2016年03月01日

桜の花の短歌連作続編(大坂城)


桜の花の短歌連作続編(大坂城)


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秀頼と淀君の無念大坂城夕べ桜の散りやまじかも

今しきり花の散るかな大坂城夕日赤々と心に残りぬ

武士の意地見せて戦う大坂城石垣の固く守り残りぬ

一陣の風に吹き散る花やさらに大坂城内花散りやまぬ

大阪城門入る人の絶えぬかな夕日に映えにつ花散りやまじ

華やかに秀吉の世は終わりけり夕日の映えて散る花あわれ

花の咲き明石海峡夕べにも船の行き交い難波の栄えぬ

伏見城黄金の茶室春の夢まみえし人は今はなしかも

花咲くや奈良に京都に大阪やみちのく遠く未だ咲かじも

みちのくに政宗ありと名をとどむ今日の都に織りなす歴史

我が家の広き廊下に春日さし栄はここにもあるを知るべし




春の奈良京都大阪

大和なる奈良を離れて京都にあり
千年の都にあれ古りにし御所の塀長く
枝垂桜の色濃くも咲きにけるかな
五条の大橋瀬音も高く人々の行き交いて
燕飛びきて各地より集まる人々
織りなす歴史の絵巻かな
三十三間堂黄金の千の仏の光輝
その巧みここにはぐくむ職人の業
金閣銀閣対なし映えて千年の都かな
春爛漫大坂城の大いなる石垣や
花は盛りに大門を入る人の群れ
安土桃山の豪華絢爛たる文化華開く
みちのくにもその障壁画あり
松島に伊達政宗の茶室や時代を偲びぬ
大阪は日本の商都、人々集い活気に満ちぬ
奈良大阪京都と日本の歴史は編まれけるかな


大坂城の花見客(詩)

桜前線の短歌



桜前線の短歌で前から書いてきた。インターネットは絶えずリニュアールできることである。作歌が生きている限り更新されつづけるのがいいのである。
関西の方へはずいぶん旅した。その経験で面白かったのは関西に行くと桜は満開であり
みちのくに帰るとまだ桜が咲かないとかある
みちのくに桜が咲いたらすでに関西は散っているとか現実に自分は旅して経験している。桜はある一カ所で鑑賞するのではなく桜前線としての鑑賞がある。
日本も距離的に差が結構あり北海道となる稚内では6月に桜が咲いていたのである。
桜前線は6月まで稚内までつづいていたのである。


日本は桜の国である。桜は山桜もあるしいたるところに咲いている、別に京都の桜がいいとはならない、日本全国に桜が咲きそれぞれの美があり歴史があるからだ。
栄はべつに田舎にある,必ず栄えた家はある、自分の家も二代くらいでも栄えたとなる
何か廊下が長く広いからここに一番栄を感じた。別にこうした屋敷に住んでいる人はいくらでもいるからである。
ただどうしても関西が日本の歴史を作られた所だから桜ははもに歴史を感じる
大坂城は城より石垣が見物である。それが歴史を象徴していることで桜もまたそこに歴史とともに鑑賞するのである。
秀頼と淀君が炎上する大坂城とともに死んだというのも苛烈な悲劇だった。
信長も秀吉も華やかに桜が咲いて散ったという感じになる、絢爛豪華な安土桃山時代の文化も作られた。
徳川三百年は地味だがこの時は絢爛豪華になった。その時陸奥の伊達政宗も一枚加わっていた。東北が中央の政治を動かしたのはこの時くらいだろう。


それにしても関西方面から陸奥へと行ったり来たりしていたというのもずいぶん贅沢だと今では思う。そんな時間は普通の人にはないだろう。
そういうふうに行ったり来たりしていると桜前線が日本の旅の情緒になることがわかる
そんなに旅しても以前とし富士に映えている桜は一度も見ていない
だから今度は見ようとしているが富士に映える桜がどこなのかというと行きにくいだろう富士山は車がないといい場所を見つけないと見れないだろう。
でも富士山が欠けたら桜前線の短歌は完成しない、今度は旅できるから行ける
ただそこで桜が映える富士山を見ることはかなりむずかしいかもしれない
それにはまた相当な時間が必要になるが桜前線とか桜は見にくいのは一二週間で散ってしまうからである。その間に見るとなると見れない桜はいくらでもあるとなる
桜の古木などどこにでもあるからである。

奈良京都大阪にはそれぞれ個性がある。歴史がある。その相違はやはり歴史を知らないと理解できない、大坂城はわかりやすい、京都はいろいろあってわかりにくいが大坂城は外国人でもわかるだろう。
日本を一時治めた城ですとなればわかりやすい、ともかく大坂城で忘れがたいのは夕日だった。その夕日が映えて桜が散る光景はわすれがたい、今でも夕日が赤々と心の中で燃えている不思議がある
大坂城は夕日にあっていた。秀吉の栄華の跡であり滅びの跡だったからである。


大阪城と夕日


2016年03月02日

抽象画(新種の花) abstract(new kind of flowers )


抽象画(新種の花)

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横波と縦波

次は変化したもの

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新種の花



抽象画の作り方はソフトでパターン化していることに気づいた。
抽象画になりやすいのなりにくいのとがある、万華鏡は一般的になりやすい
だからここで試してみる
それからフオトショップでも抽象画になりやすいのがある。
だから三段階くらいで変化させると抽象画らしくなる
この組み合わせはパターン化しているみたいだ
他のはうまくいかない、抽象画は才能ではなく技術的問題なのである。

抽象画になりやすい組み合わせがわかればそれで試してみる
ただこの方法は各人によって違うしまた別なの使い方があるから一定しない
百回変化させてもできないときとできない
三回くらいでできるものはできる、そのパターンが抽象画になりやすいからである。


自分は花に興味をもっているから万華鏡で抽象画にするとそれが人工的な新種の花のように見える
何かバラでも配合してかけあわせて新種の薔薇を作っているのとにている
これも抽象画のパソコンの不思議だったのである。
タグ:新種の花

自然放射線と人工放射線は同じ? (南相馬市チャンネルの医者や学者の説明は正しいのか)


自然放射線と人工放射線は同じ?


(南相馬市チャンネルの医者や学者の説明は正しいのか)



放射線を出す能力を持った放射性核種が、我々の中で蓄積するかしないかの違いなんです

人工放射能は体内に濃縮・蓄積する
自然放射能は体内に濃縮・蓄積しない

ヨウ素131やセシウム137、ストロンチウム90といった人工放射能(人工放射性核種)は、
生体内に濃縮・蓄積し、生物がこれまで適応してきた自然放射能とは比較できない影響を人体に及ぼす。 



反論


六代まで影響する


プルトニウムも軽いからどこまでもとぶ(プルトニウムは自然界にはない)


ヨウ素131、セシウム137、ストロンチウム90、といった自然界に存在しない人工放射能は、体内に濃縮・蓄積するということ。
それに比べ、自然放射能は体内に濃縮・蓄積しないそうです。



新しいテレビを買ったので南相馬市チャンネルをひさしぶりに見た。
ヨーロッパは花崗岩が多く自然放射能が高い、それより南相馬市は低いから害はありませんと医者が説明している。
そこには南相馬市長も賛同していて同じ席にいる

ここで問題になったのが自然放射線と人工放射線は放射線としての害は同じであり害がないといいきっている。
なぜならヨーロッパの方が自然放射線量が高い、南相馬市はそれより低いからそうなる。ヨーロッパでは放射線量による人体の害はない、だから南相馬市にもない


自然放射線と人工放射線は同じである。

ヨーロッパの自然放射線は南相馬市より高い

だから南相馬市は放射線の害はない


論理的にはこんなふうになるのか?

つまり自然放射線と人工放射線は同じである、、,ということが証明されれば
南相馬市には害がないとなっている


でも自然放射線と人工放射線に相違があるとなるとそうは論理的にはならない

まるで放射能は無害だから今までのように米や野菜を食べ同じ生活をしても問題ないとしている。
そしたらなぜこれほど除染するのかとなる、何兆円も金を使って除染などする必要ないだろう。

何か放射能はわかりにくいから以前として安全を言う、でもその安全にだまされたから科学者の言うことが信じられなくなったのである。
科学者も嘘を言う、政府とか権力者の圧力で嘘を言っていたである。
何が科学的に真実なのかわからない、ただ政府の政治家の言いなりになったり利益を優先して嘘をいい安全神話を作ってきたから大事故になった。
だからどんなに安全だとまた言われても信じられないのである。
それは科学者が言っても今度は信じられない、科学者にもだまされたからである。
御用学者や御用マスメデアが信じられないのである。
それは放射能を知るか知らないかよりモラル的に信じられないのである。


その人は頭が良い理系の人だったけど事業に失敗した。失敗したけど成功したと借金して装っていた。その人は嘘をついていたのである。
だからその人のことは一切信じられない、頭がいいとかなんとかそんなことよりそうして嘘ついて自分は成功者だと言って世間もそう見ていた。
原発も安全だということを装い科学者が権威づけしていたのである。
科学者も嘘をつくということで信じられなくなったのである。
文系は嘘つきだといわれるが理系でも嘘はつくから同じである。
この辺の水もやはり害はないとしても飲水として飲んでいる人はいないだろう。
怖いのはプルトニウムが30年後とかに骨髄に蓄積されてガンになったりするということである。
そして放射線の影響が六代までありそこまで見ないとわからないとかも怖い

最も有害な取り込み経路は、空気中に浮遊するプルトニウム化合物粒子の吸入である。気道から吸入された微粒子は、大部分が気道の粘液によって食道へ送り出されるが、残り(4分の1程度)が肺に沈着する。沈着した粒子は肺に留まるか、胸のリンパ節に取り込まれるか、あるいは血管を経由して骨と肝臓に沈着する

第一そんな危険なものを作っていたことが間違いだったとなる
万が一にも事故は起きる、事故はさけられないのである。
日本は国土が狭いのだから原発事故で住む所がなくなる危険がある
何か食べ物だと少しでも危険があると大騒ぎするがこれほど危険なものが容認されることがわからない
人間の盲点は大きな危険には盲目なのではないか?
だからこそあれだけの戦争もして三百万人も死んだのかもしれない
人間は目の前のささいなこととか危険にはうるさいがこうした大きな危険には何か盲目になる
津波でもそうだけどこれもあまりにも大きな危険なのでかえって危険がないがしろにされていたのである。


人間の弱点は日々の目の前のささいなことには注意を払うが大きな危険は見逃されて盲目なのである。
つまり大きな危険を感じることはそれだけ人間にとってはむずかしいのである。
どんな動物でも日々の餌を見つけることが精一杯であり人間もまた同じなのである。
本能的にも大きな危険は感じられない,でも大きな危険によって滅びにいたる
それが津波でありまた原発事故だった。
放射線の怖さは日々感じられな、でも6代まで影響するとか30年後に蓄積して影響してガンになるとかそうした今すぐにその影響が現れないことがまた怖いのである。


一方で人間は日々ささいなことに目を向けて苦労しているが大きなことから見ればまさにささいなことでありそんなに苦しみ悩むこともないともなる
大事の前の小事もあるが大事の前に小事は吹っ飛ぶということもある
そしてつまんないことで悩み苦しんでいたなととかなる
いづれにしろ人間は大きなことに対して盲目でありそれが弱点で大きな間違いを犯すことになる。



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2016年03月03日

春のフラワーアレンジメント二題(万寿菊)


春のフラワーアレンジメント二題(万寿菊)

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金魚草とかスイトピーとか春らしい

真ん中にカーネーショをあしらったのが良かった。

やはり中心になっているからだ

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水がない状態でも
 なかなかしおれない、強い花。

橙の万寿菊四輪土色の花瓶ににあう今日も見ゆかな


この花は田舎の農家のたましい女性をイメージする
日々農作業しているような女性である。
花も必ず人間をイメージする、その花にふさわしいと深く見ることになる

それが土色の花瓶とにあっていた。土と花があっていた。
普通は花だけを見ている、花は土から遊離している感覚になる
説明のようにこの花はなかなかしおれない強い花なのである。


一般に花は華奢な感じの多いがこの花は何かたくましいものを感じる
女性でも華奢な女性にひかれるがごつい女性は敬遠するだろう
でもなにかこの花はかえってそうした素朴な逞しい農家の女性ににあう。


なよなよとして華奢なかわいい女性がいるが女性もそれだけでは生きられないだろ
たくましさをもたないとこの厳しい人生はのりきれない
でもあまりにも無骨でたくましい女性は男性からは敬遠されるが逆にこういう女性を嫁にしたら男性は心強いものとなるだろう。


姉の岩長姫は、妹の木花咲耶姫とは反対に、体ががっしりとして、顔もみにくいものですから、邇邇芸のみことは岩長姫を送り返してしまいました。父の大山津見の神は、姉姫がしょんぼりして帰ってきたのを見て、ひどく胸が痛みました。邇邇芸のみことのお使いの者に、 「私が姉の岩長姫を付き添わせてさしあげましたのは、岩長姫がおそばにお仕えしますならば、天(あま)つ神の御子(みこ)のお命は、雪が降り風が吹いてもびくともせず、 永久に岩のようにご無事でありましょうし、

この神話はやはり木花咲耶姫だけでは家は栄えないことを暗示している。
農作業するにしてもその当時でも今でもやはり力仕事になるから岩長姫のような人でないとできない、華奢な体ではできないのである。
そういうことで結婚して失敗している人もいるだろう。
ただ美人でかわいいだけで何もできない女性もいるだろう。
ただ一人の女性でこの二つを兼ね備えている人はいないのである。


ともかく自分のテーマの一つが花であり自分の花の世界を作り上げることである。
人間は必ず若いときからつづけていれば一つのライフワークをもつようになる。
花の世界はこれは本当に広い、世界の花を究めることはできない
この花マリーゴーマルドであり万寿菊というのも知らなかった。
いかに知らない花が多いかということである。菊の一種であり四季に咲く


フラワーアレジンメントはバックとか花瓶が意外と影響する、それは別々ではなく一つの作品として作る必要がある。
だから花瓶はそれなりに数を用意して花に合わせる、そして必ず写真にとっておく
この花は強い花だから長持ちするからいい、他の花は枯れやすいのが問題なのである。
菊は枯れにくいから墓に挿すのに向いていた。


