2015年12月25日

戦後の地方の歴史をふりかえる (戦争の引揚者が山村に開墾に入るー赤生木なども同じだった)


戦後の地方の歴史をふりかえる

(戦争の引揚者が山村に開墾に入るー赤生木なども同じだった)


戦争が終わったとき引揚者が大勢帰ってきた。その人たちの就職の場がなかった。働く場所がなかった。日本は明治から人口増加がつづいた。
信じられないのは母が生れた大正時代は日本には六千万人しかいない、今の人口の半分である。だから東京でも二百万とか規模が小さいのである。
どこの市町村でも人口が半分の状態をイメージするといかに今と違うかわかる
そして今度は日本は人口減少時代にはいり市町村が消滅してゆくと言われる
空家が800万軒とか人口がへる衝撃が大きい
そもそも大正時代が電気がないランプだったということもイメージできない
でも電気がないいうとき葛尾村では電気が来たのは戦後二十年以上なのである
電気がないというときネパールの山村には電気がない
それを見たら当時と同じだと思った。


一方で戦争の引揚者が開墾に入る時代が戦後にあった。
自分の父親が双葉の新山の酒屋に働いていた。
そこで一緒に働いていた人が小池に開墾に入った
それも奥ではなく真ん中辺りでありあんなところに開墾できる土地があったことが不思議である。それは全国で戦後引揚者が開墾に入った。
それは小池などでもそうだとするといたるところに開墾のために入った。
つまりまだ日本は地方は農業中心の社会だったからである。
赤生木でもそうだし飯館村でもそうだしいたるところそうである。
ただ赤生木でも飯館村でも前々から住んでいた人はいた。
だから市町村の歴史でもそこに江戸時代から住んでいる人と戦後などに開墾に入った人がいたことを区別す必要がある
そういう引揚者などはもともとあった村に開墾に入るとき不便な辺鄙な場所に入った。そういう所は原野のようなまた開墾されていない場所だったからである。
飯館村だと大倉から坂を越えた場所でありいかにも人の住めないような場所である。
そこは原発事故前に二軒くらい空家になっていたのである。
端の名前は共栄橋となっているのでこういう名は新しく開墾者が入って名付けられた
それは津島でもそうであり赤生木でもそうである。
そして津島では開墾者は結束が強いというときやはりともに苦労して開墾したからである

一方でそうして新しくそん辺鄙な山村に入植するものがいたがもともと山の暮らしは貧しいから街に下りてくる人がいた。
自分の父親は双葉の新山の酒屋に葛尾村2ら丁稚奉公したのである
山には仕事がないから食い扶持がないから街に下りてきて丁稚奉になる人もいた
戦後は異常事態であり働く場所がなくてやむなく辺鄙な場所に開墾に入った
赤生木村では北海道から乳牛を買って酪農で暮らそうとした。
飯館村は飯館牛として生計を立てた
その頃は炭焼きもあったからそれも大きな産業となり山村を支えた
その後石炭となり石油となり木材も海外から仕入れるなとグローバル化して変わった


次ぎに山村で起きたことは出稼ぎ者の時代である。山村だけでは暮らせないので現金収入を求めて東京などに出稼ぎに出たのである。
それは全国的なことであり山村だけではない、双葉や大熊辺りは原町市とかとは違い山村の環境とにていた、大熊では塩田で塩をとり東京に売っていたとか開発が遅れた。
その前には金の卵の集団就職があった、それは東京の人手不足を補った。
大熊とか双葉辺りは出稼ぎ者が出さないため地元で暮らせるようにと原発を積極的に誘致したのである。つまりその時、農業中心ではなく工業中心に移行する時代だった。
工場はまだ東京中心であり徐々に田舎に工場や会社が移転されたのである。
出稼ぎ者を出さないということで原発は効果があった
赤生木の人も原発で働いたとか浪江辺りになると三分の一は原発で働いて潤った
小高でもそうである。それで浜通りは会津などと比べると裕福だったとなる


