今のように全国から様々な種類の食品など入ってこないのである。
自分は味噌汁でもめんどうだからダシつきの味噌を買ったり白味噌がうまいとか買ったりする。全国の味噌があるとしたらそうしたものを選ぶ、それが広域経済だからできるのである。
そうなると必然的に金の力が大きくなるのである。そしてものがこれだけあり流通するともったないという心が消失してくる
飯館村でまでいな生活をしているというときそうした自給自足経済の心を取り戻そうとした試みであった。
でもそうした農村でも実際はグローバル経済になり金の力が大きくなる
そして移動しやすいというとき原発事故で放射能汚染されたときそうした自給自足経済にとっては致命的となったのである。
飯館村では山菜をとり料理するのが習慣としてあった。それができないということは村独自の生活ができなくなったのである。飯館村であり山村では山の水を利用しているところがまだ結構あった。それは無料なのである。それも自給自足経済の継続としてあった。そういうものが消失すると村に生きるメリットがなくなるしもったいないという心も消失する
そして多額の補償金をもらい外で福島市や都市で生活するときどうなったか?
金があれば何であれ勝ち組だ、ギャブルしようが家を建てようが金あるものが今の世の中は勝ちなんだ、回りがなんといおうとかまわないとか金の力が突出して猛威をふることになる、そこでは飯館村のまでいな、もったないとかつつましい生活などなくなる
もともと金はそれだけの力があったが飯館村は福島県でも収入は最低レベルだったのである。それが補償金で急激に変化してしまったのである。
自分にしても世界の株の動向をインターネットで毎日みている、石油の値段がこんなに世界系さいに影響していたことを肌で感じた。
一方で自給自足経済時代は狭い村単位の経済でありその価値観はまるで違ったものだったそのまわりにあるものは何でも貴重になる。
までいに使い、もったないとなりつつましい生活をするほかないのである。
山菜もありがたいとなるしその木材でも燃料にしてありがたいとなるし水さえありがたいとなるのである
そういう生活はまた村で自給自足しているから外に頼らないから外からとやかく言われる必要はない、そこは今なら限界集落なのである。
その時は別にインフラもいらない、電気は使っていたかもしれないがそれもおおがかりなものではない、何でもその狭い地域でまかなっていた。
大正時代までランプでありそのランプの油が貴重となる、油はもともと相当貴重なものであり蝋燭でも高価でありその蝋燭の燃えているときそれがだんだんなくなることを見まもっている、そこでもったないなと見ていたのである。
蝋燭の流れ買いなどもそうである。溶けた蝋を集めて再生していた。
今は物をなんでもそうはみない、電気というのは何か無駄が多すぎるのである。
そういう感覚が起きないのである。電気を節約しようとするがそれが具体的に見えないとういこともある。数値化しているのと蝋燭のように具体性がないこともある。
江戸時代のリサイクル職業
これをみてもいかに江戸時代が物を大事にしていたかわかる。そうしなければ生活できないのである。
前からも書いてきたけどなぜ原発事故で様々な問題が具体的にこの辺で提起されたのか、それは江戸時代からの急速の変化の歪みがこの辺に具体的に現象化したのである。
その象徴的なものが飯館村のようなまでいな、もったいない、生活を実践していたような所で起きたのである。
原発事故でそうなったとも言えるが一面、その前の社会のあり方が人間の生活が激変していて原発事故でその矛盾が極端なものとして現象化したとも見える
金さえあればどこに暮らしてもいいという社会であり移動性が高い社会である。
放射能問題があってしかたないとなればどんどん金があれば村から流出してゆく
それは津波の被害地でも同じである。
江戸時代は移動する移住することは基本的にできない社会であった。
それで相馬藩が飢饉の時、越中などから移民が来たがそれも命懸けだったことでもわかる
こういう社会では先祖代々とかもう十代とか長く暮らしている人が多かった。
職人すらそうである。代々親の仕事を受け継いでいたのである。
移動しないということは一面精神的にも安定していたのである。
江戸時代の人が外国人から見たらみんないい顔して平和に見えたというときそれは江戸時代は貧しくても移動しないから精神的に安定していたということがあったのだ。
変化が少ない社会だったのである。
そしてこうして安定しないと文明は生まれない、それは縄文文明が一万年とかエジプト文明が3000年とかマヤ文明が2600年とか継続したことでもわかる。
一方遊牧民は文明を作りだなかったことでもわかる。
定着して継続しないと長期的文明は生まれないである。
自分が石や岩をテーマにして詩を書いたりしているのもそうである。
人間は定着しないと精神的に安定しないし文化も生まれないのである。
文化がその土地を耕すというcutivate-cultureの意味であるときそれは実際の生活でもそうであるが精神的にもそうなのである。
現代は確かに様々な便利なものを作り出したけど何か精神的には軽薄であり荒廃しているのは重厚な定着文明でないからなのだ。
もちろんそうは言ってもグローバルになったときそこで精神の刺激を受けるから文化が興隆することはある、ただそのベースに定着文明がないと興隆しないと思う
なぜ江戸時代から明治になったときその時経済力もないのに人口は3000万くらいなのにあれだけの文化を作り出したのかという不思議がある。
それは江戸時代に培われていたものが花開いたのである。
それは奈良時代でもそうである。その頃の人口は二百万とか信じられない、そういう中であれだけの文化が興隆したということ万葉集のような庶民までそれに参画していたのだから文化と人口はあまり相関関係がないのである。
中国があれだけ人口が多くても経済としてみれば巨大だが唐時代のような文化は興隆していないのである。だから別に人口が少なくても文化の興隆とはそれぼと相関関係がないのである。
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ここを読んみれば蝋燭が貴重でありそれととも心もあったことがわかる
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