2016年01月07日

原発利権が国家的損失を生んだ 「日本の聖域」ー選択を読む



原発利権が国家的損失を生んだ


「日本の聖域」ー選択を読む


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 原子力村→利権化→原発事故

 原発→アメリカのGEの利権化→原発事故

 原発→地元の利権化→原発事故

 放射能汚染調査→被爆村→利権化→徒労、無駄

 除染→原子力機構→ゼネコンの利権化→効果なし


 なぜ原発事故が起きたのか、そのことを追及してきた。この本にもそれがまとめられている。これは雑誌「選択」で追及されてきたものである。
要点がわかりやすくまとめられている。
要するにあらゆるものが利権化するとき事の本質がゆがめられそれが災いを生む、原発事故もそうした様々な巨大な利権化がもたらしたことはいなめない
利益になればいいとしていろいろな不都合なことが見逃されてきた。


原子力村は原子力利権の巣窟でありそこに大学や学者や官僚や政治家が集まり利権化して政府の金が、国民の税金が湯水のように使われるのである。
安全神話」を作ったのもそういう人たちである。科学者の良心などもない
利権を得ればいいというだけになる。肝心の原発の安全は追及されないのである。

それは原発の原子炉でもアメリカのGEが作ったものでありこれもアメリカのGEの利権と化していた。GEでは外国のことだから安全をあまり計らない、古いものでも売ればいい、利益になればいいとなっていた。
そして製造者責任が追及されない法律が日本で作られていたのである。
それはアメリカの圧力でそうなっていたのだから日本は未だにアメリカの植民地であり属国から脱していないということでそうなった。

地元の利権化もまたそうである。漁業権をもっているだけで補償されていた、その額は大きなものだった。漁師が海を独占してその利権で海を東電と政府に売り渡していたのである。この辺の漁業は零細であり漁業だけでは生活できない、農業もそうなっていた。
でも農業にはそんな利権はなかったのである。
今も漁業者には海の汚染で交渉する度に補償金が増額される
それは海を守るというものではなく海を我が物として利権を得る構造になっていたのである。
「海を汚染するな」と交渉して利権を補償金をゆするようなものである。
そして海が汚染されて魚も食べられなくなったのである。
一番新鮮な魚を食べていたのは地元の漁師である。二三日すぎた魚は食べないと言っていたからである。
そして魚をとらなければ俺たちは何なのだとも言っていた。
でも別に補償金が出るのだから生活には困らないのである。
それも何か今になると勝手だなとつくづく思う
原発の利権が巨大だから地元でも漁業者だけではなく利益にあづかりその利益のために安全神話を地元の人たちも作り出していたのである。
原発に勤める人たちは金になる、すると安全のことより利益が大事になるからだ。
それでそういう人たちは「原発は安全だ」と言うから回りの人たちは何も言えなくなるのだ。
人間は別に原発だけではなく利益なればどんなことでもする。それで殺人にもなっているからそれは今でも利権で利益で人間は動いている。
毎日金を得るために血眼になっているから別に特殊なことでもないのである。
でもその利権とか利益を追及するだけだと社会をゆがめ回り回って自分たちも被害が及ぶということである。

放射能汚染調査でも実際は効果ないことが税金の無駄だというときそうである。
健康調査が福島県全域で成されたがその回答率20パーセントでありいい加減な答えであり何ら科学的調査に値しない、自分も記入していない、回答していない、あれも相当に金かかっていたのである。
それも何のためにしているかもわからないのだ。なぜならそんなことで放射能汚染されたことなどわからないからである。
そして除染自体は壮大な無駄でもあるとされる、除染の効果がないし、いい加減な除染しかしていないという、専門家ししているのでもなく普通の土木作業員がいい加減にしているだけであると書いてある。
それで利するのはゼネコンでありその利権にあづかる人たちだけなのである。
肝心の放射能汚染は何ら解決していない、ただ除染しているふりをしているのかともなる一応毎日何か作業しているとは見ていてもそれがただ除染しているふりにすぎないかともなる
それほど原発事故の後の処理でも膨大な金が何兆円とかの金がかかって前金の無駄だともなる、そんなことが何十年もつづくのだから原発は膨大な国家的損失でしかないとなる


