2016年01月01日

新年(2016)にふさわしい短歌


新年にふさわしい短歌(2016)

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新年の未明になおも月光り母は死にしも陽は昇りけり


「東の野に炎の立つ見えて
     かへり見すれば月かたぶきぬ」   万葉集 48

今日3月18日は『人麿忌』だそうです。
なぜか、あの万葉歌人の柿本人麿の亡くなった日だそうです。


今年の日の出を海老浜で見た、あそこは津波で村が壊滅した。
ただ見晴らしが良くなり日の出の太陽が見やすくなった。

今年は新年を祝いないけどただ新しい年がはじまった。
それでぴったりの歌が柿本人麻呂の歌だった。
人間は太陽と日の出と月のくりかえしである。
それは歴史でもそうだが常に世代間でも日の出があり傾く月がある
若い人は日の出であり老人は傾く月なのである。
でも母は去年の12月に死んだからまだ月の輝きがある。
だからこの歌は何かぴったりなのである。


今年は自分にとって相当な変わり目の年になるかもしれない
まず介護の重圧から解放されたことである。
介護している限りもう自由はない
軽くても三食を出す、いるだけでも重圧になる
そして介護の問題は長いことなのである。医療が発達すればますます長くなる
すると介護するものの負担がまた増えるのである。
ふりかえると十年間は長かった
介護に費やされる労力は相当なものであった。それから解放されたことは大きい


この短歌の奥深さとか大きさはやはり歴史も暗示するからである
必ずこうして世界でも国でも興亡が繰り返されてきたからである
イギリス帝国は今では傾く月となったしやがてアメリカすらそうなる
人間はこの繰り返しなのである。
アジアとヨーロッパもそうである。ヨーロッパはゆきづまり今度は再びアジアの陽が昇って輝きヨーロッパは月となって傾いてゆくのか世界の歴史なのである。
アジアの興隆の時代が今世紀からさらに一世紀とかかけてはじまる、欧米は衰退してゆくのである。それは歴史の法則でもあるからとめることができないのである。

タグ:2016新年

2016年01月02日

2016 abstract (波紋)


2016 abstract (波紋)


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複雑な交わり

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水中の波紋



今年も抽象画はじまったけどこれは無限の変化である。
photshopでその世界が飛躍的に拡大した
抽象画は具象画より自由だから制限されないからかえって無限の変化になっている
これをどう見るかは各自の自由である
つまりどういうふうにも各自のイメージで見えるのが抽象画なのである。
ソフトによって変化できるものであり創造というよりは変化の芸術だとなる
タグ:波紋

自分に起きた2015年までの恐怖の体験 (それはこれからの未来の問題)


自分に起きた2015年までの恐怖の体験

(それはこれからの未来の問題)


● 認知症の恐怖(人間崩壊の恐怖)

●介護が延々とつづく恐怖(重度になる恐怖)

● 病気の恐怖

●病院の恐怖

●身寄りのない人の恐怖

●凶悪犯罪の恐怖(老後貧乏の問題)

●借金の恐怖(モラルの崩壊)

●津波(天変地異の恐怖)

●原発事故(文明崩壊の恐怖)


この十年間で自分が体験したことは今ふりかえると恐怖の連続だった。最初に起きたことは家族が認知症になったことである。
それは突然起きたことであり何が起こったのかわからないので本当に恐怖だった。
最初から異様な妄想となり暴力になったから怖かった
60年も親しくしていた家族がそれも優秀だった人が痴呆化するというか狂気にもなったから怖かった
それは認知症とは何か全くわからないということであり狂気としか思えず対処しようがなく怖かった、激情的な人だから暴力になったとき怖かった
そして自分の家族は分離して家庭崩壊になった
ただ助かったのは二年半くらいで死んだことだった、だから意外と早く死んだなと今ではふりかえる
そして認知症は必ずしもすべてが崩壊するものではなくやはり人間的なことが残されていて人間崩壊というものでもないと最後は理解した


この認知症の恐怖は問題は高齢化の最大の問題になるしなっている
介護もまたこの問題と一緒にあった
一人は早く死んだがもう一人が介護になり約5年間つづいた
楽な方だったが最低でも5年間つづくことはやはり長いと思った。
そしてそれがなお延々とつづくのではないかという恐怖だった。
実際に十年とか二十年介護している人が現実にいるからだ。
自分の場合はすでに95才くらいになっていたから5年ですんだのである。
90才からでもいまなら相当に長くなる
そして脳出血とかなると三食食べさせなければならなくなるから手間である。
それも恐怖だったしオムツをするようになるのも恐怖だった。
母は最後まで水しか飲まなくなってもボータブルトイレに行っていたから助かった
それでも介護が長いということは心身が疲労してくる
介護にも様々な恐怖がある

●病気の恐怖、身寄りのない恐怖

これは誰にでもある、自分も癌の検査をしたときはショックだった。幸い癌でないし軽い病気だったので助かった。それでも自分は二年間くらい身体障害者であり苦しかった。
その時誰にも助けられることがなかった。
確かに親戚というものでもないが助けることを装う人は来た
その人は借金で追い詰められていたから自分からなんとか借金しようとすることしかなかった
これも本当に恐怖だった。病気のときだったから恐怖した。
人間は相手が弱者になったときそうした借金で簡単に断れない、弱者になったときの恐怖を体験した

その時同時に身寄りがないということがいかに怖いことが体験した。
病院にでも何でも手術するのにも保証人が必要になる、身寄りのない人は保証人がいないから老人ホームにすら入れないとかいろいろな問題が生じる
これが意外とやっかいな問題である。就職するのにも保証人が必要になる
でもこれも何かうまくきりぬける方法はあった
なぜなら保証人でも病院の場合はそんなに追及しないからである。
ただ身寄りがないということは何かこうした緊急の場合に困る
これも自ら体験したから結婚しないことはそうした助けが全くないともなる
だから今結婚しないフリーターとか派遣とかニートが自分と同じような恐怖を体験する
自分は金があったからまだいいがないならさらに困窮して苦しむことは目に見えている

