2016年03月04日

人間の盲点は巨大なものが認識できない (人工物でも巨大化すると認識できなくなりそれが大きな災いになる)



人間の盲点は巨大なものが認識できない

(人工物でも巨大化すると認識できなくなりそれが大きな災いになる)



「問題の複雑さ > 人間の問題解決能力」

つまり、問題の複雑さが人智を超えたとき、問題は先送りにされ、積もり積もって、カタストロフィ(大破局)に至るのである。

便利さは複雑を生み、複雑は人智を超えて、いつか制御不能におちいる。それが道具というものなのだ。

 文明はなぜ滅ぶのか


あるインドの哲学者が言ったことを覚えている、ある漁村で小さな舟で魚とりしていた人たちが大きな船が来たことを知らなかったという
それは確かに来たのが認識できなかった。それは今まで見たこともないものでありそんな大きな船がこの世にあるということを知らなかったからだ
一方で小さな船は毎日使っているものでわかりきっている。
大きな船はそれはあたえないものだったのだ。もちろんそんなものが海に浮かび動くということも知り得なかった。
だからこそそんな大きな船は来たとしても幻のように一時見えてが脳裏から消え去った。その大きな船は実際はその漁村の人たちには存在しなかったのである。
来たとしても認識できなかったのである。


要するに人間は巨大なものは認識できない


「北の海の果てに大魚がいて、その名を鯤という。
鯤の大きさはいったい何千里あるか、見当もつかない。
あるとき突然鳥となって、その名を鵬という」という書き出しは有名で、
「大鵬の志が、小鳥などにわかるか」と続く。

これも中国的な例えである。あれだけ広大な大陸だから生れた思想である。
別に小鳥でなくても一般的に大きなもの巨大なものは認識できない、それはあらゆることでそうである。
実際は地球のことを知っている人は誰もいない、科学者も知らない、地球全体を知り得ようがないからだ。ただ一部分を探求しているにすぎない
だから地震とか津波とか巨大な動きをするものは人間は知りえようがない、予測もできないのである。
宇宙となればブチックホールとかなんとか言っても宇宙全体を知るものなどいない、ただ宇宙の一部分を知ったとしても全部は知り得ようがない、そこに人間の限界がある


そして大きなもの巨大なものというとき社会事象にもあてはまる、人間の社会の動きも巨大化するともう認識できない、だからグローバル経済になると誰もそれを理解できない
株価がどうなるかなど誰も知り得ようがなくなっている
そこで巨額の金が動いていてもその全容を知る人などいないのである。
だからこそ常に陰謀論になるのは陰で誰かが株式を支配して巨利を得ているとなる
それがユダヤ人だとか言う人がいてもそれも世界を支配できるのかとなる
これほど社会も世界的につながり巨大化するともう誰も認識できないのである。

人間は日々の生活の実感としてしか世界をとらえられない、だから一つのリンゴでもどこにしろ盗むとそれがなぜ大きな罪悪感をいだくようになるのか?
これも考えてみると不思議である。それはそのリンゴが金ではない、数字でもないということに由来しているのだ。
リンゴという一個の食べ物をとして認識できるから罪悪感をいだく
このリンゴを育てる人がいたとか、これを運んだ人がいるとか、売る人もいるとか、何かとその一個のリンゴを作るにも人間の手間がかかっているということを具体的に感じるからである


ところが金には紙幣にはいくらあってもそういうことが感じないのである。
一億円もしあったとしてもそれは紙きれであり数字であれば数字としてか認識できないのである。でも現実社会では金というほど力をもっているものはない
一万で人を殺したりすることでもわかる。今日食べるものがない、金がないとしたらそうする人が現実にいる。それほど金は大きな力をもっていることはみんな骨身にしみてわかっている
でもなぜか、金には実感としてリンゴ一つ得るために盗むとするような罪悪感がないのか例えば野菜は盗まれのが多い、一つ二つ盗まれるのが普通である。
でもその人はやはり罪悪感をいだく、それは具体的にその土地で手間をかけて育てた人がいるということが教えられなくても具体的にわかるからそうなる
その土地のことや人のことをイメージできるからそうなる、害を与えるということが具体的に認識できるからそうなる
人間は江戸時代あたりまでそうした具体的に認識できる世界で生きていたのだろう。
だから社会を理解することは別にむずかしい学問がなくても直観で理解していたのだろう