現実に南相馬市立病院での体内被爆の検査も有効であっても機械の問題でできない、機械をそれほど高くもさせないというのも理不尽なのである。
被爆村の学者や団体がその検査をはばんでいる、研究者は実際の体内被爆の検査をしようとしないという、これでは体内被爆を恐れている子供をもつ若い母親が地元に帰らないというのもわかるという。
チェルノブエリでは十年後に甲状腺ガンが増えたから十年後には増加するというのも子供をもつ母親にとっては怖いから帰らないのである。
ともかく膨大な利権のための税金の無駄が原発であり実質的効果はあまりにも少ないのである。


この利権化の構造は原発だけではないこの本では他にもいろいろ追及している。
この利権化構造が社会を国をゆがめそれが国民に害悪もたらすから怖いのである。
この辺で「飯館村」とかが喪失したことは都会を失うより貴重なものが失ったとも思う
都会はむしろなくなってもいいがそうした自然と調和した村の方が自分は貴重だと思っていたからである。
そういう村を消失させた責任は相当に重いはずである。もちろん現代は原発事故がなくても限界集落化してそういう村は消滅してゆく
それが日本にとっていいことなのだろうかということの疑問がある
そもそも東京という大都会を維持するために東電がフクシマに原発を作ってその結果としてフクシマが被害にあったのである。
東京という巨大都市の犠牲になったのがフクシマであり飯館村のような自然と調和した村だったともなる
大内村は原発に近くやはり三分の一が原発で働いていたけど飯館村は遠いからそういうことなかったからである。






タグ:原発利権
posted by 老鶯 at 16:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

山眠る(この辺は住んでちょうどいい規模の街)



山眠る(この辺は住んでちょうどいい規模の街)

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我が町は灯のともしきや眠る山

母死して今安らかに眠る山

駅淋し二両の電車や眠る山

我が町は枯野の広く暮れにけり

樹数本津波の跡は枯野かな


眠る山というとき今は都会でもどこでも眠らずに活動している。自分は都会には住めない人ごみとビルの谷間では暮らしたくない、あういうところで良く暮らせるものである。
若いときはいいにしろ年取ればいやになるだろう。
もちろん都会に都会の良さがある、でもそこに安らぎはない
この辺では相馬市というと何か淋しい、原町はもともと繁華な感じになっていた。
その中間の鹿島とかはずれた小高とかは淋しい枯野が広がる地域だった。
何か自分にとっては枯野が広がっているような風景があるのがいい
原町ですら嫌な感覚になるのだ。

自分にとってはちょうどこれくらいの規模の街が住みやすいのである。
飯館村とかなると住むとなるとかなり不便になる、第一車がないともうそこは住めない
買い物もできないからである。飯館村などは千軒家を壊したから一体そこに新しい家を建てる人がいるのかとなる
現代は便利な社会だから飯館村とか限界集落のような所は消滅しやすいのである。
この辺はまだ常磐線があり六号線があり東京と通じていて市もあるからそれなりに便利であり住みやすい場所である。

そして今は外部から一万人くらい工事とか除染関係で人が入っている、それでダンプがひっきりなしに通るので危険なのである。一方でそのために活気があるというのも矛盾である。
こんな状態がまだ何年つづくのだろうとなる、工事とか除染が終わったら相当にさびれてゆくのも困るともなる
自分にとってはこのくらいの規模なのが住みやすい、都会化すると嫌なのである。
この辺では飯館村があるということも何か安らぎの空間を形成していたのである。
その飯館村の空間がなくなったわけではない、だが人が住まなくなるということはやはり今まではとは違ったものとなる、飯館村といってもそこに人が住んでいて価値があった
人が住まない村となると何なのだろうとなる


二両の電車が往き来しているがこれも人間的なのである。
やはり機械でも小さいと人間的になることがわかる
二両の電車は何か人間のように見えるようになっている
十両とか新幹線とかなると人間からはずれたものになる
巨大化すると何でも親和性がなくなってくる
いづれにしろ冬は山眠るではあり本当は休息の時期である。
自然のリズムで生きればそうなる、今はそうした自然のリズムがない
絶え間なく活動しているから精神的にも疲れるのである。


母が死んで今は苦痛もなく安らかに山は眠っているとなる
生きている限りなんらか人間は苦をもって生きることになるのだ。
死んでやっとその苦から解放されたのである。

タグ:山眠る