2015年12月23日

生者と死者の関係の不思議 (死者には生者が望むことが多い)


生者と死者の関係の不思議

(死者には生者が望むことが多い)

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死者とは何なのだろうというときこれも不可解なのである。死者が生者に望むことより死者になったとき生者が望むことが多い
自分の家ばかり話題にして恐縮だが何か自分の家は複雑だから外からはわかりにくい
でも二人とも姉と母が生きていたときは争ったりしていた。
それは複雑でなくてもどこでも争う家族がある、するとその子供が争わないでほしいと切に願っている。
でも離婚する人が3ん分の一いて子供はその間にたって苦しむ
自分の場合は本当に長い間つづいた、すでに自分が老人という年までつづいた。
だからなぜこんなにしつこく60年も争っているのかとなった
その争いは変わらずに一方が認知症になり最悪の結果となって終わった
それでなぜ生きているとき仲良くしなかったのかということが悔やまれる
死んでしまったらもう争わないけどなぜ生きているとき仲良くしなかったのかと自分は不満なのである。
死んでしまったけど死者に対して生きているものが不満であり望むことがある


普通一般的に生きている人の方が死者に望むことが多い、なぜもっと生きているときもっとこうであったらよかったのにと思う人が多い。
それは死んだ人でも不慮の死とかなればそうである。それは本人自身が俺はここで死にたくなかった、もっと生きていろいろなことをしたかったとかなる
そういう思いは生者にも伝わるしわかりやすい、死んでしまえば死んだ人は生きている人に何を望むかより死んだ人はもっとこうあるべきだったと思う人か多い
死者が生者にお前はこうあるべきだとか望むだろうか?
例えば戦死者は一体生きている人に何を望んでいるのか?
靖国に祀られるから満足だと思っているのか?戦死者は今生きている人に何を望んでいるのかわからない、ただ戦争で苦しんだから戦争だけはするなと言う人が多い
生前からそういうことを言う人が多いから死んでも生者にそう望んでいるとなる


親でも何か子供に望むことが親のエゴ的なものが多い、医者の家に生れたら医者になれと子供におしつける、適性がなくても運命的にそうなってしまう。
医者にむかなくてもそうである。そして親は子供を何かと他者に自慢したい
それは学校でも就職でもそうである。常に親のエゴがそこに入ってくる
それが子供にとっては嫌なのである。お前は何々になれというときは親のエゴなのである生きているときは絶えずそういうふうに子供に対してのエゴは消えることがない
では親が死んだときどうなるのか、死者は残した子供に何を望むのか?
死んでも何か望んでいるのだろうか?つまり生者は死者に何を望むのかとなる


墓参りに行ったらお前はこうこうあるべきだとか望むのだろうかとなる
死んでまでエゴが消えず子供に望むのかとなる
死者はもはや生者に対して何も望むことはできないのではないか?
もっと墓参りしてくれとか捧げ物をしてくれとか、何々にしてくれとか墓から望むだろうか?
ただ奇妙だけど自分は毎日自分の墓の前を通っているから墓に花がさされないのて淋しいなと自分が思う゛死者は死んでいるのだからどう思っているのかわからない
それで時々生花をさしたりするのである。
それは死者が望んでいるのではなく今生きている自分が思っていることなのである。

だから死者が生者に対して望むものは何かとなればそういうものはもうない、それは生きている時あったことである。
例えば花が好きだったら花一杯にしてやろうというときそれは死んだ人が生きていたときそうだっかから花一杯にして飾ってやろうとなる
でも母のように花にも興味もたないとしたら死んだら花に今度は興味をもってくれなとなる、でも死んだ人に言ってももう通じない、それは生きているときにそうすべきだったのである。
ただ生きているときはそれができなかった。だから死んだら来世でそうあってほしいとなる、生きている人が死者に望むことの方が多いのである。
それは死んだからではない、生きているとき切に望んでいたことなのである。
それが成されずに死んだことで死んでも生きたつづきとしてそう思っているのである。


つまり人は死んでも生きた時の延長として死者を考えている、生きたことと全く切り離して考えることはできないのである。死んでも形もなくなっても生きたときのことから切り離して考えられない、死んでまた全く別な人間になる、悪人が死んたら別だ、聖人にもなる、恐れ崇められる霊になるとかもそういうことも合理的に考えるとありえないとなる
でも死者は不可解だからどこの民族でも死者を崇拝することがある
先祖崇拝というのがある。それが世界共通の一番古い人間の宗教だともなる
死者というのは死に顔がありまだ体があるときから灰と骨となり形もなくなる
そして死者とは何かとなるとそれは生きている人が死者をこうして欲しかったとかなるのが多い、もちろん死者が生きているときこうしてやりたかったというのも多い
介護は苦しかったけどもっと親切にしてやりたかったというのも生きている人が思うのである。死んだ人はもう何もわからない、死んだ人は一体何を望めるのか?
何も望みえない、ただ死者は確かに厳粛なものとなり生者を見ている
死者には嘘偽りができない、そのことは生者は死者を恐れる要因になる
お前の心はわかっている、お前はただ金がほしくて自分に親切にしてきただけだ
お前の心はわかっているとか死者がみているとなるから恐れるのである。
それは介護のときから生きている時からつづいていることでもある


自分は複雑な家族であったがなにかその複雑な関係でお前は何々なれとか何をしろとか強制されることがなっかたのである。母は普通の母親のようにそういう思いはあってもできなかった、これも奇妙だなとつくづく思う、それ故に母にたいしてなにか強制されなかったから別に恨んだりしていない、不思議なのことにあなたは何をしてもいいよとなっていたのである。
それで自分は二人に感謝している、二人は争っていてそれが悲しかったが自由にされていたということで感謝している、母は自分にそういうことは望んでいなかったのである。
そして母に対しては不満があったがそれも強いられたものでありしかたないと思っていただから生きているときから母はもっと働くだけではない、花にも興味をもったり人生を楽しむべきだったと思っている。今死んでからそう思ってももう母は何もできない
すると来世でまたは新しく生れて今度はそういう人生を送ってほしいとなる
スピリチャルというのはそういう想像で来世を見ているのである。
今世で恵まれなかったから来世では恵まれるとか想像して言っている、その想像がカルタシスになっているのである。
でも来世にどうなるのかはキリスト教のような明確な約束はないのである。
要するに想像するということはどんなことでも自由だとなる、それは人間側の勝手な想像なのであり生きている人間が作り出した想像の物語なのである。
スピリチャアルもやはりこれにのめりこむと問題があるなと思った。
信仰とは明確な神との約束であり契約のことであり勝手に想像するものてはないからである

ともかく死者と生者の関係は生きていることの延長としてあり生きていることから切り離して死者を考えことはできない、誰も死後の世界のことがわからないからみんな現世の生きている人間が死後を語っているからである。
死後のことはわからないにしても人が死んだらやはりこの世に生きていたことはわかる。どんなふうに生きていたかはわかるからそこから死者をもみている
それしか死者でも知る術がないからである。全く生きている時とは違う死者を見ることはできないからである。



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