2015年12月21日

万葉集の死者を偲ぶ歌 (死者は自然と一体化して生き続ける)


万葉集の死者を偲ぶ歌

(死者は自然と一体化して生き続ける)


そして万葉集で歌われたものは何か現代人とは違っている
その人の別れでもその情が深いのである
人間は特に現代は人間の情が希薄化してしまった時代である。
でもさすがに人が死んだときはやはりその思いは変わらないことはある

時はしもいつもあらむを心痛くい去(ゆ)く我妹(わぎも)か若き子置きて(467)

悲緒(かなしみ)息(や)まずてまたよめる歌五首

  かくのみにありけるものを妹も吾(あれ)も千歳のごとく恃みたりけり(470)
  家離りいます我妹を留みかね山隠つれ心神(こころど)もなし(471)
  世間し常かくのみとかつ知れど痛き心は忍(しぬ)ひかねつも(472)
  佐保山に棚引く霞見るごとに妹を思ひ出泣かぬ日はなし(473)
  昔こそ外(よそ)にも見しか我妹子が奥津城と思(も)へば愛(は)しき佐保山(474)
  
大伴家持の歌だけどこれは死者を悼むものである。

子供残して死んだ女性の歌であり、これらは死者を悼む歌としてふさわしい

かくのみにありけるものを妹も吾(あれ)も千歳のごとく恃みたりけり(470)

千歳とでてくるところが何か今とは違う、千歳の巌(いわほ)となると自分も作歌したがそれともにている。

万葉時代は人間は死んだとき山に葬られた、その葬られた山はただの自然の山ではなくなる、愛する人が埋まっている山となるから違っている
奥津城というときそれは山の奥になる、山そのものが神体になるときそこに人が死んで埋められているからそうなった。それがやがて先祖がいて守ってくれるというのは一種の自然信仰なのである。それは人間であれば自然にそうなるともいえる

昔こそ外(よそ)にも見しか我妹子が奥津城と思(も)へば愛(は)しき佐保山(474)

佐保山は別に特別な山ではなかった。でも我妹子の奥津城となったとき特別な山になったのである。
そこに愛するものが埋まっているからである。妹というときいろいろある、女性全般の意味でもある。自然も人間が死ぬことによって深い意味をもつようになる
それまではただの山であり石であったが人間が死ぬことによって深い意味ある価値あるものとなる
人間の死が樹となり石となり山とも化してゆく、それが古代の素朴な感情だった。
だから都会での死は浅薄となる、ビルに囲まれていては何か人間が威厳が意味がもてない死という重大なものでも意味がもてないのである。
墓でもしょっちゅう通る線路の脇にあったり雑踏の隅にあったり窮屈であり騒音の中にあるからとても奥津城という言葉はあてはまらない、死が荘厳にならないし死者も威厳あるものとはならない、何か人間を威厳あらしめるのは人間の作ったものではない、自然によって人間は威厳をもたらされている、ただヨーロッパの建築とかなるとラファエロのアテネィの学堂のようにアーチの建築が人間に威厳を与えている
それはヨーロッパは駅まであのような古代のローマ風のアーチの建築になっている
だからそうした駅についたとき人間に威厳がもたらされているのである。


天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴の卿の京に向きて上道する時によみたまへる歌五首
  
  我妹子が見し鞆之浦の天木香樹(むろのき)は常世にあれど見し人ぞなき(446)
  鞆之浦の磯の杜松(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえめやも(447)
  磯の上(へ)に根延(は)ふ室の木見し人をいかなりと問はば語り告げむか(448)
  
ここで注目するのは「磯の杜松(むろのき)見むごとに、、、、」「磯の上(へ)に根延(は)ふ室の木見し人を」とか樹と人間を一体化しているのである。
それは古代の感情である。自分でもそういう短歌とか詩を書いてきたからである。
そういうことが今の時代の感覚ではなくなっているからである
自然と一体化して生活していれば自ずと自然と一体化した感情の表出がある
だから万葉集の恋の歌ですらなにか自然と結びついて原始的なものを残している
今の恋愛の歌とは違う。

奥山の磐本菅を根深めて結びし心忘れかねつも(笠女朗)

こういうふうに恋愛の歌で今は作れない、磐本菅を根を深めて結ぶ、、、何か自然と結びついた原始的感情なのである。
例えば萱根という地名があり萱は強く根を張るというときそれが農民の生活感覚から生れた、萱が根を張って動かない、それは土着的思考なのである。
現代はそういう感覚が失われているのだ。

例えば原発事故で避難した地域が山深い村がある、

村人の去りて淋しも一本の樹によりあわれ秋の陽没りぬ

その樹は人間化した樹なのである。津波でも何か不思議だったのは庭の木が今でも離れがたく悄然としてのこっている、それが常に人間に見えたのである。
庭の樹とか人間の生活があるところの自然は人間化した自然でもあったのだ。
万葉集ではそうした感情は自然と深く接していたから普通であり自ずと歌によみこまれたのである。

我が母の百歳生きぬ千歳なる巌(いわほ)となれや冬のくれかな

人間が自然の一部と化して残る、それはやはり死でも荘重なものとして自然化することなのである。

家離りいます我妹を留みかね山隠つれ心神(こころど)もなし

これは家離りというとき例えば今なら骨を四七日置くとかあるがその後は骨納めをする、すると家から離れる淋しがある。
山隠れつとはやはり山の奥深い所に死体を葬ったからだろう
その時まだ墓を建てなかったから心神(こころど)こころともなしとなったのかもしれない江戸時代でも死体はこの辺ではホトケッポとかという所に葬っていた。
つまり墓は庶民にはなかったのである。ましてや万葉時代になれば墓はなかったろう。
それでこころともなしとなったのかもしれない、墓は古墳でもあったから墓がないということではない、心ともなしというのはやはりこの場合は墓がなかったととれるのである。



タグ:死者を偲ぶ
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2015年12月22日

故郷とは何かー聖書の言葉から追及 (なぜうまし国が苦し国になったのか?)


故郷とは何かー聖書の言葉から追及

(なぜうまし国が苦し国になったのか?)


わたしの生命のすべての日々に、エホバの家に座し
エホバのうましさを凝視め、その宮で尋ねきわめることを
(詩篇 27)


聖書でも何でもそうだが本でもそうである。自分なりに解釈することなのである。
いくら読んでも自分なりに解釈できない限り読んだとはならない
それで自分は本を買っていたが自分は読んだが理解できないのが多かった。
何か自分はあらゆることで理解するのが遅かった。
それは世間的なことでも社会的なことでも遅かった。
社会性がないということもそうだった。やはり社会人として勤め結婚して子供をもって家族をもてば人間として基本的なものは自ずと身につく、それがないから何か欠けていたのである。結果とし両親なるものが病気になり介護になったとき塗炭の苦しみを味わったのである。自分は世間と交わらず生きてきたからである。


