自分に起きた2015年までの恐怖の体験
(それはこれからの未来の問題)
● 認知症の恐怖(人間崩壊の恐怖)
●介護が延々とつづく恐怖(重度になる恐怖)
● 病気の恐怖
●病院の恐怖
●身寄りのない人の恐怖
●凶悪犯罪の恐怖(老後貧乏の問題)
●借金の恐怖(モラルの崩壊)
●津波(天変地異の恐怖)
●原発事故(文明崩壊の恐怖)
この十年間で自分が体験したことは今ふりかえると恐怖の連続だった。最初に起きたことは家族が認知症になったことである。
それは突然起きたことであり何が起こったのかわからないので本当に恐怖だった。
最初から異様な妄想となり暴力になったから怖かった
60年も親しくしていた家族がそれも優秀だった人が痴呆化するというか狂気にもなったから怖かった
それは認知症とは何か全くわからないということであり狂気としか思えず対処しようがなく怖かった、激情的な人だから暴力になったとき怖かった
そして自分の家族は分離して家庭崩壊になった
ただ助かったのは二年半くらいで死んだことだった、だから意外と早く死んだなと今ではふりかえる
そして認知症は必ずしもすべてが崩壊するものではなくやはり人間的なことが残されていて人間崩壊というものでもないと最後は理解した
この認知症の恐怖は問題は高齢化の最大の問題になるしなっている
介護もまたこの問題と一緒にあった
一人は早く死んだがもう一人が介護になり約5年間つづいた
楽な方だったが最低でも5年間つづくことはやはり長いと思った。
そしてそれがなお延々とつづくのではないかという恐怖だった。
実際に十年とか二十年介護している人が現実にいるからだ。
自分の場合はすでに95才くらいになっていたから5年ですんだのである。
90才からでもいまなら相当に長くなる
そして脳出血とかなると三食食べさせなければならなくなるから手間である。
それも恐怖だったしオムツをするようになるのも恐怖だった。
母は最後まで水しか飲まなくなってもボータブルトイレに行っていたから助かった
それでも介護が長いということは心身が疲労してくる
介護にも様々な恐怖がある
●病気の恐怖、身寄りのない恐怖
これは誰にでもある、自分も癌の検査をしたときはショックだった。幸い癌でないし軽い病気だったので助かった。それでも自分は二年間くらい身体障害者であり苦しかった。
その時誰にも助けられることがなかった。
確かに親戚というものでもないが助けることを装う人は来た
その人は借金で追い詰められていたから自分からなんとか借金しようとすることしかなかった
これも本当に恐怖だった。病気のときだったから恐怖した。
人間は相手が弱者になったときそうした借金で簡単に断れない、弱者になったときの恐怖を体験した
その時同時に身寄りがないということがいかに怖いことが体験した。
病院にでも何でも手術するのにも保証人が必要になる、身寄りのない人は保証人がいないから老人ホームにすら入れないとかいろいろな問題が生じる
これが意外とやっかいな問題である。就職するのにも保証人が必要になる
でもこれも何かうまくきりぬける方法はあった
なぜなら保証人でも病院の場合はそんなに追及しないからである。
ただ身寄りがないということは何かこうした緊急の場合に困る
これも自ら体験したから結婚しないことはそうした助けが全くないともなる
だから今結婚しないフリーターとか派遣とかニートが自分と同じような恐怖を体験する
自分は金があったからまだいいがないならさらに困窮して苦しむことは目に見えている
●病院の恐怖
病院というのも恐怖の場所だった、身寄りがないとしたらさらに恐怖である。
研修生とかの実験台とか他にも何かされても抵抗できない
病人はまるで医者とか看護師の奴隷になる、一切抵抗できない
病院は牢獄のように思えた、現実に点滴は鎖につながれたようであり
身動きとれなければさらに人体実験のようにされてしまう
つまり医者とか看護師はそういう病人を冷静にみている
なんにも抵抗できないものとして自分の思いのままになるものとして見ている
だから医者が三百人殺したとか看護師でも世界でそういうことが起きている
病院は人を最も殺しやすい場所でもあるのだ
それが犯罪になりにくい、そして虐待も起きている
自分も虐待のようなことをされた、それは家族もいないような人はそうされやすい
家族がいても見ていないところでは何をするかわからない
手袋をかけられてベッドにつながれているのはまるで囚人なのである
今になると一時的ならせめて一二週間ならいいがそれ以上いると恐怖になる
直すというよりだんだん死につかせるという気分になるのだ
だから看取りとか最後の場所としてはあまりにも無機質であり情がなさすぎるとなる
死んだら物のようにあとがありますから早くかたづけてくださいと言われるだけなのである。
つまり死んだ人に対する情が全くない無機質な空間なのである。
だから病院では死にたくないが90パーセント以上はもうみんな病院で死ぬ時代である。
でも病院で最後の一二週間くらいで死ぬならこれもいいかもしれないが長くなることが問題なのである。延命治療などされたら詰問であり地獄になってしまうのだ。
●老人犯罪の恐怖
これもまた現代の世相が反映している、老人が犯罪を犯すのは今は老人が置かれている立場が厳しい、数も多いから老人を尊敬する社会ではない、金のない老人は何の価値もないとされる、そして下流老人が増えているから当然追い詰められて犯罪を犯す
