2016年03月29日

贅沢な便利な時代の復興がむずかしい理由 (人間は敢えて苦労はしない、時代によって開墾など苦労が強いられてした)


贅沢な便利な時代の復興がむずかしい理由

(人間は敢えて苦労はしない、時代によって開墾など苦労が強いられてした)


● 人間が求めているのは快と楽

一度いい生活を覚えると 
 ちょっと生活水準が下がっただけで 
大げさな言い方をする 


何が復興をはばんでいるのか?現代は贅沢を豊かさを経験した人がほとんどである。
本当の貧乏を知らないのである。貧乏にもいろいろ差がある、最悪は飢饉とかなり食べられなくなることである。そういう生きるか死ぬかの貧乏は今はありえない
今は何か贅沢できない貧乏というものもある
戦後焼け野原のときは何もない、贅沢するものがないのだから今の貧乏とは全く違ったものである。
今はあらゆるものがあふれている、金さえあれば何でも買える、その差が大きい、何でもあるのに欲望を満たすものがいくらでもあるのに金がない、そういう貧乏はまた昔の貧乏とは違っているだろう。
人間の辛いのは裕福な人が没落することである。いろいろ豊かな生活ができたのにその生活の質を落とすことがなかなかできない、それで借金してまでいい生活をしているのが現代である。
ある人は事業して失敗しても成功したとして装い豊かな生活をつづけていた。
それは豊かな生活を落とせないし回りにも落ちぶれる姿をみせたくないからそうなる
それでアメリカでも中産階級とかが没落して貧乏人が増えて大統領でもそうした貧乏人の味方になるトランプであれサンダースであれ人気になる
アメリカは数バーセントが富を独占している格差社会である。
人間が辛いのはそうした豊かな生活から没落してゆくことなのである。


そもそも人間はみんな楽を求めている、あくことなく何であれ快楽を求めているのであるまず人間は求めて苦労したり貧乏な生活をしたりしない、山尾三省は例外だった。
パンまで贅沢としたら異常である。でも別にそういう貧乏な時代だったらそれが普通だから異常にはならないのである。
例えば戦後でも日本中で食べるために開墾に入った所が実に多い、それは戦後の歴史として大地に刻まれたとなる
この辺でも浪江でも赤生木(あこうぎ)でも津島でも開墾に入った人たちがいて結束が強いと言っていた。それは飯館村だろうが自分の住む街から近い所まで戦後引揚者が入ってきた所なのである。
何をして食べるかとなると戦後焼け野原になったときも農業だったのである。

まず食糧がないのだから当然だとなる、その時農家の方が食糧があるから贅沢していたのである。卵でも鶏肉でも食べていたとなる
そもそも開墾するということは相当な苦労である。何もないところを開くからである。
第一今だったらそんな苦労することなどしない、でもその時は明治でもそうだが北海道の開墾に入ったがこれも厳しいものでもそこしか働く場がないということがあった。
人間は別にその時求めて苦労をしたのではない、そういう場しか生きることができないからしかたなく強いられてそういう困難な場所に敢えて入っていったのである。
相馬藩で天明の飢饉で三分の一の人口が減った、その時越中などからの移民が来て労働力不足を補った。その時越中からの移民も貧乏であったし飢饉で荒廃したような所に来たのは何か理由があった。誰もそんな困難な場所に敢えて来ないのである。


人間はもともと楽を求めている、楽な方に流れる、何か苦労するとそれは強いられるからしかたなくしているのである。
自分も介護などしたくなかったが誰もするものがないからしかたなくしているほかなかったのである。
人間が執拗に求めているのは快であり楽なのである。苦労するとしたらそれは強いられているからである。
今や農業でもわずかの畑で野菜を作る女性がいるがその趣味の野菜作りでも肥料から種から労役にしてもかかる、でもその人は好きだからしている
そこから生産されるものはわずかであり分けてやるほどのものも作っていない、でも援助している、そういう農業と昔の農業はまるで違う、生きる死ぬかという追い詰められた労働である。それはそういうふうに強いられたからである。

なぜ津波であれ原発避難民であれ復興がむずかしいのかというとみんな豊かさを覚えた人たちである。
だからもともとの生活のレベルが高いのだからそういう生活が破壊されてできないとなると一から開墾とかに入ったようなことはしない、もうあきらめて他でもとのような豊かな生活をしたいとなるのが普通である。
回りでは以前として前のように豊かな生活をしているからである。
そして移動もしやすい時代だから余計にそうなる、昔だったら本当に貧乏な時代だったら回りもみんな貧乏な生活だとしたらどこに行っても同じだとなりあきらめるだろう。
でも今は回りが豊かな生活を以前としてしているとなるとそうはならない
もうここでは豊かな前のような生活ができないとなるとそこから流出してゆく


大内村の人が郡山市に避難して生活している内に補償金があり贅沢している内に帰りたくなくなった、何かそういうことが原発避難者でも他でも津波の被害者にも起きている
一旦贅沢を覚えると困難な不便な地域に帰りたくないとなる
だからかえって多額の補償金が帰らないようにさせたのである。
放射能汚染問題もがあるそれだけではない街自体が廃墟のようになったとき誰も帰りたくないとなる、そんなところで苦労したくない、不便な生活をしたくないとなる
若者だろうが今はそんな苦労をしたくない、いくら貧乏でも贅沢を覚えた世代だからである、老人なら特にそうである、もう苦労はできないのである。
そうしたらそんな不便になった廃墟のような町に帰りたくないとなる