でも自分でも追及してきたものがあった。自分はとにかく70年近く故郷に住んでいたのである、旅に費やした時間も多いが故郷に70年近く住んでいた。放浪者とも違うのである。故郷で仕事をしていないかやはり故郷に住んでいた。ただ何も仕事もしないということは故郷に住んだともならないかもしれない、最近故郷で趣味で畑で野菜を作る人を知って農業は故郷と密着した仕事だと自分はしなくても理解した
そもそもこの辺で故郷は何かということが問題になった。
それは津波や原発事故で故郷を離れ故郷が消失するという信じられないことが起きたからである。
第一故郷は何かなど考えることすらできない、故郷は当たり前にあるものだからである。空気のようにあるものだからである。それがなくなるということ住めないということが信じられないのである。


では故郷と聖書の言葉が何か関係あるのかとなる、聖書の解釈は人によっても違うし別に信仰していなくてもそれぞれの解釈はある
なぜみな聖書だけではないあらゆるものに別々な解釈となるのか?
それはその人の住んでいる場所とか人生経験とか個性とかでものの見方が違ってくるからである。
海側に住んでいる人と山側に住んでいる人ではもともと感覚的に見方が変わってくる
太平洋側と日本海側とかでも相当に陽が上るのでも感覚的に違ってくる
だからどうしても太平洋側に住んでいる人は海から陽を昇るから山から陽が昇る感覚がわからないのである。
世界の住む場所がこれほど多様なときそれだけで人間はいろいろな解釈が生れる


だからこの詩篇の解釈も人によって異なったものとなる

わたしの生命のすべての日々に、エホバの家に座し

わたしの生命のすべての日々に、故郷の家に座し

エホバのうましさを凝視め、その宮で尋ねきわめることを

ふるさとのうましさを凝視め、その宮で尋ね究めることを


こんなふうに自分は解釈した。それは勝手な解釈ではないかとなるがそうでもない
エホバの家はどこかと言えば特別な場所ではない、今ではイスラエルでもないのである。外国を旅行してみればわかるけと日本では自然でも水が無料で飲めるとか恵まれた場所であることを知る、外国はみないいとは限らないのである。
それぞれの国にはそれぞれの良さがある。悪しき点もある。
故郷でもそうであり県単位でもそうであり国でもそうである。


ともかく普通はわたしの生命のすべての日々に、故郷の家に座し、、、となるのが普通である。そしてふるさとのうましを見つめ、その宮を尋ね究めることを、、、となる。
それが自分の相馬郷土史研究でしたことである。宮とは自然のことである。
相馬藩内を尋ね究めることだけでも容易ではない、そこにはうましさがある
自然でもそうだが産物でもそうだし歴史でもそうである。
故郷はアイディンティティを築く場所である。自然の意味も知る場所である。
これが都会だともうできない、東京だともうビルの谷間に埋もれて自然の意味は見いだせない、一体何とアイディンティティ化するのかわからなくなる

わたしの生命のすべての日々に、故郷の家に座し
わたしは動かざる磐の上に座して
日々その意味を尋ね究める
その流れをさかのぼり その上の村を尋ねる
故郷のうましを味わい、我はこの地を愛して老いゆく
うましを知るには苦みを知ることも必要
いづこの地にもうましと苦みがある
苦労して開拓に入りしもの、その苦しみの歴史
やがて実りとなりうましがある
うましのみを味わうことはできない
そのうまし故郷は失われた
何故なるか常にそのことが問われている

その故郷のうましがなぜ失われたのか?原発事故で住めなくなったのか?津波の惨状は何なのか?この辺ではこれも問われつづけいてるし自分もそのことを書いてきた。
このうまし故郷とかうまし国というときそれは小さな故郷だけではない、日本国自体がうまし国なのである。それはうまし国として歴史を作ってきたのである。
日本だけでもうまいものがそれなりにとれる、漁業資源があり果物もとれる
そういう日本としての恵まれたうまし国が一転して苦し国になることもありうる
それが津波とか原発事故とかその他戦争があり工業による環境破壊がある
その他思わぬことで予想し得ぬことで苦し国になってしまう。
それは自分が追及してきたが人間の限りない欲、エゴがありそれが原発事故を起こしてきた。原発はこの辺では金の成る木だったかである。それは今苦みとなった。
その他グローバル化でうましを限りなく追及するとき苦みに変わるかもしれない
世界中にそんなに食べ物を求めて食べる必要があるのかとなる。
日本だけでたりるものがありたりて良しとすればそういう災いが起きないかもしれない
日本でミカンがとれて余っているのだからオレンジなどいらないともなる
それぞれの国にはそれぞれのうましが与えられていている、それを過度に越えてうましを求めると苦みとなってゆく、故郷でもそうである。


わたしは動かざる磐の上に座して
故郷に日々その意味を尋ね究める

自分の仕事はこれだった。その全貌はまだ明らかにしていない、そして津波や原発事故でその故郷が消失したということは何だったのか?
それを探求していたがうまし国がなぜ苦し国になったのかということである。





タグ:故郷とは
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2015年12月23日

生者と死者の関係の不思議 (死者には生者が望むことが多い)


生者と死者の関係の不思議

(死者には生者が望むことが多い)

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死者とは何なのだろうというときこれも不可解なのである。死者が生者に望むことより死者になったとき生者が望むことが多い
自分の家ばかり話題にして恐縮だが何か自分の家は複雑だから外からはわかりにくい
でも二人とも姉と母が生きていたときは争ったりしていた。
それは複雑でなくてもどこでも争う家族がある、するとその子供が争わないでほしいと切に願っている。
でも離婚する人が3ん分の一いて子供はその間にたって苦しむ
自分の場合は本当に長い間つづいた、すでに自分が老人という年までつづいた。
だからなぜこんなにしつこく60年も争っているのかとなった
その争いは変わらずに一方が認知症になり最悪の結果となって終わった
それでなぜ生きているとき仲良くしなかったのかということが悔やまれる
死んでしまったらもう争わないけどなぜ生きているとき仲良くしなかったのかと自分は不満なのである。
死んでしまったけど死者に対して生きているものが不満であり望むことがある


普通一般的に生きている人の方が死者に望むことが多い、なぜもっと生きているときもっとこうであったらよかったのにと思う人が多い。
それは死んだ人でも不慮の死とかなればそうである。それは本人自身が俺はここで死にたくなかった、もっと生きていろいろなことをしたかったとかなる
そういう思いは生者にも伝わるしわかりやすい、死んでしまえば死んだ人は生きている人に何を望むかより死んだ人はもっとこうあるべきだったと思う人か多い
死者が生者にお前はこうあるべきだとか望むだろうか?
例えば戦死者は一体生きている人に何を望んでいるのか?
靖国に祀られるから満足だと思っているのか?戦死者は今生きている人に何を望んでいるのかわからない、ただ戦争で苦しんだから戦争だけはするなと言う人が多い
生前からそういうことを言う人が多いから死んでも生者にそう望んでいるとなる


親でも何か子供に望むことが親のエゴ的なものが多い、医者の家に生れたら医者になれと子供におしつける、適性がなくても運命的にそうなってしまう。
医者にむかなくてもそうである。そして親は子供を何かと他者に自慢したい
それは学校でも就職でもそうである。常に親のエゴがそこに入ってくる
それが子供にとっては嫌なのである。お前は何々になれというときは親のエゴなのである生きているときは絶えずそういうふうに子供に対してのエゴは消えることがない
では親が死んだときどうなるのか、死者は残した子供に何を望むのか?
死んでも何か望んでいるのだろうか?つまり生者は死者に何を望むのかとなる