●病院の恐怖

病院というのも恐怖の場所だった、身寄りがないとしたらさらに恐怖である。
研修生とかの実験台とか他にも何かされても抵抗できない
病人はまるで医者とか看護師の奴隷になる、一切抵抗できない
病院は牢獄のように思えた、現実に点滴は鎖につながれたようであり
身動きとれなければさらに人体実験のようにされてしまう
つまり医者とか看護師はそういう病人を冷静にみている
なんにも抵抗できないものとして自分の思いのままになるものとして見ている
だから医者が三百人殺したとか看護師でも世界でそういうことが起きている
病院は人を最も殺しやすい場所でもあるのだ


それが犯罪になりにくい、そして虐待も起きている
自分も虐待のようなことをされた、それは家族もいないような人はそうされやすい
家族がいても見ていないところでは何をするかわからない
手袋をかけられてベッドにつながれているのはまるで囚人なのである
今になると一時的ならせめて一二週間ならいいがそれ以上いると恐怖になる
直すというよりだんだん死につかせるという気分になるのだ
だから看取りとか最後の場所としてはあまりにも無機質であり情がなさすぎるとなる
死んだら物のようにあとがありますから早くかたづけてくださいと言われるだけなのである。
つまり死んだ人に対する情が全くない無機質な空間なのである。
だから病院では死にたくないが90パーセント以上はもうみんな病院で死ぬ時代である。
でも病院で最後の一二週間くらいで死ぬならこれもいいかもしれないが長くなることが問題なのである。延命治療などされたら詰問であり地獄になってしまうのだ。



●老人犯罪の恐怖

これもまた現代の世相が反映している、老人が犯罪を犯すのは今は老人が置かれている立場が厳しい、数も多いから老人を尊敬する社会ではない、金のない老人は何の価値もないとされる、そして下流老人が増えているから当然追い詰められて犯罪を犯す
それが自分の身にふりかかってきたのである。
別に犯罪を犯さなくてもそういう老人が増えているから社会不安になる
そういう人が多いこと自体社会不安をもたらしているのだ。
金持ちでもそういう格差社会になると不安が増大する
兵を鉄条網で囲って身を守らないと生活できなくなる
現実都会ではそうしているらしい、そういう社会も窮屈である。
高齢化社会の問題は深刻なのである。

●津波の恐怖

これも最大の恐怖だった。ノアの方舟のようにな恐怖を味わった。
天変地異の恐ろしさである。今でも津波の跡は生々しく荒寥としている
津波の恐ろしさは何もなくなる、村すら街すらなくなるという恐怖である。
一軒二軒くらいなくなるなら恐怖ではない、村全体が街全体が消滅する恐怖である。
これで自然の恐ろしさを知った。人間の計り知れないものが自然にはある
自分は津波の被害にはあっていないし家族も死んでいない、津波で家が流されて家族が死んだ人の恐怖も大きかった。
これほどの恐怖はそう簡単に忘れられるものではないと思う
十年たってもそうだろう、津波は一切を流して無にする恐怖であった

●原発事故の恐怖

これもまた恐怖だった、放射能というのがわからないし目に見えないから恐怖として認識できない、今でもそうである。
目に見えないということが恐怖させないということがあるがいろいろ言われると恐怖である。
放射性物質で体内被爆することが恐怖だった、食べ物からでも空気を吸っても体内被爆する
前立腺ガンの治療では放射性物質をカプセルとして埋め込んでその放射線でガンを徐々に消滅させる治療方法がある、すると放射性物質というのはそれだけの威力がある
放射線治療もあるが放射性物質のカプセルを埋め込んで癌細胞を消滅させてゆくというのもある、毒は薬にもなる、するとそんなに放射性物質が威力があるとすればまたこの辺で被爆した人たちはやはり癌になりやすいのかともなる
だから恐れる人は恐れて子供をもっている若い人は帰らない、それで看護師不足でこの辺では悩んでいるのである

原発事故は何だったのか、それは空気とか水とか土とか森とか海とか人間の基本的な生活になるものは汚染したことである。
第一次産業を破壊した。これも恐怖だった。それは大きく見れば文明崩壊である。
認知症の恐怖は人間崩壊の恐怖だったが原発事故は文明崩壊の恐怖でもあった
そのことをいろいろ書いてきた。
だからそもそも第一次産業を農業でも漁業でも林業でももう一割にもみたない生産しかない、後継ぎもいないとかすでに崩壊状態だった
でも現実に第一次産業が壊滅すれば人が住めなくなる、人が故郷に住めなくなるということが現実化して故郷は何かなと当たり前にあるものの尊さを考えるようになった
この辺では当たり前にあることが喪失してしまったからである。
水さえ飲めなくなるということはもうその土地では生活できなくなるということである。

この原発事故はやはり文明崩壊の現象として現れたとも言える、その土地に故郷に住めなくなるということはもう最大の被害でありそんなら貧乏でも故郷に住めるだけでもいいとかになる、価値観を変えてしまう問題だった。
これまでは別に江戸時代からそうした生活がつづいてきたのでありこれほど贅沢になったのはここ50年間くらいなのである。
だから原発事故周辺では文明そのものの疑問が起きた、それは現実的な問題としてこれからどうするのかという問題である。
それは人間があまりにも贅沢になり贅沢を追及しすぎたということにも原因があった
みんなが強欲になり金をあくことなく求めている、それは自分でもそういうことがある
そういうシステムの中で生きているからだ
でもそうした金だけを追及していることの矛盾がこの辺では具体的に起きた
補償金問題で南相馬市は三つに分断された。
補償金問題で遺産問題のようにもめることになった。
そこに絆を言われたがそんなものはなくなっていた。ただ金をだけを求める社会の問題も今までもあったがここでより具体的に現れたのである。
だから今の文明自体が問われることになったのである。


つまりこの辺で起きたこと自分に起きたことは何か現代の問題を集約したように起きた
それは現代文明自体の問題でありそれが自分の一身上でも起きたし回りでも起きた。
だからこの辺はそうしてこれからどうするのかという未来をどうするのかということを具体的に考える場所になったのである。
科学技術文明や資本主義社会であれグローバル社会であれ金融グローバル化でありそうした社会というのは本当にこのまま継続されるていいのか疑問が生れた
もちろん自分もそうしたシステムに入っているし否定した生活はしていない
そういうお前が何か言えるのかと言うことはありうる、実際に恩恵を受けているからである。
でもこの辺で起きたことはそういうシステム自体文明自体を全部肯定していいのかという未来への問題が具体的にこの辺で起きたのである。
自分の一身上であれ回りでも何か集約的にこの辺で起きた、それを追及して約十年がすぎたのである。
そして母が死んで介護からも解放された、今年はどうなるのか?


