2016年01月09日

武田信玄はなぜ天下をとれなかったか? (天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず)


武田信玄はなぜ天下をとれなかったか?

(天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず)

武田信玄が人は石垣、人は城としたときこの原理に従って言った。人の和が一番大事だから城はいらないとした。
そして滅亡したのは肝心の人の和が家臣団の和が崩れたためだとなる。
次の代の勝頼は家臣団をまとめることができなかったためだという。
人の和というとき中国は巨大だから必ず分裂して三国志が生れた。大きすぎて一つになる、和を作れない国である。それが弱体化する原因である。
日本は一億総なにかとか一眼となってまとまるから小さい国でも強いとなる。
和の力が働きやすい国である。


でも国の興亡でも人でも家でも何でも一つの原因で決められない、様々な要因があり一つではないのである。
武田信玄には何かそれがみんなあてはまる。地の利というときこれも山国であり外の情勢にうとくなる。山に囲まれているから閉鎖的になる。それは会津ともにている。
だから直江津の港から海に出たいということで謙信と戦ったということもうなづける。
今でも直江津は船がでているし自分もその船に乗ろうとしたが乗れなかった記憶がある。戦国時代地の利というとき一番信長もっていたのである。京都に一番近い距離にあったこともそうだし海に面していたのもそうである。
京都に近いから近江にその居城、安土城を作ったのもそのためである。
歴史的人物が生れるにしても地の利というのは影響している
どんなに傑出した人間もその人の力だけではなりえない、地の利の制約を受けるのであるだから政治は地政学であり地の利を基にして考えねばならない


ロシアは武田信玄のように海にでるための港を求めた。それでロシアはシリアに固執するのは地中海の港がありそこを海に出る拠点にしようとしているからである。
その前にはだかるのがトルコになっているからEUは地政学的にトルコと組みトルコを重視すべきだったというのもわかる。
世界でも世界史でも地の利がわからなくして理解できないのである。
そして日本国内でも地の利というのが一番わかりにくいのだ。福島県自体も広いからわかりにくい、この地の利で何か必ず誤解が生れてくるのである。
一つの県から地の利がわからないのである。東北はなんとかわかるがそれだって岩手県なども広いからわかりにくい、他でも一つの県から地形を具体的にイメージできないのである。
イメージしやすいのは奈良とか近江はイメージしやすい、奈良は平地を山が囲む広い盆地であり

やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし


近江も中心に琵琶湖があって山が囲んでいるからである。そして近江は東と西の境目である。
関が原を境にそうなっている。関が原を越えると近江であり景色も何か穏やかな感覚になる。そして関が原が天下分け目の戦いの場であるというのも地の利のためだった。
必ず春にゆくと関が原は雪が残っている地帯である。
そこが西と東の境目としてふさわしいのである。東(あづま)は関が原からはじまる地域だった。ここで西の文化と東の文化が別れる地域だった。
それで伊吹山でヤマトタケルが死んだ山でありここを境にして壬申の乱があり西と東の勢力がぶつかる地点だったことでもわかるのだ。


いづれにしろ武田信玄は天の時、地の利、人の和からみるとそれを象徴している人物なのである。
人の和があっても人の和が崩れ地の利が京都から離れて山国で天下を見るには不利であった。そして天の時も逃したのである。
天下をとるにしては謙信との戦いで時間を消耗した、結果的に天下とりに出たのが遅くすでに50をすぎて病気にもなり天の時を逃して挫折した。
人間は今でも個々人でも組織でもそうだろう。天の時、その人の人生でチャンスがくるのは一回しかない、それを逃すともうチャンスは永遠に来ない
ビジネスでも営業でも一回のチャンスをものにしないとあとは契約がとれないともある。それはどんな分野でもそうである。チャンスは何度も来ないのである。
恋愛でもチャンスは一回でありその時しないとあとはできない、つまり十代とか二十代の前半くらいまでしかできない、求道でも若い内しなければ年取ってからできない
若いとき放蕩したりすると老人になってもひびく、真善美を求められなくなる


結局ここの人間であれ平凡な人間であれ一つの教訓を残してみんな死んでゆく、武田信玄も英雄にしてそうだった。
死んでからこの人はこうだったああだっとかいろいろ批評する、そこには必ず教訓を残しているからである。それは平凡な一生でもそうである。
なぜその人はもっと何かをしていればよかったとかなぜもっと遊ぶということもしなかったのかとかなる。
それは時代を反映していたのだけど戦前生れだと働くばかりだったのはそういう時代だったからである。
でも戦後の団塊の世代になると遊び上手になる、近くの人が58才頃からスキーをはじめたというから驚きである。ピアノもしているとか趣味をもつようになった。
でもすでに65才くらいになっていて良くできるなと感心した。こういう人が戦後生まれには結構多いのである。そこが戦前生れと違うところである。