墓参りに行ったらお前はこうこうあるべきだとか望むのだろうかとなる
死んでまでエゴが消えず子供に望むのかとなる
死者はもはや生者に対して何も望むことはできないのではないか?
もっと墓参りしてくれとか捧げ物をしてくれとか、何々にしてくれとか墓から望むだろうか?
ただ奇妙だけど自分は毎日自分の墓の前を通っているから墓に花がさされないのて淋しいなと自分が思う゛死者は死んでいるのだからどう思っているのかわからない
それで時々生花をさしたりするのである。
それは死者が望んでいるのではなく今生きている自分が思っていることなのである。

だから死者が生者に対して望むものは何かとなればそういうものはもうない、それは生きている時あったことである。
例えば花が好きだったら花一杯にしてやろうというときそれは死んだ人が生きていたときそうだっかから花一杯にして飾ってやろうとなる
でも母のように花にも興味もたないとしたら死んだら花に今度は興味をもってくれなとなる、でも死んだ人に言ってももう通じない、それは生きているときにそうすべきだったのである。
ただ生きているときはそれができなかった。だから死んだら来世でそうあってほしいとなる、生きている人が死者に望むことの方が多いのである。
それは死んだからではない、生きているとき切に望んでいたことなのである。
それが成されずに死んだことで死んでも生きたつづきとしてそう思っているのである。


つまり人は死んでも生きた時の延長として死者を考えている、生きたことと全く切り離して考えることはできないのである。死んでも形もなくなっても生きたときのことから切り離して考えられない、死んでまた全く別な人間になる、悪人が死んたら別だ、聖人にもなる、恐れ崇められる霊になるとかもそういうことも合理的に考えるとありえないとなる
でも死者は不可解だからどこの民族でも死者を崇拝することがある
先祖崇拝というのがある。それが世界共通の一番古い人間の宗教だともなる
死者というのは死に顔がありまだ体があるときから灰と骨となり形もなくなる
そして死者とは何かとなるとそれは生きている人が死者をこうして欲しかったとかなるのが多い、もちろん死者が生きているときこうしてやりたかったというのも多い
介護は苦しかったけどもっと親切にしてやりたかったというのも生きている人が思うのである。死んだ人はもう何もわからない、死んだ人は一体何を望めるのか?
何も望みえない、ただ死者は確かに厳粛なものとなり生者を見ている
死者には嘘偽りができない、そのことは生者は死者を恐れる要因になる
お前の心はわかっている、お前はただ金がほしくて自分に親切にしてきただけだ
お前の心はわかっているとか死者がみているとなるから恐れるのである。
それは介護のときから生きている時からつづいていることでもある


自分は複雑な家族であったがなにかその複雑な関係でお前は何々なれとか何をしろとか強制されることがなっかたのである。母は普通の母親のようにそういう思いはあってもできなかった、これも奇妙だなとつくづく思う、それ故に母にたいしてなにか強制されなかったから別に恨んだりしていない、不思議なのことにあなたは何をしてもいいよとなっていたのである。
それで自分は二人に感謝している、二人は争っていてそれが悲しかったが自由にされていたということで感謝している、母は自分にそういうことは望んでいなかったのである。
そして母に対しては不満があったがそれも強いられたものでありしかたないと思っていただから生きているときから母はもっと働くだけではない、花にも興味をもったり人生を楽しむべきだったと思っている。今死んでからそう思ってももう母は何もできない
すると来世でまたは新しく生れて今度はそういう人生を送ってほしいとなる
スピリチャルというのはそういう想像で来世を見ているのである。
今世で恵まれなかったから来世では恵まれるとか想像して言っている、その想像がカルタシスになっているのである。
でも来世にどうなるのかはキリスト教のような明確な約束はないのである。
要するに想像するということはどんなことでも自由だとなる、それは人間側の勝手な想像なのであり生きている人間が作り出した想像の物語なのである。
スピリチャアルもやはりこれにのめりこむと問題があるなと思った。
信仰とは明確な神との約束であり契約のことであり勝手に想像するものてはないからである

ともかく死者と生者の関係は生きていることの延長としてあり生きていることから切り離して死者を考えことはできない、誰も死後の世界のことがわからないからみんな現世の生きている人間が死後を語っているからである。
死後のことはわからないにしても人が死んだらやはりこの世に生きていたことはわかる。どんなふうに生きていたかはわかるからそこから死者をもみている
それしか死者でも知る術がないからである。全く生きている時とは違う死者を見ることはできないからである。



タグ:死者と生者

2015年12月24日

10年間の自分の介護をふりかえる (介護は家々によって事情が違うから複雑)


10年間の自分の介護をふりかえる

(介護は家々によって事情が違うから複雑)



介護が楽だった原因

●自力で起きて食べていた

●オムツせずに自力でトイレに行っていた(死ぬ直前まで)

●認知症でも騒ぐことがなかった

介護が苦しかった原因

●自分一人しか介護する人がいなかった

●他者の助けがほとんどなかった

●一時自分が病気になった



介護というのはその家々によって親子関係でも夫婦関係でも違っている、一様ではないのだ。人間の不幸はみんな違っているというときここにも現れている。幸福な家庭はみな同じだが不幸な家庭はみんな違っているのである。
だから介護の事件でも一様に数式や統計のように見ることはできない
人間はそもそも数式化したり統計化したりできない存在なのである。
個々の事情があり家族の事情がありともかく人間ほど複雑なものないのである。
ただ共通していることはある。自分の経験でも二人を介護で見るとき限界がくる
その時普通に親戚の助けがなかった近くの嫁が殺人になった。
それは夫が病気になり義理の母と二人を一人で介護しなければならなくなったからである自分も一時そうなることを恐れていたが一人は早く死んだのでならなかった。


そのことを考えるとつくづくぎりぎりで助かったなとふりかえる、その原因を母が死んでから理解した。それは母が92-3才でもまだ頭がしっかりしていて買い物もできたし一人で生活できたことにあった。
事情があって家が二つになってしまったが母が自力でまだ生活できていたことだった。
なかなか92才とかなるとできない、そしてもう一人が早く死んだことで救われた。
なぜなら母は姉が死んだあとすぐやはり認知症になりわからなくなったからである。
つまり早く姉が死んで母がその時自力で生活できたから二人でも自分はなんとかやれた。だから今になると母のことには不満でも母によって助けられたなとつくづく思う。
それが母には介護でも五年間くらい尽くした。
その介護にしても他の人と比べると楽だったのである。
ただ自分は男であ家事もできないし生来なにかずぼらであり社会性もないから苦しんだ。

母の介護が楽な方だったというときまず母は自分で起きて食べていた。それからトイレにも行っていたし家での最後でも水だけしか8日間くらいしか飲まなかったときでもポータブルトイレでしていた。だからオムツをしないということも介護される人にとっても介護する人にとっても楽なことなのである。
オムツになると本人も楽ではない精神的にかなり落ち込むのである。
そういう経験が病気になり自分もなったからわかっている
それで最後の一カ月くらい管で小便をとるときそのことが理解できず毎日のように病院で騒いでいたのである。そのことからもいかに管で小便をとることが嫌なものかわかる
認知症になっているから理解できないから余計にそうなった。


