2015年12月15日

母は今日出棺して火葬場でお骨にしました


母は今日出棺して火葬場でお骨にしました



我が母の出棺の日や冬の朝

冬の草母をはふりて石一つ

火葬場や石に咲きしは冬椿

冬静か二人のみして母おくる

骨となる母の亡きあとや冬景色


朝早み我に食事を用意する高校の時や母を思いぬ

我が家に姉の写真も飾りつつ母をおくりぬ冬の朝かな



遺体を焼いて骨にすると本当にその人はこの世から消える、今日は8時30分に行き焼いた、そこには一人もいない、二人で待って骨を拾った。もう一人は来ていたが用事があって帰った、でも何か静かに見送りできて良かったと思う。
今回の葬儀は一回経験しているので段取りができていたから楽だった
それでもやはり葬儀というのは何か精神的にも重圧なのである。
それで一人だったら苦しかった。一人が補佐してくれたので本当に助かった。
ともかく一人というのは病気とかなにかあるとその負担が大きすぎるのである
親戚でも借金しているような人が来ると困る、そういう人は病気であろうが葬儀であろうがなんでも借金をするためにするとなるから借金している人は罪な人になる


母の頭蓋骨はそっくり残っていた。それは珍しいとも言った。骨も丈夫だから百歳まで生きたのか?その理由ははっきりしない、とにかく母は辛抱強く頑張り屋だった。
何にも楽しみがなくただ働くだけの一生だった。
それで何か人間的に欠けてかたよった性格にもなった。
花とか美しいものを美しいと見ないのも悲しいことだった。
そういうものに価値を見いださないのも悲しい人生だったともなる
ただふりかえれば自分には尽くしてくれた、食事を70年間も用意してくれたのでそれを介護してからその苦労がわかり感謝している


映画で納棺師のことなどを映画になったが今回のフローラの人は何かそのしゃべり方までそんな感じになっている。やけに丁寧でありしゃべり方まで死者に対して敬意を払うので感心した。
これも特別な仕事なのかもしれない、そのフローラの社員は骨まで拾ってくれた。
だから前もそうだったがフローラは何かこれが必要だとか押しつけないのである。
葬儀のときは混乱しているから言うなりになるしケチられないからそうなる
フローラでは何かそういうことがない、これをやりますかということをいちいち納得させてやることを決める、そして本当に安く葬式ができることに前も驚いたが今回も10万安くできた。こんなに安く葬式ができることに驚くのである。
もちろん人も来ないからであるがそれにしても前と同じように安い、前は30万であり今回は20万だった。別にけちったわけでもないのにそうなっていた。


ともかくこの納棺師とかこういう葬式に関係する仕事はまた特殊でありこの仕事にあう人もまたそれなりの適性がないとできないと思う。
フローラの担当した人は若いけどしゃべりかたまで何か葬式にふさわしいように慇懃にしゃべるのである。
これも何か奇妙でありやはりそれは職業として成り立つものであり死者にたちあう厳粛さがあるからそれに対応するのにふさわしい言葉遣いになったのかもしれない
それともその若い人はそういう性格なのか、なにか不思議に思ったのである。


南相馬市長から百歳ということでまた一万香典をもらった、百歳はまだ少ないから意義があるがこれからは増えると希少価値がなくなる

ともかく今回は母の死をテーマにして俳句を作ったがそれが何か我ながら深遠なもの荘重なものになったのはやはり死がそうさせていたのである。
どんな人の死にもその死んだときが最もその人を示すときである。
誕生日と命日が人間にとって一番重要な日であることでもわかる
母は冬の日に死ぬのにふさわしかった。
そして静かに二人だけで送ったことが何かしみじみとして良かった。
姉のときは9月でありその時は親戚が二組とか世話した人も来て三組来てにぎやかだった
だから何かあわただしくすぎてゆっくりおくることができなかった。
その時ひぐらしが鳴いていて