それは猿年が災いが去る(猿)となるといいとは確かである。
これだけ災いがあったらもう当然災いは去ってほしいとなるからだ







タグ:恐怖の体験
posted by 老鶯 at 10:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年01月03日

危機感をもたないことが滅びに通じる (平和はつづかない、必ず危機がやってくる)


危機感をもたないことが滅びに通じる

(平和はつづかない、必ず危機がやってくる)


人間、このままでいいと思えば、改革の必要性は感じない、このままではいけない、危ないという危機意識を持つから、改革への重い腰を上げるのである。

優れたビジョンの条件の筆頭に「将来のイメージが明確であること」を挙げている


人間は安きに流れる、甘い見通しをするのが常である。それは個人的にもそうであり組織でもそうである。
事業を起こすにしても失敗した人は相当に甘い見通しをしていた。根拠なくして事業を起こしたのではないにしろ見通しが甘かった
失敗してからも借金していても自分に甘いので変わらなかった。
誰かから借金すればいいとしてその生活すら改めていないし前と同じような贅沢な暮らしをしようとしている。
要するに相当な借金があっても危機感がないのである。だから節約もしない、また借金すればいいとかなり自分がその標的になったのである。


人間は危機意識がもつようになるのは厳しい現実をつきつけられないともていない
つまり借金で家も土地も売るようになるとか何かそうした現実をつきつけられないかぎり以前として甘い見通しでいる
どこからか金が入ってくるという感覚なのかもしれない。
人間は何も起こらなければ平和ならその平和がずっとつづくと思う
それは国単位でも個人単位でもそうである。
「災害は忘れたころにてくる」というのはまさにそのことだったのである。
今回の津波でもそうだった。こんな津波が400年すぎて忘れたころにやってきた。
それは三陸では100年前にあったのに忘れていたのである。
人間の特徴は忘れやすいことにある。それで老人になると何か覚えられない、記憶するのが苦手になる、そしてそれが極端化したのが認知症なのである。
子供の名前とか顔すら忘れてしまうように極端化するのである。
自分の書いたものでも忘れているのが多いから記録として何か書いていた方がいいとなる

危機意識の欠如から何が起きてくるのか?今回の天変地異の津波とか原発事故とか大きくは国が滅亡することもある
日本は海で囲まれているから海が防壁になっているから他国から侵略されないという危機をもてない国である。
外国では陸続きだから絶えず国が侵略して興亡しているから他国が責めてくるという危機感をもっている。
そして民族が滅ぼされることもありうる恐怖を危機感をもっている。
日本の国にはそうした危機感に欠けている、神風が吹いてモンゴルの船が沈没したとか危機感に欠けるのである。


そういう自分も危機感に欠けていた。何か平和だったから甘い見通ししかしていない、自分は実際は今回の十年間の苦しい体験は将来をイメージすれば賢い人だったら予想できたただどんなに賢い人でも将来がどうなるか予想はできない
つまり将来は想定外になるのが多いのである。実際津波でも自分の個人体験でもそうだった。想定外のものに対処することになったから苦しかった。
まず認知症が何なのかなど理解しようがない全く想定外のことだったからである。
もちろん原発事故もそうだった。
原発事故もこれも危機感に欠けていた、その証拠が「安全神話」を政府と東電とマスコミとか県とか地元住民でも一体となり作り上げられていたのである。
原発は安全でないというと地元では非国民のようにされたということもある
なぜなら原発で働き利益を得ているからそうなった。
人間は根本的には利益利権で動いているからである。


危機感というときアメリカの危機感と日本の危機感は違っている
アメリカの自然への危機感は竜巻とかにあった。それで電源を地下に置いた。
日本では地震とか津波があり自然への危機感は違っていた。
自然でも国によって場所によって危機感は違ってくる
国となると歴史とか風土が違うから技術でもそれに適合するように作らねばならない
だからアメリカの押しつけに言う通りになったことも危険だった
アメリカでは日本の風土を考慮していないからである。
ただアメリカでも西海岸には原発を作らず東の方に原発をほとんど作っていた。
西海岸は地震を考慮して作らなかったのである。
いづれにしろ「安全神話」を作り上げたときすでに危機感は喪失していた。
安全神話が危機感を喪失させていたのである。
安全、安全と唱えていれば安全だとさえ錯覚していたのである。
それは何事かあれ題目を唱えている日蓮宗とか真宗系統の信仰と同じである。
科学技術者がそうした安全信仰に安全神話のために点検を怠り危機感が喪失していた。
事故の前にも安全の不備が指摘されても軽くあしらうだけであり本気になっていない
それは「安全神話」を権力で作り出していたからである。


ただ危機感をもていないというときそれは人間の弱点であり心理的なものとしてそうなりやすい、人間は常時危機をもって暮らせない、そんなことしていたら生きるのも嫌になるだろう。だから人間は突然の危機に弱い、奇襲に弱い、突然無防備の所に攻められるのが弱いから相手の意表を突くことが成功しやすいのである。
そして危機意識は常に一時的にもっていてもすぐに忘れる
何かすでに自分は十年間そうして苦しみ危機意識をもたされて過ごしてきた。
何かいつも緊張状態にあった。それが母が死んで介護も終わり気がぬけたようになった
危機感というのがそれと同時にまた元のように何か弛緩したような状態になった
でも危機感をもたない国でも会社でも家族でも地域でもそれが大被害に通じる
原発に対して危機感をもっていないから地域が崩壊したのもそうである。
東芝でも大会社でも人事で内部で権力争いしていて会社自体が危機にさらされる
リストラされる人が膨大になるのだから危機感がないことで社員も犠牲になる


原発事故でも避難した人たちが仮設にすでに小高など5年もすぎようとしている
しかしその一人の女性ではあるがほとんど何の危機感ももっていなかった。
補償金で鹿島区の人が不満なことも知らない、鹿島の人は小高の人が金を使ってくれているんだから良かったのよとかのんきなことを言っていた。
そしてこれから小高に帰るのは嫌だ、どこかで働く所がないかとか聞いてきた。
これも補償金て仮設暮らしでのんびりすごしていた結果危機感もなもるなくなっていたのである。
ただ5年間は補償されて何でもかわいそうだと支援されたきたから支援されるものだとなってしまった。
そこに将来の危機感は全く喪失してしまっていたのである。
将来を危機感をもってイメージすればそんなことでいいはずがなかったのである
つまり人間はどうしても安きに流れるのである。
困難のことを敢えてしたくない、望まない、実際はそうなのはしかたがない
人間は強いられない限り困難なことは苦しいことをしたくない、それを否定できない
でもそのことがのちの災いとなるのである。


