2016年03月30日

一方的に感情的になりやすいマスコミの報道 (原発避難者も回りの人も理解し合う道を見いだすべき)


一方的に感情的になりやすいマスコミの報道


(原発避難者も回りの人も理解し合う道を見いだすべき)


マスコミの報道は一方的になりやすい、公平中立な報道そのものがありえない、左翼系だとそもそも最初からかたよっているからかたよっている報道になる
そういう政治的な大きな問題でなくても人間は人を公平にみることほどむずかしいことはない
親戚でも親子で争いがあった。自分の家でかかわりあっても交流がなく良く思っていなかった。人間はまず絶えず変化しているから何年か交流がないと事情が変わるから相手を理解できなくなる
だから困るのは遠くに住んでいて何か事件とか事故が起きて呼び出されることなのだ。
静岡で兄が交通事故で死んだときがそうだった。
その時離婚したとか市営住宅の家賃を払わないで追い出されたとかそしてトラック運送会社で働いて子供は児童施設にあづけたとか混乱状態にあった
そんなとき死んだのだから最悪だった、そこで今度運送会社で保険金のことで代理人になることを画策していた。
じぶんはそんなことにかかわりたくないから帰ってきた。
でもその後もやはりかかわらざるをえなかったのである。
ここでの一番の問題は静岡で遠すぎたから事情がのみこめなかったのである。
こういうときは必ず誤解が生まれる
日頃行き来して相手の事情をわかっていればいいのだがそうでないと何がなんだかわからなくなる、判断もできなくなるのである。

親子で争っていたのは最初は子の言い分が正しいと思っていた。
それは親の方を良く思っていなかったからである。
でもそれは疎遠になっていたらわからなくなっていたのである。
子といっても40とかいいい大人になっていたしもう今では50代とかになったし
そこで何が起きていたのかわからない
でも娘の方の言い分だけを聞いていたからあとでそれが間違いだったことを知ったのである。
双方の言い分を聞いていればそうはならなかった。その娘を事情があってもひどい娘だと言って親は死んでいったからである。
その人は自分の家にきても信じられないひどいことを言って縁も切れたのでわかったのである。本当に「ひどい娘」だということを身をもっし知ったのである。
それは病気になって全く放置したようなことをしたからである。
ただその人が救われたのはすぐ死んでしまったことで娘に世話にならずにすんだから助かった。もし介護になったりしたら虐待になっていた。
こういうふうに個々人の問題でも疎遠になる理解しにくくなり誤解が生まれる

報道というのもそうである。事件があっても即座にその事件のことを理解はできない
すぐに反応するのだが表面的なものでありその実情とか内情とか深く知らないで反応するそれは原発事故でも津波の被害でもそうである。
その時何が起きているのか外から見ているとわかりにくいのである。
原発事故になると放射能問題とか複雑であり余計にわかりにくくなる。
まず原発事故で補償金をもらったのは30キロ圏内でありそこからはずれると基本的にもらえないのである。ただ南相馬市は30キロからはずれても一人70万はもらった
でも30キロ圏内はその三倍とかもらい一番もらったのは避難区域であり避難者である。
こうした事情もまた外からはわかりにくいのである。

だから相馬市ではトマト栽培の農家に飯館村の人が雇ってもらいたいと言ったら断られたと報道した
しかし雇う方の事情もある程度言わせる必要があった。
でも一瞬テレビを見ている人はなんでかわいそうな苦しんでいる飯館村の人を雇わないのだとみる
実は自分すらそうみていたのである。なんだその農家は冷たいなひどいと思ってみて感情的になっていたのである。
テレビは感情的に反応するメデアである。理性的になりにくいのである。
活字だと冷静になるがテレビは感情的になる、そこに危険性がある
イラク戦争で石油まみれの海鳥を写して世界的に反響があった。

イラクはひどいことをするな

最初にこうして感情的に反応させるのがテレビなのである。

相馬市のトマト農家は冷たいなひどいな

こういうふうにその複雑な背景より感情的になりそれがリンチ的になる
その場の感情で動くとそうなるのである。

トマト農家にしてみれば津波被害者の方が苦しいのだから現実的対応をしたのである。
飯館村の人は同情すべきでも一応補償金で暮らせるのだから今は津波の被害者を雇うとなったのである。それは冷たいことでもなんでもないのである。

