2016年02月26日

なぜ農業が軽視されるようになったのか? (米余りなどで農家の価値は低下した)


なぜ農業が軽視されるようになったのか?


(米余りなどで農家の価値は低下した)


不思議なのは田舎にいても自分は農業をしていない、回りは田んぼでも野菜畑があっても自分は何もしていない、そしてなぜ八沢浦が津波で入江になったときそこで田んぼが消失して人も死んだのにその江戸時代の入江の景観がもどったことに驚嘆した。
そのことで批判されたのもわかる。
そもそも自分は田舎に住んでいても農業をしているわけではない、田舎の人がみんな農業している時代ではない、戦前は8割が農家だったのである。農民だったのである。
そういう社会と今の社会はあまりにも違っている。
田舎と都会が違っているようでも食料に対しての感覚はさほど変わっていないのである。米があまっている、減反しているというとき米の価値は相当に低下したものとしてみている。
米がなくなってもパンを食べればいいとか米が経済の中心になっていた時代とはあまりにも違うのである。


れは田舎でもみんな農家ではない、一割くらいし農家ではないし専業農家はさらに少ない、ただ土地を貸しているだけの農家も多い、あの女性は農家に嫁いだから大変だなと思っていたが全然違っていた。
会社員になっていて土をいじることもなけれ花すら作っていないから興味がないというのも変だなと思った。その女性はやせていてまるでモデルのような女性だった。
だから農家に嫁いだから農業やるのは大変だなとか見ていたが確かに旧家であっても旦那さんは会社員であり土地はあっても貸しているだけである。
それが農家なのかとなると疑問になる。そこに姑もいないから楽だなとみる
今では専業の農家とか純粋な農家は田舎でも少ないのである。
ただ趣味で畑で野菜を作っている人を知っているけどその苦労を聞いていると大変だとということがわかる、種が高くなった肥料が必要だ、虫に食われるからとか今度はモグラに野菜をかじられたとか盗まれたとか様々な障害が小さな畑を作るにしてもある。
草むしりは暇なししていなければならないから趣味の畑ですら苦労なのである。


東京のような大都会になると回りに田んぼも畑もないのだから農業を全く意識できない
だからたいがいはTPPに賛成になる、それより日本の経済は電気とか自動車にありそれで世界に売れなければ食料すら入ってこないという意識になる
経団連の考え方になる、グローバル経済ではそうなる、ベネゼエラで石油が安くなって食料品が高騰して入らないというのもグローバルに経済が動いているからである。
グローバル経済がいい悪いという前にそういうシステムに世界がなっているから日本だけが鎖国のようにはなれないのである。
否応なくグローバル経済のシステムに組み入れられているからである。
だから食料は日本国内と自給するべきだというときそれより工業製品を売れるようにするべきだとなる、そのことは農業の価値の低下なのである。
それはとりもなおさず農民の価値の低下なのである。
農業は農民は現代の経済では価値が低いものとしてみられる
米などありあまっているではとないか、何を心配するのだとかなる
たりなくなったら食料などいくらでも外国から入ってくるではないか、それより工業製品を売れるようにしなければならないとなる
それは石油が売れなくなったら食料すら入らないベネゼエラと同じになるというのが日本でもそうなのである。
日本では工業製品が売れなければ石油も食料も入らなくなり終わりだとなる
食料は日本の農家からだけ供給されるものとは都会では考えていないのである。


人間社会は常に価値の変化が起きている、食料が最大の価値だったのはそれだけ貧乏であり一日食べていければいいという社会だったからそうなる
日本酒でも今や酒を飲んで酔っぱらうというのではなく少量飲んで味わうというようになる、それで様々な酒が開発されるようになった。
食料でも原を満たすだけではない、味わうということであり質の高いものが求められる
自分も旅行しても家にいても何かうまいものを味わうとういことはなかった
でもなんか最近食を楽しみたいということがある、新鮮な野菜とか何かそういうものにこだわり味わいたいとなる
つまり老人はなにかをじっくり味わうということに向いている、それは映画でも小説でも詩でも文学でも深く味わうということに向いている。
文化的なものを味わうことに向いている。青年は行動の時期であるが老人は何か過去をふりかえり深く味わうことに向いている