フラワーアレンジメントはやはり自然の花をアレンジして第二の人工的な花のバラダイスを作ることである。その構想はあるが絵の才能があれば示せるのだができない
でも一つの花の世界を作り出すビジョンが描き出しある程度は実際の花で現実化できるだろう。

花の問題はいろいろな所で花を咲かせているが長く見れないことである。何度も見れないので心に残ることが少ない
花は最低でも一週間くらい見ていないと心に残らないのである。
自分は高山植物でも見て歩いたしそれからフラワーアレンジメントに目覚めたのは最近だった。
このフラワーアレンジメントは自分が作ったものではなく合作だった。
花を買ってきてくれた女性が基本的に作り自分が多少手を加えたのである。
タグ:万寿菊

2016年03月04日

人間の盲点は巨大なものが認識できない (人工物でも巨大化すると認識できなくなりそれが大きな災いになる)



人間の盲点は巨大なものが認識できない

(人工物でも巨大化すると認識できなくなりそれが大きな災いになる)



「問題の複雑さ > 人間の問題解決能力」

つまり、問題の複雑さが人智を超えたとき、問題は先送りにされ、積もり積もって、カタストロフィ(大破局)に至るのである。

便利さは複雑を生み、複雑は人智を超えて、いつか制御不能におちいる。それが道具というものなのだ。

 文明はなぜ滅ぶのか


あるインドの哲学者が言ったことを覚えている、ある漁村で小さな舟で魚とりしていた人たちが大きな船が来たことを知らなかったという
それは確かに来たのが認識できなかった。それは今まで見たこともないものでありそんな大きな船がこの世にあるということを知らなかったからだ
一方で小さな船は毎日使っているものでわかりきっている。
大きな船はそれはあたえないものだったのだ。もちろんそんなものが海に浮かび動くということも知り得なかった。
だからこそそんな大きな船は来たとしても幻のように一時見えてが脳裏から消え去った。その大きな船は実際はその漁村の人たちには存在しなかったのである。
来たとしても認識できなかったのである。


要するに人間は巨大なものは認識できない


「北の海の果てに大魚がいて、その名を鯤という。
鯤の大きさはいったい何千里あるか、見当もつかない。
あるとき突然鳥となって、その名を鵬という」という書き出しは有名で、
「大鵬の志が、小鳥などにわかるか」と続く。

これも中国的な例えである。あれだけ広大な大陸だから生れた思想である。
別に小鳥でなくても一般的に大きなもの巨大なものは認識できない、それはあらゆることでそうである。
実際は地球のことを知っている人は誰もいない、科学者も知らない、地球全体を知り得ようがないからだ。ただ一部分を探求しているにすぎない
だから地震とか津波とか巨大な動きをするものは人間は知りえようがない、予測もできないのである。
宇宙となればブチックホールとかなんとか言っても宇宙全体を知るものなどいない、ただ宇宙の一部分を知ったとしても全部は知り得ようがない、そこに人間の限界がある


そして大きなもの巨大なものというとき社会事象にもあてはまる、人間の社会の動きも巨大化するともう認識できない、だからグローバル経済になると誰もそれを理解できない
株価がどうなるかなど誰も知り得ようがなくなっている
そこで巨額の金が動いていてもその全容を知る人などいないのである。
だからこそ常に陰謀論になるのは陰で誰かが株式を支配して巨利を得ているとなる
それがユダヤ人だとか言う人がいてもそれも世界を支配できるのかとなる
これほど社会も世界的につながり巨大化するともう誰も認識できないのである。

人間は日々の生活の実感としてしか世界をとらえられない、だから一つのリンゴでもどこにしろ盗むとそれがなぜ大きな罪悪感をいだくようになるのか?
これも考えてみると不思議である。それはそのリンゴが金ではない、数字でもないということに由来しているのだ。
リンゴという一個の食べ物をとして認識できるから罪悪感をいだく
このリンゴを育てる人がいたとか、これを運んだ人がいるとか、売る人もいるとか、何かとその一個のリンゴを作るにも人間の手間がかかっているということを具体的に感じるからである


ところが金には紙幣にはいくらあってもそういうことが感じないのである。
一億円もしあったとしてもそれは紙きれであり数字であれば数字としてか認識できないのである。でも現実社会では金というほど力をもっているものはない
一万で人を殺したりすることでもわかる。今日食べるものがない、金がないとしたらそうする人が現実にいる。それほど金は大きな力をもっていることはみんな骨身にしみてわかっている
でもなぜか、金には実感としてリンゴ一つ得るために盗むとするような罪悪感がないのか例えば野菜は盗まれのが多い、一つ二つ盗まれるのが普通である。
でもその人はやはり罪悪感をいだく、それは具体的にその土地で手間をかけて育てた人がいるということが教えられなくても具体的にわかるからそうなる
その土地のことや人のことをイメージできるからそうなる、害を与えるということが具体的に認識できるからそうなる
人間は江戸時代あたりまでそうした具体的に認識できる世界で生きていたのだろう。
だから社会を理解することは別にむずかしい学問がなくても直観で理解していたのだろう

現代文明はもう誰もそうして直観で理解できるようなものではない、巨大化している故に社会自体が理解できないものとなっている
マクロ経済が役にたたないとかいうときそもそもマクロ的グローバルに経済を理解できる人などいないからである。
金にしても投資するにしても例えは田舎で畑を作っている人がいる、今度トマトを作るのでビニールハウスを買いたい、トマトとれたらくれるから金を貸して欲しいというとき金がどう動くか具体的にわかる、でも今の投資は金が世界的に動いている
それが一千万とかで投資してもどう動いているかなどわからないだろう
ましてや何百億の金が兆の金でも天文学的な金が動いている世界などわかりえようがない金が実感としてわからない世界なのである。
ただ不思議なのは金は使うとき実感としてわかる、何々をいくらで買った、食べ物ならうまかったとかこの車は買って良かった、いい車だったとなる。
金が実感としてわかるのは実際に金を使った時なのである。その時金の効用が実感としてわかる。
例え何百億円の金かあったとしてもそれは紙きれにすぎないのである。

文明でも科学でも巨大化すると理解できない、原発でもそれが巨大なるが故に理解できない、それは日々小舟で漁をしている人たちと同じである。
そこに大きな船がきてもその船のことが幻のようであり存在しなかったとなる
文明というのも巨大であるが故に認識できないから存在しないとまでなる
国家でもそれが巨大化すると国家ということを認識できない
国家の一員ということがわからない、村の一員ならそこで日々生活しているのだから言うまでもなくわかっている、それがだんだん規模が大きくなり村の一員から町の一員からさらに市の一員から県の一員となってゆくとだんだん所属意識も薄れ認識できなくなり抽象的なものとなってしまうのである。


人間はこの巨大なものを認識できなくなると大きな災いに見舞われる、原発事故でもそうであるし戦争などもそうである。
政治にしてもそれが巨大なるが故に認識できない、だからテレビでは政治家のゴシップなどが話題になり芸能人の不倫などが話題になる。
そういうものはわかりやすいし年配の女性に受けるしテレビは大勢をマスを相手にするから放送せざるを得ないとテレビ局の人が言っているというのもわかる
テレビを見ているのは年配の女性が一番多いからである。
大衆にこびなければマスメデアはやっていけないのである
ところがその背後で大きな重大な政治的問題はないがしろにされる、そしていつのまにか国民が戦争にまきこまれていて拒否できなくなっていたとかなる。


原発事故でもいろいろ事故があり問題があり指摘されていたがそれが大きな問題としてクローズアップされない、権力で隠されて安全神話が守られていたのである。
現代は巨大化した社会であり巨大なものに大衆は盲目にされる
大きなものを認識できないが故に大きな災いに見舞われる運命にある
もし一個のリンゴを盗むときのようにな罪悪感をいだくような社会だったらそんなことはありえないだろう。
ところが巨大化した社会では巨悪は隠され暴かれないのである。
何か株とかの世界でも百億円を不正に得たとしてもわからない、リンゴという物を一個を盗むことから考えればそれは死刑に値するものでも罪を認識できないのである。
巨悪はそれをしている本人も認識できない、悪いということを認識できない、
そのことが悪を認識できないことが怖いのである。大企業が本当は大犯罪を犯していてもそれが認識できないから糾弾もされないとなる
会社を罰することはできないとかそこに現代文明の大きな問題がある。
それがはじめて事故になったりしてし明るみにだされるがその時はすでに時遅しになっているのだ。


タグ:巨大なもの
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2016年03月05日

北上川の春の短歌十首


北上川の春の短歌十首


義経堂満開の桜風にゆれ心騒ぎぬ夕べなるかも

みちのくに栄いの証し金色堂北上の流れ春の夕ぐる

北上の流れや夕べみちのくに都の跡や花の吹きちる

長々と北上の流れ尽きじかも岸辺に柳芽吹きけるかな

長々と蛇行し流る北上の岸辺波立つ春なりしかも

北上の岸辺の広く砂州歩む鳥はなになれ樹々の芽吹きぬ

盛岡の岸辺の狭く北上の流れて早し草萌ゆるかも

北上の流れやここいづこ蛇行しつつも砂州の広しも

北上の流れたどり春の風吹くも遠きや都の跡かな

はるけくもたなばし山の桜見て西行帰り都に伝えむ

北上の流れ下りて石巻東風吹きそよぎ海にいでるも

北上の流れそ遠く何運ぶ都の跡や春の夕ぐれ

北上の流れや春の月影の都の跡にさして遠しも




日本では長い川があってもその川のことを意識しにくい
外国だと川は運河であり船が運行しているから川を交通路として意識する
北上川は長い、これだけ長いとこの川全体を見ることができない
とぎれとぎれに見ているだけなのである。
たいがい川はそうなる、一つの川として知るには船で往き来すればできる
それができないから日本の川は長い川があっても川はただ水が流れているだけだとなる

タグ:北上川

元号の意味するもの (グローバル化して時代にそぐわなくなった)


元号の意味するもの

(グローバル化して時代にそぐわなくなった)

7割近くを占める西暦派が挙げた理由は「便利」がもっとも多かった。年数計算の起点がひとつなので,過去の出来事と現在との時間距離が簡単に分かる。創立 ?! 周年,祖父母の年齢,


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天平

宮城県遠田郡涌谷

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文禄


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慶長

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元禄ー相馬市新田

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元禄

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天保


天平 ( 729-749)
 - 雲はめぐり、雨はあまねく潤して、天下が平和に治まる。

大同 (806-810)- 君が事をなさんと決意し、すべてが賛同すれば、もとより事をなして吉。君ご自身は、心安らかに、身体すこやかに、子孫にまで吉は及ぶ。

貞観 (859-877)- 天地の道は節義を変えずに守り通すただしさによってしめしている。



慶長(1596-1615)

元禄 (1688-1704)

天明 (1781-1789)- 天下に安寧をもたらした帝王が取り次がんとして残された、天の明らかなる命の兆しを見る。また、天の明らかなる命を受けて、王者として天下の万民を有する。

天保(1830-1844)

明治(1868-1912)

大正(1912-1926)




時代をみるとき日本では元号でみる、この元号が意外と重要である。その元号から時代をイメージするからである。西暦の数字だとイメージしにくいことがある。

例えば津波があった年は今回の津波で重要だったことがわかった。そして大きな津波があったのは貞観津波でありこれは記録にも残されて多賀城での被害が記されている
そして最近ボーリング調査した結果貞観津波が来た地点の砂が掘り出されている。
それは相馬市でもかなり奥まで貞観津波の砂が今回の津波が来る何年か前に発見されていた。
そのことを自分は時事問題に書いていた。でもこのことに注目する人はほとんどなかったろう。
貞観津波というとあまりにも古いからそうなる。その貞観津波は古代に蝦夷征服の時でありそれ故京都と陸奥が結びついたことで記録されたのである。


天平大同貞観は陸奥と中央の政権が結びついた時代であり記憶されるからなじみがある。

天平産金遺跡は、宮城県遠田郡涌谷町の黄金山神社付近で、「天平」の文字瓦が出土している。

ここから黄金が産出して奈良の大仏に使用されたのである。

すめろぎの御世栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く

このとき陸奥は奈良時代、平安時代(京都)に知られる時代だった。ここから陸奥の歴史が日本史として記された。その前に蝦夷の歴史があったがそれは消滅したのである。


貞観時代の後は鎌倉時代とかになっているが元号でなじみがないし興味がない
その後元号で興味が出たのは慶長時代である。
この時代は慶長津波で有名になったがこの時は戦国時代であり江戸時代の支配が確立する前であり重要な時代だった。
でも今回の津波で大津波が襲った時代は一つの大きな時代の区切りとして意識された。
津波の前と後では別な時代のように意識されたのである。
特に東北の沿岸地帯ではそうなった。

ただグローバル化した結果元号はなじみがなくなった。何か違和感を感じる人が多くなった。
でも江戸時代までは元号が時代をみるには重要だった。自分は必ず古い碑を見るとき元号をみる、その元号によって時代がわかるからである。
この辺では東北では江戸時代の前の元号があるのはまれである。
慶長時代の墓が南相馬市鹿島区の屋形にある。はっきりと時代が記されている。
田中城主だった人の墓である。これが一番古い墓に思える。

それから元禄というと何をイメージするかというと日本が戦国時代が終わり社会が安定して繁栄した時代をイメージする、それで不思議だったのは葛尾村の落合に明暦と元禄と記された碑があった。
あそこになぜこんな古い碑があったのか謎である。葛尾村でも古い歴史をもっていると感心したのである。
それから新地には文禄の碑があった。新地は伊達領だから宮城県に伊達藩には相馬藩より古い碑があるから納得がいく。文禄と記されたのは検地をした記念だった。
そして元禄というと華やかな時代でありその時芭蕉が「奥の細道」を旅した時だったというのも不思議である。
奥の細道は中通りであったがすでに葛尾村に元禄の碑があるように元禄時代には地方でも相当に開墾されて栄えたことは確かである。
相馬市からも近い松川浦に面した新田にも元禄の碑があった。
ここに元禄の碑があったのもここが開拓された開かれたからである。でも元禄時代というどこの辺では古いから意外ということもある。
それでも元禄時代は地方でもそれだけ開墾開拓されて発展した時期なのである。
関西辺りでは元禄と記された墓が最近墓を継ぐ人がいなと捨てられていたのは驚いた。
この辺だったら文化財になっているからである。


