2015年12月20日

母は百歳生きる意味があった (家庭の事情で違ってくる介護)


母は百歳生きる意味があった

(家庭の事情で違ってくる介護の様々)


母死して風鳴りにつつ冬椿

日曜日枯野にあわれ昼の月

母死して玄関に光る冬の月



二本の枯木のここに変わらざれ歳月経てそさらに堅きも

我が母の百歳生きぬ千歳なる巌(いわほ)となれや冬のくれかな

骨のみそ家に飾られあわれかな母ようやく我が家の主


私は人間です。血も心も通った人間です。だから今にも消えそうな命の火が目の前にあれば、努力して1日でも燃やし続けさせてあげたいです。理由はうまくいえませんがそれが人間ではないでしょうか?

介護は家庭の事情と深くかかわってくる。家庭でのその人の立場がどうなっているかで違ってくる。
自分の家は複雑であり他からはわからない、姉が家の主であり母は脇役だった。
目立たない存在だった。だから母が我が家の主役になったのは奇妙だが姉が死んでからであった。
そしてこれも不思議なのだが姉が死んで母が死んで祭壇に母の遺骨が置かれてから我が家の主人となっていた
92-3才までも料理をして家事をしていたから家では現役だった。
自分の家では嫁がいないからそうなった。
だから自分は介護は嫌でも義務だった。介護でも確かに三食を出していたがオムツもしていないし最後まで自力でトイレに行っていたから三食食べさせるよりはずっと楽だった。だからプログとかも創作もつづけていたのである。


そして母が我が家に嫁いで主役となったのは姉が死んでからであり介護されてからだったのである。だから自分の家では十分に介護されていても存在感があった。
まだ家では生きる意味が価値が存在感があったのである
家族が多いと嫁が主役になったりするとそういうことはなくなる場合がある
嫁からすると早く死んでもらいたいとなるだろう。
介護では常にそうした矛盾に悩むのである、もう世話はしたくない、早く死んでくれというのは常にある、それと矛盾しているんだけどやはりまだ生きてほしいということもあるこの二面性は誰でも常にあるのが介護なのである。
だから死んでくれというのは強烈になると、それは我慢の限界が来て殺人にもなる
そういう相反する葛藤が介護者にはある


ともかく母は死んで我が家の主役となった。姉は脇役化したのも不思議である。
死んでから主役になれるのかというがやはり人間にはそういうこともある
生前は注目されなくても死後に注目されることは多々ある
それが生前はその人の価値がわからないが死後に発見されるということがある
だからつくづく人間は死ぬまでわからないものであり死後もまたわからない
死後にその人が見直され価値があるものとされることは良くある
それは別に有名人ではなくても平凡な人でもある


介護はとにかくそれぞれの家庭での立場が強く影響するのである。だから最後まで家で介護されたいとか在宅で死にたいというときその家族のなかでどれだけの立場にあるかが問題になる
病院であったただ手をあげることができるだけの人がいた。その人は妻が来て手をにぎるだけでありほとんど意識がない状態だった。
介護度5であり寝たきりでありしゃべることもできない、ただわずかに手を上げられるだけだった。その介護度5の人を家で介護していたのだから驚く
その人は農家として優秀であり娘三人を大学に出していた、だから家族で大事にしていたのである。
それだけみてもいかに大事にされていたかわかる。
その後どうなったかわからない、浪江の人でありおそらく郡山に娘がいたからそこに避難したのだろう。


こういうふうにそれぞれ介護する家族の事情が違っている。自分はあんな人をとても介護はできない、比較的楽だったからできた。ただ姉がひどい認知症だったから一時はパニックになった
でも2年半くらいで死んだので救われたとなる、もし二人を介護するようになったらもうもたなかった。これも天の助けなのか、悲劇にならないで助かったとなる
あとは母の介護だったがこれも5年は長かったが重度ではなかった。
それは母の頑張りがあったからである。そうでないと苦しくなった。
だから不思議に自分は介護しても恨んでいないし二人には特別良くしてもらったから感謝している。
死んでも今は母を家の主役として祭壇に骨を置き大事にしている
供養もこれから近くに墓があるのでする、死んだ後も二人への感謝は変わることがないからだ。

我が母の百歳生きぬ千歳なる巌(いわほ)となれや冬のくれかな

人間はやはり百歳生きることは何か重みがあると思った。年寄りなど金ばかりかかり社会にとって何の役にもたたないとか言われるが百歳にはやはり意味がある。
千歳の巌のようになってゆく,死んでもやはりそういう重みが残る
やはり百歳はまだ特別なのかもしれない、これが百歳が多くなり百二十才とかにならないと珍しくないとなればまた違ってくる。
人類は百歳の時代からさらに百二十才とかの時代になるのだろうか?

