2016年02月15日

白菊と遺影 (過度な供養は先祖崇拝から偶像崇拝になる)


白菊と遺影

(過度な供養は先祖崇拝から偶像崇拝になる)

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白菊の金地に映えて遺影かな

母の亡きあとに遺影の微笑みてなお我が家を見まもりてあれ

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仏様に飾る花としてはやはり赤が交じっているのは良くなかった。
黄色はいいらしい、それは確かである。
一番あっているのは白菊であった。これが一番清楚であっていたのである。

日本では仏教では死者を延々と供養しているのも異常なものとなっている
でも世界的に見ても死者を崇拝する供養するのは普通になる
ほとんど先祖崇拝の宗教が基本にある。それは人間が死ぬとみんな誰でも特別になる。
崇拝の対象になってしまう。それは死者というのが何かわからないからである。
だからそこにどうしても畏れの感情が生れそれは先祖崇拝の宗教となる
モアイ像であれ何であれ古代の像となるとみんな先祖崇拝なのである。

だからこれは仏教とは関係ないものであり先祖崇拝に結びついたものである。
むしろ先祖崇拝を排斥するものとして本来の宗教はあった。
それは釈迦の仏教でもそうであり一神教でもキリスト教でもイスラム教でも先祖崇拝を否定している。それは偶像崇拝になってしまうからである。
宗教で一番怖いのは偶像崇拝なのである。ほとんどの宗教が偶像崇拝になっているからだ人物を神にするもの、仏にするものは偶像崇拝になるから危険なのである。
だから仏教が仏像を礼拝の対象にするときやはり危険になる
それを価値あるものとしても危険がある


人間は死者になると何か過度に死者を祭りあげる傾向がある。それは悪いものではないにしろ月命日だとか仏教では延々と供養をする、こんなに過度に死者を供養するのは先祖崇拝でありそれは仏教にはないことである
ただ死んでも死者を忘れない、死者とつながっていたいとういことは悪いことではない
死者がそれほど尊いものなのかともなる、なぜなら死者がみんなそんなに尊敬に値するものとは限らないだろう。
もしそんなに尊敬するなら生きているとき尊敬するべきだろう
生きている内は老人は死ねとか若い人は毎日ののしっているのに死んだから尊ぶことがあるのか?


ただ嫁いできて嫁が満足しないで恨みを残して死ぬような家は栄えないというのは本当だろう。
そこに介護であれなにか家族の大きな問題がある。母は自分の家でいい待遇をされなかったけど最後はなんとか自分が介護して今は死んでその遺影がほほえんでいるとなると救われる
そういうことは確かにあるから介護とかでも冷たくできないことがむずかしいのである。これはそれぞれの家の事情があり他からわからない問題である


ともかく死者には不思議に菊があっている、「菊の香や奈良には古き仏たちー芭蕉」のように菊があっている。赤い花はあっていないというのは言える



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