元禄の後は文明が記憶に残る。これは全国的飢饉の時代であり相馬藩でも人口が三分の一に減ったことで有名でありそのあと越中などから移民がきて復興したのである。
だから相馬藩では天明という時代は重要である。
その天明が自分のすぐ近くの子供のとき遊んだ神社にあったことも驚いた。
すでにこの辺は天明時代から人が住み生活がありつづいていたのである。
自分の家は明治に父が移り住んだのでありそこまでの歴史はない、一般的に町内では他から移り住んだ人が多いが同級生但野氏は南北朝時代からつづいていたのには驚いた。
町内でもそれだけの歴史がある家があったことに驚いた。

それから天保という碑が自分の墓地にあった、それはそこが寺子屋だったらしからである天保というとすでに明治時代につづいている。天保に生れた人が30年くらいすぎて明治になっているからである。
だからここで錯覚していたのは天保は明治を基点としてふりかえると遠い時代ではないのである。時代というのは常に錯覚している
でも時代が重要なのは例えば明治以降ふりかえると明治生れと大正生れとかその後の昭和生れでも時代を明確に分ける

両親から祖父母の時代でありその前後を間違えることはないし身近なのである。
自分の父親は明治生れだから明治の人であり母親は大正生れである。
それを逆にふりかえる人はいない、ところが江戸時代でも時代をさかのぼるといつの時代なのか古い時代と新しい時代を錯覚することがある
どういうふうに時代を認識するかは百年単位になるくらいならいいが千年単位になると本当にむずかしい。
津波など大きな自然災害など何かその時代に歴史的事件があればそれでもって意識する。そういうものがないと時代は意識されにくいのである。

そして現代では元号は時代にそぐわなくなった。そもそも明治になっんたとき元号には無理が生じていた。武士の世でも天皇の世でもなくなった、平民の民主主義の世になったからである。元号は天皇支配の象徴でもあったからである。
もちろんそれが日本の伝統だからそれなりの意味が歴史的にあった。
でも今はもうこれだけグローバル化社会に生きているとき日常生活でも不便になった。
常に自分の生年月日を書類に書くとき昭和という元号と西暦がダブってこんがらがるからでしなる。

元号が何か時代にそぐわなくなったというとき「降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男」というとき明治という時代は明確に一時代を築いた時代であり誰でもイメージしやすい、そしてその次の大正時代も明治のあとの何か革命の時代が終わった頽廃的なものを感じる
それより大正生れというとき今も90才以上でまだ親が生きている、だからまだ身近なのである。
自分の母親は去年、百歳で死んだのもそうである。母の一生は働きづめの一生だった。
若いときは紡績工場で原紡で糸取りでありあとは東京で女中をしていた
その頃の働き場所はそういうところだった。母が言うには現金収入になったから良かったとも言っていた。つまりその頃女性が現金収入を得る働き場ができたということでそう言っていたのである。
それから関東大地震を子供のとき感じて知っていた。そういう時代の人だった。


大正といってもまだ生きている人が相当いるし百歳まで生きる人も増えているから大正は過去のものではない、大正時代までは何か元号が活きていたと思う
昭和になると昭和天皇でありそれは戦前は二十年つづき戦後も長くつづいた。
でも昭和は明らかに戦前と戦後では連続性がないのである。
時代は戦前と戦後では全く変わってしまったからである。
だから年号はこの辺からそぐわなくなった。平成とかなってもこれは何なのだとみんなが思うようになった。
西暦の方がグローバル化社会ではあっている。歴史はもはや日本だけのものではない現実の生活で世界史の中でどこでも語られるようになっているからだ。



タグ:元号
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2016年03月06日

復興も他人まかせ避難民は何もしない (ボランティアも来なくなり帰るのは老人だけ)


復興も他人まかせ避難民は何もしない


(ボランティアも来なくなり帰るのは老人だけ)



シリア難民をみれば原発難民は楽である。シリア難民は生きるか死ぬかの選択を強いられて難民になった。
住むところは荒れ放題になり家も壊れて食糧も不足していつ殺されるかわからないという状態からやむなく脱出した。
それでも日本人でもお前ら自分の国は自分の国を守れ、戦いとか言っている。
自分の国を自分で守らないとしたら誰が守るんだとか言われる
日本だったら戦争であれだけ死んだように国があんなふうになったらやはり命懸けで今でも戦うということがあるだろう。
なぜあなたたちはそうしないで他国にみんな避難してくるのかとなる


一方で原発避難民は確かに放射能で故郷に住めなくなった被害も大きい
でも多額の補償金で他に住んで贅沢し遊び暮らしているのとは大違いである。
相馬市辺りに補償金で避難民が家を建て金のかかる歯を治療したとかなんとかあり
その人は東電を恨んでいないという、ある意味で得したと思っている
シリア難民だったら避難してもテント暮らしであり悲惨である
避難するにもすでに大勢海で死んでいる
シリア難民と比べるのも問題だが原発難民はあまりにも差が大きすぎるのである。
そして毎日パチンコ通いギャンブルであり遊び暮らしていたのである。


東日本大震災からまもなく5年です。福島県では、県外からのボランティアが震災直後に比べてわずか1.5%に減っていることが分かりました。

 福島第一原発から20キロ圏内の南相馬市小高地区は、避難準備区域が来月にも解除される見通しです。しかし、家屋や畑は震災直後から荒れたままになっていて、住民の帰還に向けて片付けなどに人手が必要な状況です。また、市が帰還を見込む5000人の住民の多くは高齢者だということです。


一時この辺でボランティアと地元の住民が原発避難民と喧嘩となった。
仮設暮らしの原発避難民はパチンコとか毎日遊んでいるので仕事しろとボランティアが言って喧嘩になったのである。
そのボランティアも激減して今困っているという。
それで小高が避難解除になるがまだボランティアの援助が必要だというがもうボランティアは来ない、そして帰るのが老人だけだとなるから余計にそうなる

何か仮設暮らしというのはかえって楽しいものになっていたのだ。
老人にとっては隣り合い長屋のようになっていつも会えるから特に女性にとってはいいものだったのである。
小高の鳩原村の山の方の人もそう言っていたし飯館村の人もそう言っていた。
そこは街から遠いし家が離れている、特に飯館村は広いが孤立したように家々があったからである。ただ自分はそれを家々が森につつまれるように一軒一軒あったから住むにはいいなと外から見ていたのである。
でも実際そこに住んでいる人は離ればなれになっているら嫌だったということもあった。毎日長屋のようなところで隣り合って暮らせる方がいいという一面があったのだ。
これは何か高齢化社会がどうあるべきか示唆している
老人は老人で集まって暮らしてた方がいいということがあった
ただそれも補償金をもらえていたからできたことである。
だからもっとこういう暮らしがつづいて補償金をもらいつづけたいとなったのである。


そして何か常にかわいそうだ、かわいそうだと外部からも言われ自分たちはかわいそうなんだということが当たり前になったのである。
でもそう言われたのは南相馬市では避難区域になった小高区の人たちであり他も避難区域になった人たちだけである。
他はかわいそうだなどボランディアは助けない、普通の暮らしをしていたのである。
かわいそうだかわいそうだと補償金はもらえるし一面いいことづくめだったとなる
だから自分たちは同情されるべきでありそれで自分が鹿島区の人は不満だと言ったら
嫌な顔していた。自分たちはひどいめにあっていると言っていた。
自分がその知り合いの女性にそう言ったとき当然かわいそうで大変ですねとか言われると思っていたからそうなった。
その人は鹿島区の議員にも支援されていたから鹿島区の人も応援しているのだと思っていたのである。
それで小高区の人たちが買い物しているから鹿島区の人は助かっているんだと言っていたそんな認識しかなかったことも驚きである。すでに5年もいてそうだったのである。
このずれは本当に大きいと思う、それだけ甘やかされたといえばそうである。


そうして今度は避難解除になり補償金ももらえないとか街が暗いとかなんとか文句を言い帰りたくないとかなった。
でも今度は復興住宅に住むにも家賃がかかる、これも結構かかるとなると土地と家があれば帰らざるをえない、ただ小高はこの辺と同じくらい放射線量が低い所が多いのである。自分の家も除染するが0、23以下は除染しない、自分の家はほんのわずかしか除染する所がなかった、小高でも0、2くらいのところが街内である。
飯館村は誰が見ても高いから住めるのかという疑問がある
だから小高の人たちは帰るべきだとみんな言っているのである。
相馬市でも補償金は何にももらえないから不満が大きい
そういう相馬市で避難区域から来た人が家を建てて何かぜいたくしているのも変なのである。相馬市の人も原発避難民には相当な不満がある
他でもそうであり特に津波の被害者で補償金などもらえない人も多いからそうなる


ただ現代社会は自由が基本にある、故郷であれなんであれそこに住みたくなければ住まないという選択ができる
あなたは何であれそこに住み続けなさいという責任もないし強制もできない
それでいち早く見切りをつけて土地を買って家を建てた人は賢いと言われる
特に老人になればめんどうな不便な所に住みたくないからである。
小高では住めるようにいろいろ準備した、病院も準備した。
でもまだまだたりない、小高病院は配管を直すために7億円もかかるという
その金を誰が出すのか?そんなこと小高の人は関心もないのである。
市か県か国がやってくれるとしかない、自分たちは一銭も出さない
それが当然だと思っているのだろう。


自分たちは国民年金しかもらっていない人が多いのだからもっと補償金をもらいたいと言って抗議している
自分たちは被害者でありこれからも補償されて当然だと思っている
それで外部からボランティアがいないなら自分たちで金を出してやらせろとも言う人がいた
そんな考えすらないだろう、パチンコして遊んでいるだけである。
要するになにもかも人まかせなのである。自ら汗を流すという一部はあってもほとんどないのである。
そして老人が多いからまたそうなりやすいのである。
それより若い人が見捨てたということは致命的なのかもしれない
老人だけでは復興できないだろう。


だから補償金があまりに手厚いことがかえって避難区域だったら外で家を建てるとかなりまた仮設でも補償金で暮らせるのがいいとか楽な方に傾いてしまった
それが被害者だから当然だとなり復興するにもボランティアであれ誰かがやってくれ
となった。
それよりすでに避難区域になった人は若い人は見捨てたのである。
老人が帰ったら若い人も徐々に帰ってくるというが帰って来ない
その逆だったら別である。つまり若い人が帰り復興に働きその後に老人が帰るのが順序だったのである。
そうなっていれば別に仮設でもそこで老人が楽にしていても良かったのである。
若い人が見捨てたのだからもう老人だけでは復興できなくなったのである。
だからデンデラ野のように老人だけが最後は細々として畑でも耕して暮らし見捨てられて死んでゆくとかなる、うば捨て山になる。
それはそれでデンデラ野でも仲間がそれなりに助け合いしてたとなる、そこで仲間と死ぬというのも選択である。
そうなると老人すら帰りたくないとなっているのである。


ともかシリア難民よりはどれだけましかしれないけどそれと比べることはできない
原発難民は被害者として特権階級になりそれが当然だとなってしまったのである。
今になって金がなくて困っていいるから金貸してれと福祉に来ているとかもおかしい。
十分な補償金をもらっているはずでありそれもギャンブルで使ったのかとなる
それでまた遊ぶ金がないから金が欲しいのかとなもなったら誰も貸したくないだろう。
一体補償金は何のためなのか復興のために払われたのか?
相馬市とか他に家を建てるためだったらそもそもそれが復興であり村とか町の復興のために使われたのではない、でもその個人にとってはそれが復興だったのである。
だから別に東電も恨んでいないとなる,家が普通だったら建てられないの建てられて贅沢もできたとなる、そして怖いのは結果的に原発事故はいいものだったとさえなる
その人にはそうであっても周りの人は被害が受けていることもどうでもいいとなる
もしシリア難民のように被害を受けたら絶対にそんなことにはならない
東電で政府でも恨んでテロにすらなったろう、そうなると原発再稼働などできない
命をかけて反対する人がいればできない、補償金がそうして原発被害地域を分断して
事故の責任を厳しく問わせなくしてしまったのである。


タグ:原発避難民
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2016年03月07日

死んだ人の霊が現れ体調不良? (先祖崇拝は偶像崇拝だから危険ー軽い供養にとどめるべき)


死んだ人の霊が現れ体調不良?