例えば求道にしても若い内しなければもうできない、年取ってから信心するのは別であるもう死が近づいたとき死という最大の危機を乗り越える信仰をもつことはできない
それは若いときするべきものでありその時危機感をもって求道して行動しなければあとはできない、年取ってからでは時すでに遅しなのである。
人は若いときは遊んでいればいいとか危機感をもたない、そして享楽の内に青春は浪費されるのでてある。
人間はそもそも常に人が死んでいるのだからそのことに対して危機感をもつ
でも死について危機感をもたないから求道もしない、そしてカルト宗教団体などに時間を浪費して終わる、そこは宗教とは何ら関係ない政治団体なのである。
カルト宗教団体はパンの危機感であり死とか精神的な危機感はゼロである。
いかにこの世のパンを得るかの危機感なのである。パンをもっとよこせというパンの配分の問題である。
そんなことより人間は死ぬ、消滅してしまうということの方が怖いことでもある
でもそういうことより日々の生活のパンのことの方を追及しているのが現実である。


ともかくあらゆる場面で危機感の欠如があり弛緩がありそれが致命的になってゆく
時間がいつまでもあるとか若いときは思っているがたちまち老人になっている
それも危機感がないからそういうふうに考える
時間などあっというまに喪失する、時間に対しても危機感をもっていないのである。
人間は極限られた時間しか与えられていないのである。
とすればその限られた時間の中で何をするかというのが問題になる
享楽的遊んでばかりいていいのかと自問する
時間が無限に与えられていれば緊張感もないし危機感ももていなのである。
そして営業でもビジネスチャンスは生涯で一回しかないと本に書いてあった。
その一回のチャンスをものにしないとあとはビジネスチャンスが巡ってこないというのも本当だろう
人生においてなにごとビジネスでも何でもチャンスは一回しかない
それが人生だった、一回のチャンスに賭けた人が成功してあとはしない
一回失敗したからまたあとがあるというのは危機感がないからそうなる
もしこれ一回切りだとしたら何でも危機感を持ち対処する
そういうふうに危機感をもたないことがかえって危険なものになってゆく
危機感をもたないために国も会社も地域でも滅んでゆくということがある
だからふりかえると危機感をもたないということ自体がそういう生活自体が危機をまねいていたと自分でもふりかえるのである。

タグ:危機感

2016年01月04日

何のために誰のために働いているのかわからない (見えない不特定多数の人のために働く矛盾)


何のために誰のために働いているのかわからないグローバル社会


(見えない不特定多数の人のために働く矛盾)


この社会は働くことを至上の価値としている。だからこの社会で働かないものは最も批判されるべきものであり無職は人間でもないから殺処分すべきだと盛んに言う。
働かないニートなどは最も忌むべきものとして社会のゴミだとしてそう言われる
つまり働くことが至上の社会では当然そうなるのである。
「働かざるもの食うべからじ」なのである。
要するに誰かが働いているからこそ働かないでも生活できる人がいるとなるからだ
俺たちが働いているのにお前はは働いていない、俺たちはお前の奴隷なのかともなる
所が現代社会はグローバル社会であり自分たちは誰々の奴隷だなどと意識できない
ローマ帝国とか何か貴族がいて下級階層がいてとはっきりしていればそういう不満は成り立つ、あいつは贅沢して俺たち毎日あくせく働いてやっと食べているだけだとか目に見えてわかるからである。そういうことでマルクスがその俺たちを奴隷にして働かせているのは資本家だとして攻撃の対象として革命して労働者階級主体の社会を作るべきだとして共産主義社会を理想の社会としたのである。


でも結局今度は中国などのように共産主義革命が達成しても今度は働くのは誰のためだとなると高級官僚とか共産党の幹部のためだとかなる、そうして革命で特権化した階級が生れそれは資本家と同じではないか?
労働者が平等に働いて豊になるということはなかったのである。
そもそも働くということは現代は何のために誰のために働くということが具体的にイメージできないのである。
それはあらゆる働く場所でそうである。一体コンビニでもスーバーでもそこで働くことは誰のために働いているかなど意識しないだろう。
確かに客として来るけどその人を意識して働いているというのではない、小さな町でもどこでも大勢の人のために働いているからである。
だから誰のために働いているということが意識できないのである。
そして何のために働いているのだろう?それも意識できない、わからない、なぜならグローバル化した社会では品物はあなたの身につけている着るものでも外国で作られているし地球規模で労働しているものが提供しているからである。
そういう人たちは誰のために作るなど意識できない、ただ金銭のために働いている
それが何のためか誰のためなのかなど関係ないのである。

だから現代の労働は矛盾している、労働すること自体に生きがいを見いだすことはむずかしい社会である。その成果はすべて金に換算されることによってあるのであり
誰かのために働いたとか私はこうして働くことに生きがいをもつということはまれなのである。労働は金に換算されてしかありえない、どんな辛い労働をしようがすべての労働の価値は金に換算されて計れるだけである。それはマルクスが言って社会の変革をうながしたのだがそもそもグローバル社会になればどっちにしろ誰のために働いているかなどわからない

誰かのために働いているというのが明確なのは子育てとかである。母親は明確に自分の子供のために骨身を惜しまず働いている。食事を出したりいろいろと子供の世話をする
それは親の愛でありその労働する対象が明確なのである。
そういう労働は明確であり子供はたいがいは親に感謝する、それは子供でもともかくわかりやすいからそうなる、自分は特に60までそうしてくれたから特に感謝しているから介護もしたのである。介護は恩返しだったのである。
でも自分のために働いていくれる人にそうして親のように感謝したりしない
それはすべて金で換算される、金を与えてそれで終わりである。感謝などしないのであるもちろん働いている人もある特定の人を意識して働いている訳ではない、その報酬はただ金で換算されて金が労働の報いなのである。
だからすべて労働の価値は金で換算されるしそれ意外はないのである。
もらう金が少なければ価値がない労働だというだけである。
でも子育てとかの労働は特定の人のための労働だから金には換算できない労働である。
そして苦労して貧乏で子供を育てたというときかえってその労働の価値は高くなる
子供は親の背を見て育つというから親に感謝する度合いが高くなる
自分の母親は霜焼けで苦しんでいた。そのことで今になると感謝している
それははっきりと誰のためかということがその時はわからなくても後でわかるからである