ひぐらしの石にひびきて姉の逝く

今回は五本松の火葬場には二人とか三人だけだったから静かで良かった。母はおとなしい静かな女性だったからあっていたとなる
かえって人が多いと死者を偲べない、ともかくあわただしいからゆっくりと静かにおくれないのである。
今回そういう点では良かった。それで俳句を作ったがそれが何か深遠となり重厚なものとなったのはやはり死者をおくるという厳粛なものがあったからである。
ともかく葬式にかかわることは骨を拾ったりしたらそれは何か相当な縁が深い人ともなる感じがする、ただフローラの職員はそれを日頃から仕事としているし火葬場の職員もそうである。


でも火葬場の職員はそんな仕事しているから嫌われているというのも何かで人間は常に差別したいからである。
納棺から火葬にすることが一番ショックである。骨しかなくなってしまうことがショックである。
ただ母の場合は何か百歳まで生きたからすーと消えた感じもする
もう百歳も生きて苦しんだ体にはとどまりたくないとすーと消えた感じがする
死というのは若いとき経験するのは老人ではまるで違う。
老人は死に近いから自分も死んでゆく番だからそれほどショックにならない
死をもう受け入れるほかないものになるからだ
ただ死んだらその人の何が残るのか、それはその人の生きた一生が残るともなる
もう生きた形はないのだけどその人の生きた一生は残る
母の一生は自分には特に残っているし消えることはないだろう。
つまり体は見えるものは消えてもその人の一生は航跡のように残る
平凡な人間でも死んだときその人の一生を語る
すでに死ななくても老人はその人の一生を語っている
母は介護されても懸命にがんばりやで我慢強いから生きていた。
最後までトイレに行きそしてボータブルトイレには水だけしか飲まない時でも自分でしていた。
入院して小便を管でとるようになったがそれも一カ月もしていなかった。
それを凄くいやがっていた。だから介護のときも死ぬときまで何かがんばったとはなる
そのことは介護についてまたつづきとして書く











タグ:火葬場

2015年12月16日

介護の後の脱力感 (介護十年の経験はやはり人間を成長させることもある)


介護の後の脱力感


(介護十年の経験はやはり人間を成長させることもある)



気丈夫に最後まで家にトイレする迷惑かけじと介護されし母

腕をとり近くの介護の施設にそ行きにし母の思い浮かびぬ


心のよりどころだった存在を失う

気を配っていた生活の張りを失う

自分の老いてゆく姿を不安に思う

他者にたすけてもらった関係性を築くことができる

高齢者を自宅で看取った死別後の適応


家族介護者が高齢者のことをいつも気にかけていた分、死別によって緊張感を失い
世話するという気持の張りを失うことがある

家族介護者は自分の介護の経験を生かして身近な人が困っている時、手助けできると考えている
例えば町でみかけた高齢者が困っていれば手をさしのべる、他の人々が介護が必要になったら他の人にアドバイスできる


「母の介護がなくなって気持の張りがなくなった、やっぱりやってあげなきゃいけないと思うからてきぱきできたんですよ、今は時間ができはずなのになんかもたもたしている


姉が認知症になってから三年近くとか次ぎに母の介護がありあわせると10年近く介護に追われた。
それが終わったときどうなるのか、この介護の経験もやはり介護してみない人にはわからないだろう。
自分が介護で一番感じたことは時間が拘束されることであった。
介護する人に気を使うだけで心も拘束されるのである。
介護は認知症になると夜まで起きていたりするからまともに眠れない人までいる
24時間を拘束されることにすらなる、常に見まもりが必要になるからだ。
自分のように自由に生きた人間がこれほどちょっと外に行くのにも自由かない、なぜなら常に介護するもののを気づかうからである。
自分の場合は一人だったから余計にそうだった。家から自分が出れば誰もいないからそうなる
だから一人で介護することの負担は他より大きいのである。
そして一人なのにほとんど助けはなかった。むしろこの弱みにつけ込まれて大金をとられたりとか借金を要求されたりとか苦しい目に合わされたから苦しかった。
かかわった人がそういう人だったのが不運だった。
ただ相手も追い詰められていたからそうなっていたのである。
一人は家から出されたような人であり一人は事業に失敗して借金をした人である。
そんな人はもう他人のことを同情する余裕もなにもなかっのである。
だから自分はそういう人とかかわって大変な目にあったのである。


