2016年01月25日

故郷とは何か(一つの詩より考える) 土地所有(エンツェンスベルガー詩集より)


故郷とは何か(一つの詩より考える)

土地所有(エンツェンスベルガー詩集より)

ぼくがぼくの目できりひらいた土地
ぼくがぼくの今日の手で抱きすくめる土地
ぼくの土地、ぼくのはかない土地
うとましくもしたわしいこの時代のために
おまえを呪ってぼくのものとした
喜びに輝いている土地

ぼくはおえまの名を言おう、語れ
語って言葉をぼくに返せ
言葉のないおまえの口から


ぼくの土地、ぼくはおまえはいたわりはしない
ぼくはおまえを自身ははかない身で
このはかない光にかざしている それぞれが
それぞれの美しい夏の照り返しを受けて
オリーブの影のように軽やかなぼくの土地
おまえの輝きつつ息づいている
あたたかな境界をぼくはうるおす
そしてぼくは朽ち果てることにオリーブの影のようにさからって
おまえの上に休らいでいようとおもう

ぼくのかぎりない土地
ひじではかりとることのできる土地
ぼくのやさしい領分、オリーブの木影ほどの
一つの墓ほどの大きさの領分
ぼくに残されている年月のなかの
血なまぐさい瓦礫にさからって花咲いている土地


この詩は何か面白い、なかなか詩というのはいろいろあっても知らないのが多いのであるこの詩人についても何もわからなっかたし他を読んでも理解できない、詩は詩を書いていても一般的に理解しにくいのが多いのである。
この詩は原発事故などで故郷を失ったことで故郷を考えるのにふさわしい詩である。
これは別に故郷を詩にしたものでもない、一つの自分の土地を所有しことで詩にした
実際は故郷となるとこれよりずっと広い感覚の土地だけで故郷とにていないこともない
これはヨーロッパの貴族の私有地感覚なのだろう。

ぼくがぼくの目できりひらいたというとき、それは自分の手で苦労して開拓した土地とは違う。目というときそれは画家とか詩人とかが芸術化した土地のことである。
自分は石とか樹をテーマにしてそれをしてきた。それをなんとか詩集にまとめようとはしている。
オリーブの影のように軽やかなぼくの土地、、、というときこれも庭園的な感覚である。でもこの辺では故郷と言っても相当に広い、広い森があり飯館村なら森におおわれている70パーセントが森なのである。原始の暗い森におおわれているとなる
夏には暑さ知らずにそこの道は影がおおっていて涼しい風が吹く、その道は日一人くらいしか通らない、そういう道はどこの田舎でもある。
そういう場所があって安らぎがある、原町からでも鹿島からでも飯館村に行く道は森でおおわれていて暗い、だからこの詩のオリーブの影のようなよりもっと原始的な暗さの森がおおっている場である。


ただ自分は故郷を往き来しているからここは自分の領分の世界だということは共通している。ほとんど行き尽くしているがやはりかぎりない土地であり発見がある
ひじではかりとることのでる土地、、、これは目の前の小さな土地だが故郷でも相馬藩くらいになると自転車で行ける範囲であり距離的にも空間的にも計れる範囲なのである。
ただ実際は浪江辺りまでになるとまだ道の領域がある、狭くても計りきれないものがある

ぼくはおえまの名を言おう、語れ
語って言葉をぼくに返せ
言葉のないおまえの口から

これは面白い表現である。自然は大地でも山でも樹でも石でも自らは語らない沈黙の場なのである。
こんなふうに放射能で汚染されようが何されようが自然は語らないのである。
言葉はないにしてもその自然を汚せば自然は人間に復讐するのである。
原発に対しては自然が怒ったのかもしれない、それが津波となり人間を住めなくさせたた自然に言葉がなくても何もしないということではない、自然を汚すものは自らも汚されるのである。
この語れというとき語るのは詩人とかなのである。
山となり樹となり石となり大地となり詩人は語るのである。
宮沢賢治などはそういう詩人だった。斉藤茂吉などは短歌の領域をでていないから詩人とは言えなかった。