現代の労働の矛盾は自分でも今回の津波や原発事故でも体験した。
自分が病気になり苦しい身体障害者になったとき誰も同情しない、誰も自分のために働いてくれなかったのである。
その時家に来た人は借金に追われてパチンコ屋で働いていて自分の家に来て一切なにもしない、皿一つ洗ってくれなかった。
そして二三分で帰ってゆくだけだった。その時バチンコ屋では懸命に働いていたのであるそういう事情があったからしかたないとういう面はあった。
そして一方で原発で避難民化した人が何千人と来てその人たちは暇になりパチンコ屋におしかけたのである。
自分が病気であり身体障害者となったことに全く考慮されない、その人が働くのはパチンコ屋であり避難民はパチンコ屋で遊んでいたのである。
つまり肝心の自分という病気であり身体障害者であるものは無視されてパチンコ屋で遊ぶ人のために働いていたとなる。
だからこの時そのパチンコ屋で働く人にもパチンコをしている人にも腹がたった
それは一体誰のために働くのかということが矛盾として具体的に現れたからである。
だから自分はその時思った。

バチンコする人のために働いているのだからパチンコをしている人にたすけてもらへ

このことはまた東京の親戚の人にも言えた。自分はあまりかかわらないからその人も全く自分がどういう状態にあるのかもわからない
ただ金だけが欲しい人である。それも権利はわずかでもあったので払うことはいい。
しかし自分がその時どんな状態にあったのかを全く無視しているのである。
そんなことを聞きもしないで金だけをくれとなっていたのである。
そして私はエステで働いているからそこは厳しいからすぐ帰らねばならないとその女性も話す暇もなく帰ってゆく、そんならこちらも

あなたはエステのためにそんなに働いているのだからそのエステをしてやる人に助けてもらへ

つくづくそういう労働の矛盾が自分に具体的に現れたのである。
要するに金になればいい、金に換算される労働しか今はないということである。
不思議なのは一方で医者とか看護師とか介護士とかは具体的に人間とじかに接して働くのだから感謝されやすい、特に看護師は一番感謝されやすい職業なのである。
看護師は重労働だからしたくないというけど一番感謝される職業なのである。
そういう職業はグローバル社会ではまれなのである。
昔の狭い地域社会だったら何か労働の対象が狭い範囲だから誰のためにとか何のために働くか意識された
自給自足社会ではそうである。そしてその土地のもので暮らしているからその土地の自然に感謝していたのである。それが信仰にまでなっていたのである。
それが広域化グローバル社会なると米すら外国から入るとなるとそういうこともなくなる自分の家ではまだ木材でもこの土地でとれたもので作ったからそれを自慢していた。
損なことも今はない、建て売りだと家を造る人も土地の大工ではない、みんなよそから来た会社の人たちなのである。
だから故郷という意識もなくなって故郷に未練がなくなり原発事故を契機として若い人たちは流出した。それは故郷に愛着がなくなっていたこともある。単に放射能が怖いからだけではないのである。


いづれにしろ「働かざるもの食うべからず」となるけどなぜ働くのか?誰のために働くのか?何か労働がただ金に換算されるだけの社会はマルクスの疑問のように大きな問題なのである。なぜなら毎日人は働いているからである。その働くことに意義が見いだせないのである。すべての労働は金で換算されるだけであり金を多く得るものが価値があり金が多くえられないものは人間的にも価値がないとされるのである。
だから無職は現代社会ではあってならないものと批判される
それは誰かが働くことによってお前が働くなくていいからだとなる、ところがその誰かとは誰なのだとなると不特定多数でありわからないのである。
一番自分が働いてもらいたいときに誰も働いてくれない、こういう矛盾を自分は体験したそれは生死にもかかわるということもあった。しかしそれでも金のために他で懸命に働いていたのである
別に自分は金はあったから与えることができた。現実に与えていたのである。
広域化グローバル社会の経済の矛盾はいろいろある。いい面もあるしまた悪い面もありそれがこの辺で自分の一身上で具体的に矛盾として現れて自分が苦しんだのである。
グローバル社会とはもしいい面があるとしたらアフリカとか飢えている子供などがいればその人たちを助けることなどがあるだろう。そういう遠い世界でも金が有効に働くということがある。そういう利点はあるが一方ですぐ近くでも助けられず放置されているという矛盾もグローバル社会にはある。
ともかくこの辺では様々な矛盾が露骨に具体的に現れた所なのである。



posted by 老鶯 at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2016年01月05日

人間の最後に伝える言葉は重い (遺言は書面でなくても実行しないと怖いー認知症でも正気になることがある)


人間の最後に伝える言葉は重い

(遺言は書面でなくても実行しないと怖いー認知症でも正気になることがある)


『なくなる前にあなたにあげると言われた財産・・・』

『口頭で伝えられた場合、有効になるのだろうか・・・』

『これは私が受け取ることができるのだろうか?・・・』

遺産相続の場面でよく問題になるのがこの口頭での遺言です。遺言は書面で残すことが原則とされ、「口約束」での遺言は遺言とは認めらません。しかし、まったくの無効ではありません。


この世の中すべて法律では問題は解決しない、確かに「口約束」とか破られやすい、だから絶えず文書で証書として残すことが必要になる。
ただ人間は証書だけではない、何か人間は最後に死が近づくと何か言い残してしてもらいたいことを言う、盛んに言うことがある。
認知症の人でもそういうことがある。認知症でも死ぬ間際とか正気になるし一時的にも正気になることがある
それがまた認知症の不思議である。
人間は死に近づくときは認知症になって何もわからないから無視していいともならない
そして遺言は法律的に有効かどうかの問題だけではない、法律は別にモラルを実施するわけではない、つまりモラル的に見れば別に口約束とかでも一旦約束したことは実行しなければならない、それを証明するものがないにしろモラルはそうである。
またモラルは強制はされない、罪を犯すなといってもそれを強制はできない、良心が問題になるのであり良心にはじることはするなとなる
別に良心にはじることをしても法律的に罰せられることもないことは多い
だから法律で罰せられない人は非常に多いのである。


