2016年02月09日

電動自転車でも軽量化を目指しているが限界がある (科学技術には限界をあること提示すべきー原発事故も起きたのもそのため)



電動自転車でも軽量化を目指しているが限界がある

(科学技術には限界をあること提示すべきー原発事故も起きたのもそのため)


技術が何を追及して目指しているか?それは別に理系でなくても文系でもわかるものがある
小型化であり軽量化である。それはあらゆる分野で追及されてきた。
パソコンでも最終的ははスマホとかにまで小型化され軽量化された
軽量化することは何か技術でもわかりやすいのだ。原子力などはわからないがこうした日常使用するものはわかりやすい、その一つに自転車もあった。
チタンとか他にも軽量化して早くしている。
最近ヤマハから新製品として出たヤマハのYPJ-Rはロードであり電動自転車で15キロしか重さがないのに驚く、今までは20キロが限度だからである。
それより5キロも軽量化しているのである。その代わりバッテリーが2、5Aというのは少なすぎる
これで電動自転車なのかという疑問があり坂を上れるのかという疑問があり買うのを躊躇する


ヤマハのPAS Brace XLは23、5キロであり重い、これに乗ったけど戦車のように頑丈である、これはマウテンバイクだった。
悪路を馬力があるからどこまでも上った、本当にこれは電動自転車のマウテンバイクだった。電動自転車で馬力があるから悪路でも使える、これを人力だととても乗れない、どんりて悪路でも馬力があるから乗れる
そしてこの電動自転車はずっしりと重く安定しているけど軽快な乗り心地がない
だから電動自転車のマウテンバイクであり普通の道だとまるで軽快さがなく嫌になった
つくづく自転車は百台あると百台が乗り心地が違うことが不思議なのである。


電動自転車は技術的には軽量化を志向せざるをえなくなりヤマハのYPJ-Rが生れた。
これは見た感じもロードであり乗っても軽快だろう。
でも2、5Aではこれが電動自転車なのだろうか?平地がいいとして長い坂を上ったらバッテリーがきれるしこれは付属的にパッテリーをつけただけではないか?
長距離だと12Aは必要になるからである、予備必要になってくる。
だからこれはロードでありかえってバッテリーなしで走れるものとして作ったとすると電動自転車の意味がなくなる
だから買うことを躊躇するし高い、25万とかは本当に高い、自転車好きならこのくらいは出すかもしれないがこれを買ってもロードとして利用するようになくかもしれない
ロードで8キロの買ったのはいいがあまりにもタイヤが細いとかで危険を感じた
もう少し頑丈でないと危険であるが見た限りではヤマハのYPJ-Rは頑丈そうである。


何か技術改良では軽量化が問題になる、どこまで軽量化できるかが課題である。
電動自転車もそういう軽量化を目指すようになったのだが何か技術の限界が来ているのか?バッテリーを軽量化しても2、5Aは少なすぎる、だからこれが電動自転車なのかという疑問がでる
結局技術開発でも軽量化でも限界がくるのだろう。飛行機でも軽量化が課題で素材で軽くするのだがどこかで限界が来る
要する技術は苦手でも軽量化することが目的とするのはわかりやすいとなる
技術は常に科学はバラ色の未来を提示してきた。
それは科学技術改革に限界がないということで信仰にまでなってきた。
でも技術でも科学でもどうしても限界がある、そして限界を提示すべきではないか?
なぜなら不老長寿とか癌は直るとか何かそういうことが先行してそれを大衆も信じるからである。
stap細胞というのもそうだった、そんなものができるのかとその時自分も科学にうとく信じたのである。日本も凄いなとその時喜んだのである。
それは実際はできないものだったのである。
そこにも科学の限界があった。


だから科学者は技術者はその限界を提示することこそが役目だともなる
科学技術に限界はないとするとき原子力にも限界がない、事故は科学技術が未熟だから起きたのであり将来は原発は事故を起こせないようにできるとなる
今でもそういうことを科学者も大衆も信じている
科学技術には限界がありその限界を提示することも科学者の役目であるがそういうことをしない、またそれは経済でも言える、経済は無限に発展する、成長するという資本主義の思想にも限界があるということを提示しにくいのである。
そういう限界論を言うと反発される、どこまでも発展成長するというのが大衆にも受けるそれをまた大衆も望む、でもそういうことをしないとどうなるのか?
地球の環境は破壊されるし資本主義もまた恐慌が襲い世界が大混乱になる
第二次世界大戦も何かそうした経済的恐慌がありドイツでは失業者があふれ戦争に突入したと言われる


人間には何か限界がある、経済成長でも抑えるべきだというのは受けない、無限に発展成長してゆくのだという幻想に人間は憑かれているのである。
それは天まで届くバベルの塔を建てる、そして一挙に神の怒りによって崩壊するのであるそれが原発事故でもあったのだ。
資本主義は限界が来て崩壊する、科学技術も原発事故のように技術の限界があり大事故になり崩壊する、人間の成すことには限界があるということを認識させるのも科学者の勤めである。
原発はそういう科学者でもわかっていて操作していないからこそ起きたのである。
そして火を盗んだプロメテウスのように過酷な罰を受けた。
イカロスのように急降下して墜落した。やはり神の怒りがそこにあった
それはプロトニウムの毒がこの辺で二万年も消えないという過酷な罰だったのである。

タグ:技術の限界
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2016年02月10日

蠟梅の詩(百歳で死んだ母を偲ぶ部屋ー介護も死ねば思い出となる)


蠟梅の詩(百歳で死んだ母を偲ぶ部屋ー介護も死ねば思い出となる)


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大輪の百合の目立ちて祭壇に見しもその後添えにし花も見る



去年はいたく寒く
蠟梅すらもその枝の
大雪に折れていたいたし
二三輪ほど咲きしのみ
今年はあまた咲いている
この部屋に我は母を介護しぬ
母は介護されてもこの部屋に
懸命に最期を百歳を生きぬく
母が死んだ今この部屋は虚しも
蠟梅がこの部屋に映える
そして我はここを百歳の間と名づく
母の労苦の一生はここで終えぬ
死してもここに母のなおいるごとし
母に母の部屋のなしも悲しむ
ここに介護の時に部屋をもつ
我が家の悲しき物語
それぞれの家の悲しき物語
家には死してなおも人がいる
今は憎しみも争いも終わりぬ
我が家に残るは我が一人
ただ在りし日を偲びつこの部屋にいる
今また北風がこの家に唸る
立春は過ぎてもまだまだ冬である

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家は何か女性の場合嫁とあるごとく家と一体化している。我が家は何か普通の家ではなかった。だから複雑である、自分にとってはいいものだったが母にとっては自分の家はいいとは言えないものだった。
母は自分の部屋をもっていなかった。いろいろ不遇でありそのことを自分は思っていた。母が最期に部屋をもったのは介護されるときだったのである。
この一部屋が母を自分が介護した時母の部屋になった。
自分はずっと母に対しては悪いと思っていたがどうにもならなかった。
母は自分の家に嫁ぐ前も不遇だった。一生が不遇だったのである。
ただ最期は自分の部屋をもち自分が介護したから不遇とは言えなかったろう
母は喜んでいたからである。