それは下神白団地の報道でもNHKはやはり同じように報道した。

回りの人は受けていれてくれない、仲間に入れてほしい

そこに避難区域の人が入り交じっていた。でもこれも一方的なのである。

回りの人はなんでそんなに冷たいんだ

まず感情的に反応する、するとそこで怒りとかが露骨にあらわて理解しにくくなる
だからここには注意して配慮すべき問題なのである。回りの事情もあるからそうなる
小高区の人の言い分もわかるけど国民年金しかもらえない人が多いから補償を継続してもらいたいというが南相馬市民でも国民でもそんな補償受けられないのである。そうなると回りの反発を受けるがこれもマスコミは一方的に報道している

いわきなどでは原発避難者が新築の家を建てる、それで土地の値段があがったり様々な問題が生じている、これは事実なのだけどNHKでは報道しない
つまりNHKでは原発避難者側にたつ報道をしているしそういうふうに決めてしているのであるNHKは公正な放送はしない、一方的な報道をしている
それで事情を知らない人は誤解するのである。
自分すらそのNHKの報道に一瞬相馬市の農家はひどいな冷たいなと感情的になっていたことでもわかる
テレビはもともと深く考えさせない映像による感情的にするメデアであり一方的洗脳メデアなのである。


別に自分はどっちの味方でもない、それは確かに補償金をもらったがそれは避難者のように多くはもらっていないから言えたのである。
だから自分はなぜ原発避難者との軋轢が生まれたのかというとき原発避難者の言い分もありまた周りの言い分もあるから双方で理解し合う必要があると思う
ところが原発避難者にそれを言うと感情的になる、お前は同情しないのかとかせめてきた人がいるしそれが原発避難者が周りから嫌われるということも言った
ギャンブルして実際に除染でも復興事業をしているのは外部の人である。
それで福島民報の社説で除染している人たちは寒い日も暑い日も働いているから福島の人は感謝すべきだとあった。
このことはまさに原発避難者こそがギャンブルで遊んでいるだけで何もしないという批判にも通じている、ただそういうことをあからさまに言えないのである。
言えばお前は何もしないから何も言うなとかなる
そういうその人は何をしているのかとなるとギャンブルしているだけかもしれないのである。
俺たちは原発避難者様だから何も言うな、批判するな、ギャンブルしようがなにしようが被害者だからしょうがないとなる、外部でもそういう人はいる

こういうときマスコミの報道は特にNHKは影響力が大きいから相当に注意が配慮が必要である。それは双方にとっての溝を深くするからである。
原発避難者でもその周りのものでも何か折り合うことをさまたげる
そうして一方的に報道するとそれで原発避難者は自分たちの言い分は通るとなりさらに傲慢になり回りの人に嫌われる
するとやはりその原発避難者もいいというわけにはいかないのである。
ただ双方が理解しあえないで根強い反感をもったまま暮らすことになるからである。
つまり対立を煽り立てているのがマスコミの報道だとなる
それが影響力が大きいから外部でも内部でもさらに問題をごじらせる作用をするのである

自分は原発避難者もその周りの人たちもそれぞれに問題があり双方が和解する道を見いだすべきだと思う、マスコミ報道のようにただ対立をあおるだけでは双方とも不幸である。ただ原発避難者は常にマスコミではもちあげられるから原発避難者もそれで思い上がることがあった。
そして原発避難者を批判すると今度は何でお前はそんうなことを言うのだと感情的になり糾弾してくる、しかし現実を内情を知り利害が関係している者はそうはならない
つまり当事者と外部のものの見方は違ってくる
原発避難者がもう故郷に帰れないとしたら回りの人もそのことを考慮すべきである。
だから一億円補償金もらって家を別な土地に建てたとしてもやむをえないとみるべきだともなる、でもそこにはもともと住んでいた人にしては納得がいかないのである。
それは行政の問題でもあるがむずかしい問題である。
町とか村が消失してしまうということはあまにりも大きな問題であるから簡単な解決方法などないことも確かである。
いづれにしろギャンブルで毎日遊んでいれば地元の人もあいつらなんなのだとなる
そんなことはいつまでもつづかないだろう。
その土地に根付くとしたらやはり原発避難者もその土地に貢献するものを見いだすほかなくなる
補償金でもいつまでももらえるわけではないからである。










タグ:原発避難民
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千変万化の水の流れる変化(thousand of changes of water )


千変万化の水の流れる変化(thousand  of changes of water )


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断層



これは何なのかと自分でもわからなかった
波ということはわかるがそもそも波というので変化させた
これは水の千変万化だとわかった

水は一様ではないそれは様々に変化している、千変万化なのである。
水をそのように見ていない、かえってパソコンでソフトを操作して
水がこんなふうに見えることもあるなと発見したのである。

デジカメで人間の目で見えないものを発見したのと同じである。
無限の化学変化がパソコンの抽象画なのである。
タグ:水の変化

2016年03月31日

原発避難区域は自治体が消滅で公務員が失職の危機 (飯館村で学校に強制的に再開することに不満)