遺言というとき何か書面ばかりだと思っているが人間が死に近くなると何か言い残したいことがある。それが母にあった。
死が近づいたとき入院する前に大声で「いくらいくら金は孫にやれ」と言ったことに驚いたのである。
それは最後に力をふりしぼって言ったのである。
それはただ口伝いだから守らなくてもいい、正式な遺言でもない、でもその大声で言ったことに恐怖した。その最後に言い残したことは死が近づいたときに言い残したことには重みがあると思った。
そのことを言ってあと一カ月くらいで死んだからである。
その額は少ないからそのことを孫に伝えて了承してもらった。
それは別に書面ではないし法律的にも権利があるわけではない、でもその最後に言い残したことは重い、恐怖も感じた。
それを守らなかったら死者になっても恨まれるという恐怖を感じたのである。
その額は少ないしそれで孫にも了承してもらったから良かった。
自分は孫には払うつもりがなかったが払うことにした。それは孫にも事情があり払いにくいことがあったからである。

母が死んでからもその最後に言い残したことは無視することができない、つまり死を間際にしての人間の言葉は重いということである。
それが書面でどうだこうだとかではない、それを裏切ることは怖いことだなと理屈ではないものとして感じた
ただ自分としてはその額が少ないから了解したともなる
その額が大きいとやはり人間は欲があるから実行できないとなる
額が大きいものになればそれは法律的な処置が必要なのである。
いくら死ぬ間際でもそれは実行されないことがあるから書面にして残せとなる


とにかく死後の整理はめんどうである、それは金にかかわるものである。
自分の場合は兄弟とかいろいろ係累がほとんどないからむずかしいことにはならなかったこれが兄弟が一人でもあればめんどうになる
一人兄弟はいてもすでに事故で20年前に死んだ、その孫が生きているので母は最後にそのことを伝えたのである。
ただ自分には死ぬ間際にその最後の力をふりしぼって伝えたことは無視できない、それを実行しないと恨まれるから怖いと思った。
金にまつわることで何か恨まれることがあると人間は怖いと思う
だから何か良からぬことで金を得てもそれが怖いと思う、その金で誰かの恨みをかうとなることは怖いことである。


最後に自分に死ぬ間際に「ひどい娘だ」と言い残して死んだ女性がいた。
それは親戚の女性だけど家で交際していない、その女性とも交際していないから子供のときあってからもう40年とか会わなかった。そしたらその女性はまるで変わった人になっていたのである。
その「ひどい娘だ」と自分に言い残して死んだ女性は母であり別にいじめたわけでもない、良くした人だった。血のつながりはないにしろその娘には尽くしたのである。
そしてその娘が自分の家に来て叔母にあたる母に信じられないことを言って狂気のように去って行った
そのことで「ひどい娘だ」ということを自分も認識した。
でもその女性は全くいい娘だと世間に装っているし誰もそんなことを思わない
でも何か人間が最後に言い残す言葉は重いなと思った。
いくら装っても偽っても人間が最後に言い残すことは忘れられない、重くしのかかる。
だから介護でも恨まれるようなことがあると困るから苦しくても耐えねばならないということはある。でもこれも限度があるが何か人間の最後はやはり重いものとなることは確かである。

タグ:遺言
posted by 老鶯 at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題

2016年01月06日

抽象画(春のイメージーimaging spring)



抽象画(春のイメージーimaging spring)

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明るい街

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日本の複雑な地形

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複雑な流れ

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花の波紋


春といえば春になるのか?最初の日本の複雑な地形は何か具象画と通じている。
抽象画は要するに自由なイメージの世界なのである。
これが複雑な地形といえばそうなる、日本の地形は一番複雑であり多様だと思う
そこに日本の面白さがある
日本は狭い国だけどあきないのはそのためである。


とにかく抽象画は変化の芸術だからその種が尽きない
前に作った自分の抽象画を変化させると新しいものになる
photshopでさらに変化させることができるようになったから増えるのである。


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何かを負債を負っていたら人を助けることはできない (借金している人が保証人になれのか?)



何かを負債を負っていたら人を助けることはできない


(借金している人が保証人になれのか?)


その人は事業に失敗して相当な借金をしていた。十万とか借りるのではない軽く何百万とか要求する、そういう人とつきあうとどうなるのか?
そのこと自体本当に怖いことだった。
病院の入院とか手術の保証人になってもらったがそれをふりかえると不思議である。
一千万借金がある人が何であれその人の保証人になるとどうなるのか?
そもそもそんなことができるのか?
私はあなたの保証人になったのだからその私の一千万の借金の保証人になってくれとというのと同じではないか?
一体そもそもそも借金している人が何かの保証人になれるだろうか?
何か負債を負っている人がそもそも人を助けることができるだろうか?
キリスト教で負債を負ってはならないというのはそのことだろう
何か借金でも負債負っている人は人を助けることができるだろうか?
すでに借金している人は人を助けることなどできないし何の保証人にもなれないかもしれない


ただこの世の中は法律でも何でも抜け道があり別に借金していようがなにしようがそんなこと知られなければ保証人になっている人はいるしいい加減な所がある
その人は多額の借金をしているのだから何か人の保証人とか何か人を助けることなどてきない
それで借金のために遊女にされたりすることかあった
その人はそれと同じような状態になった、自分が弱り苦しいときがチャンスとやってきていろいろ言って何かしたら特に保証人になったとき借金を要求してきたのである。
それは断りにくい、その人は自分に助けてもらいたい方なのだから助けようがないのである。
だから何か負債を負っている人は借金している人は人を助けることなどそもそもできない多くの犯罪は借金から起きていることもわかる

