2015年12月01日

人間の最期は大事 (意志疎通できていればまだ生きている)


人間の最期は大事

(意志疎通できていればまだ生きている)


我が顔みてなお微笑む母なりき余命いくばく別れを惜しむ


人間はやはり死ぬときは大事になるのか、姉の最後は悲惨だった。ただ最後にわかったのかうなづいてくれた、それだけで救われた。
何もわからなくなっていたと思っていたからだ
人間は最後まで意志を通じ合わせようとする、自分の家は複雑な事情があり外からわかりえない
長い間憎しみあった関係でもあった、でも60年とか一緒にいればもう憎むこと自体愛していたともなる、憎むというときそれが意外と愛に通じていることもあるのだ
愛の反対はむしろ無関心なのである。人間はたいがい他人にはこれだけ数がいても近くでも無関心だからである。


自分の母との関係も普通の母との関係とは違っていた。でもやはり最後は介護して尽くしたので喜んでいた。
そして最後もまだ顔がわかっていて微笑んでいる、だから冷たい関係でなくて最後を迎えるので良かった。双方にとって良かった。
親戚の人はこれも母親が三人とか変わったが交際しないからわからないが最後は恨みを残して死んでいった。それを自分は最後に聞いたのである。
「ひどい人だ」と娘を恨んで死んだ。でも介護はせずにすんだから良かった。
急速に死んでしまったのである。その二人の事情はわからないにしても本当に病気でも何かいたわりの言葉もなかったのだろう。
だから最後に自分の家とは交際がなくてもそう言って死んだのである。
つまり自分の家に恨みを自分に恨みを伝えて死んだのである。
その女性は本当に異常な性格になっていたのである。ただなぜそうなったのかは交際がないからわからない、ても恨んで死んだことは間違いないのである。


ここに人間の最後の問題の複雑さがある。介護でも冷たくされたとかなり親子でもうまくいかない場合もある、特に認知症になった場合はそうなりやすい
介護する方でも何がなんだかわからなくなるからだ。
認知症のむずかしさは全部が正気でなくなったとはいえない、時々正気にもどったり何かわかっている。だからその対応が非常にむずかしくなる
認知症でも何もわからなくなった人として対処できない、そこで感情的に何か恨まれたりすると困るのである。
それは死ぬときもそうであり死んでからも墓参りしたり供養するから問題になる
介護はその後最後を看取るとか墓参りと各様まで通じているからむずかしくなる
だから自分は何度も死んだら墓参りして供養するからと伝えている


ともかく人間の最期はみんなどうなるのか、良くカルト宗教団体では創価などでも異常に死に際を気にしている、成仏するのかどうか気にしている、それが信仰の目的とさえなっている、成仏するかしないかで決まるようなことを言っているしまたそれが信仰の目的とさえなっている
でも死に際がどうなるのかは別に信仰とは関係ないと思う
確かにいい死に方もあるがみんな違っていることもあるだろう。
第一考えてみれば数が多ければまずそこにはいろんな状態が生れる
実際に交通事故で学生のとき死んだ人もいるし様々な死に方がある
ただ認知症で死ぬのは最悪だとしてもこれも何百万も認知症時代だからこれまたどうにもならない、カルト宗教団体に入って何か信仰して認知症にならないということはないのである。
数に比例してなるからそうなる


結局人間はどう生きたのか、その方が大事である。老人になって病気になりその病気のことばかりが関心事になっているのが普通である。
その人がどう生きたかなど関係ない、今はただ病気を生きているようになっている
それも変なのである。人間はそもそも病気を生きることではない、健康に生きることが生きることである。
病気とか老人になり体が弱るとかそれは余祿としてあるべきでありそれが主体となっていたらおかしなことになるのである。
介護されるために病気のために生きているように最期になるのはおかしなことなのであるだから病気社会介護社会というのが何か変な社会なのである。そのために費やされる労力が莫大なものとなっているからである。


ただ家族にはそれぞれ事情があり家族の中でどういう価値があるかは外からわからない
百歳になっても大事にされる人もあるしない人もある
それはそれぞれの家族で違ってくる
ともかく介護も大変なのだけど最期に恨まれたりするとあとの墓参りと供養とかが問題になる。死後まで何か介護とかは関係しているからむずかしい
そして介護はたいだい最低でも5年はかかるしまだ長くなるから途中でいやになるきが普通であり負担が大きいのである。
それでも最期に何か微笑んで笑ってくれて死んでくれたとなると救われるのである。


ともかくまだ顔をみてほほえんでいることは意志疎通ができている
やがて昏睡状態になりわからなくなる場合もある
自分の母の不思議は未だに病気がないという、人間はたいがい病気で死ぬ
ちょっとした風邪でもバイ菌で老人は死ぬ、それが病気がないということは本当の老衰で死ぬということになる
だからそれほど苦しまなくて死ぬのだろう。
病気がなく老衰で死ぬということはなかなかできない、必ず老衰の前に人は病気になって死ぬ、病気がなくて死ぬのが老衰なのである。
一見これだけ長生きの時代でも老衰で死ぬ人はかなた少ないと思う
90代でも必ず病気になって死ぬのが多いだろう、そうでないともっと長生きする
だから老衰で死ぬのはかなりまれなことだと思う

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