だから今にも消えそうな命の火が目の前にあれば、努力して1日でも燃やし続けさせてあげたいです

母は病院に行っても最後までこうして生きたのである。何日か前までは自分の顔を見てわかっていたのである。意識があったのである。
そうして母は何か師走に冬に死ぬのつくづくふさわしかった。生れたのも2月4日でありもう少しで百一才だったのである。冬に生れ冬に死んだとなる。
苦難の一生だったから冬にふさわしい女性だったのである。
ともかく確かに人間は死んで骨と灰になるが人間はやはり子供であれ他者の心に生き続ける。
あのように自分にトイレに懸命に行っていたこともやはり今になれば良くがんばったなと思うからである。

例の二本の枯木はやはり歳月を経ることによってさらに堅く結ばれる感じになる
何か平凡なんだけど何度もみているのだけど年によって違ってみえるのも不思議である。見慣れたものでも同じものでも違って見えるのである。


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この世の最大の無常は死 (死を克服するには信仰しかないーそれもキリスト教しかない)


この世の最大の無常は死

(死を克服するには信仰しかないーそれもキリスト教しかない)


今回の母の死もショックだった。すでに家族で三人の死を経験した。一番のショックは自分が中学生のとき死んだ父の時だった。それが野辺送りであり薪を積んで焼いたからすさまじかった。それ以来自分は死の恐怖にとりつかれた
それが求道のはじまりだった。もちろんどう求道していいかもわからなかった
死の解決方法がわからなかった。それで失敗したのはカルト宗教団体に入ったことであるそういう所は政治団体でありそうした死の問題は関係ないのである。
つまりこの世のパンの問題が最大の問題でありそのために政治的便宜を提供するものとしてあれだけ数を獲得したのである。
どうししても集団化すればたいがい共通しているのは利害で団体化する、それは宗教とは関係ないのである。
天草四郎とかキリシタンの反乱なども政治的なものであり権力争いであり浪人がそこに集結して徳川幕府の転覆を計った。だからこそ徳川幕府は敵対したのでありり信長も比叡山を敵対したのはそれは権力に敵対するものとして団体化していたからである。
別に予言者のように日蓮のように一人戦うものならそんなことはない、その一人が迫害にあうだけど団体化組織化した宗教団体は政治団体化して時の政権奪取を目指すのだから争うことになる


そして本当は人間の最大の問題は何かという問うとき、それこそ人間には無数の問題をかかえている、第一問題がないということがまた問題になっているのだ。
問題がないということはそれだけ恵まれているということはのちのちまた災いになるのである。何か苦難の時が来たらばあまりにも恵まれた人間は対処できないのである。
それで資産家の姉妹が餓死したというのもそのためなのである。
つまり恵まれすぎたことが後の災いを生んだのである。
いづれにしろ人間が死ぬということが最大の問題として宗教がある
一番のショックは人間が死んで骨になり灰となり形も何もなくなってしまうことなのである
だから骨を拾うとかは本当に酷だと思う、いちいち骨がどうだったとかこの骨はどうだとか説明されるのが何か嫌なのである。これは太い骨ですねとか太った人だと言われるだろう。そんなことを想像するだけでも嫌だろう。
何か人間の解剖に立ち会っているようで嫌なのである。実際の解剖なら医学に役たつのだからいい、骨を拾うというのはそんなこともないのである。
だから骨壺に入れて渡された方がいいともなる、ただ無常観を感じさせるには骨を拾うことは一番効果あることは言える。
人間は結局は骨となり灰となるものであるとういうことをまざまざと見るからである。
それが人間として生きてきた最大のショックなのである。
要するに人間の壊滅状態を見るのである。何もなくなってしまう無をまざまざとみる
それでショックになり何か食欲までなくなり気力も喪失して立ち直れなくもなる


この死のショックはいかに慰められようと慰めることは人間にはできない、そして死に関しても平等である。どんな金持ちでも権力者でも有能な人でも必ず死に骨となり灰となるこの世にいかに権勢を誇っても行き着く先は骨であり灰になるという現実が死である。
それは美人でも女性でも最後は同じである。その前に皺くちゃになり醜悪な顔にもなる
それが女性の現実でもある。
そうした老人とか死の時点から人生を考えるときこの世の様々なことが虚しくなるだろうこの世のことに人はみんな必死で追われている姿が虚しいとなる
文学者でも感受性の強い人は芥川でも川端康成でも太宰でも他にも自殺している
それは死を克服できないからである。どんなに栄誉栄華を誇っても死があるだけであり
骨となり灰となるだけだとなる、死とは人間の壊滅状態なのである。