死んでまもないが介護が終わって感じることは介護は何か絶えず気づかう相手がいて緊張しているということはある。
特に母は死に近くなったときいつ死ぬのかと二カ月くらいは緊張がつづいた。
病院に入院してそうだった。結果的には死ぬ場面にはいることができなかった。
看護師も見ないまに死んでいたのである。病院でもそういうことがある
だから人間は家族がいても死ぬときは一人だと思った。
介護は絶えず介護するものを気づかうから疲れる、常に精神的負担となっいる、でもその緊張感があるのはまた奇妙だが生きがいにもなる。
会社をやめて退職すると何もすることがなく緊張感がなくなるからボケてくるという人がいる。家で勤めもなくなるときごろごろしているとそうなりやすいのは確かなのである。そして何か障害者をもった人など絶えずその人を気づかっているかボケないというのも不思議だった。
それは世話しなければならないという緊張感を絶えずもっているからそうなる
人間は生きるにしてもだらだら生きているのは良くないのである。
なんらかの緊張感がないと精神までだらけたものになってしまう
だから介護にもそれなりに人間を成長させるものがあったともなる

他者にたすけてもらった関係性を築くことができる」これも言える

自分は社会とかかわらない時期が長いから社会を知らなかったのである。
介護してから自分も病気なにって病院に一カ月さらに二週間入院したことや様々なことで社会と地域ともかかわることになったのである。
その社会にかかわったというとき自分の所にきた人たちは自分も弱ったことをいいことに責めてくる人たちだった
自分が言っているのはそういう人ではない、利害の関係ない人である。
それは介護士などがそうだった。
今になると母の手をひいてディサービスに連れていってくれる人とか老人を世話する人をふりかえるとあの人たちにも世話になったと思う。
あんな仕事は誰もしたくないとか評価しない人がいるがふりかえるとありがたいことだったとなる
介護する人は必ずそうして世話になるから「他者にたすけてもらった関係性を築くことができる」となる、これも介護しないと経験できないことでもある
何か介護は悪いことばかり言われるが社会的にも価値ある行為でもある、でもそれがあまりにも国の財政負担になるのが問題なのである。


ともかく母の介護で経験したことは介護するものにも介護される方も両方に問題がある
介護する方と介護される方も何でもしてくれるということではいけない
母の場合は最後に入院する8日間を水しか飲んでいなかった。
それでもホータブルトイレに自分で行っていた、寝たきりになっても近くのトイレまで懸命に歩いて行っていたのである。
もともと頑張り屋であり忍耐強い人だからそうなった、そして水だけを飲む前には自分で起きて食べていたのである。
自分が嫌だなと思ったのは脳出血とかになり体が麻痺して三食食べさせて介護している人である。
その手間とか時間がとられるから何もできなくなる恐怖だった。
外出すらできない恐怖をいつも感じていたのである。そうなるとプログさえも書けず何もできなくなる恐怖だった。


母は最後まで気丈夫でなんとか自分でしようとしていた。
最後は病院で管で小便をとることをうひどくいやがっていた。あれも何か精神的ショックを受ける、オムツになるとこれもショックが大きいのである。
それもしなかったから自分自身もそうだが介護する方も楽な方ではあった。
でも介護は楽な方でも絶えず緊張感がある、気遣いをするだけで疲れるということがあるのだ。
「心の青雲」で介護されるものを甘やかすからかえって体も悪くするとか言う、それも一理ある。
なんとか迷惑をかけないようにがんばったと言う人がいたがそういう気持をもつ必要がある。もともと母は頑張り屋であるから最後まで頑張っていたのである。
そして最後まで死ぬ間際まで病気がなかったということが老衰として死ぬことにつながった。たいがいは何かの病気になって死ぬ、簡単な風邪でも死ぬ
だから老衰で死ぬということは意外とまれなことのように思える
なぜなら死ぬ前必ず病気になるからである。それがならなかったということの不思議である。母がこうして最後まで頑張り屋だったことは見習うべきことだろう
体が細身でもともと体力もないのだけど懸命に頑張る姿は心に残った。


