2016年02月20日

現代は遊びが仕事化する (遊びは創造を産み出す-人間は最後は遊び人間になる)


現代は遊びが仕事化する

(遊びは創造を産み出す-人間は最後は遊び人間になる)




古くは「神遊び」などという言葉が示すように,神をもてなすため,あるいは神とともに人間が楽しむための神事やそれに付随する芸能全体をさしていた

 汝(まし)も神ぞや 遊べ遊べ
  君も神ぞや 遊べ遊べ

古代日本における遊びは、ほかならぬ、こうした「カミアソビ」でした。
神のみが遊ぶのであり、人は神を通じてのみ遊ぶことができた

プラトン「法律」の一節のようだ。

「人間はただ神の遊びの玩具になるように、というので創られたのです。これこそが人間の最良の部分ですね。」

朝たづね ましも神ぞ や あそべ あそべ

朝たづね きみも神ぞ ましも神ぞや あそべ あそべ(神楽歌)


古代日本語のあそぶ


遊ぶとはもともと神と結びついた言葉である、あそばしますとかなると尊敬語になっているのもそのためである。
それが時がたつにつれてその言葉が庶民化して卑俗化する、御前とは宮中では尊敬語である。それはオメエはとかなると卑俗化した言葉になる
遊ぶという言葉自体その後は軽蔑的なものとなっていった。遊女(あそびめ)とか差別語にもなる。巫女はもともと神に仕えるものであり神と遊ぶものだが遊女化してゆく。
なぜこれほどまで遊ぶということが変化したのか?
それは労働が勤労の価値が大きくなったためである。古代とかその前は遊ぶということは今の遊ぶという感覚と全く違っていた。
現在は遊ぶということは常に忌み嫌われてきた、膨大な労働の時代がつづいた。
分刻みで労働が強いられる、江戸時代は意外と貧乏なのにのんびりしていた。時間にもルーズだったから約束の時間も守らないということがあった。
時間の感覚が時計もないのだから大雑把であり日が上り没りとの自然のリズムに生きていた。

それで東雲に(しののめ)という言葉が篠竹と竹に由来しているのが面白いし今になるとイメージできない。

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これなども意外なものである。竹と結びついていることは竹が生活と密接に関係していたからである。竹を利用した生活があったし竹が常に回りにあった。籠であれ笊であれ竹は日常生活に常に利用されていたからである。それが失われたときイメージできなくなる。

古代はその前は神と遊ぶだったが万葉集時代は

天皇(すめらみこと)に献(たてまつ)れる歌一首 大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ)、佐保(さほ)の宅(いへ)にして作れり

あしひきの山にしをれば風流(みやび)なみわがする業(わざ)をとがめたまふな 巻四(七二一)

遊びは雅び(みやび)としても使われた。みやびとは宮中で生活することから生れた。
この歌は山にいることはみやびではない、宮中で遊ぶことが雅びなのである。
でも今になると山に入ることは遊びになっている。風流人はかえって山に入り隠棲するとなる。

人間が遊ぶということでも実は堕落してきたのである。遊ぶことができないことは人間の堕落だった。遊ぶことが何かネガティブな言葉と化して行ったのは遊ぶということが何なのか本来の意味が価値が忘れられたからである。

遊ぶが失われたのは西洋でも同じでありプラトンの時代は遊ぶが重視されていた。
学問もスクールが暇な意味であり遊ぶ意味から来ていたのである。
すべての学問が実用になったのは近代になってからである。
そして資本主義になったときすべてかは時間までが金となり金で価値づけられるようになった。
一分一秒を無駄にするなとなりそこで遊ぶということは価値なきものとなった。
戦前の製糸工場で休み時間に遊びたくて早食いした女性が死んだというのも嘘のような話に思うけどやはりそれだけ時間に追われて遊ぶ時間がなくなっていたのである。

江戸時代は貧乏でも仕事も時間によって追われない、2時ころすでに仕事が終わったとか時間に追われていないのである。時間の感覚がルーズだったのである。
現代とは絶えず時間に追われている、何するにしても追われている、遊ぶにしても追われている。遊ぶというとき時間に追われたら遊ぶにならないだろう。
ただ現代というのは豊になると遊ぶことがまた変質している、遊ぶことが価値あるものとなる
ゲームなど遊びでありでも金になれば遊びと見なされない、資本主義社会では金にすべて換算される、どんなことでも金になれば価値あるものとされる
一方で金にならないものは価値のないものとされ、その人は無益なもの社会にとって必要ないものとしてみられる、だから現代というのは無職とかには一番厳しくあたる。
無職ということは許されないことなのである。
つまりすべてが労働で成り立っているのだから働かざるもの食うべからずになったのである。

結局自分のしてきたことは一生遊ぶだったとなる、学問もた旅したことも芸術も遊びである。それで一銭の収入にもならなかった。となると資本主義では価値ない人間になってしまう。
もし本でも出して売れればそうはならない、画家でもいくらいい絵を描いても売れなければ価値ない人間にされるのが資本主義である。
そういう遊ぶ人間は許されないとなる、そうは行っても現代は豊になり遊ぶ人間が膨大に増えた。
第一何千万の老人はすでに仕事はしていないのである。そうしたらそういう人はみんな無駄だともなる、他にニートとか仕事をしない人も膨大に増えたのである。
そもそも子供時代は遊びが仕事である。遊ぶことによって学んでいた。
勉強になると遊びではない、常に勉強であり強いられることだった。
その成績とか試験とか中学辺りになると将来のためにいい生活をするために勉強が強いられる
でも学問でも今ふりかえるともっと遊びの要素があれば興味をもったと思う。
数学などでも図形遊びみたいなのもを工夫してやっていれば興味をもっただろう。
それが試験とか受験とか将来の生活の実益のためになるとかえって勉強したくなる

チンパジ−の実験で彼らにパズルを与えると大喜びしてそれを得ることを待ち、要求する。彼らにとってバズルを解くこと自体が楽しみなのである。しかしある時パズルを解くと食べ物を与えるようにするとチンパンジ−はしだいにパズルそれ自体を楽しむより食べ物を得るためにパズルするようになる。やがてパズルだけを与えて食べ物を与えなくなるとチンパンジ−はパズルへの興味をなくしてしまう。(あなたの隣の狂気−町沢静夫)

遊びで堕落した人間


それはチンパージーの実験でもそうだった。遊びとして数とか教えるといいのだがそれを成功報酬としてやらせると興味を失った。
何かを学ぶために褒美として餌をやるとかしていると餌に関心が向き遊びとしての学びに関心がなくなっていったのである。
それは人間も同じだったのである。遊びの要素がないと人間も学ばないのである。
つまり餌をやるから学ぶのではなく純粋に遊ぶことが興味を失わないことになる
科学でも実験でも遊びの要素があり遊びから発明が生れることもある
それは現代の複雑な科学技術の時代でもそうである。
豊になると遊びが仕事になる度合いも多くなるのである。
ギリシャでは貴族階級が奴隷を使っていたから暇が生れスコーレ(暇)がschoolになった。そのスクールが勉強であり強いられるものとなった、そもそも暇だから遊びの時間だったのである。
今は機械化でありIT化すると遊びが仕事になる、奴隷をしたものが機械がするようになるすると人間は何をするのか、遊べない人間は何をするのかとなる。
遊びというときギャンブルとかなにか低俗なものではない、本来遊びは高級なもの神と結びついていたからやはり芸術のような創造ができないものは時間を与えられてもすることがない、だからこの辺では補償金でパチンコとかギャンブルになったのである。

タグ:仕事と遊び
posted by 老鶯 at 14:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題