2016年01月04日

何のために誰のために働いているのかわからない (見えない不特定多数の人のために働く矛盾)


何のために誰のために働いているのかわからないグローバル社会


(見えない不特定多数の人のために働く矛盾)


この社会は働くことを至上の価値としている。だからこの社会で働かないものは最も批判されるべきものであり無職は人間でもないから殺処分すべきだと盛んに言う。
働かないニートなどは最も忌むべきものとして社会のゴミだとしてそう言われる
つまり働くことが至上の社会では当然そうなるのである。
「働かざるもの食うべからじ」なのである。
要するに誰かが働いているからこそ働かないでも生活できる人がいるとなるからだ
俺たちが働いているのにお前はは働いていない、俺たちはお前の奴隷なのかともなる
所が現代社会はグローバル社会であり自分たちは誰々の奴隷だなどと意識できない
ローマ帝国とか何か貴族がいて下級階層がいてとはっきりしていればそういう不満は成り立つ、あいつは贅沢して俺たち毎日あくせく働いてやっと食べているだけだとか目に見えてわかるからである。そういうことでマルクスがその俺たちを奴隷にして働かせているのは資本家だとして攻撃の対象として革命して労働者階級主体の社会を作るべきだとして共産主義社会を理想の社会としたのである。


でも結局今度は中国などのように共産主義革命が達成しても今度は働くのは誰のためだとなると高級官僚とか共産党の幹部のためだとかなる、そうして革命で特権化した階級が生れそれは資本家と同じではないか?
労働者が平等に働いて豊になるということはなかったのである。
そもそも働くということは現代は何のために誰のために働くということが具体的にイメージできないのである。
それはあらゆる働く場所でそうである。一体コンビニでもスーバーでもそこで働くことは誰のために働いているかなど意識しないだろう。
確かに客として来るけどその人を意識して働いているというのではない、小さな町でもどこでも大勢の人のために働いているからである。
だから誰のために働いているということが意識できないのである。
そして何のために働いているのだろう?それも意識できない、わからない、なぜならグローバル化した社会では品物はあなたの身につけている着るものでも外国で作られているし地球規模で労働しているものが提供しているからである。
そういう人たちは誰のために作るなど意識できない、ただ金銭のために働いている
それが何のためか誰のためなのかなど関係ないのである。

だから現代の労働は矛盾している、労働すること自体に生きがいを見いだすことはむずかしい社会である。その成果はすべて金に換算されることによってあるのであり
誰かのために働いたとか私はこうして働くことに生きがいをもつということはまれなのである。労働は金に換算されてしかありえない、どんな辛い労働をしようがすべての労働の価値は金に換算されて計れるだけである。それはマルクスが言って社会の変革をうながしたのだがそもそもグローバル社会になればどっちにしろ誰のために働いているかなどわからない

誰かのために働いているというのが明確なのは子育てとかである。母親は明確に自分の子供のために骨身を惜しまず働いている。食事を出したりいろいろと子供の世話をする
それは親の愛でありその労働する対象が明確なのである。
そういう労働は明確であり子供はたいがいは親に感謝する、それは子供でもともかくわかりやすいからそうなる、自分は特に60までそうしてくれたから特に感謝しているから介護もしたのである。介護は恩返しだったのである。
でも自分のために働いていくれる人にそうして親のように感謝したりしない
それはすべて金で換算される、金を与えてそれで終わりである。感謝などしないのであるもちろん働いている人もある特定の人を意識して働いている訳ではない、その報酬はただ金で換算されて金が労働の報いなのである。
だからすべて労働の価値は金で換算されるしそれ意外はないのである。
もらう金が少なければ価値がない労働だというだけである。
でも子育てとかの労働は特定の人のための労働だから金には換算できない労働である。
そして苦労して貧乏で子供を育てたというときかえってその労働の価値は高くなる
子供は親の背を見て育つというから親に感謝する度合いが高くなる
自分の母親は霜焼けで苦しんでいた。そのことで今になると感謝している
それははっきりと誰のためかということがその時はわからなくても後でわかるからである