ただ母も体が90度に曲がったときは自殺しようとしていた。
それもショックだった、だから人間は老いることは相当に実際は苦しいのであ。
体が90度に曲がったというのは骨のせいではなく筋肉のせいだと言う人がいた。
この衝撃をあまりにも大きかった。一カ月寝て注射して直った。
それからもいろいろなつまづきがあった。ただ母は90度に体が曲がった後も不思議に元気な日が長くつづいた。それは80いくつかだったのか?
結構早い時期に体が90度に曲がったが手押し車をおしつづけて普通に生活していたのである。だから体が曲がったことは生活するのにはそれほど影響しなかったのである。
ともかくと老いから死までの道のりも簡単にはいかない、紆余曲折があり苦しみがある
仕事していたのに一週間くらいで死んだ人の方がまれなのである。
死ぬまでは延々とやはり介護があり苦しむの人間だったのである。















タグ:介護の後

2015年12月17日

老人は昔を語ることに存在意義がある (郷土史でも歴史も語ることから発している)


老人は昔を語ることに存在意義がある

(郷土史でも歴史も語ることから発している)


今日焼香に来た人は自分が知らない自分の家の昔のことを知っていたのに驚いた。
実際はその人は姉とは親しかったが母のことではかかわらなかった。
だから近くにいても6年くらいすでに家に来ていないのである。
どういうわけか困ったときは来ないで死んだときは来る人がいる
話を聞いて一番不思議だったのは自分の兄のことを知っていたことである。
兄は事情あって自分の家に5年間いたがそれが自分が0才から5才までであり自分にはさほど記憶がないのである
それで「、、ちゃん」と兄の名前を言った、それがなんとも不思議だったのである。
なぜならもう兄のことを覚えている人はほとんどいない、交通事故で40才で死んだ、それも集団就職で静岡の方に行って死んだのである。
母の実家の墓に骨は納まっているがこれまた不思議なのは実家で五年間暮らした姪子が一緒にいたことを知らないという、その人は前にも書いたが異常な性格になっていて自分の母に信じられないことを言って縁が切れた。

そして思ったことは人間は一緒に住んでもその人の記憶がなければその人は存在しないと同じになることである。存在しないということはこの世にいなかったと同じなのである。時間がたってゆくと特に死んでしまうとどんどん人間は忘れられてゆくのである。
この人が存在したのかということさえわからないのがいくらでもあるし存在したということを知ってそれが大発見になったりする
もう存在を確かめること自体が一つの発見になってしまう。
だから「、、、ちゃん」と兄の名前までその人が覚えていたことで自分も兄の存在を確認したのである。
なぜなら自分は幼児でありその辺は記憶があまりないからである。


そうなるとそういううに昔を覚えている人は貴重である。
その人は自分より何才年上かはわからない、でも自分の家のことについては一番詳しい人だった。その人は自分の家と深くかかわっていたからである。
そして死んだ姉のことなどを語ったとき何か昔を共有することで連帯感を生れた
やはり昔を共有することは歴史を共有することであり郷土史とか歴史になる
historyだといういうときストリーは物語だからもともと昔を語ることにあった
その昔を語ることが老人の勤めのようになる、そこに老人の意義があるからだ。
人間は死んだら骨になり形も何もなくなる、でもその人を語ることによってその人生きることになる、人だけではないその土地のことでも家のことでも語ることによって生きる
それは郷土史とか歴史になったのである。


ともかく老人になれば次ぎ次ぎに死んでゆく、それよりもう自分が死ぬ番だとなっているだから死というのはもう親が死んでも自分がまもなく死ぬ番であるという意識になるから若いとき親が死ぬのとは全然違う感覚なのである。
自分の同世代のものが膨大に死んでゆく時代になる、だから有名人だろうがなんだろうがそんなに多くの人を記憶できなくなる、身近なものの記憶が大事にもなる
そこに郷土史の意義もあった。
話してみるとその人の親戚も小高の機織り工場を経営して失敗してひどい目にあったと言っていた。自分の母の実家の父も同じだった。
その頃機織りが盛んな時代だからそうなったのである。機織り工場を経営して成功した人もいるが失敗した人もいる、それは当時のブームでもあったことがわかる。
もう一人は自分より三歳くらい年下だが土葬の経験があり野辺送りで焼いた場所も知っていた。それは最後に自分の父親が野辺送りで焼いたことでそのことは鮮明に覚えている
その場所を知っていて気味悪かったといっていた。