そして母はこの部屋で介護されるときも懸命に生きた、頑張り屋だった。
最期までベッドの脇のポータブルトイレに自力で行っていた。
オムツもせずに水しか飲まなくなり一週間もそうだったがポータブルトイレに行っていた食べるときも自力で食べていて自分が食べされることもなかった。
それで実際は自分にとって楽な介護だったのである。
病院に入院してオムツとか管で小便をとるとき凄くいやがっていたことでもわかる
オムツとかなるとその衝撃が大きいのである。
母はやせていてともかく頑張り屋だった。
でも母は何か世間にうといからこの家を一人で切り盛りはできなかった。
姉がいてこの家は成り立っていたのである。

それぞれの家にはなにかみんな複雑な事情があるからわかりにくいのだ。
母は前の夫も事故で死んだとかいろいろ不遇だったのである。
そういう人が大正生れとか戦前とかなると多いのである。
そしてつくづく病院という場はそうした家の事情とか関係なく無機質な空間であり
それぞれの人に対する思いがない場所である。
だからそこは長居する場所ではない、その人の特に女性の場合、家に一生があるとすると家で介護されて死ぬのがふさわしいとなる、そしてそこには死んだ後も思い出として残る場所なのである。


だから病院とか介護施設は本当は介護されるにも病院でも看取りとなるとふさわしい場所ではない、医者とか看護師とか介護士は家族とは違うからである。
体をみてもこのようにその人間そのものが生きたというその一生をみれないからである。なぜ死んだ後にもこの部屋が「百歳の間」として名付けてなおその人が生き続けるようなことはありえない、病院ではなんかもののように死ぬとかたづけられるだけである。
そこにはもう誰がいたかもわからない、ただ一人が消えてその名も覚えている人がいないだろう。
そこが病院とか介護施設と家との大きな差だった。
人間は死んでもそれで終わるわけではない、その人はその生きた家になお生きつづけているのだ。病院とか施設ではそういうたとはないのである。


もちろん介護になると認知症とかなると介護自体が嫌な思い出となる、てもやはり人は特に女性の場合は家と切り離されずにある。
それで家で介護されたい家で死にたいとなるのが情である。
ただそれに対処するのは家族が少ないから本当にむずかしい
自分がなんとかやれたのは母が介護を楽にしてくれたからだと思った。
脳出血とかなり三食食べされるようになったら本当になにもできなくなった。
それが常に自分はおそれていたのである。
とにかく人間の一生というのは死んでみないとまたわからないとも思った。
死んでからまたその人をふりかえり深く思うことがある
生きている内はそういうことが見えないことも多いのである。
嫌だ、嫌だと思っていてもそれがなつかしくなったりするのが人間なのである。
だから介護も嫌なのだかふりかえるとなつかしくさえなるということもありうるのも不思議である。
それは重荷から解放されたからそうなっているのかもしれない、それは介護だけではない、人間は苦しいことでもふりかえるとなつかしくなったりするからである。
憎しみ合い争っていてもそれすら死んでしまったりするとなつかしくなったりする
それは兄弟で昔喧嘩したことがなつかしくなったりするのと同じなのである。
人間死んだらなぜそんなに争ったのかとみんななるからである。


つまり人間は今は介護というのがその一生の間で経験する、次ぎに看取りがありその後に死者を偲ぶ場として家がある。
人間はそうして死んだからその生がそれで切断されないのである。
でも病院とか施設では死んだら切断されて何も残らないのである。
偲ぶ人もいないのである。そこはただ一時的に体をみる場所なのである。
だから人間的な場所ではないのである。
でも現代は在宅介護とかするのは本当にむずかしいからそうなった。
ただそこには人間として最期を迎えるのにはふさわしくないのである。

大きな百合の花を最初は目立つから見ていた、次ぎにしばらくたつと添えて咲く花をみるつまり人間は最初は主役をみているが脇役も長い間みていると花でも見るようになる
母はずっと脇役でありそういう性格だった。目立たない花だったのである。
でも長い間見ていると脇役も注目される、一瞬見た時はどうしても主役の大きな花に目がむくがやがて脇役の小さな添えて咲く花も見るようになるのである。



2016年02月11日

世界的株の下落について銀行の部長と話する(短編小説)


世界的株の下落について銀行の部長と話する(短編小説)

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只野は東北のある田舎に住んでいた。只野は最近遺産がそれなりに入った。それでこの頃銀行は利子もつかないので外国の国債とか不動産に投資することにした。
その額はそれなりに大きかったので銀行の人が時々来るようになった。
その銀行は小さい銀行である。若い人が来たときも自分は証券の方で働いていたのですとしきりに言う。
それで勘違いしていたのは証券会社で働いていて銀行に移ってきた人かと思っていた。
「私は証券の方で働いていましたからまかせて下さい」
そういうふうに自信ありげに言う、性格的も押しの強い性格である。
只野が最近の世界的株の下落と原油安で心配になり銀行に聞きに行ったこともあった。
前には日本の株に投資していた、それが七年前くらいでありその時も最初は調子よく配当金が入っていた。その額は少なかった。それでも利子がつかないよりはいいと10万くらい配当金があり喜んでいたのである。
それが急速にリーマンショックになり半分になったのである。
今回もそういう急速な株の下落が起きてまたリーマンショックなのとか不安になった。
それで今日はいつも来る若い人と本店の営業企画部長の人が来て話した。

「カナダも原油安で裏目にでた」
「まあ、石油にもいろいろあるんですよ、一種類じゃないんですよ」
「そういうことをテレビで自分も見ました」
「石油は今下がっていますがとてもつづかないですよ、サウジアラビアなどはもうもちませんから、政情不安定になり政権も危なくなりますからまた石油は上がってきますよ」
「そういうことを解説している人がいます、また上がってくると、、、、」
「もう少し様子を見ていて下さい」
「みんな不安になっています、どうなるんですか」
こんなことを話した。

只野は原油はいつも高い、安心する投資だと思っていた。それがこんなに原油安となることが意外だった。そしてカナダが原油が世界で4番目にとれていることも知らなかった。
原油は世界で結構とれている、これだけ原油安になるとロシアから中東から南米でも経済が苦しくなり政情不安になる。
原油だけではない世界が政情不安になる
「ヨーロッパも危ないです、あそこはまとまらずEUが分裂するでしょう」
もともとまとまらない、歴史的にもそうでしょう」
「ペルギー人とあったけど盛んに俺はベルギー人だと主張していましたがあんな小国でもそういうことがあるからまとめるのは容易ではないでしょう」
ヨーロッパは日本のように城が多いから日本と似ていると只野はヨーロッパを旅して思った。日本の封建時代とにていると思った。
それから中国の話になった。