現代の労働の矛盾は自分でも今回の津波や原発事故でも体験した。
自分が病気になり苦しい身体障害者になったとき誰も同情しない、誰も自分のために働いてくれなかったのである。
その時家に来た人は借金に追われてパチンコ屋で働いていて自分の家に来て一切なにもしない、皿一つ洗ってくれなかった。
そして二三分で帰ってゆくだけだった。その時バチンコ屋では懸命に働いていたのであるそういう事情があったからしかたないとういう面はあった。
そして一方で原発で避難民化した人が何千人と来てその人たちは暇になりパチンコ屋におしかけたのである。
自分が病気であり身体障害者となったことに全く考慮されない、その人が働くのはパチンコ屋であり避難民はパチンコ屋で遊んでいたのである。
つまり肝心の自分という病気であり身体障害者であるものは無視されてパチンコ屋で遊ぶ人のために働いていたとなる。
だからこの時そのパチンコ屋で働く人にもパチンコをしている人にも腹がたった
それは一体誰のために働くのかということが矛盾として具体的に現れたからである。
だから自分はその時思った。

バチンコする人のために働いているのだからパチンコをしている人にたすけてもらへ

このことはまた東京の親戚の人にも言えた。自分はあまりかかわらないからその人も全く自分がどういう状態にあるのかもわからない
ただ金だけが欲しい人である。それも権利はわずかでもあったので払うことはいい。
しかし自分がその時どんな状態にあったのかを全く無視しているのである。
そんなことを聞きもしないで金だけをくれとなっていたのである。
そして私はエステで働いているからそこは厳しいからすぐ帰らねばならないとその女性も話す暇もなく帰ってゆく、そんならこちらも

あなたはエステのためにそんなに働いているのだからそのエステをしてやる人に助けてもらへ

つくづくそういう労働の矛盾が自分に具体的に現れたのである。
要するに金になればいい、金に換算される労働しか今はないということである。
不思議なのは一方で医者とか看護師とか介護士とかは具体的に人間とじかに接して働くのだから感謝されやすい、特に看護師は一番感謝されやすい職業なのである。
看護師は重労働だからしたくないというけど一番感謝される職業なのである。
そういう職業はグローバル社会ではまれなのである。
昔の狭い地域社会だったら何か労働の対象が狭い範囲だから誰のためにとか何のために働くか意識された
自給自足社会ではそうである。そしてその土地のもので暮らしているからその土地の自然に感謝していたのである。それが信仰にまでなっていたのである。
それが広域化グローバル社会なると米すら外国から入るとなるとそういうこともなくなる自分の家ではまだ木材でもこの土地でとれたもので作ったからそれを自慢していた。
損なことも今はない、建て売りだと家を造る人も土地の大工ではない、みんなよそから来た会社の人たちなのである。
だから故郷という意識もなくなって故郷に未練がなくなり原発事故を契機として若い人たちは流出した。それは故郷に愛着がなくなっていたこともある。単に放射能が怖いからだけではないのである。


いづれにしろ「働かざるもの食うべからず」となるけどなぜ働くのか?誰のために働くのか?何か労働がただ金に換算されるだけの社会はマルクスの疑問のように大きな問題なのである。なぜなら毎日人は働いているからである。その働くことに意義が見いだせないのである。すべての労働は金で換算されるだけであり金を多く得るものが価値があり金が多くえられないものは人間的にも価値がないとされるのである。
だから無職は現代社会ではあってならないものと批判される
それは誰かが働くことによってお前が働くなくていいからだとなる、ところがその誰かとは誰なのだとなると不特定多数でありわからないのである。
一番自分が働いてもらいたいときに誰も働いてくれない、こういう矛盾を自分は体験したそれは生死にもかかわるということもあった。しかしそれでも金のために他で懸命に働いていたのである
別に自分は金はあったから与えることができた。現実に与えていたのである。
広域化グローバル社会の経済の矛盾はいろいろある。いい面もあるしまた悪い面もありそれがこの辺で自分の一身上で具体的に矛盾として現れて自分が苦しんだのである。
グローバル社会とはもしいい面があるとしたらアフリカとか飢えている子供などがいればその人たちを助けることなどがあるだろう。そういう遠い世界でも金が有効に働くということがある。そういう利点はあるが一方ですぐ近くでも助けられず放置されているという矛盾もグローバル社会にはある。
ともかくこの辺では様々な矛盾が露骨に具体的に現れた所なのである。



posted by 老鶯 at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題