2015年12月10日

老人は男女を生きることができる (男女の神秘の考察ー東西文明論としても)


老人は男女を生きることができる


(男女の神秘の考察ー東西文明論としても)


主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。『ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。(創世記2:18-25)」


主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。

そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。

人間はまず男かつくられた、それがmanであり女はwomanになった。wobmとは子宮のことである。女には子宮を与え子供を生むようにした。
最初が男だということは男を女に変化できることなのである。
現実的に男性の生殖機能から女性の子宮とか他の女性の生殖器に作り替えられるという、それは科学的にも説明できるし構造的にそうなっている
女性とは男性の変化したものである。女性にも睾丸とにたクリストフがあることでもわかる。

生過程の性分化は、あらゆる場面において男性への分化の方が時期が早い。その時期を過ぎて男性への分化が起こらなければ、女性として形成される。

陰茎と陰核に限らず、男女の外性器は発生上は同じ構造である。元々持っている男性器の外性器は、原則的にはそれぞれ各部がそれに対応する女性器に作り替えられる。例えば上に挙げた陰茎の場合には、その亀頭部を陰核に作り直す。表陰嚢は大陰唇に相当するが、これは膣の内壁としても利用されるらしい。

これなども男性が先に作られ女性が男性の変容したものとして作られたことを証明している
ここでは女性の方が先に作られたとしている、男性と女性に分化する過程にその秘密を解いている。生殖器は一体なものが二つに分かれて変容した。それは一つのものだったのであるから両性具有になっても不思議はない、それは肉体的だけではない、心でも両性具有となる、老人になると一般的にそうなりやすい、男性は攻撃な性から女性の受容的な性に変わり穏やかに丸みを帯びたものとなる、でも男性的なものは持続している

ただなぜ骨から作られたのかということである。骨は人間を焼けば最後に残るものだし骨は肉がなくなっても残る、だから骨が人間の体で重要なものと認識した。
骨から人間が再生できる、骨から生命体が作られる、骨に肉をつけ霊をふきこむと生き返る、男の肋骨から女性が作られたように骨から人間が再生できる
ともかく聖書の語りの残したものも謎に満ちている、ただ科学的に見てそれがまるっきり架空の作り事ではない、科学的にも説明出来ることに聖書の不思議がある
聖書はそもそも奇跡を信じなければ成り立たない、そして奇跡が人間に起こるのだ
科学では絶対説明ができない奇跡が現実にあるしそれを記したのが聖書である。
だからただ人間はみんな死んで終わりだと考えてはならないのだ。
そんなだったら人間に何の栄光もないとなるかららだ。

「あばら骨のような比較的短い骨の骨髄は(骨の芯のやわらかい部分)は赤色骨髄であって盛んに裁縫分裂して急激に増殖する骨髄細胞をふくんでいる
骨髄細胞を盛んに分裂増殖すれば細胞培養によって人ひとりの数の細胞ぐらいわけなくできる」(創造論の世界、久保有政)

考えてみれば人間の肉はすぐに腐りなくなる、でも骨はいつまでも残っている
その骨を基にして生命の再生を計ることは科学的なのである。
また女性を肉の肉だというとき男性の肉が変化して女性の肉になったのである
だから肉の肉なのである。女性が男性に求めるのは肉だけではない、子宮があり子供を生むことでありそれが最大の相違である。

人間は男女があっても女性でも男性的な人がいるし男性でも女性的な人がいる。
両性具有というのもいるそうだから肉体的にもそうであり精神の面ではみんな両性具有である。
そして「柔和な人達は、幸いである、彼らは地を受け継ぐであろうと言われるのか?
それは男性的なものではなく女性的なものなのである。父と呼んだエホバなるものは男性でありだからこそまずその似姿として男性を作った。次ぎにその助けてとして女性を男性から作ったというのはまさに神の業である。
肉食獣は獰猛であり草食獣は柔和である。肉食獣は神の御意になく草食獣が神の御意にあるのか?肉食するものを神は嫌う、柔和なものを神の御意にかなうものとしている
それは不思議に女性的なものに柔和なもの優しさがある
それは男性にあるとしても女性に体となり具現化したものとして存在させた。
女性は男性を柔和にさせる、その体は優しさに満ちている