現代文明はもう誰もそうして直観で理解できるようなものではない、巨大化している故に社会自体が理解できないものとなっている
マクロ経済が役にたたないとかいうときそもそもマクロ的グローバルに経済を理解できる人などいないからである。
金にしても投資するにしても例えは田舎で畑を作っている人がいる、今度トマトを作るのでビニールハウスを買いたい、トマトとれたらくれるから金を貸して欲しいというとき金がどう動くか具体的にわかる、でも今の投資は金が世界的に動いている
それが一千万とかで投資してもどう動いているかなどわからないだろう
ましてや何百億の金が兆の金でも天文学的な金が動いている世界などわかりえようがない金が実感としてわからない世界なのである。
ただ不思議なのは金は使うとき実感としてわかる、何々をいくらで買った、食べ物ならうまかったとかこの車は買って良かった、いい車だったとなる。
金が実感としてわかるのは実際に金を使った時なのである。その時金の効用が実感としてわかる。
例え何百億円の金かあったとしてもそれは紙きれにすぎないのである。

文明でも科学でも巨大化すると理解できない、原発でもそれが巨大なるが故に理解できない、それは日々小舟で漁をしている人たちと同じである。
そこに大きな船がきてもその船のことが幻のようであり存在しなかったとなる
文明というのも巨大であるが故に認識できないから存在しないとまでなる
国家でもそれが巨大化すると国家ということを認識できない
国家の一員ということがわからない、村の一員ならそこで日々生活しているのだから言うまでもなくわかっている、それがだんだん規模が大きくなり村の一員から町の一員からさらに市の一員から県の一員となってゆくとだんだん所属意識も薄れ認識できなくなり抽象的なものとなってしまうのである。


人間はこの巨大なものを認識できなくなると大きな災いに見舞われる、原発事故でもそうであるし戦争などもそうである。
政治にしてもそれが巨大なるが故に認識できない、だからテレビでは政治家のゴシップなどが話題になり芸能人の不倫などが話題になる。
そういうものはわかりやすいし年配の女性に受けるしテレビは大勢をマスを相手にするから放送せざるを得ないとテレビ局の人が言っているというのもわかる
テレビを見ているのは年配の女性が一番多いからである。
大衆にこびなければマスメデアはやっていけないのである
ところがその背後で大きな重大な政治的問題はないがしろにされる、そしていつのまにか国民が戦争にまきこまれていて拒否できなくなっていたとかなる。


原発事故でもいろいろ事故があり問題があり指摘されていたがそれが大きな問題としてクローズアップされない、権力で隠されて安全神話が守られていたのである。
現代は巨大化した社会であり巨大なものに大衆は盲目にされる
大きなものを認識できないが故に大きな災いに見舞われる運命にある
もし一個のリンゴを盗むときのようにな罪悪感をいだくような社会だったらそんなことはありえないだろう。
ところが巨大化した社会では巨悪は隠され暴かれないのである。
何か株とかの世界でも百億円を不正に得たとしてもわからない、リンゴという物を一個を盗むことから考えればそれは死刑に値するものでも罪を認識できないのである。
巨悪はそれをしている本人も認識できない、悪いということを認識できない、
そのことが悪を認識できないことが怖いのである。大企業が本当は大犯罪を犯していてもそれが認識できないから糾弾もされないとなる
会社を罰することはできないとかそこに現代文明の大きな問題がある。
それがはじめて事故になったりしてし明るみにだされるがその時はすでに時遅しになっているのだ。


タグ:巨大なもの
posted by 老鶯 at 10:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連