(先祖崇拝は偶像崇拝だから危険ー軽い供養にとどめるべき)

おばあちゃんが亡くなってから開けていない
タンスの前で、おばあちゃんが「ここの中にある物」を、必ず叔母に渡して欲しいと伝えてくるんです。

死んだ人がこういったということありうるのか?
自分の母が死ぬ前に一カ月前くらいに孫に金をやれと大声でその金額まで言ったことは本当に驚いた。
それは遺言であり例え書類化してなくても重いものとなった。
認知症になっていたからそういうふうに意識がはっきりして大声で言ったことに驚いた。あまり声も出ないほど衰弱していたところがあったからだ
だからそれだけの声を出したことに本当に驚いた
自分は孫に金はやらないと言っていたことがありそれは自分にも非があったのですぐに連絡して言われた金を49日の納骨する日に払ったのである。
どうしてか孫が49日の日に休みがとれたから来るというのも不思議だった。
だから人間の心は距離を越えても通じ合うということがある
人間にはともかくどうしてもわからない不思議がありそれで先祖がたたったとかいろいろそれで脅し商売する人もでてくる


それから不思議なのはカルマである。これも否定できない、家系のカルマとかその人のカルマは必ずある。
これも不可解なことが多いがやはり人は必ずカルマを背負っているのだ。
自分がなぜこの十年間苦しんだことが書いてきたがこれは自業自得だった。
たいがい何か悪いことが起きてくるのは自業自得である。
例えばなぜ犯罪にあうのだろうかとなるとこれも自業自得のところがあると思った。
犯罪に合うべくして合うということがある
それは先祖の霊のたたりでもなんでもない、自分がしてきた現世のことでカルマを背負ってそうなる。
自分は60まで母親に食事を出してもらっていたから介護するのは当然であった。
カルマとして今度は5年間とか食事を出し続けねばならなかった。
その間にいろいろ苦しい目にあったのも他人のせいではない、自業自得だった
自業自得というときこれは例外なく誰でもそうなるのである。


例えば不摂生した人は必ず60以降病気になりやすい、もちろん60代になるとなんらかほとんどの人が病気がでる
酒を飲み続けたりタバコをやりつづけたり何かそういう悪い習慣がたまりたまって60以降は必ず体に現れる、遺伝的なものがあり例外もあるが一般的に確率的になる
そういうカルマは現れてはじめてわかるのである。
どんな生き方をしてもカルマを生きていれば作り積み重ねているのである。
事業に失敗して借金した人もそうである。
借金はまさにカルマを積んだということなのである。
一番わかりやすいカルマでありそれは必ず支払うことを自らしない限り清算できない
それをそのカルマと関係ない他人に背負わすことができない
それを自分に背負わせようとしたからそのカルマはその人にさらに何倍にもなっしのしかかってくる。
自分で自分のカルマは清算する他ないのである。だってそれは自分自身のカルマだからである。
もし自分が母親の介護をまかせたりしたら自分のカルマを清算できないのである。
それだけ世話になったのだから自分がしないで他人に頼むとカルマはまた自分にのしかかってくるのである。
ただ人間は意外とこのカルマを軽くみているが本当はかなり怖いものなのである。
なぜあの人は事故にあったり何かと不幸なのかとなるとなんらかカルマが関係している
ただそれは先祖の霊とかとは関係ない、自分の生き方が一番関係してカルマを積んでいるのである。


人間は死んだ人はどうなっているのかわからない、だからほとんどの宗教は先祖崇拝になる。イースター島のアモイ像とか古代の像など先祖崇拝であり像化したのは先祖崇拝が多い、それだけ死者というものが何かわからないから人間の情として崇拝するようになった
檀家仏教は先祖崇拝として異常に死者を供養、祭祀するものに変化した

現代の檀家仏教は先祖崇拝である。異常に死者をおそれ拝んでいる、月命日とかもありそんなに供養しなければならないとかなる、友引にどうかなども今も活きている
供養はなかなか否定できない、何で供養しないのか親を思わないのか?
なんかこんな叱責をするようなことがあるがそもそも生きているとき親に何かしたのか?
介護もまともにする人もいないし死んでくれとか生きている時は普通に言っている。
そんな人がどうして死んだとたんに敬い畏れというのも変なのである。
そうなら生きているときこそ何かしてやるべきであり死んでからしても遅いのである。


宗教というとき何か今でも日本では伝統的に先祖崇拝である。仏教そのものがあれほど死者にこだわり死者を供養しつづけるのはそのためである。
親でも先祖でも神ではない、生きているときは欠陥の多い普通の人だったのである。
正直自分の母親にしても書いてきたが真面目な人でも欠陥が多かった。
それは誰でもそうなる、そういう人が死んで変るわけではないのである。
ともかく人間は何を礼拝するかが大問題である。
たいがい先祖崇拝でも偶像崇拝に陥る、つまり神ならざるもの拝んでいるのが普通であるだからこそ神はそもそも目に見えないものとして偶像崇拝を禁止したのである。
偶像崇拝は本当に危険であり宗教の最大の戒めが偶像崇拝の禁止なのである。
だからあれぼど狂気的にイスラム教が偶像を拒否しているのがわかる
それだけ人間は偶像崇拝に陥るのが普通でありそれが害を及ぼすのである。
神は妬む神であり神がそのことに一番怒るから怖いのである


宗教で一番守るべきことは偶像崇拝を拒否することである

ともかく供養と礼拝はまた違っている、供養は悪いことではない、それは必要なことなのだけどそれが何か度がすぎると礼拝になり死者の偶像崇拝になるから危険なのである。
それで霊が現れたから体調不良になったから霊媒師に頼んだとか女性は何かそうなりやすい、そういうとき霊媒師に金を払い支配されることになるからまた危険なのである。
でも何か女性は霊が現れたとき霊に感じてどうなったとか言う人が多いのである。
女性はなにか迷信的になりやすいしカルト宗教にはまりやすい
それで創価などは婦人部が力をもち選挙でも宗教活動としてしている
それは混同していようがそういう見分けもつかない、それは異常に先祖崇拝になるのともにているのである。それもやはりカルトの特徴なのである。
霊というのも何か見えないからわからない、そしてその霊によって奴隷にされる
霊がどうのこうのとか霊媒師であれ宗教家であれ御布施しろとかなんとかなる


死者の問題は葬式でもそのあともめんどうである。それは死者とどう向き合うかわからないからである。それは戦死者でもそうである。
不幸に事故で死んだ人でもいろいろありそういう死者とどう向き合うのかわからないからである。供養、礼拝でも何か混同してしまう。
死者には軽い供養にとどめるべきでありそれ以上礼拝したりすることは良くない
とをしてもそれが偶像崇拝になるから注意すべきなのである。

タグ:死者の霊

2016年03月08日

津波原発避難民の復興とは何なのか? (十津川村の北海道移住と比べる(2)


津波原発避難民の復興とは何なのか?


(十津川村の北海道移住と比べる(2)


十津川村

第一條(移住住民は、故郷を去り、親や兄弟と別れ、絶海の地に移住してきて、移住者同士しか頼れるものはいないのだから、これまでにも増して一致団結し、お互いに助け合い、猜疑や軋轢を生むことなく、新村の隆盛と勤王の由緒相続を目指そう。)
第二條 
(移住住民は、移住・開墾の費用として政府から破格の恩賜を受けたのだから、それぞれ五千坪の土地を開墾するまでは、他の仕事に従事してはいけない。但し、役所の許可を得た場合や、農閑期の場合はその限りではない。)

第三條 
(恩賜金及び、旧郷から受け継いだ共有金は、新村の基本財産となし、いかなる場合においてもこれを各自に分割して消費すべきものではない。但し、新村の共有財産の保護策が確立されるまでは、道庁に保護を依頼するものとする。)


これまでにも増して一致団結し、お互いに助け合い、猜疑や軋轢を生むことなく、新村の隆盛と勤王の由緒相続を目指そう。)

移住住民は、移住・開墾の費用として政府から破格の恩賜を受けたのだから

恩賜金及び、旧郷から受け継いだ共有金は、新村の基本財産となし、いかなる場合においてもこれを各自に分割して消費すべきものではない

原発避難民

原発補償金は当然に町民村民に支払われるべきものであり各自自由に使ってもいい
すなわちパチンコであれギャンブルであれ何に使っても買っても贅沢してもいい
それは町に村に与えられたのではない各人に与えられたものであるから

誰も一致協力して町であれ村であれ残る必要はない、補償金は各自自由に使い何を買おうが贅沢しようがいい、一致団結する必要もない、それは町や村ではなく各人に補償金として与えられたものだからである。
その補償金の土地なり家なりの財物補償は各人が東電政府に対してするものである。


このように十津川村とは正反対なのが原発避難民なのである。津波の被害地域もそうである。
市でも町でも村でも津波の被害でもう維持できなくなり若い人は流出する
援助はそれなりにあっても市町村を復興することのために一致してする力がない


復興復興と盛んに言うけどこれも変なのだけど相馬市に若い夫婦が新築の家を建て高額の歯の治療したり高級な車を買いパチンコとかギャンブルで遊び暮らしている。
これも全く十津川村とは正反対である。
十津川村は厳しい宗教的とも言える戒律を作り実行したのである。


十津川村

移住開拓は非常事態なのだから、一人一人が倹約に努め、以下の各項を堅く守ること。1,不急のものは購入しないこと。2,家屋の構造は質素堅牢のものとし、一切の装飾は施さないこと。3,家族以外に二人以上加わる会席・酒宴は行ってはならない。但し、新村の記念日大祭祝日はその限りではない。4,村内に飲食店を開いてはならない。5,衣服はなるべく木綿のものを用いること。)



原発避難民

毎日マグロの刺身だ、補償金が一カ月百万だよ、レクサスやハーレーダビッドソンも買ったのも多いな、新築の家も建てた、もう帰らないよ、
金はギャンブルに費やしている、やることないしな、あいつは400万競馬でもうかったとか言っていたな、、、、、、、


十津川村と比べることはできないにしろ何かこの辺の異常性が浮かび上がってこないか?

今復興というとき何が最も必要なのか?

十津川村

これまでにも増して一致団結し、お互いに助け合い、猜疑や軋轢を生むことなく、新村の隆盛と勤王の由緒相続を目指そう。


何か古い村であり誇りをもっていた。野馬追いとにてるかもしれない。
復興というときみんな津波の被害地でも原発被害地域でも避難した人たちは村とか町全体のことを考えている人は少ないだろう。
放射能汚染で住めないということもわかるが何か復興ということで一番欠けているのは十津川村のような心情なのかもしれない、一つにまとまって団結して復興するのだという気概もなにもない

かえって原発避難民だけが多額な補償金もらって得したな、ここはもらっても少ない、隣の市などなにももらっていない
避難民は福祉関係でも医療も無料、福祉サービスも優先的にされ無料、何かと細かい所まで補償金がもらえる
こっちは何ももらっていない、同じ市なのにこの差はなんなんだ、だから避難民とはこの辺ではつきあわないよ

こんなふうに猜疑と軋轢を生んだだけだとなる、それは福島県全体に及んでいるのだ
放射能の被害は中通りでもありほとんど補償金はもらっていないからである。

原発避難民

各人は補償金をもらったら各人がその金を利用して自由に使い復興しなさい


十津川村とは正反対になっている。こうなったらとても復興はできないのではないか?
各人は別にその補償金をもらって家を建てた人も多いしそれでかえって贅沢できた人も多い、しかしもう若い人は帰らないのである。
つまり十津川村とかは何か今では考えれらないような災害の前も一致協力した村だからできたのともともとそんな贅沢な生活などしていないからできた
今のように贅沢している時代はそんなことはできない
生活のレベルも落とせない、もう津波の被害にあった何もない所を復興するより他で一からはじめた方がいいとなるのもわかる
その当時とは事情が違うからそんなことより補償金もらえる人はその金で他に移った方がいいとなる
かえって郡山市で暮らしたけどこっちの生活の方が楽しい、もう川内村には飯館村には帰りたくないという人も多くなっているだろう。
もちろん帰りたい人はいても問題は町とか村全体を復興しようとする気持がないことである。
そういう考えが起こらないことなのである。各人は思っていても町全体とか村全体で思う人はいない
でも今問題になっているのはその市町村全体を協力一致して復興させなければ帰れない住めないという現実なのである。
そのために十津川村のように何かしら犠牲も強いられるし苦労を耐える覚悟が必要になるのである。
何かそういうこともなく、ただ補償金をこれからももらって暮らせればいい、後は市であれ県であれ国であれボランティアがやるべきだ、みんな老人が多いのだからとても復興のために働くこともできないからだ。

要するに復興というとき何か復興なのか?それがはっきりしないのである。
各人が移住して復興した人も多いしそしたら荒廃した町や村を復興させる必要もないとなる
その人たちはすでに復興したからもう町や村の復興など関係ないからである。
そう割り切って土地が高くなる前に他に土地を買って家を建てた人はかえって賢いとされたのである。
もちろん十津川村ではそんなことはできないから強いられてそうなったともなる
だから比べることができないのだがやはり復興とは何なのかと考えるとき参考になる
つまり何が一番欠けているのかがここから見えてこないか?

一致協力する気持がすでになくなっていることなのである。苦労しても一致協力して復興させる気持がない、そんなことも強いられないとしたら当然もう市長村を捨てて新しい場所に移り復興した方がいいとなる
時代が違うのだから比べようがないとしても何が復興に一番欠けているのかはここから見えてこないか?
誰も苦労はしたくない、老人が多いんだから特にそうである、補償金もらって他の場所に移りやりなおす、復興しよう、すでに新築の家も建てぜいたくもできた。
もうそれで復興したのだからこれ以上被害地域とはかかわらない、人ともかかわらない
問題はもっと補償金をもらいつづけることしか交渉することしか町や村の役割はない
特に原発避難区域ではそうである。
復興復興というけどそれが何なのか?それが前にも書いたけどはっきりして復興に努力する、その目的に何もない、ただ復興復興ということだけを叫んでいるだけなのである。
要するに復興とは原発避難民だったらもっと補償金をあげろくれとなるのかもしれない、極端だけどそこにしぼられる
それは現代の社会を象徴したものでありやはり十津川村のような時代とはあまりに違ってしまったからだともなる





タグ:復興とは
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2016年03月09日

土地は誰のものか? (原発に反対する最後の権利ー自然も土地も全体であり私有できない)


土地は誰のものか?


