2016年02月18日

THERE WILL BE BLOOD 『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)「野心が信仰と出会う時」の批評


THERE WILL BE BLOOD

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)「野心が信仰と出会う時」の批評


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膨大な土地を所有する貧しい人たちからたかだか数千ドルで買い取り、そこから湧き出てくる石油はどれだけ出てこようが土地の元の持ち主には一切分配しないというのが石油王の考えです

この作中の序盤に1人だけ自分の欲を抑制し、世間的に妥当な取り分を十分理解できる賢い青年が出てきます。その青年は石油王に500ドルで石油がたんまりとれる土地の情報を売ってあげると持ちかけるんです


 パイプライン建設のために、イーライの宗派の洗礼を受けることを要求されるプレインビュー。しかしその場で「私は罪人(sinner)。私は子どもを見捨てた」と叫ばされる。


 そのインチキ宗教家に「わたしは罪人です」とパイプライン建設のために懺悔させられるエグい場面がひとつのヤマなんだけど、あれもビジネスのためなら宗教さえも道具として利用するって感じじゃなくて、過去に何らかのタブーを冒しているとしたら、本気で懺悔させられていることになるんじゃないか。しかも、インチキ宗教家にそれを強要されるんだから、苦痛もさらに倍になるんじゃないだろうか。



この映画のテーマは何だったのか?石油がテーマにしてもそこに宗教がかかわっていたことで興味をもった。
石油を掘りあてるためには貪欲の限りを尽くすのが石油王である。
そのためには土地を手に入れる必要があった。その土地をもっていたのが貧しい人たちでありイーライの宗派だった。
その若き牧師はインチキ宗教家だった、石油のある土地を買うために石油王は懺悔させられた。その屈辱が最後にそのインチキ宗教家を殺すことになりドラマは終わった。

「野心が信仰と出会う時」という原作がありこれを映画化した。
この映画は宗教もテーマにしている。それで最初わかりにくいものがあった。
石油のある土地を石油王が手に入れるために若いインチキ宗教家にいやいやながら公衆の面前で懺悔させられた。
それも石油をとるためにはしかたないと甘んじた。
一方インチキ宗教家はそれで勝利したように公衆の前で自分をアピールした。
この若い牧師がインチキ宗教家だと石油王は奇跡を演出したときから見抜いていたのだ。
ここには宗教と実業というテーマがある。石油王は石油のようにどろどろとした欲望にまみれていた。
一方宗教家もきれいこどを言ってもインチキであった。
何かこれは一般的に今のカルト宗教団体にあてはまるから興味をもった。
創価などがそうである。それだけではない一般的に今宗教というとき何かうさん臭いものとなっている。
宗教はきれいごとを言っても中は石油のようにどろどろの欲にまみれているのだ。
もちろん宗教というのは世俗にある限りそういう宿命から逃れることができなかった。
それが現代になると特にそうなった。ほとんどの宗教がカルト化したのである。

創価でも政治と実業に経済に深くかかわる、大成建設が仕事を欲しくて創価の会員に一部なっていたというのは本当である。
大切建設の社員宅が座談会の活動の場として提供されていたからである。
それは石油をとるために土地が欲しくてしかたなく仮りにインチキ宗教に入った石油王と同じである。創価の場合はもともと宗教というより政治家実業を目指していたから何の抵抗もない、懺悔なども関係ない、石油を手に入れればいいなるしそこで金も入ればいいとなる。その人が回心するとか懺悔とかは関係ないからやりやすいとなる
創価とはすでにビジネスであり企業化しているからである。それは幸福の科学なども同じである。宗教がビジネス化して実業化している。だから幸福になるためにもうけることだとなるからにけいるわけである。
そのために毎日祈っているとなると宗教が実業化した団体であり利益を追及する会社と同じだとなる
幸福の科学の主催者が大川教祖が妻と離婚して巨額の遺産でもめているのもそのたとである。
すでに欲にまみれてそうなっているのである。それはカルト宗教団体ならみんな同じなのである。

この映画の最後で若インチキ宗教家は石油王に殺される、金がなくなり石油王に要求した石油王はそれを断り懺悔さけられた屈辱をはらすために殺した。
つまりインチキ宗教家は最後はどろどろした欲望の塊りの石油王に金を要求して頼ったのである。どっちにしろ宗教も金だとなる最後の結末である。
結局金なくしては宗教もその団体も成り立たない、金とは石油でもある。
実は宗教すら金に支配されているというときそれは陰謀論で必ず言われる、ユダヤが金融で世界をあやつっているとかなんとか常に言われている。
でも実際はそんな力をもつことができるのか?それよりサタンがこの世を支配している、闇の力がこの世を支配しているという聖書に書いてある。
そのサタンとは何なのか?それは人間に内在する限りない欲望なのである。

欲望があるから欲望に操られる、それは宗教でもそうでありあらゆるものがそうである。原発事故もそうして人間の深い欲望に操られた結果だったことを書いてきた。
人間の欲望を否定するのが宗教だけと実際はそうしたら誰も支持しないし会員など増えない、欲望を肯定してこそこの世で増殖できるし力をもつことができるからである。
だからカルト宗教団体ではむしろあらゆる欲望を是認しているしむしろその欲望を満たせる、拡大させられることが信仰になる。それは結局すでにこの世と同じ世界でありそこに宗教は一切ない、ただ欲望を満たすためのものしかない、つまり石油王もインチキ宗教家も同列だっのである。
世界はまさにどろどろした石油という富に金にのみこまれているのだ。
そういう自分も石油がとれる国がいいと投資したのも同じじゃないかとなる
いづれにしろ人間はこの世の世界と実業の世界に生きているのだから逃れることはできないのである
石油なしで生活できるのか?電気なしで生活できるのか?とか常に言われるがそれは金なくして生活できるのかという問いとも同じである。
宗教がまたなぜこれほど偽善的になるのか?それはあまりにも現実の世界とかけはなれているからである。キリストやシャカの教えを実行することとはかけはなれているからそうなる、現実はどろどろした石油のように最後はその欲望が地下から噴出してくる。
どろどろした石油の欲望にのみこまれてしまうのが現実である。

インターネット時代になると過去の映画も見れるしいろいろい紹介されて批評される
インターネット時代は批評の時代である。
こんな映画があったのかとその種類にも驚くし本でもそうである。それをアマゾンでボタン一つ押せば手に入れることができる
これは便利である。だから今は仙台に行って本を買う必要もないから一年もまた行っていないけど不便を感じないのである。
そして他人が批評したものを読んでDVDを買ったりする、「心の青雲」の著者は映画批評していてこんな映画があったのかと
結構買っている。映画批評家にもなれる人である。
いろんな批評がインターネットでしやすいからそうなる、20世紀はまた映画の時代だった
ただ映画もテレビと同じで何か読み解くことが結構むずかしい
それでも厚い小説を読むより楽だから見るのである。外国の映画は何か日本のより深いテーマを追及している
今回は宗教ということで関心をもったのである。




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