借金している人とつきあうことは犯罪者とつきあうと同じである

でも借金している人はわからないのである。あの人がいくら借金しているなどわからないのである。
少ない額だったらいいが事業で失敗したような人は額が二桁も違うから怖いのである。
聖書で借金した人を王が許したというが一体どうしてその人が借金したのかを知るべきである。
ギャンブルで借金している人もいるしいい加減なことで贅沢するために借金している人も多いのである。
そんな人の借金を許したならどうなるのか?
その人は一時的にでも奴隷にされてもしかたないことなのである。
そういう人はその人の負債なのに他者に負債をおしつけるのである。
それが自分が弱っている時押しつけてきたのである。
お前の入院保証人になったから一千万の保証人になってくれとまでなっていた
最初はそんな人だとは思わないからそんなことを思わなかったのである。
だから借金の多寡もあるが借金している人は犯罪者になりやすいし犯罪者なのである。
そんな人がどうして人を助けることができるのか?
他者の保証人になれのか?でも現実になっているのも世の中である。
要するにこの世の中は法律でも悪用されるようにいろいろめけ道がある
だから保証人というのも別にそういう人でもなっているのである
弁護士がかえって法律を楯にして利権を得るのもそのためである
会社などに雇われれば第一に会社の利益を優先しなければならない
そこには会社の利益追及しかない、法律を楯にした用心棒みたいにもなってしまうのである。


事業に失敗した人はもともとは悪い人ではなかった、若いときはいい人だったというから本当だった、それが事業に失敗して借金したときモラルが崩壊したのである。
ただそのことを悪いとか犯罪者などと思っていない
もちろん罪だとも思っていない、自分を苦しめたとも思っていない
その人は自分の借金をなんとかしたいということしか頭にない
だからまず人がどういう状態になるなど関係ない
相手が困っている弱っているというとき借金するチャンスになる
その人の問題は借金の額が大きいことなのである。
普通底辺層は十万とかの貸し借りであり百万となると大金になる
でも事業している人は百万とかは小金になってしまうから怖いのである
十万ならくれてもいいよとかなるが百万一千万となると簡単にはいかない
自分もそんな財産家でないからである。
だからそういう人とかかわることは怖いことになる
現実に自分の全財産を奪いとろうともしていたからである。


いづれにしろ極力借金だけはするべきではない、安易に借金することが問題なのである。もちろん事情を聞けば借金もすべてが悪いものではない、病気になったから借金したとかあり事情による。
ある人は底辺層だけどいろいろどうしても貸してくれというとき額が小さいしいちいちその訳を言うので貸さざるをえなくなった。結局くれてもいい額なので返されないこと前提に貸したのである。
ただ額が少額なので許すことができたのである。
でも金の貸し借りはめんどうなことだなとつくづく思った。
そんなことにかかわらなかったから自分は良かったのである。


とにかくその人が思っていることは自分に対しては金があるのに貸してくれない冷たい奴だとしか思っていない、自分が恐怖したことなど何の関係もない
そんなデリケートな心があったらそんなことしない、まずその人には人に対して何か横柄なのである。
そういう人の心を無視するような人がどうして事業が成功するのかともなる
ただ自分がもうければいい、他人の心などどうでもいい、自分が金をもうければいい、それしかないのである。相手は金儲けの道具でしかない
事業の理念といえばそれしかないのである。他人は金をえるためのものでしかない、
もちろんそういえは今の世の中みんなそうだとなるが全然知らない人間でもない
前の代から関係がつづいていたのである。
人間は結局金の貸し借りなど金をめぐってありそれで人間関係も破綻する
最後は「金の切れ目が縁の切れ目」だということをつくづく体験したのである。
人間の関係はそんなものだということが昔からそうだったともなる



借金と嘘は必ずと言っていいほどセットになってるようです。

借金する人の金銭感覚はどうなっているのでしょうか? (1/2) - 恋愛相談 - 教えて!go
お金も無いのに見栄を張る→借金して自分の嘘(見栄)を隠す

→自分の体面が保てたことに満足する→更に見栄を張る


借金する人の金銭感覚はどうなっているのでしょうか? (1/2) - 恋愛相談 - 教えて!go
こんなどうでもいいようなことで、何でそんな小さい嘘をつくの?
って感じの嘘が多いのも借金癖のある人間の特徴なんですよ。

借金する人の金銭感覚はどうなっているのでしょうか? (1/2) - 恋愛相談 - 教えて!goo

借金癖がある人間は、■まず嘘つきで■見栄っ張りで■何かあると
人のせいにします。

借金する人の特徴



これがあたっていた。
その人は頭がよくても技術をもっていてもそういう人だったのか?
嘘をつくことと借金がセットになっていることは確かである。
頭がいいとか技術をもっているとかでも人は判断できないのである




タグ:借金
posted by 老鶯 at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題

2016年01月07日

山眠る(この辺は住んでちょうどいい規模の街)



山眠る(この辺は住んでちょうどいい規模の街)

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我が町は灯のともしきや眠る山

母死して今安らかに眠る山

駅淋し二両の電車や眠る山

我が町は枯野の広く暮れにけり

樹数本津波の跡は枯野かな


眠る山というとき今は都会でもどこでも眠らずに活動している。自分は都会には住めない人ごみとビルの谷間では暮らしたくない、あういうところで良く暮らせるものである。
若いときはいいにしろ年取ればいやになるだろう。
もちろん都会に都会の良さがある、でもそこに安らぎはない
この辺では相馬市というと何か淋しい、原町はもともと繁華な感じになっていた。
その中間の鹿島とかはずれた小高とかは淋しい枯野が広がる地域だった。
何か自分にとっては枯野が広がっているような風景があるのがいい
原町ですら嫌な感覚になるのだ。

自分にとってはちょうどこれくらいの規模の街が住みやすいのである。
飯館村とかなると住むとなるとかなり不便になる、第一車がないともうそこは住めない
買い物もできないからである。飯館村などは千軒家を壊したから一体そこに新しい家を建てる人がいるのかとなる
現代は便利な社会だから飯館村とか限界集落のような所は消滅しやすいのである。
この辺はまだ常磐線があり六号線があり東京と通じていて市もあるからそれなりに便利であり住みやすい場所である。

そして今は外部から一万人くらい工事とか除染関係で人が入っている、それでダンプがひっきりなしに通るので危険なのである。一方でそのために活気があるというのも矛盾である。
こんな状態がまだ何年つづくのだろうとなる、工事とか除染が終わったら相当にさびれてゆくのも困るともなる
自分にとってはこのくらいの規模なのが住みやすい、都会化すると嫌なのである。
この辺では飯館村があるということも何か安らぎの空間を形成していたのである。
その飯館村の空間がなくなったわけではない、だが人が住まなくなるということはやはり今まではとは違ったものとなる、飯館村といってもそこに人が住んでいて価値があった
人が住まない村となると何なのだろうとなる