「中国では車が2500万台走っているんですよ、だからガソリンを消費するんですよ」
「そうですね、中国は今は北京など日本より物価が高いでしょう、時代が変わったもんです」
「中国の消費量も下がったもの一時的でしょう」
「東南アジアに行くとベトナムでもカンボジアなどはまだ車は普及していない、足はバイクです、道路一杯をホンダのスーパー株が走っていました、面白いのはカンボジアでは
中国人がカンボジア人にバイクを貸して営業させていました、ともかくカンボジアはやすいですから日本円でももっていけば事業起こせると思った。
バイクを買って貸せばいいからです、そんなことを考えたのもあまりにもまだ日本円との差が大きすぎるからですよ」
「東南アジアはこれから車が普及してゆくでしょう、常に世界は変わっていますから」
「そうですね、中国も十年たってあんなに変わってしまいましたから」
「東南アジアというとベトナムはフランスだったか」
「ベトナムでは漢字を使っていたんですよ、それからカンボジアのアンコールワットの壁画には中国人の兵隊とかタイの人も浮き彫りとして残っています,あの辺は昔から中国とかタイとかベトナムでもせめぎ合いがあったんです」

只野が田舎町に住んで世界情勢など直接語る人がいなかったのでその銀行の営業部長とかの人とと話して多少興奮した。
只野が世界旅行したのは50才からでありそれでも世界を20カ国くらい旅したのでそれなりに詳しくなった。それまでは本を読んで世界を知ろうとしていたのだがそれが失敗だったその時は日本が海外旅行ブームであり熱気となっていた。
なぜならその時の円は80ドルとかであり高かったから円の価値があったからである。
今は120円とかなったとき高いから海外旅行をもしにくいのである。
かえって中国人とかの爆買になり日本の風俗にも中国人が来ているというから逆になったのである。カホボジアでは5ドルで買っているとか信じられない安さでありそこに日本人やヨーロッパ人がたむろしていた。なにか自分は嫌だったが報いとして今度は日本人はそういう立場になるのもカルマだと思った。
そもそも中国に新幹線ができたということ自体時代が変わった。只野が行ったときは汽車で流民化した出稼ぎ労働者が家畜のように積み込まれて都市部に移動していたのである。車掌が笞で乗客をはたいていたというからまさに家畜だったのである。
それからたちまち十年以上たつと中国も変わってしまったのである。

ともかく只野にとって銀行は遺産がおりたときからかかわることになった。
そして株をするようになってからもかかわるようになった。
ただ株といっても不動産とか配当金目当てであり只野は年金をもらえないので月に配当金をいくらかもえればいいと銀行を通して投資したのである。
でも銀行が今や利子もつかない、マイナス金利にもなり一体銀行は何なのだろうと疑問に思った。営業部長といってもその人が証券会社の人と錯覚していたり銀行自体証券会社の支店化しているのかとも思った。
そもそも銀行自体がフインテックとかIT化されたり利子もつかないことや投資先がないとか経済の停滞でもうけることができない、銀行自体が消滅するのではないかということも言われる時代である。

つまり銀行の役割が消失しつつあるのではないかということである。
そもそも銀行がなにかということもわかりにくいがこれは江戸時代にはなく明治になって資本主義が導入されて不可欠なものとしてできたのである。
二宮尊徳が資本主義を江戸時代にはじめた先覚者だと言われる
資本を金をためてその元手で資金で生産を増加させたものとして評価されている
その時銀行はなくても資金を集めためて活かしたのだから銀行のはじまりのようなものだったのかもしれない。
そしてある本を只野は読んで銀行に貯金することは投資することでもあると書いてあるのを読んだ。なぜなら銀行とは金を集めてその金を貸してもうけて利子として配分するから株式会社と同じだということを知ったからである。
銀行が貸ししてもうけることができなくなれば利子も配当できなくなれば存在価値がなくなる、それで証券会社の下請けのようになってしまっていると思うのも当然である。
只野はともかく金がやはり現実に増えたり減ったりするから株がどうして上がったり下がったりするのに関心が向く、それが世界情勢とも関係しているから世界が身近に感じられるということもあった。
それは学問としてではなく現実の金がかかわっているから余計にそうなった。

銀行というとき大金をあづける人でも会社でも組織でも団体でもそれで銀行が経営できるのだからその金を積んでくれる会社でも組織でもその経営まで参加するようになるだろうそういう大口の貯金が引き上げられたら経営すら成り立たなくる
それである巨大な宗教団体ではその経営者のようにもなり銀行を支配するとまでなる
そういうふうに金の力はあるゆるところで左右する、マスコミにもそうした金が流れ支配されるから公平な報道などない、ドルが世界で一番強いというとき世界が金を通じてアメリカに支配されているということである。
エジプトの果てでロバに乗った少年がワンドーラくれというのもそうである。
アフリカの果てまで通じる金はドルなのである。
アメリカに逆らうものは今中国あれ世界でロシアであれ南米であれ石油安によってもつぶされるというのもなおアメリカが世界を支配しているからだともなる
その営業部長は終身保険としてオートラリアをすすめてきた。
「オーストラリアはこれは一番安全な商品です」
「こんなときオーストラリアがいいでんすか、石油安ですよ」
「石油はこれから上がりますよ」
「なにか、みんな不安でしょう」
「これは一時的なもんですよ」
只野は家族に従軍看護婦として今のシンガポールの対岸のマレーシアのジョホールバルという所のイギリスの赤十字病院に四年間いたのでそこに行きたいと思っていた。
オーストラリアにも行っていないのでそこを回って行ってみたいと言った。
只野はもう家族の介護でここ十年はどこにも行っていない、旅をしていなかったのであるただ年も年だから何か旅するのも海外旅行するとなると億劫になってしまった。
海外旅行ではひどい目にあっているので余計に今行くとなると嫌になっていた。
でもやはり家族に千回も聞いた話の場所には直接行ってみたいと思っていたのである。




あとがき


小説は苦手でありドキュメントとしてプログに書いてきた。プログはそれぞれの個人のドキュメントとしてニュースとして新しいジャーナルとなった。
マスコミで報道することだけがニュースでもない、個々人がニュースになった時代である例えば家族にとって家族の死であればこれは一番のニュースになる
だから母の死などをプログで書いたときそれも実際はニュースなのである。
ただ読む人の数がマスコミからすると極端に少ないし注目されないというだけである。
でも新聞で毎日死んだ人がのっているがその人がどういう人だったかはほとんどわからない、そうなると郷土の人でも何もわからない、ただ死んだという報告だけなのである。
それでは一人の人が郷土で生きて死んだということの意味とか価値もわからないのであるそれは郷土史としてとりあげることもできないのである。


郷土史というとき過去だけではない、今生きていることも郷土史でありというより郷土学になる。銀行でもやはり郷土として関係してくる、あらゆるものが関係してくるのが郷土学となる、郷土学とはトータルに社会をみるということであり意味を探求して価値づけるものである。
だからその範囲は自然も含めて広範囲になる、とても一人ではできるものではないのである。
自分は大学は経済学部であってもほとんど勉強していないし大学でもやっと入ったのであり三流であり遊んでいただけだった。
だから基礎的なものがわかっていない、それでも経験をつむとそれなりにわかるものがある、ただ現代は本当にグローバル社会になるとき70になろうが一生かかってもわからないことが多すぎるのである。
銀行とは何かとなったらこれもわからない、銀行に貯金するこきと投資することだよというのもそうなのかとなる、銀行には貯金して利子をもらうものだとばかり思っていたからである。現実にマイナス金利になったら株と同じとなった。
銀行でももうけられないとなると株のように低下してマイナスになってしまうのである。