(原発に反対する最後の権利ー自然も土地も全体であり私有できない)

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原発事故後この辺で起きたことはいろいろ考えさせられることが本当に多い
だから自分は何もできないにしろこれは何だろうと考え続けてきた
第一故郷がなくなるなどイメージできない、故郷は何かなど普通は考えないのである。
それは現実に故郷に住めなくなったからそのことを考える
何かこの辺では日常としてあったものがなくなりその何でもないことを考えるようになった
何でそれがあったのか?それは何の意味があったのかと考えさせられる
その大きなものが土地なのである。
今双葉とか大熊とかで放射性廃棄物の処理場にすることを国が考えている
そのことに土地の所有者が反対しているからできない、2割くらいしか賛成していないからできない、それは土地に私有権があり権利がありそれでもって抵抗している


土地を国に売るということは国のいいなりになり放射性廃棄物の処理場にされる
それは飯館村でも起きているのだ。飯館村は放射線量が高いから帰ることがむずかしい、浪江でも2割くらいしか帰らないというから町や村が維持できる木の香どうかわからないそれで土地を売って他で家を建てた方がいいと考える人も多い
現実に双葉、大熊ではそういう人が多い、そういう人はもう帰らない
でも土地がまだあってその権利があり放射性廃棄物の処理場にはしたくないと抵抗している
でもそこにはもう人が住まないのだからいつまで抵抗できるのか権利があるのかとなる
空家に5年なったら迷惑だから市で強制撤去できるとか法律も改正された
そのように誰も住まない土地とは誰のものなのかという問題もでてくるしいつまでも権利を主張できるのかともなる
何でも人が住んでいれば権利が出るが人が住まないで放置すると権利が喪失するのかもしれない。
他人の土地でも家でもそこに住む人があって活きてくるとなればそうである。
そこに住まないということは権利を放棄したのかもしれない


ともかく土地というのは江戸時代までは農業が主体だから村全体のものであり私有化はあまりされていない、今でも田んぼは共同で維持する、水も共同で管理する
だから田んぼが所々になると管理しにくいとなる
農業は工業とか商業と違って土地が資本であり土地に根ざすから他の産業とも根本的に性質が違っている。
そして田んぼでもそうだが土地は大地は自然は一体となってつながっているのである。
その一体となりつながっているからこそ私有がなかなかできない性質のものである。

例えば飯館村を分断して考えられないのは水が真野ダムにためられて南相馬市に流れてくる、土砂も流れてくる、その水を相馬市でも飲み水で利用しているとか関係しているのである。
それを飯館村の土地が売られるというときそこが勝手に国が買い上げて放射性物質の処理場にされるとき南相馬市でも相馬市でも困るのである。
飯館村だけでここは自分の土地だからどうしようが勝手だとかならない
土地は広域的につながっているから広域的共同性があるから一つの村とか一区画が自分の土地だからどうしようが勝手だとはならないのである。


明治以降私有権が認められ入会権があった山が無数に細分化された結果、その山が土砂崩れとかなるがそれを管理するにはその山全体を管理しなければならない、勝手にその土地を宅地造成で売ってもらうと山全体が危険になることがあった。
それが広島の山の土砂崩れで起きたことである。
そもそも山とか大地とか海が誰のものか?それは全体であり誰のものかなど個人的に決められるものではない
自然はそもそも共有のものであり誰かのものにはできない
原発を建てる土地をもっている人が東電にその土地を売りそれを今度は県で認定して原発が建てられたとかなると大迷惑になった。
そんな一区画の土地をもっている人だけでとても決められることではなかった。


つまり今問題になっているのは全体のことである。津波の被害地でも市町村全体を復興しようとしている、だから大規模な土地造成をしている
全体を復興しなければ住めないからである。
各自が勝手にしていたら復興はできない、その全体に目を向ける人は少ない
もう各自自由にそれぞれの道を行けとなっているから復興できない
ただ今の時代強制はできないからやむをえないともなる
何か土地の問題でもそれは全体のものであり全体としてあるものであり一区画を私有してそれを自由にするということが自然という全体に生きているものからすると納得できないし害を及ぼすのである。
今回の津波や原発事故はそうした自然全体というものが破壊されたことがあり全体の回復を目指すことになる、その時ここの一区画は自分のものだからどうしようと勝手だとはなりえないのである。


何かそういう土地は共有だということで連帯する、市町村でも飯館村は勝手に土地を売ってもいい、でもそこが放射性廃棄物の処理場にされては回りの市町村が困るのである。
本当は大熊とか双葉とか小高でも避難区域化した所とその回りを分離して考えてはならないものだった。
それが補償金で分断されてしまったのである。
つまり市町村でも国でも境界を作っても自然には境界はないのである。
だから自然環境は世界全体の共有であり一国が勝手にしていいとはならない
別に自分の国で原発を作ってもいいとかと言っても今回のように事故になれば海が汚染されたり空気が汚染されるから世界の問題になる。
地球には別に境界などないのである。その境界を国で作ってその中で勝手にしていいとはならないのである。
ともかく今回の問題の一つに全体を市町村でも土地でも自然でも全体を志向することが大事だということをあまり考えない
自分だけが補償金をもらい自分の土地は自分に権利がありそれを売ってもいいとかならないのである。
でも実際はそうなっていて市町村とか全体が崩壊しているのである。
自分さえよければ後は野となれ山となれとまさしくそうなっていることが問題なのである

明治以降は入会権とかの共同性は喪失した privateは奪うことでありpublic(公共性)を破壊した

入会権は明治以降に私的所有に細分化 (入会権は江戸時代の村から自然発生したもの)
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2016年03月10日

保育園落ちた日本死ね」と題した匿名のブログが波紋を広げている (介護問題と根は同じだった)


保育園落ちた日本死ね」と題した匿名のブログが波紋を広げている 


(介護問題と根は同じだった)



「予算の壁」

 待機児童の多い都市部においては保育士不足です。これによって、開園に大きくブレーキがかかります。
保育所は一人でも保育士が欠けたら、法令違反で開園できません。よって、「保育士を採用できた数」が開園数上限になります。

 保育士不足は保育士の処遇が低いことが要因です。
保育士給与は全国平均で月20.7万円。(出典: http://bit.ly/1HwTytD

全産業平均と比較して、月額10万円程度低い。


結論から言うと、保育所というハコモノ・施設でこの問題を解決することは不可能です。
ただでさえ土地がない・高い東京都で保育所を増設するのには、非常に高いコストがかかります。

また将来的には人口減少に向かっていくことが確実なので、

小規模保育や派遣型保育、ベビーシッターの活用に舵を切る

利用者のニーズに合わせて自宅で保育を行うシステムであれば、
需要次第で供給が調整できるので、今後の少子化にも機動的に対応できます。

保育・子育て関連のみに使えるバウチャー(クーポン券みたいなもの)を
子育て世帯に一律で給付すれば良いのです。


0歳時保育は1人当たり月40万円 
1歳時保育は1人当たり月20万円 
2歳時以降は1人当たり月15万円 



この問題を取り上げた理由が一つはプログがこんなに影響があるのかという疑問である。プログは何百万もあるし発言してもほとんど影響がない、読まれるのが大変なのである。だからこのこと自体に疑問があった。
それはサヨク系によって仕組まれたとか国会でデモしたものもサヨクによって仕組まれたものだとか言う人もいた。それにマスコミが便乗してあおった、それは仕組まれたものだという、それもインターネットをしているとそれもありだなと思う。
まずプログでそんなに反響があること自体今もありえないと思ったからだ。
ただ若い人はネット世代だから変わったのかとも思った。
この問題の一つはネット社会が一般化したのかということを思ったがこんなに反響があるというのはサヨクとマスコミで仕組まれたのかということもありと思った。

そもそも大衆社会というのは一人一人が考えない社会である。だから何か煽動的なものとなり感情が優先されるのだ。
保育園問題でもそれにかかわらない人は事の真相が簡単にはわからない
するとマスコミとかで何だ政治家がヤジとばして庶民の不満を封じようとしているというのがテレビの画面から判断して感情的になる
その感情が怒りが大衆に共有される、冷静に考える人は少ない
それで中国の反日とかも感情的になり日本への憎悪をかきたてる
そこに大衆は感情によって操作される、特にテレビは一方的洗脳メデアだからそうなりやすい、テレビは感情的なメデアである、一方活字メデアはクールな冷静なメデアである。それは活字だからそうなっているのだ。活字とテレビの映像が伝えるのは全く違っているのである
テレビだど人間の表情とかとぎつい映像が先に見るからそこで感情的反応になるのであるもし活字だけだったら冷静に読み判断する他ない
でも活字を読むということや冷静に考えて判断することは手間なのである。
第一大衆は考えることを一番嫌っているからである。
考えることは相当な知的労力になりそれが嫌う、特に女性はそうであり感情的になりやすいのである、女性は感情を優先するようにできている
だから活字よりテレビを見て判断するのが楽だからマスコミに洗脳されるのである。

この問題を冷静に考えると「介護問題」と根は同じだった。
つまり介護にも金がかかりそれで在宅でやるからそれを政府が応援するとかなった。
そのことと同じことを主張している議員がいたのもうなづける
保育士が不足しているとき介護士が不足しているのと同じである。
そしてその施設を作るのにも面倒であり金がかかる、つまり保育園を作ることは公になると金もかかるし保育士を雇えばまた金がかかる、それは介護問題と同じである。

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こういうことを介護でも言っている人がいる、介護をする人に金を払うのがいい、在宅介護をすすめるならそうなる、自治体とかですると金がかかりすぎるのである
だから根は介護問題と同じである。
子育てとか介護などはもともと家族でしていたの藻である。それが核家族化したりしして祖父母がいなとかでてきなくなった。
その分、国や自治体でやるとしたら金がかかりすぎるのである。
そして介護でも人が集まらないのである。
介護より保育園が先だと少子高齢化社会では優先するべきだという意見もあり、そうかもしれない、老人を優先していては国の未来がないとなる

いづれにしろ何でも自治体に国に頼みまかせることは限界に来ているのだ
そんなに予算はないし日本自体貧乏になってゆくのにできなくなる
それで最近看護師まで在宅に切り換えるから病院勤務の看護師は余ってくる看護師余りが時代が来るというのも意外だった。
サービスが在宅に切り換えられている、箱ものを作っても第一人材は集まらない、この辺で老人ホームを作ったが人が集まらないので開業できないのである。
それは保育園問題と同じなのである。
本来保育であれ介護であれ家でしていたものが家族が少ないとかでできなくなった。
それを国とか自治体で肩代わりすると膨大な金がかかりそれで国も潰れるとか冗談でなくなっている

この問題は介護と根は同じであり自分も介護してきたから関心をもったのともう一つはネット社会が一般化してこんなに反響があったのかということで関心をもった
そもそも何百万もあるプログがこんなに反響があるということに疑問があったからであるプロクだけでこれだけ反響があるとしたらそれは悪いとは言えないだろう。
マスコミとかを通じてしか主張できないのが一庶民のプログがこんなに反響かあるとしたらネットも社会では馬鹿にできないとなる
ネットでの存在感が高まることになる、その変化がメデアによってインターネットによってもたらされたとなるからである













タグ:保育園

人間の弱点は空間でも時間軸でも認識するのは限られている (さかのぼれるのは祖父母の代、地理でも全体を認識できない)


人間の弱点は空間でも時間軸でも認識するのは限られている


(さかのぼれるのは祖父母の代、地理でも全体を認識できない)


なぜ津波や原発事故の被害がこれほどに拡大したのか?
それはやはり人間の弱点が現れたはいうことがある。
前にいろいろ追及して書いたけどこの社会を科学的にでも歴史でも理解しようとするとき空間軸と時間軸が欠かせない、空間軸になると地球とか宇宙まで拡大する
月が潮の満ち引きに関係しているとなるとそうである。
今回の津波も科学的に追及してみれば何か宇宙と天体とか月とかに関係していたかもしれない
地球は一つでありどこかの異変が必ずどこかへ波及する、地球は分離した別々のものではない
だから最近台湾で地震があり被害があり台湾でここ20日内に大きな地震があるというとき台湾は遠いからそんなことがないとも言えないのである。
地殻変動が大規模に起きるから影響する

自分は旅行して地理に興味をもった、地理を離れて歴史もないし政治でも何でも理解できない、イスラエルが地球の中心と神が定めたというとき神は地を造ったときあらかじめそういう予定をして造ったとなると地球というのは地理は神が定めたものだとなる
まず地理というのは地図を見たりしてもほとんどわからない、そこに峠があったとしても立体地図で見てもわかりにくい、つまり体感できないからである。
自分は自転車で何回も例えば飯館村へ上ったから体感的に飯館村が高い所にあることを体で覚えているのである。体に記憶されている
でも世界になるとそんなことはできない、モンゴルの大草原でもそれを知るにはバイクとか車で実際に走りその壮大さを知る、そういう体感しないとなかなか地理は知り得ないのである。

地球は全体であり地理も一部分として全体から切り取ったものとしては理解できない
どうしてもそこで人間の視界は狭いものになる、狭い範囲で世界を理解することになるから誤解が生れる
実際テレビという狭い画面で見ても地理は何にもわからない、巨大なスケールなものは人間は認識できないと前に書いた
巨大なものは見えないのである。人間は狭い極小のミクロな世界で全体から見れば日々生活している。
大きなものは認識できない、だから地殻変動とか地球規模で動くものを知ることができない、地震とかはそのために予知できないのが人間の知の限界である。
人間の営みでも経済でもグローバル化したら認識できない、金がどう動いているのか何百兆という金が一日動いたりしたらそれは何なのだろうとなる

だから金のないものが突然遺産とか何か株でもうけたとか入ると困惑するのである
自分は食事は千円以上の食事をしたことがない、旅しても他に使うから食事で節約していたのである。
だから今余裕があるからと贅沢できない、安い食事をするようになる
でも1500円くらいの外食をたまにしてやはりいいものが食べられるなと思った。
でも今までの日常ではそういうことがないから人は小さな金で暮らしている人は大きな金を使えないと思う、かえって浪費したりして無駄にしてしまうのも多い
自分にとって百万を使ったことがない,すると百万はどう使うのかとなるとイメージできないのである。
ただ庭作りして二百万くらい使ったのが一番大きな金だった。自分は庭が好きだし花も好きだから夢は自分好みの庭園を造ることだった
でもそうなるとそれは何千万とかさらに金がかかるからとてもできない
自分が大金があればその金でしたいとなるとそうなる

人間の盲点はこうして日々生活していることしかから発想できないのである。
それは空間的にもそうなのだが地理でもそうなのだが時間軸としてもそうである。
人間が時間としてリアルにイメージできるのは祖父母の代までである。
それ以上は架空的なものとなってしまう。
自分の父親は明治生れだから明治まではまだリアルである。
ところが江戸時代の前の年号を墓とか碑から調べて郷土史に興味をもった。
でも文久だと天保だとか天明だと元禄だとかいろいろ年号がある
天保となると実は明治で活躍した人が生れたのは天保なのである。
すると明治が祖父母の代でありその上になるとあいまいになる
江戸時代は何か時代が混同する、天保とかが遠い昔のように思っていたり
古い時代の元号の順序を逆にしたりして混乱する

天明(1781)天保(1830)明治(1867)であり意外と天明に大飢饉があったが50年すぎて天保になっているとしたらそんなに遠くないが何か遠いと感じている
そしてこの年号は天保が天明の前のように思っていたり順序が逆になることが普通にある第一自分の母親は大正生まれであり明治と大正を逆に思う人はいないのである。
ここにも時代というのがいかに誤解するかということである。
時間がすぎてしまうと時間による誤解が生まれる、それは歴史を理解するとき必ずそうなる
つまりせいぜい祖父母の代、百年か百五十年くらいは時代的にリアルに認識するがそれ以前になるとリアルに認識できない、それが何か学問的なものとなってゆく
そこに人間の大きな盲点となりそれが錯覚をうみだしたりしている
津波でも相馬藩の記録に一行700人溺死と記されていた、それは400年前なのである。
400年前となるからもう完全にこの辺では忘れられていたのである。
それが悲劇に通じていたのである。
その一行も忘れられていたし取り上げる人もいない、この辺は津波は来ないという確信までにいたっていたのである。