●限界集落問題が極端なものとして現実化

そしてこの辺の状態は限界集落が極端化した地域となった。一万の人口が千人に一挙にへり老人が主な住人になったというときそうなのである。
「地方消滅の罠」山下祐介とかの本でもそれをとりあげているし全国的な問題である。

そしてこの棄民は自主的な逃散としても現れ負のスバイラルを引き起こす
棄てられる前に自ら逃げ始めるのだ、それは人々が自立しておらず、依存しているからそうなるのである。
そして残った者たちも「なんとかしなければ」とは考えずに早々に諦め「とりあえずなんとかしてくれるから大丈夫」という依存の内に逃散する人をとめることもなくむしろその意志を尊重してしまうのである

何かこれが原発避難民にもぴったりなのである。双葉の町長が自分たちは棄民だと言ったのを思い出した。この本では原発避難民のことも書いているからこれは限界集落などの日本の問題を極端に先取りして現実化した場所なのである。

原発避難民になるとこの依存は自分たちは放射能の被害者なのだということになりそれが社会的に認知されて特権化しているからやっかいである。

お前ら依存しないで自立しろとか言っても俺たちは原発事故の被害者だから国民であれ誰であれ同情されるべきでありそれが当然なのだとなり同じ南相馬市民でも小高区の人にそういうことを言うと怒る、それをマスコミも支持しているからそれが社会的コンセンサスだと信じているからやっかいである。


そして放射能というのは素人にはわからない、わからないものは恐怖が増大する
自分は科学は苦手だから理解できない、でも放射線にはいろいろありα線は透過しない、距離でも短いから細胞をかえって傷つけるという説明もあった。
その他の線はレントゲンとかの放射線は透過するからかえってつきぬけてゆくから細胞をきずつけないという説明も素人なり納得する
これもいろいろな説明があるから素人にわからなくなり怖がる人は怖がる、子供をもっている母親は特に怖がる
つまりこうしして原発避難者は区域は余計に帰らない人がいても別にそれで批判はできない、それも当然だとされるから帰らなくてもうしろめたいものは余り感じないだろう。
そこに明確な理由があるからである。


ともかく津波の被害地の事情はまた違っているが原発避難区域の復興はこういう事情で本当にむずかしいと思う
小高の病院の配管を直すのに7億円かかるとしてそれを少しで住民を出すとかの考えさえもない、ただ自分たちは被害者だから外部のものが市政でも優先してやるべきものであり自分たちは何もしなくてもいいとなっている
もちろん例外的に努力している人はいる、でも全体的にはそういうふうに依存してもそれが正当な権利とまでなっているからもう復興は無理に思える
だから補償金でも問題があるにしろ一億円とかで手をうって移住させる、それで他の地域で暮らせるようにしてやる、現実には避難区域ではそうなっているのである。
限界集落と違うのは原発避難民には多額の補償金が用意されるから消滅するにしても外に移れるから救われるとなる、そっちの方が復興になっているのである。

原発避難民と外部からかかわるのもやっかいなのである。依存することが当たり前であり権利であり何か自分でも補償金のことを言ったりすると怒りを露にする
それはもう被害者であり権利だから外部のものは何も言うなとなる。
でも南相馬市民としてあるのだから小高の場合は切り離して考えられないのである。

●人間は時代の子であり時代を越えることはできない

要するに人間は時代の影響から逃れることができない、時代の子である。
戦争のときはいくら理不尽でも戦地に行かざるをえない、そこで死んでも当然だとされる戦後の引揚者の開墾の時代は苦しくてもそれしか生きる術がない時代である。
そして時代は別に神が作る訳でもない、人間が作っているのである。
戦争だってそうでありそれは人間がやめさせればできた、自分は絶対に戦争には行かないとかして抵抗もできた、歴史はどうにもならない、変えられないということではなかった歴史は誰が作るのか?神が作るのか?人間が作っている
一人一人の人間が作っている、だから原発がない社会は作れるのである。人間が作るものだから人間の意志で否定できるのである。
それができないとしているのはやはりアメリカとかの圧力でありやはり人間がしているのである。
ただ百人が賛成することに一人が反対しても民主主義では成り立たないだけである。
でも反対する一人が意味ないのかというどそうでもない、そういう人がいて歴史に残っている人もいるからである。
復興でも一人が立ち上がりそれに賛同したら何か変わるかしれない、いくら放射能でもそれはわからないし人間が一人でもその意志があれば変わるということはある。


人間が歴史を作り出しているのでありこの辺の状態も津波は別として原発事故は人間が作りだしたものなのである。
地球は自然は神が作り出したものである。でも文明は人間が作り出したものなのである。原子力文明とともに人間が滅びるというときまさに人間が作り出したものと運命をともにすると最終的にはなる
でも神の作り出したものがそもそも宇宙であり地球であり人間すらそうである
それは人間の作り出したものと運命をともにしないのである。
人間が全能でないし神に作られたものだから神の手中にありそれを越えることはできないのである。
そして再び神の世界を作り出すのは神しかいないとなる、人間の作り出した文明は神が作り出したものではない、だからどんな文明も滅びてきたしこれからも滅びるのである。



タグ:復興
posted by 老鶯 at 09:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連