いづれにしろこの十年間で経験したことをプログに書いてきたがこれは分厚い小説になるその能力が不足しているがやはり小説になるとすると特別の経験をしたときなると思った平凡な生活をしていれば小説にもならない、戦争など経験した人は小説を書けると思った能力が不足しているがそうなる
そして今プログにはそうしたネタが無数にある。もし小説家が読んでいたら小説のネタにはことかかないとなるだろう。

タグ:銀行の話
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緑の生物

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緑の日影

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森の中

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密生する葉



これも偶然だけど一つのイメージとして変えて作った。
これは密生している葉のように見えるなとか変化させる
ただ自分のしていることは本当に偶然の結果である。
何がでてくるかわからない、これは葉みたいだとして変化させる

でもなんかいくら変化させてもそれらしいものにならないときがある
その時は嫌になる、二三回でそれらしいものができることもある
だから確率としては決められない、百回変化させてもそれらしいものができないときはできないのである。
その時は実験するのが嫌になる、一つの化学実験と自分のしていることはにているからだ今回は緑をテーマにして葉をテーマにして連作できた。
タグ:green abstract

2016年02月12日

世界同時株安に翻弄されて不安になるのはなぜ? (見通しがたたない、空間的にも時間的にもー紙幣は紙屑になり数字でありゼロになる)


世界同時株安に翻弄されて不安になるのはなぜ?

(見通しがたたない、空間的にも時間的にもー紙幣は紙屑になり数字でありゼロになる)


今日は真っ暗な道を自転車で帰ってきた。そして何かにつまづいたりなれた道でもずいぶんそれてしまった。
でも道は知っているから迷うということはない、自転車は暗いと迷いやすい、それで地元でないと迷ったときあせった。そこが全くどこなのかわからなくなった。
皆目検討もつかなくなることがあった。その時はパニックになる。
でも地元でこうして暗闇でつまづいたりてもあせることがない、なぜならその行く先ははっきりわかっているし必ず帰れるということはわかっているから途中でつまづいてもあせらない、いくら闇がおおっていても安心しているのである。


暗闇でも先の見通しがたっている、行く先がわかっていればあせらない、なぜ人は不安にかられるのか?
もし地元でないと先の見通しが全くつかなくなる、暗闇では余計にそうなる
そうなるとあせるし不安が増大する、パニックになる。
つまり地元では暗闇でもすでに心の中で道筋がはっきり見えているのである。
だからあせらないし急ぐこともないし安心で暗闇の中でも帰って行ける


世界同時株安と株がこれからどのくらい下がるのだろうとか、何か不安になるのは先の見通しがたたないから不安になる、こんなことは今までも良くあることだしまた株は下がったら上がるもんだよと誰も確信して言えないし先の見通しが言えない
それでみんな不安になり世界が不安心理におおわれるのである。
現代のグローバル社会は具体的なものとしてとらえられない世界に生きている
未だに自分の金融資産がどれくらいあるのか具体的にわからない、それはなぜなのかというと数字になっているからわからないのである。
数字だと抽象的であり具体性がないのである。
これまでは現物で経済を計っていたのである。給料も米高で相馬藩だったら六万石であり給料も米高で何石とりの侍とかなっていた。
こういう経済はわかりやすいのである。米で計られ米で一俵とかで計られる経済である。だから蔵に米が俵につめて置いておけば安心だとなる
まさに実物経済だった、それは江戸時代まで金は流通していても基本的には実物経済だったのである

金融というのはグローバル社会では数字で動いている、実物経済ではないのである。
だから世界が数字化して動いているからそこに落とし穴がある。
数字としての紙幣と現実に動いている実物が動いている世界とは違うのである。
世界が数字によって操作される、マネーゲームになる。
もちろん原油安が株安の原因とされる時、原油は世界の経済を動かすマネーである。
それは米と同じである。でもそれがマネー化するとき紙幣となり数字化した世界となる
だから現実の実物の世界として反映した経済ではないのである。
つまり現実の実物経済と金融化したグローバル経済のマネーゲームは違ったものなのである。
江戸時代などは社会がこんなに複雑化していない、実物経済がベースだからわかりやすい社会である。
人間の関係もやりとりもわかりやすいのである。
何かこうした架空化した数字化したマネーゲームのようなことをしているのは本来の経済ではない、経済とは経世済民から来ている、右から左へ巨額の数字化した金を動かすのが本来の経済ではないのである。
アベノミックスとか黒田氏の金融政策でもうまくいかないのは実物の経済と離れたものとして金融があるようになった。それは世界的にそうである。


奇妙なことだが現代のグローバル経済では何億もってようが安心を得られない、なぜならそれはあくまでも金といっても紙であり、数字にすぎないからである。紙だったら紙屑になるし数字は簡単にゼロになるからである
紙幣という金がそれほど信頼される富かというとそうでもない
だから大金持ちでも現代では不安をもっている
金がたまったら土地を買えということはそのことである。
自分の母も戦前に前の夫が事故で死んだとき一生暮らせる補償金をもらった。
でも実際は戦争になりその紙幣は紙屑になったのである。
残ったのはわずかに買った何反かの土地だけだった
原発事故でこの辺では避難区域から移り住んだ人が増えた
その時土地が求められた、補償金で家を建てるにも最初に土地が必要になる
それでこの辺では土地が三倍くらいに高くなったのである。
金はまさに紙屑となり数字はゼロとなる恐怖があるからみんな不安なのである。
これだけ豊でも不安を解消できない、それもまた皮肉な矛盾した現象である。


いづれにしろ人間は暗闇でおおわれるとき見通しがつかないからパニックになる
地震でも津波でも夜起きたらさらに被害者が増えた、そういうとき見通しがたたないから逃げることもできなくなる、津波から避難するときもあの道を行って坂を上って高台に逃れればいいと頭に入っていれば見通しがついていれば助かりやすい
でもそういう見通しがないとパニックになり迷うのである。
釜石で子供が津波から逃れられたのは避難訓練していてどう逃げるか道筋をわかっていたからである。それは自分が自転車で暗闇を帰れるのもその道筋が暗くても頭の中でわかっているからである。見通しがたっているからなのだ。

なぜまた現代はあらゆることで不安が増大するのか?それは情報過多ということもあるしマスコミもまた不安をあおる、週刊誌でも不安をあおる記事を書くと売れる
いいことばかり書いていると人はその記事も読まないのである。
「大きな地震がまもなく来る」と書けばみんな恐怖して読む
「もう百年は大きな地震は来ない、津波も来ない」と書けばあまり読まないのである。
なぜなら百年後となるともうみんな死んでいるからである。


いづれにしろこの世から不安をとりさることはできない、この世の終わり来るというのも真実である。むしろそのことを受け入れて来世を待ち望めばかえって見通しがたって安心だとなる、ジタバタしてもどうしようもない、来世なら天国なら永遠の安心があるが
この世にある限り不安から解放されることはない、それが人間のカルマであり生きることだとなる、実際は安心なのに安心でないとあおりそれで金を手ばなさない、消費しないというのも本当だろう。
今の世の中金がなければ老人を相手にするものもいない、子供すら頼りにならないとなると余計に金をためて使わないとなる
そして確かに人間の寿命は本人にもわからない、すると不測の事態が必ず起きる、その時金がないと困るとなり老人はためて使わないとなる
経済でもグローバル社会は世界的不安におとしいれる、それが怖いのは世界恐慌から戦争になったからである。グローバル経済はグローバルな戦争を引き起こすから怖いのである