もともと原発がなくても戦後の高度成長時代は先に街の方が恩恵にあづかった。
商店街が小さな資本の商店がみんな栄えたから通りは活気があった。
そして裏通りでも店が多く活気があった
自分の家も駄菓子屋のようなもの子供相手の店をはじめて一時期はやったのである。
子供が多いからそんな店でもやれたとなる、語り草になっているのは姉がこの店を始めるのに五万くらいの金を借りるのに苦労したことである。
今なら五〇万以上とかなると思う、それでもその頃は小さな店は簡単にはじめられたのである。小さな工場でも東京に密集して繁盛したから人手不足になったのである。
インド辺りの店にバラックのようにな店があった、新聞紙が袋になっていた。
それは自分の店と同じだった。新聞紙はその頃便所紙ともなり貴重だったのである。
便所のくみ取りも近くの農家が肥料とするためにとりにきていた。
それは江戸時代のつづきである。炭が燃料だったのもそうである。
双葉とか大熊辺りは浜通りでも今でも元の原町市とか平駅などから離れている辺鄙な地帯だった。そういう場所だから原発が誘致されたともなる
でももう少しあとになれば工場も誘致できたろう。
原発にはあまりにも警戒感がなかった、でも就職先としては最高の所だった。
給料が高いからである。身近に原発で働いた人はいくらでもいる、小高辺りまでは三分の一くらいがなんらかかかわっていたかもしれない。


集団就職で東京に労働力を地方が提供して出稼ぎ者でもそうである。
そして津波や原発事故で人口が流出してゆく、出稼ぎでもそれで子供を大学に出したとかあり全部が悪いものとはなっていない、
ただふりかえると地方は東京によって影響されていた、地方は戦後は森林鉄道があり森林の木材とか資源を供給していた。常磐炭鉱では石炭を供給していた。
エネルギーが石油に変わったとき急速に地方は変貌した。
東京中心に人手不足となり労働力を地方で提供した。出稼ぎ者もそうである。
東京というのがやはり経済的に地方を動かしていた。
東京に電力を供給するのも労働力を提供するのとにていたのである。
福島県は東京に近く東京の経済圏になりやすかったのである。
そこに繁栄もあり原発事故につながったのである。


結局戦後七〇年は何だったのかとなる。どうしてこの辺がこんな状態になったのか?
それを歴史的にふりかえると地方が東京に翻弄された時代だともいえる
地方創生とういうが東京中心に日本があった。
そもそも地方創生を考えるとき一体地方創生とは何なのかとなる
原発とかで栄えるのは地方創生ではなかった
地方で創生したもので栄えれば地方創生になっていたのである。
だから自給自足でも変だけど地方創生なのである。
それは東京とかに頼らない自立した経済になっていたからである。
江戸時代まではどこでも地方自立であった、地方創生だったのである。
これから目指す地方創生はどうなるのかということである。
集団就職があり出稼ぎがあり地方から東京へ労働力は供給された
原発事故で今度はこの辺はいち早く地方消滅になってしまった。
なぜそうなったかというと東京によってそうさせられたともなる
江戸時代のように地方自立だったらこうはならなかった


でも電気がない、車もないような生活は成り立たない
地方創生というけど地方から何が作り出されるのかとなる
文化的なものは地方から逆に作り出される
それを自分はしてきた、でも経済とかなるとまた別なのである。
第一次産業が壊滅したときそこに地方創生がありうるのかとなる
文化の基盤の土地が使えないというとき文化もありえないのである。
そして限界集落化して地方が消滅してゆく
歴史は繰り返すのか地方には仕事がないから若者がまた東京に出てゆく
それは出稼ぎ者ではないから地方に帰ってこないとなる
いづにしろ原発はこの辺では呪いのようになってその呪縛から解放されない
放射能汚染は簡単には消えないからである。
津波の被害地域でも原発事故地帯でも人口流出が最大の問題である。
未来をになう若者が流出しているからである。
ともかく未来を目指すにしても過去をふりかえらないとできない
もし過去を歴史をふりかえらないとまた同じ過ちを犯すようになるからである。








タグ:引揚者
posted by 老鶯 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

冬薔薇(数にこだわる写生俳句)