とにかく時間がたつのは早い、死ぬとたちたまち忘れられる、そして昔を語ることはその人の存在を確認する作業なのである。そこで何か共有するものが生れる
それが郷土史ともなり歴史ともなる、なぜなら死んだ人は骨となり土となり何も残っていないからである。
そのあとは語ることによって存在を確認するのである。
津波で死んだ人たちもあのとき写真のアルバムを探して大事にしたのは何もなくなってしまったからである。記憶になるものがなくなってしまったから写真を探していたのである
老人は昔のことを延々と語るので若い人はうざいとなるがなぜそうなるのか?
つまりそれが自分の生きたことの証になるからである。
それで自分の姉は死ぬまで従軍看護婦じシンガポールに四年いたことを語りつづけた
認知症になってからは千回も聞いた、同じことをしゃべりつづけたのである。
それは自分の存在を確認するためだった、昔を語らなければ存在意義もなくなってしまうからである






冬紅葉(忌中)


冬紅葉(忌中)


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ここで寝起きしていたからふさわしい


我が家の忌中になりぬ冬薔薇

冬紅葉散りて我が家や忌中かな

白菊や忌中に咲きて籠もるかな

母死ぬや曇り硝子に冬紅葉

塔古りぬ奈良を思ふや冬紅葉


七〇十年我が家のここに寝起きして働きければ祭壇のあれ

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忌中とかいろいろな死後のことは仏教に由来する、ただ仏教でもすでに日本流の葬儀の仕方がある、神道が先にありそのあとに新道が入ってきたからである。
第一仏(ほとけ)は日本語、大和言葉なのである。ホトケはホトキだったとか言われる
何らかの死者を祀るものだったのだろう。
いづれにしろ葬儀にはいろいろあるがキリスト教のこともわからない、そもそも死者は何かわからない、いろいろなことをいってもわからない
ただ死ぬときは平凡な人でも厳粛になってくるのも不思議である。
死とはそれだけ人間にとって重大なことなのである

それでも母は働くだけであり多少最後の方で花がきれいだなとか言ったがほとんど関心がなかった。もし金だけを毎日数えているような人間だったら悲しいとなる
冬紅葉の季節に死んだのは母にふさわしかった。
人間は生れる日と誕生日と命日は一番大事である。
そして西行が桜の咲く季節に死んだのはふさわしかった、そもそも西行は桜を愛した歌人だったからである。
別に自分の母はそんな文学も何も関係ない、ただ働きつめの一生であり第一俳句も短歌も関心がないしわからない、自分が母の一生とか性格をみて俳句とか短歌にしているだけである。


冬紅葉というとき何か奈良にふさわしいのかも、もちろん京都にもふさわしい
奈良と京都は何か違っている、もちろん歴史的にもそうだが奈良は田舎的な所がある
自然もあるし田んぼも回りにある、それが何かひなびた感じになる
もちろん奈良は歴史もあるが京都とはまた違っている
奈良と京都の相違がやはり関西ではいろいろ文化があるから歴史がある
万葉集でも以前として奈良だったら偲べるが京都とか大阪になると偲べない
日本の純なる自然がすでに消失しているからである。




タグ:忌中

2015年12月18日

万葉集の歌に死者を悼む歌を感じさせるもの (忌中にふさわしい歌)


万葉集の歌に死者を悼む歌を感じさせるもの

(忌中にふさわしい歌)


太宰帥大伴の卿の京に上りたまへる後、沙弥満誓(さみのまむぜい)が卿に贈れる歌二首

真澄鏡(まそかがみ)見飽かぬ君に後れてや朝(あした)夕べに寂(さ)びつつ居らむ


万葉集の歌は未だに解明されていない、今の時代の感覚では解明できないのが多いのだ。だから相聞歌でも恋愛の歌が多いというときそれは現代の感覚なのである。
折口信夫が言っているように死者を乞う歌だというときより深刻なものになる
恋は乞うでありこうであり今の感覚とは違うのである