介護というのは自分でベッドでも起きて食べている、トイレを自力でしている、この二つができれば楽な方になる、脳出血の人が多いがこの介護がひどいのは三食食べさせることが手間になるのである。
それで病院では人手が足りないので家族にしてくださいとしている人がいる。
そのことを自分は恐れていた。三食食べさせることはかなりの手間であり他のことはできなくなると思っていたからである。
それがなくてすんだのでふりかえれば母の介護は他の人と比べて楽だったなふりかえる
それは母ががんばってくれたからだとも思うようになった。


そして今になると姉も早く死んだのでそのことでも助かった。
自分は特別二人には良くしてもらったので介護もしたので孝行できたなと終わってみれば満足している。なぜなら何もしてやらなっかたら自分はかなり後悔していたろう
これだけ良くしてもらって何もしなかったら自分自身に対して責めるようになった。
それなく自分も良くしてもらったけど恩返しできたなと満足して墓参りして供養もできるそして思い出も残り後味悪いものとはならなかった。
介護でも殺人とかなったら一生悔やまれるだろう、そこに介護のむずかしさがある。
ただ個々でも家庭でも親子関係でも夫婦関係でもみんな違っているから一様に考えられないのが介護問題なのである。


介護では自分の場合はほとんど他者の助けはなかった。それよりその弱みにつけ込まれて責められたのである。
介護は自分だけではない、なにか一人にまかせられるのが多いのである。
その助けがないことは事件がこれからも多発する原因なのである。
だから在宅介護しろといってもそういう余裕がない家族になったとき施設の方がいいというのもわかる。
家で介護するということは人手と金が必要になる。どちらも欠けてはできない、金だけでもできない、介護は二人だと楽になる、代わって交代でできるからである。
そして家で介護するにしても手伝ってもらうにもよほど親密な関係の人でないとできない10年とかその家で働いているとかなにかそういう人でないと家で働くことはむずかしい
特に今の時代はそういう関係を作ることはむずかしい


それで金がないから新聞配達して稼いで三食食べさせているとかなると辛いだろうなとつくづくみる。
もうすべてが介護に労力が費やされる、他はなにもできない、息抜きすらできないとなる介護の間は実際にのんびり遠くへの外出もできなかった。
常に一人しかいないから心配になるからである。二人いればこういうことはなかった。
そういう家庭が増えるときますます介護の事件は増えてくる
介護は楽に見えても負担が大きいのである。
そして介護を経験した人は介護をやりたくない、介護から離れたい気分になる
その時期が長いからそうなる、自分は介護をした、今度は他の人が苦しむ番だとも思ってしまう。もし助けられたならそういうことはない、たいがい親戚すら助けないからである十年とか二十年とか介護したらもう介護にかかわりたくなくなるのは自然な感情なのである。
ただ介護した人は介護する人の苦しさはわかる、経験ない人は何でも他人の苦しみはわからないのである。

タグ:介護の事件

2015年12月25日

冬薔薇(数にこだわる写生俳句)


冬薔薇(数にこだわる写生俳句)

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白菊の十輪映えて邪を払ふ

七八輪小さき町や冬薔薇

満月や介護を終えて年の暮

故郷の畑に冬菜や親子かな



昨日は満月だった、何か介護を終えてほっとした。一人になるから淋しいといっても絶えずみていなければならないし話もほとんどできないとなると辛いだけになる
生きているからいいとは言ってもそれは外からみればそうなる
外からみている人は何の責任もないし何の負担もないからそうなる
それは自分だってそうだった。他人の苦しみはそれぞれ違っていてわからない
介護はしたからその苦しみはわかる
ともかく人間一人を死ぬことは看取ることは大きな負担である。
それは子がになわされているのである。親のカルマがあり子のカルマがある
そして誰もカルマの代わりを引き受ける人などいないのである。

写生俳句だと十輪だと七八輪にこだわる、それは「鶏頭の十四五本もありぬべし 子規」からはじまっていたのである。その数が写生なのである。
祭壇には大輪の白菊があっていた。純白であり菊の花は長持ちするからいい
薔薇などは飾れないというのもわかる
墓でも菊が一番飾るのにはあっている
七八輪の冬薔薇というときこれも七八輪が大事なのである。
それは人間をイメージしている、田舎だと七八輪の冬薔薇となるとあっている
人間は絶えず意識されるものは少ない、七八人が限度かもしれない
他はその他大勢になってしまう。都会ではあれだけ数が多くなるのだからこういう感覚からあまりにも遠いのである。


それはとりもなおさず非人間的世界である。組織団体でも数が多くなればそうなる
なにか現代社会はそういうことで非人間化して非情になるのもわかる
一方で戦前でも戦後十年くらいは狭い範囲で生活していたから情の通わせる社会があった今は全くない、グローバル化社会となるとこれまた全然情の通じない社会だからである。ただ情がなく物だけが入ってくる社会である
経済にまず情が排斥されてグローバル化社会が成り立つのである。
何でも数値化されるとそこには情がない世界になる、一人一人は違っているということも認識できない、同じ一つの物ののように処理されるのである。

都会から田舎を見直すというとき何か人間的な世界を求めている、親子が冬菜の畑にいる、何かその光景だけでもまだ人間的なところがある。
田舎は実際は人間関係では最悪な所もある、それでも自然があり花が映える
ある程度の空間と自然が映える所でとないと花も映えない
東京には四季もないだろう、枯野といってもそれがない、たた人込みとビルだけとなってしまう。
そういう場所で自然の感性を磨くことはむずかしい、もちろんそれなりにはあるとしても自然はもともとそんなビルの谷間にあるものではないからである
結局俳句などは短いからいかにその背景を読むからである。
俳句を鑑賞できる人は俳句を作る人より優れているまでなる文学なのである。
それはあまりにも短いからそうなっているのである。



冬薔薇(詩)

一輪二輪と数えて
七八輪咲きにし冬の薔薇よ
淋しき町に咲きにし薔薇よ
ともしさに耐えて咲く
ほまれとて何かあれ
七八輪の冬の薔薇咲く
今日もまたこの花見つつ
この町に我は暮らしぬ



この冬薔薇の俳句を詩にするとこんなふうにもなる
写生を俳句から詩に発展する
詩でも文学でも絵でも基本は写生なのである。
写生を基本にしてあらゆるものがある
そこに写生の意義がある

ただここで問題なのはともしきに耐えということは今は田舎でもないのである。
これは昔ならあった、だから昔の状況だったらより写生でありぴったりする
今は田舎でも都会より贅沢だと思うからである
車も一人一台とかもっていて贅沢なのである。
それでも貧乏な人はどこにでもいる、それは田舎とか都会とか関係なくなっている
一般的に田舎はともしいというのが普通である。
でもどうしてもともしさに耐えというのは作っているとなる
リアリティではない、確かに娯楽施設などは欠けているしたりないものはある
そのともしさはそんなに深刻なものではないのである。
ともしてさに耐えられないからこそ原発を誘致したのである。

戦後の地方の歴史をふりかえる (戦争の引揚者が山村に開墾に入るー赤生木なども同じだった)


戦後の地方の歴史をふりかえる

(戦争の引揚者が山村に開墾に入るー赤生木なども同じだった)