こうした人間の不安心理を利用するものもいる、カルト宗教団体などがそうであり人を不安にして壺を買わせたとか商売にしたものもあった。
仏教でも安心立命とかというたとを言うから安心とかは宗教に帰依しないとないかのかもしれない、それはカルト宗教団体でもそうである。莫大な金をもっているからである。
自分もまた株に頼ったりしているからお前もそうじゃないかということもある。
では一体どこに安心があるのかとなる
それは金という紙幣なら確実に紙屑になるということは確率的に今は大きい、数字がゼロとなり全財産を失うことはありうる、では何か安心なのかとなると皮肉というか矛盾だけど自給自足的な生活に安心かあったとも逆説的にはなる
なぜならグローバル経済など関係ない、外から何も入ってこなくても一応生活できるようになっていたからである。
もちろん原発事故で空気も水も森林も汚されたらもう自給自足もなにもない、住めなくなったら何に頼るのかとなるとこの辺では補償金になってしまったのである。
飯館村の人が野菜など作り自給していたが金に頼るようになったら不安になったというのも象徴的だったのである。




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2016年02月13日

原発避難民の甘い (小高区の避難解除が近づき優遇された過去をふりかえる)


原発避難民の甘い

(小高区の避難解除が近づき原発避難民の優遇された過去をふりかえる)


この辺で小高の人で避難して仮設に入っている人が多い。でも知っている人がその回りの人が何を思っているか全然知らなかったのが意外だった。
それで鹿島区では補償金で不満で裁判を起こしてこともある
小高の人はいたりつくせりで補償されてきた。一人十万ということではない、あらゆる細部まで福祉でも小高は特別扱いであり優先されてきたのである。
全部無料でありそれだけではない何かするにも優先されていたのである。
もちろん避難して町に住めないという被害は大きいものである
では避難して仮設に住んで苦しかったかとなると全然そういうことがなかった。
多少はあったにしても補償金をもらい遊んで暮らしていたのである。
そして外部からはボランティアが何かとかわいそうな人たちとして支援されてきたのである。


だから何か自分たちは特別かわいそうなのだから支援されるべきだ同情されるべきだとなってしまった。
自分たちは弱者だ,弱者は当然保護され支援されるべきだとなりそれが当然だとなってしまった。
それで自分が鹿島区の人の本音を言ったら何か不快な嫌な顔したのである。
その人は鹿島区の議員にも支援されていたから鹿島区の人も同情して支援していると思っていたのである。
確かに表立って原発の避難民を批判しにくいからイワキでは落書きになったり車を傷つけるとかなった。この辺ではそういうことはない、だから余計に何にも感じないとなってしまったのだろう。
そしてずうずうしく国民年金しかもらえない人が多いからもっと長く援助されるべきだとテレビで主張したのである。
そんなこと言ったら国民年金しかもらえない人などいくらでもいる。その不公平は何なのだとなる、そうしたら原発避難民になったらどれだけ得だったとかともなる
それは原発はいいものだったとなってしまうのである。
現実原発避難民ではそう思っている人は少なからずいる
もしもっと苦しんでいたらこれは原発を憎み政府を東電を憎みテロにもなったろうと言われた。
飯館村の人が牛を飼いなくなってテロも辞さないと最初は言っていた。
今は補償金をもらいどういう気持なのかわからない、そのくらいだったら原発に強烈に反対するから政府でももう原発を再稼働できなくなっていたかもしれない、それが補償があまりにも手厚いのでかえって良かったとなれば原発を肯定までするようになる

あと一カ月くらいで避難解除になるからそれで困って不安になっている人もでてきた。
原発避難民は避難してもそれほど困らなかった。かえって遊んでいるのがギャンブルだけしていて心が荒廃したということもある。
何か仕事させてくれということもあった。それは贅沢な悩みだった。
別にそう言っても仕事はしないし仕事でも簡単にはできないだろう。
何か原発避難民が自分たちだけはかわいそうであり支援されるべきだということが当然となってしまったことである。
弱者をいたわらない人は今の世の中では避難される、でもまた弱者が本当に弱者なのかというと疑問になる、多額の補償金をもらって遊んで暮らしている人が弱者なのかとなる
普通だったら個々人が苦しんでいても誰も同情もしない、介護などで苦しんでいる人がいても誰も助けたりしない、そして心中した家族がいたがただそれを冷たく見ている人が語っていた。どうにもならなかったねとか何か冷たく見放して見ていたのである。

自分も震災の前から介護とか自分の病気で苦しんできた。でも一切同情はない、かえって借金している人が病気のとき脅迫してきたり犯罪にあったりさんざんな目にあったのである。
そんなとき津波があり原発事故にあった。その時避難してきた仮設に入った人はいつも外から来る人でも支援されてきたのである。
最初の内はしか、たないにしても三年くらいすぎたら回りのことも感じるべきだったろう回りに何が起きているから全く関心がない、自分たちはかわいそうな人たちであり同情されるべきであり支援されるべきだということしかなかったのである。
周りの人でも苦しんでいる人はいたがそんなこは何にも関係ない
まず自分たちがどれほど被害を受けたかそれが最優先の課題となってしまっていたのである。
でも聞いてみるとかえって楽しい仮設暮らしだったのである。狭い部屋でも隣近所が長屋のようになり親しくなり女性なども何の苦しみもなかったのである。
男性も毎日パチンコ屋通いとかギャンブルでありそんな人たちが何で苦しいのか支援されるべきなのかわからないとなった


この辺では津波で家族を失った人たちもいるしその人たちはまた原発避難民とは違っている。その人たちは原発避難民に対してやはり補償金をもらえるということで不満なのである。
でも自分にしても震災前らかその後も介護だ自分の病気だと苦しんできた、自分には一切同情も支援もなっかのである。ただその弱者となったことで脅迫されたり犯罪にあったのである。火事場泥棒にもあった。避難民も確かに家を荒らされたりはした、でも自分の方がずっとひどい目にあったと思っている、それも今は自分のカルマだとは思っている
そして避難解除になり今になってなんとか働くところがないかとか聞いてくるのも虫がいいとなる
5年間あなたたちは同情され支援され楽しい日々過ごした、遊び暮らせた、もういい加減にしてくれ、またこれからもかわいそうだと同情されつづけ特別待遇されたいのか?
その負荷は南相馬市民とか福島県民とか日本国民にかかる。
補償金をもらったのは避難民が一番でありあとは30キロ圏ないだけどあとは相馬市になると何ももらっていないのである。
中通りでも被害もあったが何の補償もないのである。
だから南相馬市の行政にも問題があった。南相馬市民として共通に補償金でも政府や東電と交渉ひべきだったのである。