時間軸でも人間は長期的に世界を見れない、毎日今の日々の生活に追われている、長期的に見れないことから津波のような大災害を予知できない、長期的にものを見ることが人間はできない、それは長期的な視点で考えることができない
ただ科学の方が長期的視野で考えていた、東電では津波が来るから備えねばならないと報告していた。科学者は津波が来ることを予想していた。
ただコストとかでそれをさけていただけである。
もし津波が来るということで備えていれば回りの人も津波が来るということを実感して備えたり避難するにしても助かる人がいたかもしれない、その差はあまりにも大きすぎたのである。
科学の方が今では長期的視野をもてる、実際に津波が起こる七年前にボーリング調査をして相馬市の松川浦から離れた奥まで貞観津波の砂が発見された
ただそれは慶長津波ではなかった、なぜか貞観津波の方がボーリング調査で明確に掘り出されている
貞観津波はそれだけ慶長津波より甚大な被害があり大規模なものだったのかとなる
それは800年代であるからそこまでさかのぼり明確に時代がわかる
科学の方が時間軸で明確に時代を特定できるとなる


人間が時間軸で長期的に見れないというときそれは将来に未来にかかわる、長期的に見れないということは今しか考えない、何でも今が良ければいいんだとなってしまう。
原発が危険だけど今がそれで電力をまかなうからいい、放射性廃棄物がプルトニウムなら二万年消えないというけど今が良ければそんな未来のことは考える必要がないとなる
そしてそういう危険なものでも政治とか一人の人間の野心家によって利用された
原発を推進した正力松太郎などがそうだった。
そしてまだ時期相応だということを湯川秀樹博士はそういうことを言っていた。
原発は急いで導入した結果が不備があり事故につながった面もあった。
時間軸で長期的視野で成すべきものが急いだ結果事故につながった。


現代の問題は何か長期的視野がもてない、全体的視野がもてきない、一見これだけ情報が流通しているから全体的に長期的に考えられるはずだとなるが現実は社会自体がグローバル化したらかえって世界が理解できなくなったり時間的に急ぎすぎる
江戸時代は基本的に農業だから自然のリズムの中で暮らしていたからかえって長期的に物事を考えられるともなる、木材でも利用するには50年もかかるとしたら時間軸で長期的視野をもって生活していた
江戸時代は十代とか職人でもつづいているのが特徴であるからだ。
現代はかえって今にすべてのエネルギー使い尽くすとか今にすべてのエネルギーが費やされているから資源でもなんでも消尽されるのである。
「災害は忘れたころにやってくる」というとき人間はせいぜい祖父母の代までしかリアルにイメージできない、言い伝えでも祖父母から聞いたものならまだ生々しいものとして聞けるがその前になると学問とかなり文献の調査とかなり庶民は関心もなくなるのである。今回の津波原発事故は5年すぎたが他では関心がなくなっているというのもそのためである。人間ほど忘れやすいものがいない、これだけの大災害でも忘れてゆく
ただ5年ではまだまだ生々しい、3月11日はちょうど命日と同じである。
まだ津波の被害地から何か死んだ人の霊魂が浮かんでくる感じになる
20011年3月11日は特別な日であり冥福を祈る日であり忘れてはならない歴史的な日となったのである。


人間の盲点は巨大なものが認識できない

(人工物でも巨大化すると認識できなくなりそれが大きな災いになる)

タグ:空間と時間
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2016年03月11日

津波から五年過ぎてふりかえる (彷徨う津波の死者(詩)ー何故の犠牲だったのだろ)


津波から五年過ぎてふりかえる


(彷徨う津波の死者(詩)ー何故の犠牲だったのだろ)


彷徨う津波の死者

何故にその無垢なる子を
津波はのみこむ殺せしや
何故にこれぼと多くの人を
津波は飲み込み殺せしや
人は故に海をこの度は憎む
天地に情なし非情のみなりや
人の非情はあれば何故に
天地にかくも非情のありや
その非は人にありや
そを問えども海は語らず
天も地も語らずままなり
何故の仕打ちなるか知らじ
人は天地を憎み海を呪う
しかし天地は海は答えじ
戦争の死は人の非のゆえ
悲劇にも必ず人の非のあり
津波は何故なるか知らじ
死者の霊は未だに彷徨い
その所を得ずかつてありし
その場に執着して彷徨う
ああ 我はここにありにしと
家族とともにありにしと
また今生きる人もそこを離れがたし
死者もまた生者もこの突然の死を
いかにしても理解しえじ
かくして五年は過ぎにけるかな
歳月は過ぎゆくものなり
鎮魂はいかにしあれや
死者はなお彷徨いつつ消えじ
無念はそこにとどまり消えじ
一万数千の霊はいかに慰めむ
その残りし者の嘆きは消えじ
慰める術もなし
その悲しみは深くここにとどまり
その傷痕は癒えざりしかも
この津波は天地の海の怒りなりや
この世の乱れへの警告と罰や
何か人に対する戒めや
人の世の非情と乱れ故や
そもまたありうるべし
人が世が非情になるとき
自然もまた非情になるべしや
獣とて愛を注げば
その獣性は和らぎぬ
人の心が獣性帯びて乱れるとき
天地も海も怒りを現す
その犠牲となりしが津波の死者
また自然は人の世のことは知らじ
ただその自然の法則にして動く
その法則に逆らえば従わねば
自然は人を従わせるものや
故に人は自然の法則を究め知るべし
すでに大津波のありしをし忘る
その人の忘るることに非のあり
自然に非はなく人に非のありや
大災害を逃れる術はあるべし
ただ人はその対策をたてず
故に原発事故も起こりしなり
原発事故は天災にあらじ
人災にして自然に非はなしと
ただ人は天地を究めることならじ
故に自然に神に従うほかなし
人知を越える神の成す業を知り得じ
故にその文明も思わず崩壊する
人間の奢りは一瞬にして砕かれ無に帰する
津波はその恐怖を現実化せしもの
故に神を畏れよ,科学に自惚れるべからじ
神は一瞬にしてこの世を亡きものにする
その恐るべき力を津波が示す
恐るべき人にあらじ神にありしと
未だに人は津波に畏れおののくなりしを


今回の津波はいくら考えてもなぜかわからない、それは人知を越えたものだからそうなる津波で死んだ人は家族を失った人は海を憎むというのもわかる
何の非があってこんな仕打ちをするのかということがわからないからである。
戦争とか他に人間の悲劇はいろいろある、でも戦争になると戦争を引き起こしているのは人間なのである。神ではない、人間に非がありそうなっている
だから戦死者は何で死んだかとなると人間の罪とか人間の過ちの故に死んだとなる
恨むべきは神ではないだろう

津波は人間に非があってそうなったとのかというと不明であり不可解になる
ただこれはあくまでも自分の見解だが貞観津波のときは蝦夷征服とかの国家統一のための戦乱の時であり多くの犠牲者が出た、その鎮魂のために建てられたのが清水寺であり祇園祭りもそれに由来していると言う人もいる
そういう人間が多数死に犠牲になるとき自然もまた乱れる
慶長津波も戦国時代の時起こっていてその後収束したのである。
そして今回の津波もやはり世が乱れている、それは自分の一身上に起きたことを書いてきたが人間は利己主義が極端になり非情化している
自分が病気のとき火事場泥棒とか借金のために脅迫されたとか悲惨なことを経験してきた何か現代はモラル的に荒廃している、金だけが唯一の価値となって他者をかえりみない
自分だけがよければいいんだとなっている
それが自分の一身上に非情がそうだった、ただこれは自分が楽した結果として自分のカルマとして決算されたのである。
だからいちがいに今の世の世相からなったとも言えない

そうはいっても今の人間の価値は金だけになり非情化している、そういう自分もそうなのである。
なぜ外国に投資しているのか?それは自分だけが助かりたいという利己主義なのである。
外国に金をあづけいれば日本が困窮したときその金で助かるとか考えている
金持ちはグローバル化社会では日本にこだわらず日本が困窮したら外国に脱出しようとしている
中国人の大金持ちもそうであり国の支配者層自体が内乱とかなったら国をぬけだして外国に暮らす算段をしているのであ。
つまり自分だけは助かりたい、そんな困窮状態にならないように手を打っているとなる
それも利己的なものだけど金持ちはどこでもそうなる傾向がある
だから自分はそうして投資していることに疑問がある、たいした金でもないし今回かなり損しているはずでありもうかってもいないけどそういうふうに資本主義というのは利己心を助長する


そのことは原発避難民にもいえたのである。もう避難民は帰らない、荒廃した故郷に帰るより他で補償金で家を建てたり商売はじめたりとしている。
つまり故郷は捨てて補償金で自分たちがいい暮らしをすればいいとなる
これはまた事情が違うからいちがいに悪いとは言えない
でも何か本来の復興を目指すのとは違っている、自分だけが良ければいい、補償金で各自が自分でいいと思うことを実行すればいいとなると故郷には帰らないとなり故郷はもう荒廃して復興しないだろう。
ここにも利己的な自分だけがよければいいということが復興させないのである。
だから不思議なのは戦争を考えるとその善し悪しは別にして国という全体のために死んだ、犠牲になったということが今になると考えられないともなる
ともかく全体のために国の存亡をかけて300万人も死んだからである。


今なら故郷であれ何であれそうした全体のために死ぬとか犠牲になる気持がないからである。
自分だけが助かればいい、国でも何か困難があれば外国に脱出すればいい、そのために金を外国にあづけておくとかなっているからだ。
もう故郷というと狭い世界だけとそこにも全体のためにという思考がない
ただ自分だけが良ければ助かればいいとかないのである。
そういう社会が資本主義だからそれを否定しては生きられないというのも現実である。
でもそういう利己主義的資本主義がいづれ恐慌とかなり崩壊する
そういう兆候も世界的景気後退とかで出はじめている
つまり何かそういう大きな転換期にきている、だからこういうとき巨大な津波が襲った
それは貞観津波や慶長津波の時代とにているのである。末世だということである。


世界がそのために根本的に変わらねばならなくる、それほどのことが今回の津波や原発事故には空想ではなく現実問題としてこの辺で現れたのである。
こういう時は自分のことだけを考えて全体がだめになるとき自分だけが助かることはない国が滅亡してゆくようになればシリアのように難民化したりみんな助からない
自分だけが助かろうとしても避難先から追い出されたりもう逃げ場もない
そうなら国のために戦って死のおうとかなるかもしれない、それは戦争の時そうなったので経験ずみである。
日本はそういう危機のさい協力一致する文化がある、それが島国の歴史の強みでもある
ただ今回はどうなるかわからない、そうした心すらなく利己主義化しているから日本自体がたちまち崩壊してしまうかもしれない
ともかく時代の転換期にこの巨大な災害の津波に特に東北が襲われた
それも自分の住んでいる所が襲われたということはやはり何か意味あることだったのか?
それが自分に課せられたテーマともなったからである。

タグ:津波の死者
posted by 老鶯 at 00:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

東日本震災からの復興をばばむ高齢化社会 (帰るのは残るのは老人)



東日本震災からの復興をばばむ高齢化社会


(帰るのは残るのは老人)


今日は東日本大震災のテレビ番組を見ていた。
そこで感じたのは高齢化して老人が多くて復興ができない
三陸の漁港でも跡を継ぐ若い人がいなと嘆いていた
それは前から言われていたことであり震災で顕著になった。

三陸の乾坤式場はビルが高いから三階より上に逃げて全員助かった。
その助かった300人くらいの人は老人だった。
老人の芸能発表会をそこでしていたからである。
それもなんか生き残ったのはいいが老人だからその人たちが復興の力になるとは思えないそれから水産加工場を再開しても人手がたりないとかで困っている
それで外国人の労働者が働いていた。
南相馬市でも外国人専用の宿泊所が作られたた。
ここも除染関係とかで人手不足なのである。
建築関係も人手不足でありこれは全国的にそうである。


奇妙なのは津波で死んだ人は老人が多い、その理由は津波など来ないと逃げろと言っても逃げない人が多かったのである。
津波など来たことがないから来ない言い張って逃げなかったのである。
それは老人だけではない、津波が川をさかのぼってみるみる水かさをましたのに逃げないで見ていた人がいた
この辺でも磯部辺りで津波を見に行きに海に行ったという人が結構多い
津波はチリ地震の津波しか知らないからそうなった。
津波の恐ろしさを肌で知っている人はいなかったのである。

ともかくいろいろ放送していたが高齢化社会というのが今回の復興するにしても大きな足かせとなっている
自分も老人だからわかる、津波の被害地に商店を再会するにしてもそれだけの金をかけて借金してまでしてやるとなると不安でありできない
ある人は学習塾をはじめるのに一千万の資金がかかるが用意するのが大変だけどここで自分は生きるから再会するとか言っていた。
そこでもそもそも少子高齢化で子供が減っているのだから子供相手の商売がしにくくくなっている
小高でカバン屋をしていた人も中学生とか高校生にカバンを春に売るからいいと言っていた。
それは定期的な収入になるから商売になる、やはり商売は定期的に収入にならないとつづかない、定着できないのである。

ともかく小高のことを批判してきたが整形の開業医が放射線量が0、1なので帰る決断をしたという、小高は街内とかは本当に低いから帰れる
でも問題はすでに各地に避難して生活も避難した場所ではじめている人もいる
帰るのは一割くらいしかいない、その一割が老人が多いのである。
そういうことでどうして復興できるのか、少子高齢化社会の矛盾が露骨にこの辺では現実化したのである。
そして街が暗くて防犯に良くないというのもわかる
一割帰っても街は相当に暗くなることでいやがっている