戦争が終わったとき引揚者が大勢帰ってきた。その人たちの就職の場がなかった。働く場所がなかった。日本は明治から人口増加がつづいた。
信じられないのは母が生れた大正時代は日本には六千万人しかいない、今の人口の半分である。だから東京でも二百万とか規模が小さいのである。
どこの市町村でも人口が半分の状態をイメージするといかに今と違うかわかる
そして今度は日本は人口減少時代にはいり市町村が消滅してゆくと言われる
空家が800万軒とか人口がへる衝撃が大きい
そもそも大正時代が電気がないランプだったということもイメージできない
でも電気がないいうとき葛尾村では電気が来たのは戦後二十年以上なのである
電気がないというときネパールの山村には電気がない
それを見たら当時と同じだと思った。


一方で戦争の引揚者が開墾に入る時代が戦後にあった。
自分の父親が双葉の新山の酒屋に働いていた。
そこで一緒に働いていた人が小池に開墾に入った
それも奥ではなく真ん中辺りでありあんなところに開墾できる土地があったことが不思議である。それは全国で戦後引揚者が開墾に入った。
それは小池などでもそうだとするといたるところに開墾のために入った。
つまりまだ日本は地方は農業中心の社会だったからである。
赤生木でもそうだし飯館村でもそうだしいたるところそうである。
ただ赤生木でも飯館村でも前々から住んでいた人はいた。
だから市町村の歴史でもそこに江戸時代から住んでいる人と戦後などに開墾に入った人がいたことを区別す必要がある
そういう引揚者などはもともとあった村に開墾に入るとき不便な辺鄙な場所に入った。そういう所は原野のようなまた開墾されていない場所だったからである。
飯館村だと大倉から坂を越えた場所でありいかにも人の住めないような場所である。
そこは原発事故前に二軒くらい空家になっていたのである。
端の名前は共栄橋となっているのでこういう名は新しく開墾者が入って名付けられた
それは津島でもそうであり赤生木でもそうである。
そして津島では開墾者は結束が強いというときやはりともに苦労して開墾したからである

一方でそうして新しくそん辺鄙な山村に入植するものがいたがもともと山の暮らしは貧しいから街に下りてくる人がいた。
自分の父親は双葉の新山の酒屋に葛尾村2ら丁稚奉公したのである
山には仕事がないから食い扶持がないから街に下りてきて丁稚奉になる人もいた
戦後は異常事態であり働く場所がなくてやむなく辺鄙な場所に開墾に入った
赤生木村では北海道から乳牛を買って酪農で暮らそうとした。
飯館村は飯館牛として生計を立てた
その頃は炭焼きもあったからそれも大きな産業となり山村を支えた
その後石炭となり石油となり木材も海外から仕入れるなとグローバル化して変わった


次ぎに山村で起きたことは出稼ぎ者の時代である。山村だけでは暮らせないので現金収入を求めて東京などに出稼ぎに出たのである。
それは全国的なことであり山村だけではない、双葉や大熊辺りは原町市とかとは違い山村の環境とにていた、大熊では塩田で塩をとり東京に売っていたとか開発が遅れた。
その前には金の卵の集団就職があった、それは東京の人手不足を補った。
大熊とか双葉辺りは出稼ぎ者が出さないため地元で暮らせるようにと原発を積極的に誘致したのである。つまりその時、農業中心ではなく工業中心に移行する時代だった。
工場はまだ東京中心であり徐々に田舎に工場や会社が移転されたのである。
出稼ぎ者を出さないということで原発は効果があった
赤生木の人も原発で働いたとか浪江辺りになると三分の一は原発で働いて潤った
小高でもそうである。それで浜通りは会津などと比べると裕福だったとなる


もともと原発がなくても戦後の高度成長時代は先に街の方が恩恵にあづかった。
商店街が小さな資本の商店がみんな栄えたから通りは活気があった。
そして裏通りでも店が多く活気があった
自分の家も駄菓子屋のようなもの子供相手の店をはじめて一時期はやったのである。
子供が多いからそんな店でもやれたとなる、語り草になっているのは姉がこの店を始めるのに五万くらいの金を借りるのに苦労したことである。
今なら五〇万以上とかなると思う、それでもその頃は小さな店は簡単にはじめられたのである。小さな工場でも東京に密集して繁盛したから人手不足になったのである。
インド辺りの店にバラックのようにな店があった、新聞紙が袋になっていた。
それは自分の店と同じだった。新聞紙はその頃便所紙ともなり貴重だったのである。
便所のくみ取りも近くの農家が肥料とするためにとりにきていた。
それは江戸時代のつづきである。炭が燃料だったのもそうである。
双葉とか大熊辺りは浜通りでも今でも元の原町市とか平駅などから離れている辺鄙な地帯だった。そういう場所だから原発が誘致されたともなる
でももう少しあとになれば工場も誘致できたろう。
原発にはあまりにも警戒感がなかった、でも就職先としては最高の所だった。
給料が高いからである。身近に原発で働いた人はいくらでもいる、小高辺りまでは三分の一くらいがなんらかかかわっていたかもしれない。


集団就職で東京に労働力を地方が提供して出稼ぎ者でもそうである。
そして津波や原発事故で人口が流出してゆく、出稼ぎでもそれで子供を大学に出したとかあり全部が悪いものとはなっていない、
ただふりかえると地方は東京によって影響されていた、地方は戦後は森林鉄道があり森林の木材とか資源を供給していた。常磐炭鉱では石炭を供給していた。
エネルギーが石油に変わったとき急速に地方は変貌した。
東京中心に人手不足となり労働力を地方で提供した。出稼ぎ者もそうである。
東京というのがやはり経済的に地方を動かしていた。
東京に電力を供給するのも労働力を提供するのとにていたのである。
福島県は東京に近く東京の経済圏になりやすかったのである。
そこに繁栄もあり原発事故につながったのである。


結局戦後七〇年は何だったのかとなる。どうしてこの辺がこんな状態になったのか?
それを歴史的にふりかえると地方が東京に翻弄された時代だともいえる
地方創生とういうが東京中心に日本があった。
そもそも地方創生を考えるとき一体地方創生とは何なのかとなる
原発とかで栄えるのは地方創生ではなかった
地方で創生したもので栄えれば地方創生になっていたのである。
だから自給自足でも変だけど地方創生なのである。
それは東京とかに頼らない自立した経済になっていたからである。
江戸時代まではどこでも地方自立であった、地方創生だったのである。
これから目指す地方創生はどうなるのかということである。
集団就職があり出稼ぎがあり地方から東京へ労働力は供給された
原発事故で今度はこの辺はいち早く地方消滅になってしまった。
なぜそうなったかというと東京によってそうさせられたともなる
江戸時代のように地方自立だったらこうはならなかった


でも電気がない、車もないような生活は成り立たない
地方創生というけど地方から何が作り出されるのかとなる
文化的なものは地方から逆に作り出される
それを自分はしてきた、でも経済とかなるとまた別なのである。
第一次産業が壊滅したときそこに地方創生がありうるのかとなる
文化の基盤の土地が使えないというとき文化もありえないのである。
そして限界集落化して地方が消滅してゆく
歴史は繰り返すのか地方には仕事がないから若者がまた東京に出てゆく
それは出稼ぎ者ではないから地方に帰ってこないとなる
いづにしろ原発はこの辺では呪いのようになってその呪縛から解放されない
放射能汚染は簡単には消えないからである。
津波の被害地域でも原発事故地帯でも人口流出が最大の問題である。
未来をになう若者が流出しているからである。
ともかく未来を目指すにしても過去をふりかえらないとできない
もし過去を歴史をふりかえらないとまた同じ過ちを犯すようになるからである。








