2016年03月09日

土地は誰のものか? (原発に反対する最後の権利ー自然も土地も全体であり私有できない)


土地は誰のものか?


(原発に反対する最後の権利ー自然も土地も全体であり私有できない)

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原発事故後この辺で起きたことはいろいろ考えさせられることが本当に多い
だから自分は何もできないにしろこれは何だろうと考え続けてきた
第一故郷がなくなるなどイメージできない、故郷は何かなど普通は考えないのである。
それは現実に故郷に住めなくなったからそのことを考える
何かこの辺では日常としてあったものがなくなりその何でもないことを考えるようになった
何でそれがあったのか?それは何の意味があったのかと考えさせられる
その大きなものが土地なのである。
今双葉とか大熊とかで放射性廃棄物の処理場にすることを国が考えている
そのことに土地の所有者が反対しているからできない、2割くらいしか賛成していないからできない、それは土地に私有権があり権利がありそれでもって抵抗している


土地を国に売るということは国のいいなりになり放射性廃棄物の処理場にされる
それは飯館村でも起きているのだ。飯館村は放射線量が高いから帰ることがむずかしい、浪江でも2割くらいしか帰らないというから町や村が維持できる木の香どうかわからないそれで土地を売って他で家を建てた方がいいと考える人も多い
現実に双葉、大熊ではそういう人が多い、そういう人はもう帰らない
でも土地がまだあってその権利があり放射性廃棄物の処理場にはしたくないと抵抗している
でもそこにはもう人が住まないのだからいつまで抵抗できるのか権利があるのかとなる
空家に5年なったら迷惑だから市で強制撤去できるとか法律も改正された
そのように誰も住まない土地とは誰のものなのかという問題もでてくるしいつまでも権利を主張できるのかともなる
何でも人が住んでいれば権利が出るが人が住まないで放置すると権利が喪失するのかもしれない。
他人の土地でも家でもそこに住む人があって活きてくるとなればそうである。
そこに住まないということは権利を放棄したのかもしれない


ともかく土地というのは江戸時代までは農業が主体だから村全体のものであり私有化はあまりされていない、今でも田んぼは共同で維持する、水も共同で管理する
だから田んぼが所々になると管理しにくいとなる
農業は工業とか商業と違って土地が資本であり土地に根ざすから他の産業とも根本的に性質が違っている。
そして田んぼでもそうだが土地は大地は自然は一体となってつながっているのである。
その一体となりつながっているからこそ私有がなかなかできない性質のものである。

例えば飯館村を分断して考えられないのは水が真野ダムにためられて南相馬市に流れてくる、土砂も流れてくる、その水を相馬市でも飲み水で利用しているとか関係しているのである。
それを飯館村の土地が売られるというときそこが勝手に国が買い上げて放射性物質の処理場にされるとき南相馬市でも相馬市でも困るのである。
飯館村だけでここは自分の土地だからどうしようが勝手だとかならない
土地は広域的につながっているから広域的共同性があるから一つの村とか一区画が自分の土地だからどうしようが勝手だとはならないのである。


明治以降私有権が認められ入会権があった山が無数に細分化された結果、その山が土砂崩れとかなるがそれを管理するにはその山全体を管理しなければならない、勝手にその土地を宅地造成で売ってもらうと山全体が危険になることがあった。
それが広島の山の土砂崩れで起きたことである。
そもそも山とか大地とか海が誰のものか?それは全体であり誰のものかなど個人的に決められるものではない
自然はそもそも共有のものであり誰かのものにはできない
原発を建てる土地をもっている人が東電にその土地を売りそれを今度は県で認定して原発が建てられたとかなると大迷惑になった。
そんな一区画の土地をもっている人だけでとても決められることではなかった。


つまり今問題になっているのは全体のことである。津波の被害地でも市町村全体を復興しようとしている、だから大規模な土地造成をしている
全体を復興しなければ住めないからである。
各自が勝手にしていたら復興はできない、その全体に目を向ける人は少ない
もう各自自由にそれぞれの道を行けとなっているから復興できない
ただ今の時代強制はできないからやむをえないともなる
何か土地の問題でもそれは全体のものであり全体としてあるものであり一区画を私有してそれを自由にするということが自然という全体に生きているものからすると納得できないし害を及ぼすのである。
今回の津波や原発事故はそうした自然全体というものが破壊されたことがあり全体の回復を目指すことになる、その時ここの一区画は自分のものだからどうしようと勝手だとはなりえないのである。


何かそういう土地は共有だということで連帯する、市町村でも飯館村は勝手に土地を売ってもいい、でもそこが放射性廃棄物の処理場にされては回りの市町村が困るのである。
本当は大熊とか双葉とか小高でも避難区域化した所とその回りを分離して考えてはならないものだった。
それが補償金で分断されてしまったのである。
つまり市町村でも国でも境界を作っても自然には境界はないのである。
だから自然環境は世界全体の共有であり一国が勝手にしていいとはならない
別に自分の国で原発を作ってもいいとかと言っても今回のように事故になれば海が汚染されたり空気が汚染されるから世界の問題になる。
地球には別に境界などないのである。その境界を国で作ってその中で勝手にしていいとはならないのである。
ともかく今回の問題の一つに全体を市町村でも土地でも自然でも全体を志向することが大事だということをあまり考えない
自分だけが補償金をもらい自分の土地は自分に権利がありそれを売ってもいいとかならないのである。
でも実際はそうなっていて市町村とか全体が崩壊しているのである。
自分さえよければ後は野となれ山となれとまさしくそうなっていることが問題なのである

明治以降は入会権とかの共同性は喪失した privateは奪うことでありpublic(公共性)を破壊した

入会権は明治以降に私的所有に細分化 (入会権は江戸時代の村から自然発生したもの)
posted by 老鶯 at 19:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連