せめて南相馬市では福祉だけでも避難民と同じくすべきだった

そのことすら差別されてきたのである。それはわずかな金である、こうして南相馬市の一体感はなくなり心は分断されたのである。
もちろん小高には避難民には避難民の言い分がある。
それなりに菜の花の油を作るとかいろいろ努力している人もいるから一がいには言えない総じてそうなっしまったということである。
それは金のことでもない、自分は別に金には困っていない、福祉などでも差別されたこと公平でないことの不満なのである。
それは明らかに市政の問題であり市長も何にも手を打たないことの不満だったのである。
この後遺症は南相馬市民として一つになり協力しえなくさせたのである。
だから避難解除されたあとでもこれから南相馬市民として小高の人でも一緒に協力しえないことが起きてくる
浪江町とか飯館村の人も入ってきているがその人たちとまた小高の人たちは別である。
それは南相馬市民となっていることにあったのである。同じ南相馬市民なのに差別されるのかとなったからである。 
つまり南相馬市として合併したことは互いに協力しあうということで合併したのにかえって前のように三つに分断されてしまったのである。



タグ:原発避難民
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2016年02月14日

blued flowers


blued flowers (abstract)


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こさらはあざみにもにている


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抽象画も一連のものとなりやすい、変化の芸術だからである。
これも一つのオリジナルから変化させた、変化させたものが自分が作った前のオリジナルのものである。

抽象画は前に作ったものでもまた変化して別なものになるのである。
一番抽象画になりやすいのは万華鏡である。
花はテーマとして作ってきたのでその数も多い 

スコットランドの花のあざみにもにてた
スコットランドをイメージするとあざみなのである。
タグ:青い花

権利、責任、義務は一体である。 (原発事故で問われた様々な責任)


権利、責任、義務は一体である。

(原発事故で問われた様々な責任)


戦後の民主主義は権利とか平等とかを教えた。だから権利意識が強いのが戦後生れであるそれで団塊の世代は権利ばかりを主張するから嫌われている。
権利と責任き義務は一体化していた。権利を主張するのはいいが同時に権利には責任がともない義務が生じる、これはそれぞれに分離してありえないものだった。


そのことが具体的に現れたのが原発事故にあった浜通りだった。
例えば漁業権というの大きな権利だった。でもそこに責任と義務も一体化してあった。
漁業権とかは海を守る権利であり海に対して責任を課せられていたのである。
ただ自分たちが魚を獲る権利があり他の人は何も言うなということではなかった。
そこには大きな責任が課せられていたのである。
それが原発事故以後問われたのである。

あなたたちは海から魚をとる権利があった。それはいいとしてまた海を守る責任も同時に課せられていたのである。
この海は俺たちの海だ、他のものは黙っていれ、俺たちの自由にできる海だとなったとしたら当然そこには責任と義務が生じる
なぜ原発に東電に政府に漁業権を売り渡したのかとなる
そして事故後も手厚い補償金をもらっている、漁業権は強い権利でありもし反対されると原発は建てられなかったのである。
権利を主張するのはいいけど同時に重い責任と義務が課せられていたのである。


別にそのことはこの辺ではあらゆる所でそうなった。政府や東電の責任も重かった。
なぜ「安全神話」が作られたのか?それはいいとしてそれを言うなら責任をもって言うべきだった。それほど言うならもし事故が起きないというなら事故が起きたのだからその責任は誰がとるのかとなる。それだけの覚悟があって言っていたのかとなる
それはあらゆる方面で指摘されたことである。
科学者は御用学者だとか言われたがそれも責任を問われた。
科学者が本当に原発の危険性を知らせなかった。それはなぜか?
科学者が責任をもって安全だ言うなら責任を果せとなる。
責任の重さを感じていなかったのである。

責任というときあらゆる方面で問われた。マスコミでも公正な報道をしているかというと報道する権利は与えられてもその責任は果たしていなかった。
東電から宣伝費が流れてその危険性を指摘することを怠った。
象徴的なことは朝日新聞まで東電に中国で接待されていたとき事故が起きたのも因縁だった。東電から金が流れてそれでマスコミは接待されていたのである。
そうなれば東電の原発の危険性を指摘したり報道できないのである。
利害関係があると公正な報道はできない、マスコミはテレビ局でも六局とかで独占されていた。それは大きな権利として国から与えられていたのである。
でも宣伝費で報道しているから宣伝費をもらえる会社は批判できないのである。
ここでも権利が与えられても報道の責任が問われたのである。


また地元の人が責任がないのかというとあった。自分たちの町をどうするかというときすでに個々人に権利も与えられているが責任も課せられている。
権利を主張するのはいいが責任も課せられているのだ。
市町村でもその市民であれ町民であれ村民であれ自分たちの住む町や村を守るのはそこに住んでいる住民である。住民の一人一人なのでありそれが民主主義だったのである
権利を主張できるがそれにはまた責任が課せられていたのである。
責任というとき大きく言えば国家への責任がある。日本国家に生れたというとき日本国家に生きる権利が与えられと同時に責任も課せられている
例えば戦争になったときそれがどうであれ決められ以上日本国家のために死んでも責任を果すことを課せられたのである。

個々人の家でも生れたときすでに責任を課せられていたことが今になってわかった。
自分の親も死に自分だけが今や家に残った。そして最後に全部の家の責任が自分に課せられていたことがわかった。
自分は家では良くしてもらったけど最後は家の重い責任を課せられた。
長男とか長女とかはそうなりやすい、天皇家に生れたらいいとか思うけどその責任も重すぎる天皇家などに生れたくないと思う
生れた家によってみんな責任を課せられている。それが運命であり宿命であり逃れられないとなる。

変なのだけど人間は神からこの地を与えられた、だから地球に全生物に責任が課せられているともなる、人間のいいようにしていいと神が言ったとき、全生物に対して責任を課せられていたのである。動物を食べていいが動物に対して責任をもてともなる
動物も神から与えられた命だから貴重なものだから粗末に扱うなとかなる
大地が与えられて実りがあるとしたら大地に責任をもてとかまでなる
漁民とか農民とかはそうして海に大地に森に山に環境に責任をもてとまでなる
海を汚す原発は環境を汚すから作るなとなる。
ただ原発となると世界にあるからそもそもある国の責任ではなく世界的な問題としての責任が課せられている。だから環境となると国際会議で守らねばならなくなる
日本で原発事故が起きれば海が汚染されるから世界まで影響するしそれは国境を越えて影響するからそうなる
人間はそもそも原発とか核をもつべきではないともなる


ともかく人間とは本当に責任を果せるなら何もしてもいいのかもしれない、千人殺しても核兵器をもっても原発でも科学者が責任をもって作らすならいい、ではもしその責任を果せないならどうなるのか?
今回のような原発事故の責任はどうとるのかとなる、その責任をどう果すのか?
除染しても除染しても放射能は消えない、プルトニウムの毒が二万年消えない、その責任はどうとるのかとなる、それはあらゆる方面で原発を作らせた住民にも問われた。
自分たちは責任がないと言ってもそれは別に30キロ圏外だろうが福島県全部でも責任が課せられた。福島県の責任でもあり日本国の責任でもあった。
福島県のことばかり責任が問われるが国でしたことであり国で政策としてしたこととなるとそれは国民が決めたこととなり国民に責任がある。
それは戦争ともにている、国民も責任が課せられて結局300万人も犠牲として責任として死んだのである。だから責任とは恐るべきもの信じられないほど重いのである。
もしそういう責任が課せられたとして戦争するとなるとみんなしなかったろう。
とてもその責任をになえない、怖くてできないとなっていたのではないか?
天皇だってそんな責任を課せられていたとしたら戦争などしなかったろう。
それは原発事故ともにていたのである。