タグ:引揚者
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2015年12月27日

寒椿(北風にきしむ古い家)


寒椿(北風にきしむ古い家)

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百輪の寒椿散る赤さかな

古き家北風にまたきしむかな

母死して我も老いゆく時雨かな

病院に死者また一人師走かな

年の瀬や死者また一人はやすぎぬ

大輪の白菊十輪霊前に


急に冷え込んだ、自分の家は築五年ほどだけど古民家というものではない、ただ古い造りだから座敷とか広いし家も大きいのである。
それを女二人で建てたから自慢だったことは確かである。それせ借金もしないで建てた。家を建てることは一大事業なのである。その時はまた運がよかった
大工の手間賃とか安いし木材も地元のものでできた。そのあと大工の手間賃がおそらく五倍くらいになったかもしれない、そのことで相当に得した。


この家は古い家だから隙間が多いからすきま風か入り困る、家が密閉されていないから風遠しがいいから寒いのである。
今また北風が吹きつけて家がきしむ、家を人間に見ればこの家もまた歳月を経てきしむ
風に耐え雨に耐え地震に耐えたとなる
家がきしむというときその内部もきしんだ。一人が認知症になったときから二人介護になり自分は苦しんだ。
そしてまた北風に今きしんでいる、家の歴史もまた人間の歴史である。


俳句が写生だというとき短い簡潔な表現しかできないからである。
だから写生俳句は鑑賞する方が優れていないと鑑賞できない芸術である。
寒椿の赤さがこの寒さと北風が吹いて映えている
ただ写真では散った椿の赤さが見たように表現されていなかった。
見た目と写真は違うことがありその時は何か失敗しているのだ。
一方で見た目より写真の方がいいとなる場合もある
それは細部を記録して写すのが写真の方が得意だからである。


ともかく母は死んだ、自分も老いてゆく、昨日は時雨れだった、まさに時雨が老いなのである。やっぱり霊前には白菊があっている
四七日で骨納めだけど結構長い、今年はこのまま年を越す
納棺→火葬→四七日→骨納め、、、一応これで終わる
こういう過程を経るというのも死者との別れとして必要だった。すぐに骨納めだと何か簡単にかたづけるという感覚になるからだ。今はそういうのが多い、死者を惜しむということもめんどうになった時代である
実際に自分は家から死者を送り出したの始めてだった。
葬式など家で経験することはまれである。


ともかく人一人死ぬということは大変なことである。
でも他の人が死ぬときはそんなことはない、また一人死んだのかで終わっている
それが家族となると介護でも葬式でも何でも負担が大きいのである。

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弱者が特権化して強者になる (原発避難民もそうであり危機意識に欠けるのが人間)


 弱者が特権化して強者になる

 (原発避難民もそうであり危機意識に欠けるのが人間)


知り合いの小高の女性が鹿島区の人がどう思っているか全然知らなかったというのは意外だった。
おかしいのは鹿島区の議員を応援してくれと来た、すると鹿島区の議員と親しくして支援してもらっていたのかとなる
そうすれば鹿島区の人は議員が支援してくれるくらいだから鹿島区の人も応援しているのかと思ったのかもしれない
ともかく原発避難民は最初からかわいつそうだかわいそうだと言われボランティアが来て応援していた。だから自分たちは被害者だから親切にされる応援されるのが当然だという特権意識をもつようになったのかもしれない
それで自分が鹿島区の人は小高の人を良く思っていないと言ったら自分たちは住む場所もなく被害者だということを主張した。
そういう反応は自分にも意外だった。もう少し何か控えめに言うのかと思った。
そう言っただけで相当に気にさわった。
つまり自分達は被害者がということそれは五年すぎても変わりないのである。


ところが南相馬市だけではない、相馬市でも避難民に反発している人が多いし他でもそうである。そのことで気を使っている人もいる。
津波の被害者が相馬市でもいてその人たちには援助がない、するとそういう人も仮設に住んでいるから何かその待遇で不満をもつ人がいるのだ。
それで相馬市では飯館村の人をトマト栽培するのに農家の人は雇わないというとき飯館村の人も補償金をもらっているからそうなった。
別に鹿島区だけのも問題ではないのである。
だから成せそんなことも回りの状況も知らないで五年間過ごしていたのか不思議だとなる何かそういうことが耳に入ってくるはずだからである。知っている大工さんは自分は働いていると言って本当に働いていたからそういう回りの状況を知っていたからそうして働いていたのである


ともかく被害者意識が高じて特権化しているのが現代の特徴だと言われる、それは沖縄がそうであり戦争で被害にあい米軍基地で犠牲になったと延々と被害者意識でこりかたまっている、それは中国でも韓国でもそうである。日本では在日がそうでありその特権化を利用して待遇を良くしろと金を要求する
そのことで批判するとものすごい反発がありそれで差別語などを使うことができなくなった。
それとまた原発避難民もにているのである。自分は当たり前のことを言ったつもりだがこの人はなぜ苦しんでいる自分たちに対してそんなことを言えるのかという態度になった
おれたちはかわいそうな原発事故の被害者なんだということになる
でも原発事故の被害者は福島県全般にわたっているけど手厚い補償金もらった人は少ないのである。三〇キロ圏内でほぼ終わっているのである。


困っている苦しんでいるというとき何か原発避難者だけが津波の被害者だけが特別苦しんでいる、だから同情されるべきだとなった。それは当初はそうだったろう。
でもその時でもやはり苦しんでいた人が回りにいたが同情などされないのである。
自分も介護で十年苦しんできたけど自分が病気になったとき全く同情はされないし責められるだけだったのである。
それでその人も一見助けに来たようだが何もしない、家に二三分来て帰るだけだった
借金していたからパチンコ屋で掃除などで働きただ疲れたと言って帰っていった。
そのパチンコ屋におしかけたのが原発避難民だったのである。
今でもそうでありイオンの近くに新しいパチンコ屋ができたのはまだそれだけ金があり暇な人が増えたからできたのだろう。
なんかその時その親戚の人にも腹正しかったし避難民にも腹がたった
こっちが苦しいのにパチンコ屋で遊びそこで働いている親戚の人にも腹がたった
しかし何も言うことはできなかった。弱者化するとそうなるからである。
弱者となっても全く応援されないものは応援されない、個々別々では応援されない
介護で苦しんで一家心中した人がいても回りではもう限界だったのよねとか冷静にみているだけなのである。
他から来たボランティアもみんなパチンコだギャンブルだとか遊んでいるのに怒って喧嘩になったというのもわかる
何のためにボランティアして働いているのかわからないとなるからだ。

