2016年01月27日

昭和55年の150万の保険金が倍になっていた (当時をふりかえるーバブルからバブル崩壊の時代)



昭和55年の150万の保険金が倍になっていた


(当時をふりかえるーバブルからバブル崩壊の時代)


昭和55年(1891)

1989年 38000

1980-1986 ドル 225円


グラフで株価の推移をみると1989年が3万8千円というのは驚く、まさにバブルでありそのバブルが崩壊してそれからは日本の経済は成熟になり下落していった。
その頃地上屋とかが話題になったのはバブルだった。


日本は88年には「1人当たりのGNP」が世界最上位のスイスやアメリカと肩を並べ、この時点で主要先進国に伸し上がって居たのです

バブル期の過剰融資は不良債権に変じ”負の遺産”はその後の日本経済を圧迫し、複合不況の中で”浮遊層”に代わり「ニュー・プア」というが析出し、彼等はフリーター(95年の阪神淡路大震災にビックリした後、

なぜ150万の保険金が倍になっのか?それはバブル時代と重なったためである。
余剰金が生れ配当金がついてそうなった。
経済が下落傾向になってもバブル時代とかに蓄積された金が今日まで計算すると倍以上になっていたのである。
それはさらに40年前とかに貯金した人は金利が高く今になると倍以上に増えた
だから老人は金を持っている、その景気のいいとき貯金しないものは増えない
今は金があっても金は貯金では増えない、かえって物価高とかで目減りしているのである
人一人が死ぬと残された財産とか金が問題になる。それもまたその人の歴史だった。
母は大正生れであり百歳まで生きたから金の計算をするとそれもその人の一生だった。
特に戦前から戦後に大変化があった。前の夫が事故で死んで多額の補償金をもらったが戦争になりその金が紙屑になったのである。
ただわずかの土地を買った分だけが残されたのである。
だから金の価値も変動するし金も紙屑になることがある


高度成長期は小さい店でもどこでも繁盛して金を残すことができた。貯金していると金利が高いからそれが30年とか過ぎると倍以上になっていたのである
不思議なのは金利というのは高い時があっても不景気になったからと低くはならないのである。金利は高いまま30年とか同じだから倍にもなるのである
だから今いくら金をもらっても金利がゼロだから10年20年貯金しても増えないのである。増えないことは確実に目減りしてゆく、物の値段にしても1980年とかその前になると安かったが今は家の値段でも当時の3倍、4倍になっている。
自分の家は築45年くらいだがその時建てたのは400万だったのである。
家を建てるなら今だよと言われて姉と母が建てた家である。
その時の大工の手間賃は本当に安かった。そのあとに急に手間賃があがった。
グラフでも最低賃金が3倍4倍と上がっていった時代だったからである。
そうなると400万では建てられない、早めに建てたので安かったのである。
木材も地元のものを利用して建てていた。
まだ外材は入らない時代だった。


ただ時間が過ぎるのも早い、神戸の大地震から20年もすぎたとということでもわかる
あれは最近起きたような錯覚がある。時間というのはたちまち過ぎる
そして過去をふりかえることになるのだがそれもまた明確ではなくなる
そんなことあったのとみんななってしまうのである。
今の老人が金をもっているというときその老人の功績ともならない
高度成長で運が良くて金利が高いから金が増えたのである。
その恩恵は母の場合は何も使わない、食べ物は贅沢しても他は一切使わない、貯金して残すだけだった。その一部は盗まれたりしたから何のためにためたのかもわからないのである。
ただ遺言したのが孫に金をやということであり遺言書はなくてもやることにした。
それはたいした金ではない、相手もそれで納得してくれた。


ともかく死ぬといろいろな整理がありこれも49日まで納骨するまであり手間だっと思っただいたい49日間は整理にかかる、自分の場合、母の貯金があったがこれも相続人が自分と孫だけなので良かった。
兄弟が多いとわずかの金でも相続することが大変になる。
自著してもらい実印をおしてもらい印鑑登録証明書をもらうとか離れているとめんどうになるのである。
49日の納骨はこれもやはり大きな区切りになる、まだ49日は家にいるというのも死者と語り死者がいるという期間としては適当だった。
こういうのは長い伝統がありそこに何かしら意味がある。
伝統的なものには必ずなにかしらの意味がある、これは別に仏教とも関係ない、日本的な風習でありそれが仏教化したともなる、仏教の教えは死者については何も語っていないからである。


要するに死者に対する伝統的文化が喪失するとき、その伝統なしで葬儀を行ったり死者を送るということを新たにしなければならなくなるとする本当に負担になる
火葬場で死体を焼いたりするのは葬儀屋でするがそれは機械的なものであり納棺師とか最近生れ専門家である。だからなにかしっくりしないのである。
違和感を覚えたのである。
死者を送る文化とか地域が喪失したときではそれを専門家が簡単にになえるのかとかなるのである。
社会や時代が変化するとき葬儀でも変化するのだが死者に対する考え方も変わるのだがそれを簡単にはできないのである。
長く伝えられたものには必ずなにかしらの意味がありそれが新たに意味を作り出すことは時間がかかるし容易ではないのである。
確かに機械的に物として死者を焼いたり骨にして墓に入れたりするのは物理的には負担にはならないけど何か精神的には疲れたなと体験してわかったのである。

死んでからいろいろ整理がある、財産とか金の整理が具体的一番問題になるがではその後死者をどうするのかとなるとこれもまた大きな問題でありそれは一個人するのは大変である。各個人自由にしろと言っても簡単にはできない
こうして現代はいすいろいろ面で伝統的なものを失っているから葬儀とか墓がどうだこうだとか問題になる
でも旧来の葬式の方法も合わないことも確かである。
なんとか納骨が終わればまた死者を葬る大きな区切りになる。
今回と家から出棺して火葬して家で49日骨を安置したので良かった。
姉のときは忙しく葬儀場から出棺してすぐに墓に骨を納めたようである。
49日間置いた記憶がないのである。なにかあわただしくしてしまった。
今度は順序良くできたので良かったと思う。




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