ただ女性にも男性的な女性がいてその人は女性を友達にするより男性がいいとしている
体つきもそういう人は肉食系であり今の若者は草食系だとして批判している
ヨーロッパは狩猟民族であり肉食系でありアジアは穀物を食べるから草食系だとなる
ヨーロッパ文明は獰猛な戦争好きの男性原理から成り立つ、アングロサクソン系とかアーリア人は特にそうである。相手を暴力でもってでも征服する。それ故に武器の発達があり機械の発達があった。これほどの機械文明になったのは西欧型の狩猟文明が基にあったからである。
ヨーロッパとか西と東と分けるがアジアというときイスラエルはアジアなのである。ヨーロッハは地中海をわたった方向をヨーロッパと呼んでいたのである。
宗教はアジアからはじまった、アジアのものであり東のものである。
ヨーロッパ文明がキリスト教文明だというがそのキリスト教はアジアのものであった。
だからローマ教会化した、政治化したのはヨーロッパ文明であった
宗教はアジアのものであり科学や機械や法律とかはヨーロッパ文明である。


資本主義とかもヨーロッパ文明から発展したものでありアジア文明ではない
そこに男性的原理が強烈に働く文明である。競走原理とか上下の支配の強固さとか階級制とかでもそうである。支配するものと支配されるものに二分化されるのもそうである
過度な機械文明であり環境を破壊する文明である。それはもう限界に来ている。
その結果としてこの辺の放射能汚染で住めなくなった現実がある
過度な機械文明は危険であり制御すべきものとなる
ヨーロッパ文明の延長としてアメリカ文明がありその挑戦を受けたのが日本であり明治維新だったのである。
だからアジアが復興するルネサンスになるというときそれは日本が再興することなのである。
それは資本主義とか競走原理の弱肉強食の男性的原理から柔和なる優しに満ちたアジア的原理に回帰することになる
つまりそれが宗教たからである。それはキリスト教でも仏教でも同じだからである。老子の教えでも思想的にはにているからである。
ただアジアというとき何なのか?それは広すぎて今なお不明確である。
ただ西欧文明と延長のアメリカ文明はもう限界に来て衰退してアジアが再び勃興することはまちがいない、そこには欧米の原理ではない新しい文明が再興するのである。


男性的なものと女性的なものは補完するものであり不思議なのは老人になると両性具有となり精神的にそうなる、荒っぽい男性からたいがい柔和な男性に丸み帯びたものとなる
それは性欲の減退とかと関係してホルモンのせいもある。
だから老人になってからは中性化するからかえって女性と男性を若いときのように取り合うとかより融和的になるのが一般的なのである
もちろん個人差があり若いとき同じように血気盛んな人はいる。ただ一般的には男女の区別がない幼児のような子供のような時代に逆戻りするのである。
その時美人とか容姿もあまり関係なくなる、それより話が面白いと別なものが注目されるその女性は若いときだったら近づくのも嫌だったろう、体型でもあまりにも無様なのである。でも何か話してみると違っている、面白いのである。
美人は三日みればあきるというのは本当である。何かそれより精神的なもの話が面白いとか性格がいいとか何か別な精神的なものが重要になってくることは若いときからあったが老人になると外見とか容姿よりそうした内面的なものなどが重要になっている
老人は外見はみすぼらしくても内面は若いときと違った充実しているのである。
若い人が老人なんか無駄だというが早く死ねというが若い人は内面が精神が充実していない、ただ血気盛んな肉体があるだけだともなる
だから何か芸術でも深いものは創作出来ないのである。精神的に成熟できないからそうなる


老人になることを嫌うのは肉体的衰えがあり外見からだけみるからである。
精神は全く違ったものとして充実している、若い人はどうしても精神的には成熟できないいくら背伸びしてもそうである。それには時間がかかるからである。
自分の創作でも若いときに経験した旅でも今になるとその意味を深くして創造でる。
つまり旅でも旅しているときはその意味とかがわからないがあとでわほかるときがある
その場について後で深い洞察ができてくる。あちゆる経験でもそうである。
なかなか若いときでも体験しているときは夢中でありその意味を深く洞察できないのである。
老人になってはじめて本当の実りの季がくる、だがら自分も今は創作的にも充実している本を読んでも深く読めるのである。若いとき本は買うだけであり読んでもわからないのが多かった。今だと深く読めるから批評に向いていると思うようになった。
批評はやはり一段上の高みにたたないとできない、,人物批評でもそうである。
批評はだから老人に向いているのである。


若い日の熱情と火花が燃え上がる
一人の人間に男女があり
老人になると二つの性を生きる
老木は大地に根付いて深い知恵を語る
人間は以前として解明されていない
神秘であり謎である
自分自身すら謎であり謎を生きている
青春を生き壮年を生き老人を生きる
若者は老いがいかなるものか知らない
私の心は何になったのだろう
私の体は枯れてゆくのか
私の体も枯れてはいない
人間は死ぬその時まで神秘体験をする
旅した私の心は世界を駆け巡っている
郷土を生きて世界を生きている
人間は奇跡的な存在である
私は死ぬとき奇跡の変容を遂げる
風雲の中に私は轟き去ってゆく
その時来世への約束の虹がかかる








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