2016年01月10日

『百年の計、我にあり〜知られざる明治産業維新リーダー伝〜』 (別子銅山の改革に邁進した明治の偉人がいま蘇る! を見て)


『百年の計、我にあり〜知られざる明治産業維新リーダー伝〜』

(別子銅山の改革に邁進した明治の偉人がいま蘇る! を見て)

広瀬宰平と伊庭貞剛。2人は一企業のみならず、国家百年の計を見据えた改革を次々と実現、それは明治日本の産業維新とも言えるものであった--。


このドラマで広瀬が主張したのは一企業のためではない、国家のためにということがモチベーションとなっていた。
それは明治はみんなそうだった。異常なほどに国家を意識せざるをえない時代だった。
政治のみならずあらゆのる分野で国家を意識して国家をになって生きていた。
エリートは特にそういう責任感をもっていた。だから留学した人たちもそうであり英語ができなくて自殺した人もいたというときそれは国家によって派遣されていて国家意識が強いからそうなった。
明治はなににしろ国家を意識せざるをえない時代だったのである。
内村鑑三が二つのJのためにというときJAPAMが入っていたのである。この時も愛国心が大きなモチベーションになっていた。
国家が意識されるから愛国心ももっている。それは一企業でも国をになっているという意識がありみんなそうだった。まず国家の一員でありそのあとに付属していろいろなものがあった。国家が最優先であり結果として天皇が重きを成したともなる
それは明治だけではない日本は大正から太平洋戦争の敗北まで国家が最優先である社会だったのである。


産業でも絹織物が輸出産業となり全国で生糸の生産が農家で行われていた。
養蚕は農業でもあるから日本の主要産業となった。今でもいたるところに兜屋根とか二階で養蚕をした家が残っているのはそのためである。
そして戦争に負けた結果、今ではその絹織物産業で働かせられたのは国家のためでありそれは戦争のために武器を輸入するためだったとか批判されている。
絹織物産業も国家の指導のもとに行われていたのである。
その是非はともかく企業でもそもそも明治から国家なくしてはありえなかったのである。自分の母親も原町紡績で十年間働いていた。原紡としてこの辺では有名だった。その工場の門に引き込み線の写真があり鉄道で運ばれていた、原町駅は平駅と同じく機関区になっていて木材とか石とか物資が東京に運ばれていて栄えた。それは全国でそうなっていたのである。

そこで興味深かったのはフランスの技術者を呼んでいたのだがその人には設計図だけを作らせて広瀬宰平は日本で自力で作るべきだとフランスの技術を呼ばずになしとげる。そして鉱山技術を学ばせるために塩野門之助(浅利陽介)を留学生として派遣した
あとで外国の石炭を輸入すべきだというときも日本の自力で行うべきだと反対してさせなかった。それで塩野はやめたのである。
これも当時は国家を意識して日本人だけでやりとげるのだという自立心は結局明治維新を成し遂げた独立心に通じていたのである。
日本人はそれだけ西欧列強に対しても軍事面だけではない独立心をもっていた
だから明治は常に偉大な時代であり偉人の時代だったと言われるのである。
今になると敗戦の結果、国家意識は常に否定されてきた。国家という言葉さえタブーになってしまった。国家というだけで嫌悪を感じる人が多いのである。
そこに左翼系がさらに国家を忌むものとして国旗まで否定するようになった。


その変化があまりにも敗戦の結果極端なものとしてあり日本には国家はない、国家がないというときとても大きな責任感も生れない、百年の計というのも生れようがない
国家の歴史は二千年とか長いのだから百年の計がありうる、でも戦後は国家がアメリカによって否定され従属国家、植民地国家になったとき日本人は国家意識もなくなりただ目前の利を追うだけの民主主義ー民利主義になった。
国家百年の計に犠牲になるようなことは否定される
教育でも個々人の立身出世主義しかない、受験戦争は上の階級につき官僚になればただ得して楽な生活をするということしか教育にもない、他者を蹴落としてでもそうなれというのが戦後の教育だったのである。
要するに戦後は戦前からの歴史継続が断絶してしまったのである。
だから今や日本人とはなにかとなると日本人はいないアメリカ人になったともさえなる
日本人であるならやはり日本には長い歴史がありその歴史に育まれたものがあり文化がありそれに基づいて形成されるのが日本人だとなるからである。
だから盛んに無国籍人だとかが恰好いいとかなる、ハロウィンなども明らかに日本から祭りすら消失しているから新しい祭りを求めて若者が大騒ぎしているのである。
あらゆる面で国家を意識していた時代からあらゆる面で国家が否定されてきたのが戦後なのである。
ナショナリズムはファシズムと同義にもなっていたのである。