結局小高などの避難民は何も苦労しないしのんびりしたものだったかもしれない
確かに部屋は瀬意にしても働くこともなく遊んでいてもそれが避難民ということで強制はできない
そして絶えずかわいそうな人たちだと見られて支援されてきたのである。
そしてそれが特権化して自分たちは支援されるのが当然の権利だとまでなってしまった
それがまさに現代的である、戦争でも日本ばかり責めるけどでは中国とか韓国に問題がなかったかと言えばそうでもない、中国は欧米によって支配されていたのでありそれは中国の責任であり韓国でもそうである。
そういうことはバランス良くみるべきなのだけど一方的に主張されるのである。


そうしして遊んだ分のつけが今度は補償金も打ち切られて起きてくる。
働く場所がないかとか何かそういうことを言ってきたのはそのためだろう。
でも今までの態度をみているから何か勝手な人たちだとして拒否反応がでてくる
自分たちで何か復興しようという気持はなく誰かがしてくれる、支援してくれるということが身についてしまった
働くのも農地は三年放置するともう回復がむずかしいとか働くのもむずかしいし老人が多いことでももう補償金がもっと長くもらえればいいとなった
だからそのあとは生活保護だという人も多いのである。
でもこれからは避難解除になると相当厳しいことになるのではないか?
帰ってみてもこんな所にもう住みたくないと思う人もでてくるかもしれない
それでも住むほかないとなったり金がなくなり働くこと場がないとか現実問題となる
何かそこで厳しい現実に直面する、その時もう支援はないからである。
補償金はないから今までのように遊んでいられるのかとなる


ともかく人間は安きに流れる、そして危機意識がもていないのである。それは個々人でもそうである。、自分もそうだった、こんなひどいことになるとは思わなかった。
でもそれはある程度予測できたのである。その備えができていなかった。
津波であれ原発事故であれ何が問題かというと危機意識の欠如だったのである。
原発だって安全神話で危機意識が喪失していた。実際は安全を計るなら原発自体の入念な点検をすることだった。今でもいろいろな不備が明らかにされている。
事故は津波だけで起きたものではなかったのである。
原発避難民だってやはり将来に対して危機意識をもてば遊んでばかりいられないとなるはずだった。おれ達は被害者だからなんとかしてくれるという他力本願になっていたのである。
自分でも三〇年間平和で楽だったから危機意識が欠如した。
何の備えもないから悲惨な結果になったのである。
それで今の結婚しないニートとかフリーターとか親に依存している人は悲惨な結果になることは見えている、親に頼れなくなり年金もない、もう年取って働くこともできない、
まず収入のことなら意外とはっきり将来が見える
その他不測の事態が必ず人間には起きてくる。事故や災害や病気や老いもそうである。
突然体が弱るのも苦しいことになる、その時助ける人がいるのかとなると今からすると恐怖になった。
自分も経験から危機意識をもつようになったのである。
人間は実際にひどいめに会わないと危機意識がもちにくいのである。

タグ:弱者
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2015年12月28日

労働の価値は常に変わっている (女性の家事労働は機械化したから別な価値を女性に求める時代)


労働の価値は常に変わっている

(女性の家事労働は機械化したから別な価値を女性に求める時代)


この世の価値は何でも一定していない、常に変動している、変数である。労働の価値も変化している。
そして機械の時代になると人間の労働の価値が急激に低下するのは本当である。
昔は江戸時代には力ある男が一人前の男として認められた。
それでどこでも比べ石というのがある。この石を持ち上げたら男として一人前として認められたのである。
要するに機械がない時代は体力がもの言う社会だった。男で体力がない人間は生きていけないのが一般的だった。体力のない人間は商人とかになり人を相手に商売するとか帳簿をつけるとか何か頭を使う仕事をするとかで身をたてる
でも一般的に江戸時代から戦前までどちらかというと体力がやはり仕事する目安になる。農業中心だったら第一次産業中心だったらそうなりやすい。
その時、農機具が発達していないからである。例えば鍛冶屋でも刀を作るにしても熱い鉄を打つ仕事は重労働である。
ただ職人でも細かい手作業の仕事はまた器用さであり違っている。


そして現代になると細かい仕事が多くなったから器用な人が価値がでてくる。
医者でも手術がうまい人は器用な人であり歯医者などでもそうである。
あらゆる場所で力目持ちより器用さの方が価値があり重宝されるのである。
ただ体力は以前として今でも価値がある。それで自分が失敗したのは自分は体力がないから体力を使わない仕事に従事するべきだった。
自分のことがわからないから勉強もしなかった。体力のない人は知的な仕事につくとなると勉強が必要になるのである。
ただ自分は学校になじめず勉強嫌いだったがあとで学問好きなことがわかった。
人間は自分の適性すらわかっていない、医者の子供は医者になるけどみんな適性が阿わけではない、そこに危険性がある。
だから親の都合で職を決定されるのはその医者にみてもらう患者に害を及ぼすから問題なのである。
それはあらゆるものに言える、適性あって仕事についている人は珍しい方かもしれないからだ。その害は本人だけにとどまればいいが他の人に害を及ぼすから問題なのである。

「労働の価値」が下げられている絶望時代
盛んにこのサイトではでは機械によって人間の価値が下がり仕事がなくなる、もう人間は働いても金にはならない、フリーターだ派遣だとか増えて働いても金にならない、大企業に勤めていても安泰な時代が終わったというとき確かに東芝やシャープでも斜陽になり大量にリストラされるから現実化している
おそらく大量の規格製品が売れる時代が終わった。日本は世界にテレビでも電気製品でも大量の規格製品を売り出して豊になった。でもそういう規格品は中国でも韓国でもどこでも作れるようになるとき価値が低下する。
そこに新しい価値を作り出そうと努力しているがなにか鮮明な画像を作り出すとか大型にするとか技術革新をしているが新しいイノベーションが最近生れてきていないのだろう。これはという商品が生れていない、何かそういう点で技術革新は限界に来ているのかもしれない、それより何かテレビの番組が面白くない、コンテンツが面白くない
芸能人の馬鹿騒ぎを写しているのももったいないとなる、最初テレビは何でもいい写るだけで視聴率が高かった、写るということが驚異的であり何か写っていれば驚き見ていた時代である。今は写るだけでは何の面白みもなくなった。
テレビという箱の開発してもそこに流す番組が面白くなくなったら見ないとなる
価値はテレビというハードに機械にあるのではなくそこに写る番組ソフトに移行したとなる


つまり時代によって価値が常に変化している。現代はインターネットで個人が放送局になったというのもそうである。個人がテレビ局になるということはイメージすらできなかったろう、そういうふうに機械が価値を変えてしまうことがある
家事などでも機械化されて家事の価値は変貌した。家事は今やご飯をたくのも機械だし洗濯でも何でもそうである。
洗濯板でごしごし洗っている時代は一大労働だった。そこに人間の労働力は費やされてきたのである。それで戦前だと女中が主な仕事であり中産階級でも女中を雇っていた。
家事そのものもが機械化されない時代は一大労働だったからである。
今でもそれなり料理などは結構な労働なのである。惣菜でもなんでも買っていたり家でする労働は相当にへった、その代わり金を得るために外で主婦は働くようになったのである家事の労働の価値は下がった他でも機械化して価値が下がるものが多いから人間が不用になり人間が働く場所がなくなり会社でも極力人間を雇うのは金がかかるから機械化する
事務ですらパソコンで機械化されるから職を失うとか人間の働く場がなくなってゆく