そして日本だけではなくアメリカにも原発事故では責任があった。
マーク1の古い原子炉とか工事するとき電源を地下に置かせたのはアメリカである
それはアメリカでは竜巻があるから地下に置かせた、津波のことは考慮されていなかったのである。だからアメリカにも相当な責任があった。
でもなんら責任は果たしていないのである。
それは東電にしても会長から社長からみんな外国で暮らしていて責任を果たしていない
これだけの事故を起こしても何ら責任を果たしていない
この責任の重さからするとそんなことがあっていいのかとなる、そして何ら検察でも政府でも責任を問わないということもおかしいのである。


つまりもし責任の重さを自覚して覚悟してやるならいい、その自覚と覚悟がないから軽い気持でやるからこういう悲惨な事態になった。社長になりたいという人は多い
でもバス事故を起こして死者を出した会社の社長が謝っていたげとずいぶん旅行会社も重い責任が問われるのだとみた。
金持ちになりたいという人は多い、でも10億円もった人は10億円の責任が課せられる、それを有効に使えないものは責任が問われる
それができるのかというと簡単にはできない、それで50億も稼いだという野球選手が覚醒剤にはまり身を滅ぼした。
湯水のように金を使えてもそれで身をつぶしたとなるのだ。
でも別にそういう重い責任を自覚してはいない、もし自覚していたら事故を起きないように細心の注意を払うだろう、それよりコストだとなり競争に勝つために安くするということで事故になった。
それは原発事故の社長がコストカッターとしてのし上がったということでわかる
コストと安全は対立するものだからそうなる、安全に金をかけるともうからないからそうなる、でも一旦事故が起きたら全部失うということか事故の恐ろしさである。
死んだ命はもどらないということもあまりにも重い責任をだったとなる
事故というのは本当に怖い、例えば石油ストーブでも何かの間違いで火事になるとすべてを失う、二階にいて消し忘れたり外出するとも消し忘れたりすると火事が怖いとなる
それは一回の事故でもすべてを失うという恐怖なのである。
いづれにしろ自分でもそうだが重い責任がみんな課せられていることを自覚しなかったのである。

タグ:権利と責任
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2016年02月15日

白菊と遺影 (過度な供養は先祖崇拝から偶像崇拝になる)


白菊と遺影

(過度な供養は先祖崇拝から偶像崇拝になる)

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白菊の金地に映えて遺影かな

母の亡きあとに遺影の微笑みてなお我が家を見まもりてあれ

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仏様に飾る花としてはやはり赤が交じっているのは良くなかった。
黄色はいいらしい、それは確かである。
一番あっているのは白菊であった。これが一番清楚であっていたのである。

日本では仏教では死者を延々と供養しているのも異常なものとなっている
でも世界的に見ても死者を崇拝する供養するのは普通になる
ほとんど先祖崇拝の宗教が基本にある。それは人間が死ぬとみんな誰でも特別になる。
崇拝の対象になってしまう。それは死者というのが何かわからないからである。
だからそこにどうしても畏れの感情が生れそれは先祖崇拝の宗教となる
モアイ像であれ何であれ古代の像となるとみんな先祖崇拝なのである。

だからこれは仏教とは関係ないものであり先祖崇拝に結びついたものである。
むしろ先祖崇拝を排斥するものとして本来の宗教はあった。
それは釈迦の仏教でもそうであり一神教でもキリスト教でもイスラム教でも先祖崇拝を否定している。それは偶像崇拝になってしまうからである。
宗教で一番怖いのは偶像崇拝なのである。ほとんどの宗教が偶像崇拝になっているからだ人物を神にするもの、仏にするものは偶像崇拝になるから危険なのである。
だから仏教が仏像を礼拝の対象にするときやはり危険になる
それを価値あるものとしても危険がある


人間は死者になると何か過度に死者を祭りあげる傾向がある。それは悪いものではないにしろ月命日だとか仏教では延々と供養をする、こんなに過度に死者を供養するのは先祖崇拝でありそれは仏教にはないことである
ただ死んでも死者を忘れない、死者とつながっていたいとういことは悪いことではない
死者がそれほど尊いものなのかともなる、なぜなら死者がみんなそんなに尊敬に値するものとは限らないだろう。
もしそんなに尊敬するなら生きているとき尊敬するべきだろう
生きている内は老人は死ねとか若い人は毎日ののしっているのに死んだから尊ぶことがあるのか?


ただ嫁いできて嫁が満足しないで恨みを残して死ぬような家は栄えないというのは本当だろう。
そこに介護であれなにか家族の大きな問題がある。母は自分の家でいい待遇をされなかったけど最後はなんとか自分が介護して今は死んでその遺影がほほえんでいるとなると救われる
そういうことは確かにあるから介護とかでも冷たくできないことがむずかしいのである。これはそれぞれの家の事情があり他からわからない問題である


ともかく死者には不思議に菊があっている、「菊の香や奈良には古き仏たちー芭蕉」のように菊があっている。赤い花はあっていないというのは言える



タグ:遺影

2016年02月16日

朝日新聞の創価学会対共産党の大研究の批評 (マスコミも常にネットから批判される対象に)


朝日新聞の創価学会対共産党の大研究の批評

(マスコミも常にネットから批判される対象に)

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●社会に必要だから創価も共産もある


創価と共産党は似た体質なのだろう。支持者も競合するから争うことにもなる。
名古屋の市営住宅では底辺層が住み創価か共産党とのどっちかにみんな所属している。
それはビラが貼られているのでわかる。
底辺層はどっちかに所属する、要するに底辺層はともかく頼るべきものがないからそれがなんであれ頼れるもきなら頼るとなる、つまり何らか需要があればそれに応じるものができる、それがこの世に存在するのは必要悪としであり支持されるしなくすことはできない暴力団でも必要悪としてありなくすことができない、パチンコであれギャンブルでもそうである。
そして富裕層はエスタブリッシュメント(支配層)はこの世で得するようにできている。
労せずして地位を得て収入も高いとなる。それで公務員が批判されるのである。
それは地方ではコネが多いというときそうである。
支配層は人間的にもつながりがありコネをもち得する仕組みができあがっている
それが一番如実に現れているのは就職のとき就職にも保証人が必要でありその保証人が社会の有力者だったら採用されるとなる。


ところがそうしたコネのないものは就職する最初の段階ではねられることになる
マスコミ関係でもたいがいアナウンサーとかは何らか有力者の推薦でなっているのが多い一方で創価でも民音とか通じて芸能界を支配して宣伝に利用する
それもコネでありネットワークを作りマスコミを支配する、それは別に自民党でもテレビでの報道をさせなくなるとか大臣が言っていたからみんな同じである。
権力でもって大衆を操作する、マスコミは影響力が大きいから特にそうなる
宣伝費で収入を得ないとそもそも報道すらできない、テレビとか新聞とか雑誌とかはそうなる、するとどうしても宣伝費を出すものに報道も従うことになる
一番宣伝費を出しているのは大会社であり東電とかでありそれは組合もありその額は大きかった。すると原発などでも反対はできない仕組みができあがっていた。
東電では天下り先として検察とか官僚や政治家も取り込んでいるからもう何も反対できない、朝日新聞まで中国で東電に接待されていたとき原発事故が起きたのである。