原発避難区域は自治体が消滅で公務員が失職の危機

(飯館村で学校に強制的に再開することに不満)


●飯館村で強制的に村長が住民を子供の教育で帰還させる


今この辺で起きていることは今までありえないことの連続なのである
この頃盛んに限界集落問題が言われる、少子高齢化で日本が衰退するなど言われる
消滅する自治体のことを盛んに言われる、それは都市すらそうなっている
都市レベルで日本は衰退して消滅してゆく

そういうことはこの原発被害地域ですでに起きているのである。
町や村に住む人がいないくなる、住んでも老人でありそれも今までの人口のせいぜい一割だとなると明らかに限界集落が極端化して現実化したのがこの辺である。
そうしてどうなるのか、公務員が職を失う危機なのである。
公務員ほど安定していたものはないと見なされていて常に外部では不景気の時代うらやましがられてきたのである。
つまり公務員はやめさせられない、失職することなどありえないとうされていた
会社と違うのだから自治体は潰れない、破産しないとされていた
だからこの辺で町や村が消失するというとき自治体の公務員も職を失う危機なのである。

そうなるとどうなるのか?それが飯館村の放射線量が元から高い所でも学校をはじめるから帰れとなる。それと飯館村の村長が強く言っている。
飯館村はもともと放射線量が高いけど村長は避難させなかったなど批判された
今度は放射線量が高いのに帰れということで村民が不満を募らせている
飯館村と小高を比べると放射線量の差が大きいのである。
小高なら街内で0、1であり影響はないとみられる
飯館村はそうはいかいなのは素人でもわかる、最初から7とかになっていたのである。
それは草野辺りでもそうだった。
それから除染して0、5とかに下がったとあるが本当なのかとなる
今では0、5だも高いなとかなっている
飯館村では放射線量が高いというときそれは過剰な反応でもないのである。
放射線量についての見方はいろいろあるから断定できないがもともと高いし今でも高い
それは小高とかと比べようがないのである。


ではそういうところに帰れというのはなぜか?それは村民の意志ではない、村長とか公務員、役所に勤めている人たちの意志が働いている
なぜなら村が自治体が消滅すれば村長も役所の公務員も失職する危機だからである。
一番そうしして危機感を抱いているのはそういう人たちである。
議員でもそうなる、職を失う危機なのである。
そうなると多少放射線量を高いとしても村を維持するために帰れとなる
その意志は村民の意志ではないのである。


そもそも公務員とは何かとなるとこれも実際はその本人たちも意識しえないものがあったろう
公務員とは会社員とは違うけどでは何なのだというときそれも考えてみるとわかならないのである。
飯館村では村民が帰らなければ村は維持できない、消失するという危機である。
その危機を一番感じているのは村長とか役所に勤めている人である。
会社だったら浪江の会社に勤めていた人は会社が二本松に移り人も移れば良かった。
公務員は他の土地に移り公務員にはなれないのである。
公務員とはその土地と一体となり存続している
ただ公務員が主役ではなくその住民が主役なのである。
でも今は公務員が失職するから村民を村にとどめることに必死になっているのである。
村民の意志は無視され公務員の意志が全面に出ておしすすめる
村民は村長や公務員の奴隷かともなる
そういうことで公務員をいつも批判しているのがネットである

ただ飯館村のような小さな狭い村になるとやはり村長の権力が大きくなる
それに逆らえないワンマン体制になりやすい
南相馬市くらいになるとそれなに大きいからすでに市長だけではいくら優秀でもどうにもならないということが多々ある
いくら市長をどうのこうのと批判しても人口も規模が違うからワンマン体制にはなりにくいだろう。
飯館村の規模は村長がワンマンとなり君臨するということがありうる
そういう規模の村だからである、その時村民の意志は無視されるということはありうる


いづれにしろ自治体が消滅するということ自体ありえないことだからそれをどう考えるのかとなる
そもそも自治体とは何なのだろうとか故郷とは何なのだろうかとか考えること自体がありえないことだったのである。
そのありえないことがこの辺では意識させられたのである。

●公務員自体が何をするのか問われている


3232の全国市町村を10年3月末に1727に半減させ、すさまじい現実を地方にもたらした。「旧町村部の過疎化が進み、新たな行政コストがかさんだ」「面積が広がって消火や救急搬送の所要時間が長くなった」(NHK)。合併した市町村だけではない。全国で数限りない業務が民営化され、福祉削減と公共施設の閉鎖、職員削減・非正規職化と大幅賃下げが一気に進められた。