例えば田植えでも機械でできてい縁(へり)を人間が田植えしているという、そこは機械でしにくいからである。
そのことは中国でコンバインで麦刈りをすると人力の千倍もの力を発揮する、これまでは出稼ぎ者が人力でしていた。そこでもコンバインでてきない土地の起伏のある場所は人間がしていた。
いくら機械化しても何か機械にはできないものが残る、そこに仕事がある
そして人間の価値は変わる、機械化によっても変わる、記事でもインターネットでコンピューターで書けるとかなり新聞とか雑誌やただニュースの事実をだけを流すものは機械化される、そうなると今の新聞などはいらいなとなる
そして何かインターネットの読み方と新聞の読み方は違う。雑誌でも網羅的に書いていて一つのキーワードから記事の内容を深める読み方はできない
あるキーワードとかテーマごとに調べるとなるインターネットの方が優れているのであるそれでもすべてはインターネットでもできないしコンピューターでもできない
例えは受け付けなんかロボットでもたいして代わりないように見える
同じようなことを案内しているだけだからである
機械と人間を比べて変わりないものは機械化される、そういう仕事が結構まだある。
スーバーのレジなんかそうだろう、てもお釣りが自動にでてくることで一部が機械化されると人力が省かれるので仕事がなくなる
人手不足の時代になるといかに機械化できるかが問題になる


自分も経験したことだが今は別に家事を手伝ってもらう必要ないのである。
自分はほとんど家事はしている、ただ手伝ってもらうというときその女性は何か話がうまい、土地のことを良く知っている、同じくらいの年で経験も豊であり話が合うのである。その人はほとんど家事はしない、でも金を払っている、その人の女性として魅力は外見ではほとんどない、不細工なのである。
でもその人の価値は自分にとって相当に大きい、何かと家事ではなくても必要なものになっている
だから今は家事ができるということに価値はほとんどなくなっているかもしれない
女性でもそうである。その女性は別に中卒であり教養というものもない、でも何かいろひいろ苦労したりして話して面白いというか他にはない女性の特徴がある
その女性はそういう点で価値あると自分が認めて金を払っているとなる
なかなかこういうことをできる女性は少ないと思う


掃除なら今なら誰でもできるだろう、ロボット掃除機もでている、でも話術に巧みだとか何か機械にはできないなごみと癒しがあるとかになると人間しかできない
介護の仕事は新しいから評価されないけどロボットにはできない、優しさとか老人と話できるとかそういう要素がこれから大きくなってくる。持ち上げるとか何か力のいることは機械化される、すると何が価値あることになるのかとなり精神的なものが大事になる
そういう価値は家事が機械化したとき高いものとなるかもしれない
なぜなら家事自体が機械化されていて家政婦などがきても家事をすることもないとしたら何をするかとなるからだ。もし子供がいたとしたら子供をあやすのがうまいとか別な価値によって雇う方も雇うようになる
もし教養があるとしたら短歌でも俳句でも作れるなら学者とか何かそういう場所で重宝される、するとこれから大事なのは女性は教養を身につけることの方だ大事だとなる
いろいろな知識をもち学者やいろいろな職の人と話ができるには女性も教養が必要になる自分の母親は全然そういう余裕がなくただ家事だけをする女性だった
それは時代でしかたなかったのである。でもこれからの女性の価値は別なものであり家事にはないのである。
男も比べ石で一人前として認められた時代があり女性も家事ができることが価値だった。それが機械化すると人間の価値は変わる、そういう肉体労働は機械化がすすみ必要なくなってくる、そこで価値ある人間とは別なものになってゆくのである。
もしかしたら株が毎日変わるように人間の価値も変わっている、それに気づかないこともある。その人は時代に取り残された人となってしまい底辺化ししてしまう

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こんな募集になるかもしれない、家事が必要がないというときこれは何なのだとなるだろう
これからそういうことがありうる、家事は機械化してする必要がない
でも女性にしかできないもの女性しかもっていないものが活きる仕事はある
それはロボットで代行できないからである。





タグ:労働の価値
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2015年12月29日

冬の雲(大正生まれは希少価値がある)


冬の雲(大正生まれは希少価値がある)

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母の好物は干し柿だった

それで伊達のあんぽん柿を供えた

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このご飯入れが霊前にあっていた


家古りて動かぬものや冬の雲

田舎には老人多し冬の雲

この土地に根づき開かむ冬芽かな

姉と母残せし家に冬ごもり

金屏風座敷にたてて松に菊


一年を仮設の食堂すぎにけり我が通いつつ年のくれかな

百歳の母は逝きにき淋しきや大正生れも世に消えるかな

大輪の真白し菊に塵つかず我は遺影を家にまつりぬ


年号というのは後で大事になる、江戸時代の年号が残されているけどその期間が十年とか短い、その年号の時に何があったのか、年号からイメージする、元禄は栄えていたときだとか文明は飢饉のときだとかイメージする、これは日本独特の歴である。
これが西暦だとそういうイメージは湧いてこない、日本は年号によってその時代をみる
今回の津波でしきりに慶長津波のことが話題になった。
結果的に慶長という時代が脳に刻印された。そして津波の前と津波の後で時代を違ったようにみた。それは明治時代と同じである。
明治時代と江戸時代は全く違ったものとしてみている。
慶長時代もそういうふうに見るようになった。それだけ年号というのは意外と日本では歴史をみるとき大事なのである。


それで大正生れもやがて消えてゆくから貴重だなと思った。母は大正四年生まれであり大正一五年間あるとしても短い、でも何か大正生れは希少価値がある
大正生まれでも百歳をみんな生きるわけではないからやがては消えてゆく
そして「降る雪や明治は遠くなりにけり」大正は遠くなりにけり、、、とかなる
九〇才以上は大正生れだから長生きだからまだ当分は大正生れは生きているがそれでも消える日は近づいているのである。

四七日はまだ家にいるというのも何かいわれがあるしそんな感覚になる
なぜなら人間は特に女性は家とともにあったから離れがたいともなる
この辺では雪はほとんどふらない、冬は北風が唸る、残されたのは自分一人である

霊前には何かこの白い大輪の菊があっていた。

金屏風に松と菊

ここに松と菊の金屏風がでている、他にも金屏風と菊のキーワードで画像検索でいろいろでている。
松は主であり座敷に置けば何か日本的な正月の風景である。ただ四七日であり今年は正月はない、参考として出した

ご飯を入れる碗が何か仏前にあっていた。米を備えたがこのお碗が霊前に備えるのにあっていた。正月とかは日本的な文化でありそれにふさわしいものがある
いろいろとまた現代風にもなる

末永く松こそあれや金屏風菊の映えつつ座敷にありぬ

こういうのが日本的なものなのだろう。今の家は座敷とかはない、個別の欧米風の家になった。座敷かあるということはやはりそこでその家の主に重きを置くということがあった主は殿様のような感覚があったのかもしれない、大名屋敷でもそういう造りである。
欧米化したとき兄弟でも何でも平等であり個別の部屋をもつようになったから座敷はなくなる、そこで主の重みもなくなるし家を継ぐ長男の重みもなくなったのである。
やはり家の造りにもそうした文化の反映があったのである。



タグ:大正生れ