ともかくなぜ自分が八沢浦が元の入江にもどったとき感嘆してそこで田んぼが全滅して家が消失して人も死んでいるのにその景観の方に関心をもったのか?
それは常日頃からそこに田んぼがあるということ米がとれるということに関心がなかったのである。そこが元の入江のようになっていたらどれほど美しかったろうといつも思っていたのである。
そこで米がとれて生活できるということをイメージしないのである。
これはすでに田舎に住んでいて都会人の感覚になっていた
ただ自分は田んぼでも畑でも景観として見ているだけだった。
ビルに囲まれた都会は嫌でありでも田舎が食料を供給する場というより景観として見ていたのである。
そして自然は安らぎの場所とてしみていた。そこでもし狩猟とか採集をする、食料を調達する場はしても見ていない、昔なら自然は森でも木の実をとっていたし野生の動物、鹿も狩りしていた、そうなるとまた自然は景観だけではないものとしてみる。
より深く自然とかかわることになる


いづれにしろ今は田舎にいても感覚的に都会的になっているのが普通なのである。
第一農家といってもその割合は一割にも満たない、みんなほとんどが会社員の時代なのである。だからこそ原発が金になると誘致されたのである。
米など作っても金にならないということで漁民でも農民でもその金になるということで原発が誘致された。
工業社会になったとき農業の価値が低くなったからそれは田舎でもそうであり原発が誘致されたのである。そして漁業も農業も放射能汚染で破壊されたとなる


それはグローバル経済の結果であり日本だけで起きたことではないのである。
ローバル経済になるとこうした食料生産する地方自体の価値も減少する。米でもオートラリアでアメリカでもとれるし安くてうまいとなると別に都会では地方に頼る必要はないとなり地方は軽んじられるようになった。
でもそれもTPPでもいいにしろ工業製品が売れなくなったときどうなるのか?
現実にこれまでのように電器製品は売れない、車だっていつまで売れるかもわからない
常に競争にさらされているからそうなる。
そして日本で売るものがなくなるときどうなのか?
その兆候はすで現実化している、観光立国として外国人を呼ぶのも金を稼ぐのもそのためである。売るものがなくなれば観光で売る、それはギリシャとかエジプトとかと同じになる。
それから食料さえ高くてて買えないとかなる、ベネゼエラのようになる
その時日本国内で食料だけでも自給した方がいいとなり地方が見直される
そして原発事故があって食料すら作れないとなることは日本が滅びる、飢饉がくるとかなりそれも反対するようになるかもしれない、つまり時代の変化によって常に価値は変わっているからである。
そしてグローバル経済は何か一国でも全体に影響を及ぼす、ギリシャなど観光国であり小さい規模の国でも世界的に影響を及ぼす、それが恐慌とかなり世界戦争にもなるから不安定なのである。


橡のみ.JPG



  秋深くして 橡子熟し
 散落す 榛蕪(しんぶ)の崗
 傴傴たり 黄髪の媼
 之れを拾いて 晨霜を践む
 時を移して 始めて掬に盈ち
 日を尽くして 方に筐に満つ
 幾たびか曝し 復た幾たびか蒸し
 用って 三冬の糧と作す

つづきはここで

この漢詩のように橡(とち)の実を拾ってそれを蒸ししてアクとりして食べるとなると手間がかかり容易でないから食料は貴重だとなる、その貴重な食料も税金としてとられるというのが中国は古来からそうだった。
農民に対して常に税金がかかりその苦しみがあった。
要するにこういう生活をしていれば食料の価値は高い、一つ一つの橡の実を拾うから一つ一つが貴重だとなる、それは会津の方で橡(栃)の実の餅が売られている、それはうまいけどこれを作るのには手間なのである。その橡の実は会津とか山の村になると日常の米のようなものになるから貴重である。
今はそういう感覚ない、米でも昔だったら一粒でも大事にしていた。それは米というのものが余り減反するなどありえなかったからである、その米をまた税金として納めなければならないから余計に貴重になったのは同じである。
だから人間は今食料をありがたいという思う感覚、感謝の気持がなくなっているのだ。
米ならあまるほどある、家畜の餌にするほかないとかなると米を大事に思う気持もなくなるのだ。
そのことがまた自然からでも復讐されるときがくるかもしれない、原発事故などでも自然に基としたものが放射能汚染で使えなくなった。
肝心な水さえ飲めない、土も利用できない、木も利用できないととなったら人間はいくら工業製品を作っても生きていけないとなる
外国に売ればいいといっても日本の電器製品のようにそれが売れなくなるということがあるから危険なのである。

posted by 老鶯 at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題