ただ原発避難者は他の津波の被害地域より恵まれている、母子家庭のことを言っていたが本当に賃金も10万に満たないとか安い、もう生活できるかできないかのギリギリである復興住宅に入っても金がかかるとか嘆いている
この辺でも老人が多いから国民年金で暮らしている人が多いからもっと補償金を継続してもらいたいという虫のいいことを要求している
それは別にみんな同じなのである。原発避難者だけがいくらでも補償金がもらえるということは今でも回りの人から反発を受けているから自重すべきだろう。


自分の考えでは地元の人たちだけでは原発避難区域などは復興するのは無理ではないか?
第一双葉とか大熊などはもう帰るということはない、他に家を補償金で建てた人が多いからである。
そこは今度は放射性廃棄物場として土地を売ることになる
それで神社だけを残してほしいというがそれも無理なみたいだ。
するとその地域の歴史は消失する、でも他で十分に老後を余裕をもって暮らせる補償がある
だからその人たちは余裕がある、かえってこれで老後も補償されたから良かったと思う人もいるだろう
一方で小高などは中途半端なのである。確かに補償金もらったがすでに打ち切られている今度は復興住宅に入っても家賃とかいろいろ金がかかる、帰っても不便であり嫌だいうのもわかる。

いづれにしろ少子高齢化社会で政府が移民を受け入れるとか盛んに言うがそれも無視できなくなっている
限界集落とか過疎地とか原発避難区域でも津波の被害地でも若い人がいなければどうにもならない、するとどうするかというと移民でもいれる、外国人をいれて労働力を確保するとか考える、何か他に方法がないからである。
例えば原発で放射線量があまり高くない所は住居と空いた土地を提供すれば住む人がいるかもしれない、なかなか家とか土地が提供されないので移住できない人も多いからだ。
田舎に住みたいという人はいる、そういう人も受け入れるとか何か復興させることを考える必要がある
こういうふうになるともう追い詰められているのだからやる他ないともなる
だから新しいものを取り入れるチャンスでもある

老人の心境とはどういうものかというと要するに人生は終わりである。
ただ昔を回顧することであり思い出を生きるのが老人である。
そして老後の時間は実は意外と貴重なのである。
なぜなら残り少ない時間をどう費やすかが大問題になるからだ。
例えは芸術家とかなると最後の作品の総仕上げであり時間が貴重になる
自分は介護に十年間費やしてその間旅ができなかった。
その時思ったことがもう一度富士山を見たいということだった
それもできないのではないかと真剣に思っていたのである。


とても新しく街を復興させるとかに時間を費やすことはできない
自分でも望むことは難儀な復興のことではない
これまでしたことをライワークを完成することである。
だから震災から5年すぎたけどまた帰って復興するのに五年かかるとかなると
もう死んでいるかもしれないとなる
つまり復興するにもも老人は復興できない、ただ昔を偲ぶだけだからである。
老人の時間感覚は時間が過ぎるのが早いことも影響する
5年すぎたけど後五年復興するのにかかるのか?そんなに金を費やしてももう年でできなくなる、借金だけ残ったらどうするのかなど言っていたこともわかるのである。
そのうち体も弱り動けなくなるとか心配する
このことが少子高齢化社会が津波の被災地でも原発避難者にも共通して復興をむずかしくしているのである。




タグ:高齢化社会
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私のプログに対する批判に答えます (ギャンブルしている人たちや故郷を捨てた人たちをまず批判しろ)


私のプログに対する批判に答えます

(ギャンブルしている人たちや故郷を捨てた人たちをまず批判しろ)

自分に対するコメントの答えです

他人任せでもないし(している人もいる。ボランティアもいるし、ボランティアはボランティア。)お前は結局ネガティブキャンペーンをしたいだけだろ?お前はいたずらに絶望を煽るだけで何も生み出さないな。誰もしていないというのならお前がやって範を示せ。する気もないなら黙っていればいいだろなんて
傷口に塩を塗って楽しいか?放射能を語りたければ機械によって測定された数字を見ろ


こう言うのはどこの地域でありその出自か明らかではない
これだけ反応があったということで答える
自分はこれだけ書いてもほとんど反応がなかったからである
どいうふうに読んでいるのかもわからなかったです


放射能を語りたければ機械によって測定された数字を見ろ

今日テレビを見たら小高の整形の開業医が0、1だから始めると言っていた。

だからあなたがどこに住んでそういうことを言っているのかわからない


お前は結局ネガティブキャンペーンをしたいだけだろ?お前はいたずらに絶望を煽るだけで何も生み出さないな。


絶望をあおるというより現実を言っているだけだとも思いますが、、、、
現実を直視してどうするかを考えている
現実に老人だけ帰って復興できるのかというのは現実である。
ではどうするのかということを考えざるをえないでしょう


誰もしていないというのならお前がやって範を示せ。する気もないなら黙っていればいいだろなんて

それよりなぜ原発避難民は毎日ハチンコ屋やギャンブルをしているのか?
そういう人たちこそまず非難すべきでしょう
そういう人たちこそ率先してボランティアに頼むより復興に働くべきでしょう
そういう遊んでいる人たちがいるから地元の人も嫌がり助ける気もなくなるのでしょう


自分は原発事故で小高の人たちが避難してきたとき苦しい状態にあった
でも小高の人はその時どうしていたか?
大挙してパチンコ屋におしかけていたのです
その時自分の所にきた親戚とも言えないがパチンコ屋で掃除して働いていたのです
そこで人手たりないとか言っていたのです
自分が苦しい状態のときパチンコ屋にみんな通って遊んでいたのです
その手伝いをしていたのが親戚だったのです
その時そうして遊んでいる人たちに怒りを覚えたのです
それは小高の人に対してです

あなたが自分に怒りを覚えるのはそもそも何故なのか?
それはもっとお前は避難民に同情して助けるべきだということでしょうか?
その前に遊び暮らしていた人たちはどうなるのでしょうか?
そういう人たちがいれば誰も助ける気がなくなるでしょう

感情的になるともう会話できません
自分に対する憎しみが先行しているようです

まずお前ら避難民が藩を垂れろ、、、それから文句を言え

毎日ギャンブルで遊んでいる人も多い、まずそういう人たちこそネガティブキャンペ-ンを身をもってしている

まあ、それぞれの言い分かあり人が理解しあうことはそもそもむずかしい
でも何らか会話すれば相手のこともわかることはあります
ただ自分に対する何か憎しみがありあなたとはとても会話できないでしょう


津波原発事故に関しては様々な人たちがいます、
様々な意見をもっている人たちがいます
それをお前は何もしない、何もできないから何も言うなと言えますか
自分は南相馬市内だけでなく全国にむかって実情を言っているだけです
きれいごとだけではすまないのです
かわいそうだ、かわいそうだと言われていれば気分がいいでしょう
現実にそんなに原発避難民がかわいそうなのでしょうか?
もっとかわいそうな人は津波や原発被害者だけではないいます
宮城県でも岩手県でもいます
普通に暮らしている人でも苦しい人はいくらでもいいです
まずは自分たちこそが苦しいのであり同情しろという言い分は通るのでしょうか?

いつまでもだらだらギャンブルなどやっているな
小高に帰り放射能の泥をかきだせ
年のことを言っていられるか
まずお前たちが範を示せ!

できなければ外国人でも金だしていれてやらせろ
寄付してもいいけどお前ら何に使うんだ
(これは本気だよ)
ギャンブルに使うのか、補償金もらってうえに

小高の病院の七億円の配管を直したかったら自分たちの金をだせ
補償金もらっているのだから
それよりなぜ若い人はその場から逃げ出したのか、他で家を建てたのか?
そういう人たちこそまず批判すべきではないか?
まずそういうふうに故郷を見捨てた人が多いから復興できないのである。
それを全体が大事だとして自分は書いてきた
そういうふにう第一避難区域ては故郷を捨てた人が多いのである
それも若い人が多い、だからそういう人たちこそネガテブブキャンペーンを
身をもって示していないか?

介護でも自分でやらないで他人にまかせるなともにている
自分たちがまずやらないで他人まかせになっているからこそ批判される

もう故郷のことなど知らない、人ともかかわりない、家も建てたし関係ないことだ

そういうことを延々と書いてきたけどそこに一番の問題があるのてはないか?
その人たちこそネガティブキャンペ-ンを身をもって示している

地域の結束が強過ぎて身動き取れなくなってる様に感じる

「皆で一緒に元の町に戻るぞー!」とやってたら自分だけ「避難先に家買ってそこの住人になります」とは言えんわな

某帰宅困難地区からの避難民がこのパターン


地元の津波被災組の中には災害復興住宅への入居待ちもいる

防潮堤の建設を待って元の場所に戻るという人も居る 


こういう人もいるのか?みんな勝手に避難先で家を建てたりしていると思っていた。

つまり故郷を出てか帰らないことに気兼ねしている人もいる


ともかく感情的になると議論などできないてす
ただ口だけで何もできないというが何か考えることはこうしてプログに書くことも相当な労力なのです
それが自分は全然認められていません
あなたにとって無駄だとなるかもしれませんがそれなり読む人がいるのだから一応関心があり参考にしている人はいると思いますが、、、、、、

ところであなたは復興のために何を毎日していますか?
どのうような範を垂れていますか?
それを教えて下さい
みんなもそれを知れば全国の人も応援するでしょう
たいして自分のプログは読まれていないですが
全国の人にどうそ訴えてください



注意

自分が対象にしているのは重に南相馬市の小高区の人たちのことです

他はまた飯館村で放射線量が高いし浪江とか大熊、双葉はまた共通な面もありまずが事情が違ってきます
誤解のないように










タグ:原発避難民
posted by 老鶯 at 20:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2016年03月12日

なぜ原発避難民と軋轢が生まれたのか? (自分が真面目に故郷を思うことを否定した奴は許せない)


なぜ原発避難民と軋轢が生まれたのか?


(自分が真面目に故郷を思うことを否定した奴は許せない)


他人任せでもないし(している人もいる。ボランティアもいるし、ボランティアはボランティア。)お前は結局ネガティブキャンペーンをしたいだけだろ?お前はいたずらに絶望を煽るだけで何も生み出さないな。誰もしていないというのならお前がやって範を示せ。する気もないなら黙っていればいいだろなんて
傷口に塩を塗って楽しいか?放射能を語りたければ機械によって測定された数字を見ろ

この人がどこに住んでいた人かわからないから誤解が生まれる
でも何か原発避難民は傲慢ではないか?
それで鹿島区の人が小高区の人に俺たちは金あるんだよとか馬鹿にされたことを言っていた。その人は貧乏だから余計に頭に来た

それから南相馬市内とか福島県内では直接原発避難民と接しているのである。
ボランティアとして一時的に来る人とは違うのである。
ここで暮らしてここで死ぬということで一時的にボランティアで来る人とは違う。
ボランティアは一時的だから責任もたいしてない
人間はその土地に住むだけで責任が生まれていたのである。
原発を建てるときその土地をもっていたから自分の土地は自分の勝手にしていいとはならないのである
だから土地は全体のことでありその一区画を私有しにくいのである。

この発言の真意はまだわからないし誤解生まれる
でも原発避難民が勝手であり自分たちがかわいそうな人でありマイナスなことは何も言うな、いいことだけを言って同情をかいとなるのか
それはマスコミがしていることである。
マスコミは真実は報道しないし何か質問することもできない
一方的な報道であり大勢はそれに洗脳される、現実はきれいごとではない
きれいごととしてすまししていたらそれもメタンガスのように不満が吹き出るときがある
福島県で補償金をもらったの30キロ内でありあとはほとんどもらっていない
イワキでも相馬市でも何万円しかもらっていないのである。
そういう不満があることを隠すことができるのか?

お前は何もできないくせに、何も言うな、口だけなんだよ

それもそうだが考えること思っていること自体関心がありかかわっているのである。
そのことを軽くみて無視していいのか?真面目に復興のことでも考えている
特に小高は南相馬市だからこそ同じ市民として考えているから発言している
それは耳に痛いこともある、でもそれが現実なのだからきれいごごとですませないから言っている
かわいそうだ、かわいそうだでいつまでもすまされるのか?

そしてイワキでも問題になったこと補償金で贅沢三昧していることも事実である。
それは自分は直接知っている、東京までギャンブルしに行っていたとか
風俗だとか金を使っているしそれは回りでも知っているのである。
ある人はフィリンピン女性といたとかいろいろあり事実である。
補償金とその他いろいろプラスがあり一カ月百万もらったとかも嘘ではないだろう
別に補償金だからか何に使ってもまわないともいえる
でも問題は福島県でやはり放射能の被害にあった人たちや回りのことを考慮すれば普通なら遠慮するのだがしない
あまりにも横柄な態度故に嫌われている、福島県内でも嫌われているのである。


この人の発言もまさしくそうだった。お前は何にもできないんだから何も言うなというが
一体この人は何をしているのか?どれほどのことを復興のために尽くしているのか?
それだけの熱意があるのか?口だけで言うのはやめろというとき
では一体この人はどんなことを復興のために日々しているのか?
それが知りたいのである。それなら納得するだろう
何もできない奴は言う権利もないといえるのか?
では一体この人は何を日々復興のためにしているのか?
復興をどうしたいのか、どういうことを復興のために考えているのか?
それを知りたいのである。それを発言して批判した以上言ってもらいたいのである。
インターネットは双方向に発言するメデアだからできる
マスコミはできない一方的で終わるからできないメデアである。

いづれにしろ2ちゃんねる的になるといげつなさがもろにでる、
そして発言が短いから相手のことはわからない、誤解が生まれやすい
こうしてプログは長い文章で発言できるから真面目に探求できるメデアである。
そしてくだらない罵詈雑言もコメントは拒否できる
ただ双方向の対話となると短いのは薄っぺらになるから向いていない
つまりプログだとその人がどういう人で何を考えているのか
日頃何をしているのかわかる2チャンネルになるとそうしたことは不明である。
ただ本当はインターネットのメデアは双方向の発言であったとき活きてくる
それも即座にできるとき活きてくる、それは前にあったのである。
そういうことを自分はしてきたからインターネットでの発言の仕方を知っている


ともかくこうして批判するのはいい発言は自由である。
そこから理解も深かまるということもある
ただ一方的に発言していると反応がないから不満にもなる
それでともかく反応があったので返答したのである

自分は真面目に復興でも故郷のことを考えている、だから2ちゃんねるのノリで発言されると返答したくない
あなたは口だけでだというけど何を復興のためにしているのか?
それを言うなら納得するし原発避難民を理解するだろう
別に原発避難民がみんながパチンコとかで遊んでいるわけでもない
中には復興するために努力している人もいるしそのことも書いた
なぜ頭ごなしに自分が真面目に故郷のために探求していることを否定するのか?