、一生をそこで過ごすことを考えるのではなくて、一人の人間のライフサイクルのうちのごく一部をそこで過ごしてもらえるようにするとか、そうした方が魅力的な街になると思う。


公務員のBさんも失職し、その地域に公務員がいなくなりますね。すると、その地域をどうやって復興に導くのでしょうか?その街から公務員が消えると、国家が特別になんとかしてくれない限りはもうその街は消滅の一途を辿るしかありません


地方行政の歳出は一種の必要悪であり、圧縮が望ましいという結論となる。この結果、地方公務員のリストラや年収削減が強く望まれる事となる。私の見るところ、地方公務員の多くは未だにこのパラダイムシフトを理解せず、保身のみに気が行っている様に見える。http://blogos.com/article/86294/


いろいろ意見ががあるけど

その街から公務員が消えると、国家が特別になんとかしてくれない限りはもうその街は消滅の一途を辿るしかありません

こういう人は公務員の人であり一方で民間にまかせてもいいいう人もいる
現代では公務員の役割が減少したから一種の必要悪であり生産的ではないという意見である。

本当に公務員がなくなると自治体が維持できないのか?
福祉関係とかになるともう生活保護であれ介護であれ様々なサービスが受けられなくなるのか?ゴミの収拾でもそうである。
こういうことは今では介護など民間に委託してやっている、ゴミでもそうである。
そしてしきりに介護は公務員がやれと言っているのも一理あるかもしれない、福祉関係が公務員が直接やれとなる。でも事務的なことはしているが実際にしているのは民間人なのである。
本当に公務員がやるべきものは何なのかとなると意外と少ないのである
ほとんど民間でできるものである、現代は国家の役割とかが減少した。
企業の力が増大して多国籍企業が国家をしのいで世界を支配するとまでなっている
それがいい悪いにしろ現実だとなる。そうなった結果、国家の役割は減少しているから地方の自治体の役割も減少する。
公務員のしていることはほとんど民間でもできる、だから公務員がなくなっても困ることがない、公務員がなくなって何か困るのか?
それをつきつめてゆくと公務員の本来の役割がわかってくるともなる

●地方公務員は神主とか僧侶の役割とにている


変なんだけど地方公務員の役割は神主とか僧侶とにている、江戸時代の寺は戸籍係であり公務員も戸籍を管理していることでも同じである。
寺は役所の役割を果たしていたのである。神主でもその土地に根付いたものだからその土地に根付いているものである。
地方公務員もやはりその土地に根付いて仕事している。会社だったら今回のように浪江の会社が二本松に移動して社員も移動したが公務員は移動しないからにているのである。
神主はその土地を司るものである。農業中心の時はそうなっていた。
農民はめったに移動しないし移動させなかったからそうなっていたのである。

飯館村や原発避難区域で起きていることは町や村自体が消失する、住民が移動してゆくとことによってその土地に定着することで生業があったものが消失した
それが地方公務員だったのである。
公務員は会社のように倒産したりしないから安定しているというときそれも神主とか僧侶とにている
特に神主となると土地に根ざしているからそうなる
その役割が減少したのは農業中心でない工業中心になれば土地に根付くこともないから移動ししてゆく、海外までも移動してゆく、結果的に地方公務員は国からその土地を地域を守るために地方交付税が支給される、それが東京とか都会民からの税金だから限界集落などは消滅させろとかなる
効率が悪いものは生産的ないものは消滅させろとなる
それは神主とか僧侶などともにている、これらは生産的でないからである。
宗教はそもそも生産的でないし効率を追及しているわけではないからである。

一方で地方の存在価値はどこにあるのか?それが都会との対比で問われている
都会的経済的効率的価値観が本当にそれでいいのか?それが人間的なのかとなると違う
では地方的田舎的価値観とは何なのか?
それが原発事故で問われたことでありそれを自分は書いてきた。
それは自然と調和する共生するなかでの価値観なのである。
それはただ食糧を産むとかだけでない、資源があるとかではない、精神的に自然と調和する価値観なのである。それを詩として表現してきたのが自分であったのだ。
タグ:公務員
posted by 老鶯 at 08:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

abstract(海中の道-a way in to the sea


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海中の道


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トンネル

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心臓



抽象画はインターネット内にいくらでもある。それを変化させるとまた抽象画になる
そうするとこの芸術は尽きることなくあるとなる
要するに変化することは無限だからである

今回は水の流というか変化という連作になった
水というのはそれほど実際で多様に変化している
同じ流れはなないのでのある

そして水は本当は怖い、それが津波でわかったことである。
渦をまいて押し寄せたりしたときは怖かった
その時水は悪魔的になっていたのである。






タグ:海中の道