人間はただ長生きしただけで天の時を得ることがてきる場合がある。徳川家康は長生きしたから天下が自ずとれたともなる、武田信玄も長生きすれば違っていたのである。
才能がなくても長生きすればそれなりのことがてきる、才能があっても早く死んでしまうとできない、そういうことは個々人の人生でも家族の中でもある
母は百才まで生きたがそれが家族の中では意味ある価値あることだった。
もちろん長生きして意味がなく価値がなくなる人も多いし現代ではその方が多いから問題なのである。
でも才能を伸ばすのには長生きしていた方がいいとなる、凡庸な人間でも長生きして積み重ねるものがあればそれなりのものになりうるからである。
一方で天才的人物は別に長生きでなくても成果を残す、天才が短距離走だというとき短距離は努力してもなれない、生まれつきのものであるからだ。
マラソンはそうではないというとき平凡な人にも向いているというときスポーツでも生まれつきだけでは決められないものもある
大器晩成というけど平凡な人が長く時間をかけてやればそれなりのものになるということであり別に大器だからではないのである。
だから高齢化社会は平凡な人の才能が華開く時代だともなる
多様な才能が華開く時代だともなる、それが高齢化社会のプラスの点でもある


タグ:武田信玄
posted by 老鶯 at 17:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

卒塔婆峠についてコメントありましたので答えておきます



卒塔婆峠についてコメントありましたので答えておきます


卒塔婆峠は前は道として確かにあったけどその後道が埋もれてわからなくなった
江戸時代もありこの道は飯館村と玉野村を結ぶ道だった。
それは南北朝時代からつづいていた古い道である。

逃げ延びてきた十三名の落ち武者を村人が殺めるという事件があったそうで
その後、供養のため峠に卒塔婆を立てた事からその名が付いたとか??

その根拠はどこにあるのでしょうか?

南北朝の争いで霊山城が炎上したとき落ち延びた桑折氏は山王権現を信仰していた。
約十三人は宝財踊りと名付けて姿を変ずること左のごとし

柄杓廻  顔を染め短衣をつけ
子供懐抱  芋屑頭巾を冠り顔を隠し女衣つけ子を抱く
山伏  顔を染め
獅子
笊下冠
道心坊  顔隠し
座頭    顔を隠し
笛吹

このように変装したのは落ち延びるためにそうなった。襲われることを恐れて変装した。
十三名というのは落ち延びた武者のおよその数だった。だから卒塔婆峠で殺されたというのはそういう数が伝えられていたからである。
十三名が殺されたわけではないだろう。
山王権現は玉野村から山上村にも祀られている。山王権現は野馬追いの旗印にもある。
玉野村から二手に別れて落ち延びたのである。

sannnnou1.jpg

この旗印の武士は日下(くさか)となっている。山王権現を受け継いできた姓なのか?
日下石(にっけし)は別である。


落武者伝説は各地にあるけどこれは明確な歴史として残されている、宝財踊りで顔隠しということがあるからやはり武士としての身分を隠すものだったのだろう。
要するにそれほど襲われることを恐れていたからこういう変装をした
それで落武者が殺されたという伝説にもなる、落武者狩りなどもあったのかもしれない

その時郡山の多田野村から移った武士がいてその末裔が同級生だったことに驚いた。
南相馬市の鹿島区には只野、但野という姓の家が本当に多いのである。
その人はお浜下りのおつづら馬を担当してきたという。
つづらをのせた馬のことであり重要な役割である。
これも不思議な縁起だと思った。鹿島区の街内も古い場所であり古くから人が住み着いた場所である。自分の近くの神社に天明の碑があったことでもわかるからだ。
鹿島神社の脇の墓地には安永の碑もある。

落ち延びてきた武士を村人が殺すということがあったのか?それは戦国時代ではあった。
明智光秀などが村人に殺されたのは村人が手柄としてその首をもって報償にあづかるたである。ただ南北朝の争いは複雑であり誰が敵なのか味方なのかもわかりにくい
そういう中で村人が襲うということがあったのか?
それでもそれだけ恐れていたからこれほどの変装して霊山城を逃れてきたのである
それが祭りとして残ったのもその落ち延びる時が恐怖として残り記念として祭りとなったのである。

ここのサイトでは樅の木に注目していた。自分も隠れたように重厚な樅の木を発見した。
やはり相当な樹齢の樅の木であり貫祿があったので詩にしたりしたのである。
道のマニアとか廃線のマニアとか廃墟のマニアとかいるようです
こういうところには何かかえって魅力を感じるのも現代である。

お浜下り

参照したプログ

タグ:卒塔婆峠
posted by 老鶯 at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)