こっちの方がお前のような奴が原発避難民にいることに怒りを覚える

原発避難民はそういう奴が多いんだということを知る
ただ発言して反応してくれたのだから何かともに復興を考えるということあった

そんなわけで必ずまた答えてください、それは自分を味噌くそに批判したのだから
責任があるからです

ではよろしくお願いします

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これも全部噂ではない、事実である。東京に風俗やギャンブルに行った人を知っているからだ。
つまりインターネットに発言されいるのには事実があり全部嘘とは言えないのだ
なにかしらの事実があって発言しているのも多いのである。
ただプログのように深くつっこむことはできないから問題なのである。





タグ:原発避難民
posted by 老鶯 at 00:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

春の霜(この頃の感じることー震災より五年すぎて)


春の霜(この頃の感じることー震災より五年すぎて)


星ひそか夜に梅の香の濃く匂ふ

故郷にともに老いゆく春の霜


赤々と椿の散りぬ雨しとと我が墓の前今日も通りぬ

万寿菊長くも咲きね我が家に今日も来たれる女のありしも

我が姉と母の遺影の我を見る春の彼岸や一人し悲し

五年過ぎさらに老いにき家族みな亡くせし人の追悼の言葉

仮設にも住む人へりぬなじみしも離るる人や春寒しかな

心なき人の心に傷つきぬ神も怒らむ助けざるべし



今日は寒い、朝は霜だった、老人が風ひいたとかおかしくなる
意外とこの風が老人になると危険である。肺炎で60代で死んだ人がいる
肺炎は老人の死因で多い。

春の彼岸も近い、毎日自分の墓の前を通るから墓が身近なのである。
そうなると死者とともに暮らしているともなるから悪いことではないだろう。
遠くに墓があるととうしても疎遠になるからである。

東日本震災から五年がすぎた、それで東京で南相馬市の人か、家族をみな亡くした老人が追悼の言葉を延べていた。
あれもあわれだと思った、実際にかわいそうな人は津波の被害者であり
原発避難民ではない、ただこの辺は津波の被害者と原発避難民とか混じり合っている
それで複雑ななのである。

原発避難民はかわいそうではない、自分に対して発言した人のように禄でもない人が多い普通なら相手にしないがこういう状態だから答えた
もともとこの世の中ろくでもない人の方が多いから原発避難民でもそうであり
いちいちとがめていたらきりがないだろう

だからこそ人の暮らしを隠していたとき良かったのである。
それは飯館村でもそうだった、それが避難民になったときギャンブラーになったとか露骨に隠されていた悪い人間性がむきだしになったのである。
何もすることもないということもあることもありやむをえないともなるが
何か自重してそうならないことを模索するべきでもあった。

いづれにしろ原発避難民は人間性の悪い面を金が入ったりしてむきだしになったのである別に事故がなければこんなに目立つことはなかった。
「俺たちはかわいそうなんだ」そればかりでありそれに意義となえると
お前はそれでも人間なのかとせめてくる、弱者商売なのである。

もうこういう人は神も助けない、この発言のようにそういう人が多いことが問題なのである。
ただ本音で地元なら話し合い、何か次代を開く道を考えることはありうる
でもこういうあからさまな暴言卑語をする人とはできない
それは今まで2ちゃんねるとかでしてきたことである。
でもそういう時代インターネットでも終わっている
発言にはある程度責任をもたざるをえない時代である
インターネットもそうして民主主義のツールとして進化してきているのである

だからこの人の発言は許されことがないし
原発避難民自体もおとしめたのである。
やっはりこんな奴が多いんだなということを言葉で示したのである。

タグ:春の霜

無責任な発言が許されなくなったインターネット (匿名でも発言の責任が問われる時代)



無責任な発言が許されなくなったインターネット


(匿名でも発言の責任が問われる時代)


インターネットとにかかわったのは自分は古い、なぜかかわるようになったのか?
それは最初にワープロからはじまっていたのである。
ワープロもローマ字で変換するものではなくオワシスの親指シフトで文章を書くことからはじまった。
自分は悪筆であり字があまりにもへたのでなんとか他人にも読めるものを書くためにワープロになった
その時富士通のニフティでパソコン通信をしていたのである


実はパソコン通信を知っている経験している人は少なくなった。
それはなになのとまでなっている、2チャンネルとにているやりかたである。
それはまずインターネットでも通信環境が調っていなかった
だから相手に文章で書いたものが送信されたかどうかが問題になる
それでその日の内にでも返答しないとレスポンス(レス)しないと議論にも話し合いにも参加できないものだった
それは最初のパソコン通信のインターネットの文化ともなっていたのである。
その時第一パソコン自体もっている人も極めて少ないから技術的な問題も多く
なかなか普通の人はできない、参加できないものだった。
パソコンも高価であり操作するのがめんどうだった


自分がこれにはまったのはワープロのオワシスの親指シフトでやれたからである。
ローマ字変換だと自分はめんどうでついていけなかった
何かこういうことはできる人とできない人がでてくる
文章を書くことが基本だというときここでつまづいてしまう
自分はたまたまオワシスで親指シフトで通信つきのワープロをもっていたことでインターネットができるようになったのである。
そのニフティのハソコン通信は相当な暇な人しかできないものだった
それは答えること自体手間暇であり労力がかかりすぎたのである。
今でも介護してからは忙しくて返答できなくなって一方的に発言するだけになった

それからWIN5でパソコンが普及してホームページを作った。これは自分の主張ができる多機能なものであった。
その後介護になりできなくなりプログに移動した、ホームページからプログと移行して一五年くらいしているのである。プログさえ一〇年もしていた
この辺で相当に技術的にもインターネット自体のコミニケーションも変化した
いろいろなもの、ツッターとかフェスブックとかでてきた
これには自分は忙しくてついていけないからしていない、スマホもしていない
インターネットのコミニケーションは常に変化してきたのである。
パソコン通信と一番にているのは2ちゃんねるでありそこで全くの匿名であり罵詈雑言もしたいほうだいである。
ニフティではある程度そういうことは制御されたが禁止されたが2ちゃんねるとにていた
だからパソコン通信の経験ない人は若い人でも年配でもインターネットのコミニケーションの仕方がわからないだろう
プログになると独立のメデアであり双方向にできても全く違ったメデアである

プログだと匿名でもその人がどういうことを日常的にしていてどういう考えなのかとかその人生でもわかるのである。
二三行発言しただけではその人のことは全くわからない
今回自分に罵詈雑言した奴がそうだった
原発避難民であることはまちがいないだろうがどこの自治体に属しているかなどわからない、それだけでもわかれば会話しやすいのである。
だから今はインターネットのコミニケーションは変わっている
「保育園に入れない、日本死ね」とプログで発言した母親がいて社会問題になったけど
プログなど何百万あるとしたそれがそんなに反響があることに驚いた。
だからサヨク系がマスコミと計ったためだとか言うのもわかる
まずテレビなどだともし百万人がテレビを見ているとしたらインターネットなら絶対そういうことはありえないから影響力が天と地のように違うのである。
ほんとんど数人しか目にふれないプロクなどごまんとかあるからだ
その影響力は余りにも違いすぎるのである。

ただ変わったのはプログができたということはこれは個人的に一応発言ができる
インデビジュアルな個々のメデアなのである。
それは今までのパソコン通信とか2ちゃんねるとは違う、匿名でもその人となりがわかるのである。
だから今回のように突然あいさつもなく罵詈雑言してくるのには違和感を感じた
それは2ちゃんねるのノリでそうしてきたからである。
こういうことはインターネットではやりやすいがもうコミニケーションとしてはできな時代である
発言するのはいいにしても自分の立場を自分がどういう人間かをプログで示しておくべきだろう
そうすれば会話もしやすいのである。
要するにインターネットのコミニケーション方法は変わった
発言は自由である、プログで批判するのもいい、でも自分のことをある程度他人に知ってもらうためにプログをもつべきなのである。

そしてインターネットは今は発言でもかなり責任が問われることがある
今回の発言の責任は相当に重い
自分に対してその価値をおとしめてそれでアバヤとはならない
あなたの発言は長く保存される、それで犯罪歴が消えないと裁判にもなった
インターネットは意外と消えやすいようで記録するのには便利なのである。
だからあらゆることが記録されているのである。
匿名でもその発言も記録されて簡単には消されない
原発避難民にこんな発言した奴かいるのか、やっぱりそんな奴らだったんだ
とんでない横暴な傲慢な奴らだったと思う人もでてくるから注意が必要である

もちろんたいして読まれていないとするとそうはならない
それで気軽に罵詈雑言して喜んでいる人はいる
でもこれからそうはいかない、その発言には責任がある程度厳しく問われる
「こいつの発言はなんなんだ、やっぱり原発避難民はこんな奴らだったんだ、本音が出たな、こんな奴らに援助するのも馬鹿らしい」
そういうことはすでにインターネットで言っている人がいる
自分も本当に今回の自分に対する罵詈雑言ではそう思った。
こんな奴ら助ける必要があるのか、神すら助けないと思った。
極端にしてもそうである

ただこうした罵詈雑言卑語はニフティのパソコン通信では普通であり日常だった
だからとやくか言うのもなんだがインターネットのコミニケーションは変わった
匿名でもその発言は厳しく問われる時代になったのである。
誰でも発言できる、でも責任も問われる、それが民主主義だとなる
だから匿名であってもこの人の原発避難民を代表して発言していないとしても
こういう人が原発避難民にも多いのだと自分のプロクで示したのである。
その発言の責任は今までとは違い重くのしかかるから注意すべきである

第一普通の社会でおまえは何なのだ、馬鹿とか言わないがそういうことはニフティのパソコン通信では普通だった
あいさつもないし目上も下もない、偉いひともなにもない、ともかく相手のことを最初から罵詈雑言して喜ぶ人が多かったのである。
そういう時代は今は終わった、その発言の責任は厳しく問われるし記録に残る
インターネットはそういうふうに自由に誰でも発言できるのがいいのだが
今はプログで自分がどういう人間か示していないと会話はしにくい
誤解が生まれるし対話できない、ただ罵詈雑言して喜んでいるような人間を相手にする暇はないからである。
自分は今まで介護で忙しく答えることができなかった
今は暇ができたのである程度できる,それでも手間なのである。




タグ:匿名発言

罵詈雑言卑語だけの原発避難民の発言 (原発避難民全体の印象も悪くした発言に怒りを)


罵詈雑言卑語だけの原発避難民の発言


(原発避難民全体の印象も悪くした発言に怒りを)


他人任せでもないし(している人もいる。ボランティアもいるし、ボランティアはボランティア。)お前は結局ネガティブキャンペーンをしたいだけだろ?お前はいたずらに絶望を煽るだけで何も生み出さないな。誰もしていないというのならお前がやって範を示せ。する気もないなら黙っていればいいだろなんて
傷口に塩を塗って楽しいか?放射能を語りたければ機械によって測定された数字を見ろ


こいつこそ口だけの奴である
お前は毎日何をしているんだ
お前こそ遊び暮らしているんだろう
補償金でな、ボランティアはしてもお前は何もしない
何しているんだ
遊ぶこともいろいろあるがギャンブルか毎日お前も
そうして真面目に復興を考えている人に毒ついてくる

お前が人の善意とかを全く無視してのうのうと遊んでいるんだろう
そういう奴が原発避難民だということがお前のは発言でわかったな
復興などお前にとってどうでもいいことだろう
毎日補償金遊んでいればいいことだろう
将来もな、お前は故郷に帰って何をするんだ
どういう考えがあるんだ


今は言わせてやるからここでもいいプログでもいい言ってみろ
お前が人の善意を無視する奴なんだよ
何か傷をなめて楽しいか
お前が毒ついて人の善意をふみにじり楽しんでいる
お前の発言は記録されて消えることがないからな


お前には郷土のことなど関係ない、勉強する必要もない
お前は故郷に帰る必要もない、どこかに行って補償金で遊んでいろ
故郷には帰ってくるな、お前はいらねえんだよ
「神は自ら助くるもの助ける」
お前のようなものは故郷にいらねえ
補償金にたかり暮らすだけだろう

補償金をギャンブルで使ったから福祉に貸してくれ
原発避難民はどこまで腐っているんだ
お前もな、お前こそだまって復興のために何かしら働け
しないなら黙っていろ


ともかく原発避難民はモラル的にもう壊れた人が多いのかもしれない
補償金もえばいいあとは遊んでいればいい
将来もかわいそうなんだから要求できるんだよ
それだけの被害があったんだから要求できる

じゃ、もらえない人が多いんだからその人たちはどうなるんだ
自分たちだけのことを考えて回りのことを考えない
原発建てる時もそうだろう
自分たちに金が入ればいい、回りのことなど知らねえ
事故の後そうだろう
小高でも合併前に東北電力の原発が建つことになっていた
これも小高の住民に責任があったんだよ
みんな今度は責任が問われたんだよ
自分も問われた、だからいろいろ考えている


こいつの発言のように原発避難民はこういう禄でもないのが多い
お前の発言はお前だけの発言ではない
原発避難民の一人として発言しているから責任があるんだよ
だから無責任な発言をするな、黙っていれ
発言しても責任ある発言をしろ
もう2チャンネルのような罵詈雑言はここでは通用しない
プログもあるんだからお前はそこで自分の主張しろ
それを自分が読んでお前が何者か知るだろう

お前のは発言で自分がどれほど傷ついたか
お前のことはここに匿名でも記録されるし
そして原発避難民はそんな奴らが多いということを
お前がここで示したんだよ


まあ、反論があるならいくらでもしろ
ただし罵詈雑言卑語だけなら断る
真面目な議論ならいい、発言ならいい
それが復興につながるからだ

お前は自分が真面目に追及していることを真っ向から否定した
それ故に許せない、お前の言葉によって自分がどれほど傷つけられたか
お前はその責任をとれ
タグ:原発避難民
posted by 老鶯 at 14:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連