現代ではこうした詩人はたいがいアウトサイダー化する、異様な人間化する
なぜなら現代文明とは相いれないものだからである。
東京という大都会を見ればわかる、もうそこはすべて人工物であり自然はないからであるもちろん森におおわれた木蔭もない、クーラーで涼しさを作り出す人工空間なのである。異様な人間というとき文明人こそ異様な人間と化しているのである。
それはロボットなのか何なのかわからない、像でもって語れという人が東京に住んでいるけどその像が全くない世界なのである。
石というときビルの谷間にある庭の石でありそういうものは自然とも違う。
石とか磐とかはもともと奥深い自然のなかにありビルの谷間にあっては活きてこないのである。


いづれにしろ浪江から避難した人が高層ビルに移り住み都会の灯を見ているのも不思議である。こんなところ嫌だ、田舎の方がいいというときそうだろう。
あまりにも違った世界であり落ち着かないだろう。
上野霄里氏のように文明そのものを否定した思想家がいる、それはニーチェでもそうである。自分もそういう人に共感するのは普通の感覚なのである。
そういう感覚が喪失したのは人間があまりにも自然から離れた結果なのである。
自然という像から人間は作られるがその像がない、そこにあるのはロボット化する人間だとなる
だから大きく見れば原発事故も文明を否定しないかぎり防ぎようがないものだった。
文明を肯定していれば科学技術が宗教となり原発も必然的に作られたのである。
ではお前は電気なしで暮らせるのか?原始時代にもどれるのかという議論に飛躍することは良くない、お前も文明が必要なんだというときそれも肯定せざるを得ない
車を少なくするとか自転車をなるべく利用するとか文明の科学技術を制御する思想が必要なのである。そもそもそういうものが仏教にもキリスト教にも中国の老子などの思想にも二千年前にあり予言されていたのである。
文明から原発事故が必然的に起こることは予定されていたことなのである。


人間の共同性がグローバル化経済とか広域社会であるがそれもまた文明の過度な発展のためだともなる、世界中の物や人が自由に交流するというのはいいようでそうでもない
それはその土地土地の文化の破壊にもなりその土地固有の文化が失われて金だけが唯一の価値となり原発事故で故郷を失い、共同性を失ったようにその矛盾がこの辺に極端な形で現れたのである。文化のなかには金で計れないものがある
金より文化を重んじればそうなる、金で何でも買えないのである。
部落でもその共同性が破壊されたのは補償金をもらってどこに住んでもいい、それがいいということにはならない、不便でもなれ親しんだ仲間と一緒にいて死ぬのもいいとかいうのも価値観である。限界集落でなぜそこに不便でもいたいかとなるとそういう金では計れない価値観があるからそうなる、金や不便さより仲間と一緒にいる方がいいともなる
金はかえって人間を結びつけない、何か分解させる作用をもっていたのである。
欲望を追及していけば必ず金を求め金だけが唯一の価値となり仲間もなにもいらない、金があればいい、ここは不便になったから別な便利な場所で暮らせばいい、家族でも別々になってもいいとなり老人だけが取り残されたのである。
だから蝋燭でもいいから家族一緒に暮らせるのがいいと原発事故当初に大熊辺りの人が言ったのはまさにそういうことだったのである。
蝋燭や炭にエネルギーを頼っていたら家族がばらぱらになることがなっかたという逆説があったからである。
ただ言うは優しいが現代文明を否定するといってもそれは世界がそのシステムからの逃れられない
資本主義のシステムから田舎でも石油を使えば離れられない矛盾かある
ただ原発事故は現実問題として文明否定の方向に向かわざるを得ない具体的なものとして志向するうよになったのである。

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posted by 老鶯 at 16:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連