奇妙なのだけど国家意識がなくなり愛郷心もなくなった、その一つの原因が愛郷心も田舎で独立していた生活をしていたとき愛郷心もあった。
自給自足の生活していたとき、炭焼きをして都会の人に頼らずに生活していたとき田舎の人にもと独立心があり俺たちは別に都会の人に頼らずに自分達だけで生活できるという独立心と自負があった。
今は限界集落とかなるとインフラのために180倍の金がかかるとかそれは税金の無駄だと都会の人に言われる、もし炭が燃料だったらそんなことは言われないのである。
自分の家が故郷の木材を利用して建てたというとき故郷に土着するということで愛郷心が生れる、愛国心と愛郷心は何か共通したものがある。
広瀬宰平が盛んに日本は日本にあるもので外国に頼らないで資源でも技術でもなしとげるという自負が愛国心に通じていた。そしてそれあ成し遂げたのである。
そこには公害問題が生じたから今と同じ状況が生れたがこれも煙害を防ぎ補償金だけですまそうとしなかったのである。


これを今の原発と比べるとその相違が明確になる。原発も実は国家の事業であり一企業の東電の事業ではない、これは住友ではない一企業ではない国家の事業としてはじまったのである。国家の事業となれば百年の計のもとに成せねばならないものだった。
でももし百年の計となれば原発というのは放射性物質の処理を考えねばならないがそれも考えないから百年の計だったら原発を日本に作ることは危険だった。
そもそも日本の原発はアメリカ主導で成されたものであり別子銅山のように国家が自力で独立心が愛国心があって成したものでもない
アメリカの主導で成されたのが別子銅山とは根本的に違っていた。
別子銅山には国の援助はなかった。原発は国が予算をだして作ったのだから国家事業でありそうだったらこれこそ百年の計がなければ作れないものだったのである。
だから明治人と戦前の日本人はそもそも人間そのものがあらゆる分野で別人になっていたのである。
企業でもそうである。まずグローバル社会になれば国家を意識する、国家がない方がいいのである。それはアメリカでもそうなっている。だから世界を支配しているのはアメリカという国家ではなくロックフェラーやロスチャイルドとか武器を作る軍需産業会社だとか言われる、グローバル社会では大企業が国家であり大企業が世界を支配する
国家は大企業に従属したものとなる、会社の利益がすべてだとなる。
そしてその会社の利益にあづかるのがその幹部達でありその人たちこそ世界の富をにぎり世界を支配する人たちだとなる。
東電でも実質の富を産み出すのは東電でありそこに政治家や検察や警察の官僚が天下りしていたのだから東電を批判できなかったし今でもそうである。


ともかく戦後70年そして明治維新からすでに140年とかなるとあらゆるものを見直す時代になった。根本となる国家というのもそうである。国家というのがあちらゆる面で戦後否定されてきたのである。それは左翼により過剰に否定されてきたのである。
そのことからすでに日本にはモラルもなにもない、ただ個々人の利益の追及しかない、
自分が得する自分がもうけるためには他者を蹴落としてもいいしかない弱肉強食の社会になった。そこに日本人の義理人情もなにもなくなってしまった。
自分が弱者になったときのことを書いてきたが何の同情もない
ただ弱者になったことをいいことに攻められるだけだったから地獄だった
相手もまた金で追い詰められていた弱者だからそうなった。
日本人のモラルもなく世界が金を求めるだけしかなくなったのである。
それを否定しようにもそういう資本主義であれシステムの中に組み入れられているから否定できないのである。
別子銅山の一企業でも国家を意識して経営していた。そのためには日本の資源で日本の技術で独立心で成し遂げるという意気込みがあったからこそできた。
経済的自立、技術的自立の精神があって愛国心もあり愛郷心もあったがグローバル経済はそれを破壊したのだからそれは日本だけの問題ではないとなる。
その結果としてなぜこの辺で原発事故で住民が離散して帰らないのかという問題とも通じている。


そもそも自給自足の生活からはあまりにも離れてしまった。あらゆるものが家でも建て売りでは材料でも大工さんも地元の人でない、会社の社員が組み立てるのてあり地元の人が地元の材料で建てているのではない、それは食料でも今ではそうである。
あらゆるものが全国から外国から常時は入ってくる、だから金さえあればどこに住もうが困らないとなる。自給自足の生活だったら地元のもので何でもまかなわなけれはならないから愛郷心を自ずともつようにな。
それがないからみんな散り散りばらばらになった、故郷と言っても愛郷心が育まれような社会になっていなかった。それは国家でも同じであり愛国心はかえって戦争を奨励するものとして否定されてきたのである。
いづれにし国家百年の計などありえないというときそもそも国家意識が喪失しているのだからそうなる
国家とは地域のエゴとか個々人のエゴとかを越えた大きなものとしてあるそれが公共の概念である。それが喪失したとき社会自体がばらばらに分離離散して崩壊する
ただ弱肉強食の社会でありそれはまさにモラルもなにもない動物的社会に堕落してしまうそれはまさに地獄ではなかろうか?
確かに国家が戦争で何百万人が犠牲になった地獄を作り出したがまた逆に国家無き社会も地獄を作り出す、つまり国家を愛国心が愛郷心がない社会はまさにそうなってしまうことを原発事故でも今の社会がそれを示しているのである。



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