この朝日新聞の記事で創価が中卒などで地方から流入した人たちが一つのコミニュティとして創価が生れたというのはあるけどもそれは敗戦になって日本が精神的支柱を失ったことにあった。天皇を神として敗れた結果精神的支柱を失い、民主主義になり思想が自由になり解禁されてそうしたカルト宗教団体であれ左翼系も堂々と活動できることになったからである。
ただ創価の基を作ったのは団塊の世代の上の親の世代である。竹入とか矢野とかの議員の世代である。団塊の世代になったときはすでに会員数は限界になるほど増えていたのである。
創価の手法が座談会とかなにか庶民的であり隣組的なコミニュティ感覚があったのは確かに戦後そうしたコミニュティが崩壊してせいもある。だから団地とかでもそこには戦前とかの社会とは違う、核家族集団でありそこでは精神的不安定となりそこに座談会とかコミニュティ感覚の組織化で会員を増やしたということはある。
それは田舎では死者で葬儀や供養で檀家を中心にコミニュティが作られていたとにている宗教とはコミニュティを作る機能としてあった。

●底辺層が権力集団化して社会に影響する

創価とはともかく底辺層を支持基盤としてきた。そこには信仰の求道心はゼロである。
底辺層とか庶民の感覚はそういうこととは関係ない、ご利益を得ればいい、何かもらえればいい、何か困ったことがあれば助けてくれればいい、得したいということしかない、
それを無下に否定はできない、なぜなら頼るべきないからそうなる
ちょうど借金したくてもできない、借りるところがなければ消費者金融から借りる他ないと名と同じである。
そういう底辺層は一万二万とか貸し借りしたらまた消費者金融から借りて苦しんでいて頼ってくる。すると創価でも共産党でも弁護士をかかえているから相談にのるとなり会員になる、そうして支持者を確保してゆく、要するに誰も相談にのってくれないということがそういう団体に頼るということになる
そこに社会の矛盾がなりなぜそういう団体がなくならないのか?それは社会の歪みがあるからである。
頼るべきものがない、コネがないということは権力を持たないということである。


するとそういう底辺層はなんとかして権力をもちたいとなる、するとそういう底辺層が集団化するときそれが宗教であれマルクスの思想であれ何であれそんなこと底辺層にば関係ないことである。一つの巨大な権力集団と化して社会を動かすことになる
だから創価では政治であれ司法であれ皇室まで会員をスバイのように入りこませて権力を手中にしようと日夜活動することになる、権力への野望のために活動するのが日課である選挙は最大の権力を得るための活動だから日々選挙のために活動しているのが創価であるそれが一番権力に結びつくからである。
政治家でもそこに何百万の票があれば注目するし利用しようとする、また企業でも何百万という会員が得れば商売になるとみる、それで池田大作と松下幸之助が会談したというのは松下幸之助は電気製品を売れるということでそうしたのである。
その団体はすでに社会にそれだけの会員を有していることで影響力をもつことになる
マスコミ関係でも毎日新聞でも福島民報でも聖教新聞を刷らせていて支配する
日々の活動がそうして権力を掌握することに向けられている
正本堂を建てたとき大成建設が請け負ったのだがその時大成建設の社員が選挙のときかりだされたというのもそうであるしメガバンクに兆の金が貯金しているとなると今度は創価大学の就職させろとなりその枠がもうけられる、それは支配層がコネをもって就職できるのと同じである。もしそうして底辺層の団体が権力をもてば逆にそういう団体に入れば得だとなり会員を増やすことになる


●マスコミも権力に操作される(日本テレビもそうだった)

いづれにしろこの世の中は権力でみんな操作されている、何するにも背後に巨大な権力がありその意向で決まる、原発事故もそのために起きたのである。


日本テレビは6月1日、200人以上の社員を擁する報道局のトップに 創価学会員の石井修平氏(53)を 
抜擢する人事を発令した。 石井氏は昭和44年入社、政治部記者からニュース編集部長などを歴任。 
3年前に報道部長に昇格 

2008年10月5日 ? ついに、テレビCMは”ご法度”とされてきた宗教CMにも手を出すようになったという。 
先陣を切ったのが日本テレビ。まだ、僕は見たことがないが、創価学会のCMを流すことになったというのだ。 
ある関係者。 「もちろん最初から露骨なCMは… 


日本テレビから一時コンタクトがあったがあとであわてて解消したことでもわかる
創価を批判するものは社会から抹殺されるようになっている
それだけの権力をすでにもっているのである。それは原発の安全神話でもそうだった。
それは政府から東電からマスコミからすべてが一体となり安全神話が作られていたのである。それにはもう誰も反対できないものとなっていた。
日本テレビを経営しているのは読売新聞でありその社長が、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力発電の父と言われた正力松太郎だったのである。
その構造は天皇を中心として戦争になったと同じだった。そこでもには負けないという神話が作られていたからである。日本は神国であり負けないという神話が作られてそれに反対は誰もできなかったのでありそうして300万人が死んだのである。

報道というのはマスコミになると必ずかたよっているのである。
テレビは一方的だから洗脳メデアになる、何か反論ができない、ただインターネットで多少反論できるうよになったからこうして自分も書いているのである。
テレビで小高の人の言い分を一方的に報道していた、国民年金しかもらえない人がと多いから補償金を持続して払ってもらいたいということを主張していた。
そうなら南相馬市民だって国民年金しかもらえない人が多いのである。
なぜまた小高だけがそんなことを主張できるのかとなる、せめて小高の人に反発する人もいるんですが、、、とか一言でも反論を加えると公平になるがテレビは一方的になるのである。
マスコミもこれから絶えず批判にさらされる時代である。あらゆるものが批判にさらされるというのがインターネット時代というのもそうである。
マスコミでもすべてに通じることはできない、創価に関してはやはり経験者が一番通じているからである。自分は実際に経験したから内部を知っているから書けるのである。
そういうことは他にもある、その当事者が一番知っているのである。
マスコミだけがしきる時代は終わったのである。

創価も天皇のような池田大作が死ねば死んでいるのか分裂しかねない、でも宗教に呪縛されているからなかなか簡単には解体しないだろう。やめると地獄に落ちるとか恐れているひいる人が多いからである。それも会員を保つには有効な手段だから創価は会員が急激に減らない、一方図のように共産党の票は一時急激に減っているのである。
共産党には宗教のしばりがないから増えたり減ったりする度合いが強い、支持するのも党員でないものがその時の情勢によって投票するからそうなる
創価は一定しているのは会員意外からの票がとりにくいからである。でも指示しているのはカルト宗教だからそれがまちがっていてもその数がそんなに変動しないのである。
ただ池田大作が死にカルト宗教の呪縛かなくなと一気に下落してゆく、その兆候はすでにみられるし衰退するだけになっているのが現状である。
タグ:創価と共産