それが自分の身にふりかかってきたのである。
別に犯罪を犯さなくてもそういう老人が増えているから社会不安になる
そういう人が多いこと自体社会不安をもたらしているのだ。
金持ちでもそういう格差社会になると不安が増大する
兵を鉄条網で囲って身を守らないと生活できなくなる
現実都会ではそうしているらしい、そういう社会も窮屈である。
高齢化社会の問題は深刻なのである。
●津波の恐怖
これも最大の恐怖だった。ノアの方舟のようにな恐怖を味わった。
天変地異の恐ろしさである。今でも津波の跡は生々しく荒寥としている
津波の恐ろしさは何もなくなる、村すら街すらなくなるという恐怖である。
一軒二軒くらいなくなるなら恐怖ではない、村全体が街全体が消滅する恐怖である。
これで自然の恐ろしさを知った。人間の計り知れないものが自然にはある
自分は津波の被害にはあっていないし家族も死んでいない、津波で家が流されて家族が死んだ人の恐怖も大きかった。
これほどの恐怖はそう簡単に忘れられるものではないと思う
十年たってもそうだろう、津波は一切を流して無にする恐怖であった
●原発事故の恐怖
これもまた恐怖だった、放射能というのがわからないし目に見えないから恐怖として認識できない、今でもそうである。
目に見えないということが恐怖させないということがあるがいろいろ言われると恐怖である。
放射性物質で体内被爆することが恐怖だった、食べ物からでも空気を吸っても体内被爆する
前立腺ガンの治療では放射性物質をカプセルとして埋め込んでその放射線でガンを徐々に消滅させる治療方法がある、すると放射性物質というのはそれだけの威力がある
放射線治療もあるが放射性物質のカプセルを埋め込んで癌細胞を消滅させてゆくというのもある、毒は薬にもなる、するとそんなに放射性物質が威力があるとすればまたこの辺で被爆した人たちはやはり癌になりやすいのかともなる
だから恐れる人は恐れて子供をもっている若い人は帰らない、それで看護師不足でこの辺では悩んでいるのである
原発事故は何だったのか、それは空気とか水とか土とか森とか海とか人間の基本的な生活になるものは汚染したことである。
第一次産業を破壊した。これも恐怖だった。それは大きく見れば文明崩壊である。
認知症の恐怖は人間崩壊の恐怖だったが原発事故は文明崩壊の恐怖でもあった
そのことをいろいろ書いてきた。
だからそもそも第一次産業を農業でも漁業でも林業でももう一割にもみたない生産しかない、後継ぎもいないとかすでに崩壊状態だった
でも現実に第一次産業が壊滅すれば人が住めなくなる、人が故郷に住めなくなるということが現実化して故郷は何かなと当たり前にあるものの尊さを考えるようになった
この辺では当たり前にあることが喪失してしまったからである。
水さえ飲めなくなるということはもうその土地では生活できなくなるということである。
この原発事故はやはり文明崩壊の現象として現れたとも言える、その土地に故郷に住めなくなるということはもう最大の被害でありそんなら貧乏でも故郷に住めるだけでもいいとかになる、価値観を変えてしまう問題だった。
これまでは別に江戸時代からそうした生活がつづいてきたのでありこれほど贅沢になったのはここ50年間くらいなのである。
だから原発事故周辺では文明そのものの疑問が起きた、それは現実的な問題としてこれからどうするのかという問題である。
それは人間があまりにも贅沢になり贅沢を追及しすぎたということにも原因があった
みんなが強欲になり金をあくことなく求めている、それは自分でもそういうことがある
そういうシステムの中で生きているからだ
でもそうした金だけを追及していることの矛盾がこの辺では具体的に起きた
補償金問題で南相馬市は三つに分断された。
補償金問題で遺産問題のようにもめることになった。
そこに絆を言われたがそんなものはなくなっていた。ただ金をだけを求める社会の問題も今までもあったがここでより具体的に現れたのである。
だから今の文明自体が問われることになったのである。
つまりこの辺で起きたこと自分に起きたことは何か現代の問題を集約したように起きた
それは現代文明自体の問題でありそれが自分の一身上でも起きたし回りでも起きた。
だからこの辺はそうしてこれからどうするのかという未来をどうするのかということを具体的に考える場所になったのである。
科学技術文明や資本主義社会であれグローバル社会であれ金融グローバル化でありそうした社会というのは本当にこのまま継続されるていいのか疑問が生れた
もちろん自分もそうしたシステムに入っているし否定した生活はしていない
そういうお前が何か言えるのかと言うことはありうる、実際に恩恵を受けているからである。
でもこの辺で起きたことはそういうシステム自体文明自体を全部肯定していいのかという未来への問題が具体的にこの辺で起きたのである。
自分の一身上であれ回りでも何か集約的にこの辺で起きた、それを追及して約十年がすぎたのである。
そして母が死んで介護からも解放された、今年はどうなるのか?
それは猿年が災いが去る(猿)となるといいとは確かである。
これだけ災いがあったらもう当然災いは去ってほしいとなるからだ