冬薔薇(数にこだわる写生俳句)

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白菊の十輪映えて邪を払ふ

七八輪小さき町や冬薔薇

満月や介護を終えて年の暮

故郷の畑に冬菜や親子かな



昨日は満月だった、何か介護を終えてほっとした。一人になるから淋しいといっても絶えずみていなければならないし話もほとんどできないとなると辛いだけになる
生きているからいいとは言ってもそれは外からみればそうなる
外からみている人は何の責任もないし何の負担もないからそうなる
それは自分だってそうだった。他人の苦しみはそれぞれ違っていてわからない
介護はしたからその苦しみはわかる
ともかく人間一人を死ぬことは看取ることは大きな負担である。
それは子がになわされているのである。親のカルマがあり子のカルマがある
そして誰もカルマの代わりを引き受ける人などいないのである。

写生俳句だと十輪だと七八輪にこだわる、それは「鶏頭の十四五本もありぬべし 子規」からはじまっていたのである。その数が写生なのである。
祭壇には大輪の白菊があっていた。純白であり菊の花は長持ちするからいい
薔薇などは飾れないというのもわかる
墓でも菊が一番飾るのにはあっている
七八輪の冬薔薇というときこれも七八輪が大事なのである。
それは人間をイメージしている、田舎だと七八輪の冬薔薇となるとあっている
人間は絶えず意識されるものは少ない、七八人が限度かもしれない
他はその他大勢になってしまう。都会ではあれだけ数が多くなるのだからこういう感覚からあまりにも遠いのである。


それはとりもなおさず非人間的世界である。組織団体でも数が多くなればそうなる
なにか現代社会はそういうことで非人間化して非情になるのもわかる
一方で戦前でも戦後十年くらいは狭い範囲で生活していたから情の通わせる社会があった今は全くない、グローバル化社会となるとこれまた全然情の通じない社会だからである。ただ情がなく物だけが入ってくる社会である
経済にまず情が排斥されてグローバル化社会が成り立つのである。
何でも数値化されるとそこには情がない世界になる、一人一人は違っているということも認識できない、同じ一つの物ののように処理されるのである。

都会から田舎を見直すというとき何か人間的な世界を求めている、親子が冬菜の畑にいる、何かその光景だけでもまだ人間的なところがある。
田舎は実際は人間関係では最悪な所もある、それでも自然があり花が映える
ある程度の空間と自然が映える所でとないと花も映えない
東京には四季もないだろう、枯野といってもそれがない、たた人込みとビルだけとなってしまう。
そういう場所で自然の感性を磨くことはむずかしい、もちろんそれなりにはあるとしても自然はもともとそんなビルの谷間にあるものではないからである
結局俳句などは短いからいかにその背景を読むからである。
俳句を鑑賞できる人は俳句を作る人より優れているまでなる文学なのである。
それはあまりにも短いからそうなっているのである。



冬薔薇(詩)

一輪二輪と数えて
七八輪咲きにし冬の薔薇よ
淋しき町に咲きにし薔薇よ
ともしさに耐えて咲く
ほまれとて何かあれ
七八輪の冬の薔薇咲く
今日もまたこの花見つつ
この町に我は暮らしぬ



この冬薔薇の俳句を詩にするとこんなふうにもなる
写生を俳句から詩に発展する
詩でも文学でも絵でも基本は写生なのである。
写生を基本にしてあらゆるものがある
そこに写生の意義がある

ただここで問題なのはともしきに耐えということは今は田舎でもないのである。
これは昔ならあった、だから昔の状況だったらより写生でありぴったりする
今は田舎でも都会より贅沢だと思うからである
車も一人一台とかもっていて贅沢なのである。
それでも貧乏な人はどこにでもいる、それは田舎とか都会とか関係なくなっている
一般的に田舎はともしいというのが普通である。
でもどうしてもともしさに耐えというのは作っているとなる
リアリティではない、確かに娯楽施設などは欠けているしたりないものはある
そのともしさはそんなに深刻なものではないのである。
ともしてさに耐えられないからこそ原発を誘致したのである。