死はまた宗教でも仏教でもイスラム教でも克服できない、お釈迦様も死んだからである。死ななかったのはキリストだけだとなる、その前に聖書には人が骨から蘇るとかそうした奇跡が記されていることは人間の死に関して特別な見方をもっていた。
すでにエホバというときそれは見えないが神と認識されていて人を蘇らせる神としてみていた。だからそういう宗教は他にないのである。
でも実際は蘇ったのキリストだけでありその後にいかなる偉大な聖人も蘇っていない、みんなやはり死んでいるのである。では死を克服されてはいないではないかとなる
やっばりみんな死ぬには変わりないとなると言われるのもわかる。
でも聖霊は死なない霊でありこれは肉体を越えたものとして授けられる
聖霊は永遠の命であり死なない霊なのである。でも実際は聖人でも人間は死んで骨になり灰になっている。
でも来世では生命の書に記されたものは蘇るということは確かである。それは契約であり今世では確かに骨となり灰となる無惨がある。だからこの世での肉体をもった姿は仮の姿だともなる
永遠の命があることこれを信じる意外救いがない、
そうでない限りどんな栄光かあるのか?結局は骨となり灰となるだけだとなってしまう。
キリストに栄光があるというとき死なないからであり死んだら栄光はない
死ぬものに栄光はない、神がいたとしても死があるなら神の力もないとなる
医者でも結局死に対しては無力である。どんなに科学技術が発達しても死を克服できないそれは神にしかできないのである。科学技術の栄光も限界があり死は克服できない
どんなに文明が栄えても死は克服できない、それが人間の限界なのである。


いづれにしろこの世のいかなる力をもってしても死は克服できない、この世のことならできる、貧乏でも克服できるときはくるだろう。無数の問題があるがそれも克服できるだろう。しかし死だげは人間の力では解決できない、ただこの世では死がどうのこうのというより日々のパンのことの方が大事でありそのためにあらゆる労力は費やされているのである。カルト宗教団体でもそうであり団体となればみんなそうである。
死の問題は普遍的であっても個別的なのである。
それは団体に頼っても友人に頼っても親族に頼っても科学技術に頼っても解決できない
だから教会に行っても解決できない、団体に入ることではない、個々人の問題として死があるからだ。その個が神と結びついて解決される問題であり団体化しても解決しない
だから団体とは肉でありパンのことである。
bodyは団体[人],統一体,組織体,法人でもある
ところが聖霊は個々人に授けられるのであり団体には授けられない、bodyには授けられない、教会もbodyでありその団体には授けられないのである。
別に教会に行かなくても授けられるのである。教会は否定できないとしても信仰は別である。


むしろ個々人の求道のなかで人生の中で紆余曲折して神の信仰にいたる、そして教会で説教を聞いてもそれはヒントみたいなものを得るだけである。
そして前にも書いたが誰であれ牧師であれ誰であれ教えられるもの説教するものによって奴隷の霊を与えられることが危険なのである。
四国の遍路であった人は金をやると言ったら経文を唱えた、あれも何なのかわからないで接していたが危険だった。あの人はただホームレス化した遍路でありそれが遍路だからお経を唱えた、それは食う手段として宗教をまねる人物となった。
そうなれば乞食ではない、尊敬される師ともなるからである。
そういうものにお経をとなえてもらったら心も支配されるのである。
何か今は僧侶とかは誰も尊敬していない、そして自分でお経を習って唱えるような時代になっている。
それも時代でも危険だなと思った。でもまたそれがキケルゴールの言う民主主義であり水平化の時代なのである。すべての面で精神的なもの宗教でも個々に追及して平等化してくる、もう師など従う人などいない、従うとしたらカルト宗教団体に入りそこで利害を一致させて政治運動することになる
要するに宗教も自己責任の時代となる、何を信じてもいい、唱えてもいい、しかし他人にそれをおしつけるなとなる、その教える人が師となれば弟子となる人がいて支配されるからである。師はまた偶像崇拝化されるのである。
だから民主主義とは何でも自己責任になる。あなたが何を信じようがいい、それは自己責任でありあなたの自己責任で解決して他者にそれをおしつけてはならないとなる
団体化したものはすでに宗教をその数で団体化して権力でおしつけているから危険なのである。



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posted by 老鶯 at 11:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の言葉と詩など