二両の電車が往き来しているがこれも人間的なのである。
やはり機械でも小さいと人間的になることがわかる
二両の電車は何か人間のように見えるようになっている
十両とか新幹線とかなると人間からはずれたものになる
巨大化すると何でも親和性がなくなってくる
いづれにしろ冬は山眠るではあり本当は休息の時期である。
自然のリズムで生きればそうなる、今はそうした自然のリズムがない
絶え間なく活動しているから精神的にも疲れるのである。


母が死んで今は苦痛もなく安らかに山は眠っているとなる
生きている限りなんらか人間は苦をもって生きることになるのだ。
死んでやっとその苦から解放されたのである。

タグ:山眠る

原発利権が国家的損失を生んだ 「日本の聖域」ー選択を読む



原発利権が国家的損失を生んだ


「日本の聖域」ー選択を読む


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 原子力村→利権化→原発事故

 原発→アメリカのGEの利権化→原発事故

 原発→地元の利権化→原発事故

 放射能汚染調査→被爆村→利権化→徒労、無駄

 除染→原子力機構→ゼネコンの利権化→効果なし


 なぜ原発事故が起きたのか、そのことを追及してきた。この本にもそれがまとめられている。これは雑誌「選択」で追及されてきたものである。
要点がわかりやすくまとめられている。
要するにあらゆるものが利権化するとき事の本質がゆがめられそれが災いを生む、原発事故もそうした様々な巨大な利権化がもたらしたことはいなめない
利益になればいいとしていろいろな不都合なことが見逃されてきた。


原子力村は原子力利権の巣窟でありそこに大学や学者や官僚や政治家が集まり利権化して政府の金が、国民の税金が湯水のように使われるのである。
安全神話」を作ったのもそういう人たちである。科学者の良心などもない
利権を得ればいいというだけになる。肝心の原発の安全は追及されないのである。

それは原発の原子炉でもアメリカのGEが作ったものでありこれもアメリカのGEの利権と化していた。GEでは外国のことだから安全をあまり計らない、古いものでも売ればいい、利益になればいいとなっていた。
そして製造者責任が追及されない法律が日本で作られていたのである。
それはアメリカの圧力でそうなっていたのだから日本は未だにアメリカの植民地であり属国から脱していないということでそうなった。

地元の利権化もまたそうである。漁業権をもっているだけで補償されていた、その額は大きなものだった。漁師が海を独占してその利権で海を東電と政府に売り渡していたのである。この辺の漁業は零細であり漁業だけでは生活できない、農業もそうなっていた。
でも農業にはそんな利権はなかったのである。
今も漁業者には海の汚染で交渉する度に補償金が増額される
それは海を守るというものではなく海を我が物として利権を得る構造になっていたのである。
「海を汚染するな」と交渉して利権を補償金をゆするようなものである。
そして海が汚染されて魚も食べられなくなったのである。
一番新鮮な魚を食べていたのは地元の漁師である。二三日すぎた魚は食べないと言っていたからである。
そして魚をとらなければ俺たちは何なのだとも言っていた。
でも別に補償金が出るのだから生活には困らないのである。
それも何か今になると勝手だなとつくづく思う
原発の利権が巨大だから地元でも漁業者だけではなく利益にあづかりその利益のために安全神話を地元の人たちも作り出していたのである。
原発に勤める人たちは金になる、すると安全のことより利益が大事になるからだ。
それでそういう人たちは「原発は安全だ」と言うから回りの人たちは何も言えなくなるのだ。
人間は別に原発だけではなく利益なればどんなことでもする。それで殺人にもなっているからそれは今でも利権で利益で人間は動いている。
毎日金を得るために血眼になっているから別に特殊なことでもないのである。
でもその利権とか利益を追及するだけだと社会をゆがめ回り回って自分たちも被害が及ぶということである。

放射能汚染調査でも実際は効果ないことが税金の無駄だというときそうである。
健康調査が福島県全域で成されたがその回答率20パーセントでありいい加減な答えであり何ら科学的調査に値しない、自分も記入していない、回答していない、あれも相当に金かかっていたのである。
それも何のためにしているかもわからないのだ。なぜならそんなことで放射能汚染されたことなどわからないからである。
そして除染自体は壮大な無駄でもあるとされる、除染の効果がないし、いい加減な除染しかしていないという、専門家ししているのでもなく普通の土木作業員がいい加減にしているだけであると書いてある。
それで利するのはゼネコンでありその利権にあづかる人たちだけなのである。
肝心の放射能汚染は何ら解決していない、ただ除染しているふりをしているのかともなる一応毎日何か作業しているとは見ていてもそれがただ除染しているふりにすぎないかともなる
それほど原発事故の後の処理でも膨大な金が何兆円とかの金がかかって前金の無駄だともなる、そんなことが何十年もつづくのだから原発は膨大な国家的損失でしかないとなる


現実に南相馬市立病院での体内被爆の検査も有効であっても機械の問題でできない、機械をそれほど高くもさせないというのも理不尽なのである。
被爆村の学者や団体がその検査をはばんでいる、研究者は実際の体内被爆の検査をしようとしないという、これでは体内被爆を恐れている子供をもつ若い母親が地元に帰らないというのもわかるという。
チェルノブエリでは十年後に甲状腺ガンが増えたから十年後には増加するというのも子供をもつ母親にとっては怖いから帰らないのである。
ともかく膨大な利権のための税金の無駄が原発であり実質的効果はあまりにも少ないのである。


この利権化の構造は原発だけではないこの本では他にもいろいろ追及している。
この利権化構造が社会を国をゆがめそれが国民に害悪もたらすから怖いのである。
この辺で「飯館村」とかが喪失したことは都会を失うより貴重なものが失ったとも思う
都会はむしろなくなってもいいがそうした自然と調和した村の方が自分は貴重だと思っていたからである。
そういう村を消失させた責任は相当に重いはずである。もちろん現代は原発事故がなくても限界集落化してそういう村は消滅してゆく
それが日本にとっていいことなのだろうかということの疑問がある
そもそも東京という大都会を維持するために東電がフクシマに原発を作ってその結果としてフクシマが被害にあったのである。
東京という巨大都市の犠牲になったのがフクシマであり飯館村のような自然と調和した村だったともなる
大内村は原発に近くやはり三分の一が原発で働いていたけど飯館村は遠いからそういうことなかったからである。






タグ:原発利権
posted by 老鶯 at 16:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連