何かだから死者を弔うときと関係ないようでもそうしたものが他にもある
この歌も不思議なの歌である。何か荘重な歌であることに気づいたのは母か死んだことでそれと重ね合わせてこれが死者を思う歌にふさわしいと思った。


これは死んだ人を偲ぶ歌としてもいい,丁度忌中であり今の感覚はこんな感じなのであるこういう歌はなかなか今の時代には作れない、簡単なようでも何か違っているのだ。
それは何か人間と人間の関係でも今は機械的でありこんなに深い情でつながらないかということがある。
常にそういう人間の純な感覚が失われたのか現代である。


真澄鏡(まそかがみ)


『池水に 左の目を洗ひ 日霊に祈り 右の目を洗ひ 月に祈り イシコリトメが マス鏡 鋳造り 進む』ホツマ4文

『天地を領らする 現の子を 生まん思いの マス鏡 両手に日・月 擬らえて 神 生り出でん 事を請ひ 頭 廻る間に アグリ 請ふ』ホツマ4文

『マス鏡 青人草も 直ぐとなる 人に於けらば 限り無し』ホツマ17文

「人を直ぐにする鏡」である。
「直ぐにする」とは「直す (なおす)」である。「直す」とは「(反り・曲がりを) 収める・合わす」ということである。


ここのサイトの説明も不思議である。真澄鏡とかが枕詞になったのは鏡か神宝となったのはそれが写ることなのである。それは姿だけではない心を写すから恐れられたのである。だから万葉人は心を清くするために真澄鏡を見ていた。今のように女性が化粧するだけのものではない、人間の心を見るものとして鏡があったのである。
神は人間の心を見るというときそれと匹敵するものとして鏡があった。
万葉人はやましい心があることを恐れたのである。それは真澄鏡に写されるということで恐れた。

要するに万葉人は日本の純な自然と直結して生活していた。それが神道と通じあっていた万葉集は恋愛集ではない、それは宗教ではないにしろ何かそうした神道に通じるものがある。
それはどこの国でも古代にはそうした自然への宗教心とかがあった。日本の宗教心は清浄な日本の自然を基にして起きてきたのである。

見飽かぬ君に後れてや、、、後れてとは死者に置かれている生者である。
それはまさに死別の歌にも通じている、忌中の歌にふさわしいものだと発見した。
つまりこうした厳粛てものが常に万葉集にはあり恋愛集ではないのである。
タグ:真澄鏡
posted by 老鶯 at 06:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

年の暮(介護に費やされた十年をふりかえる)


年の暮(介護に費やされた十年をふりかえる)


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年の暮母の遺骨と我が一人


森の中かすかに残る虫の音を我が聞き母は死なんとすも

我が家に嫁ぎて長し歳月や庭の紅葉燃えつつ死なんとすも

我が家に生きる70年長しかな死ねばつかのま母は逝きにき

母とある最後のときを惜しむかな秋も終わりて冬となるらむ

幸薄き母にしあれやあわれかなその最後は楽に眠るごと死す

西村家最後に残る我が母の今や死なむや何を伝えむ

でで虫の殻一つの残る道安らかにして我が母死なむ

残る虫かすかに鳴くを我が聞きぬ故郷の野や母は死なんとす

近くにそ母の苦しむしもやけを知る人ありて親しさ覚ゆ


母の場合、急に死んだのではない、介護が五年くらいつづき最後も急激に死んでいない
だんだん弱っていった。家では八日間は水しか飲んでいない、それでもホータブルトイレに行っていた。
つまりオムツもしなかったし八日前まではわずかでも何かを食べていたのである。
だから三食食べさせるようなことはしなかった。
他では脳出血とかなると三食食べさせているから手間になる。
そうなると何もできなくなる、プログはたまたま書きやすいから書き続けることができたそれすらできなくなっていた。
つまりそうなるとすべての時間が介護のために奪われることになるのだ。


姉が認知症になったとときはそういうことになった。夜中まで起きていたりしたからである。そうすると夜もまともにねむれなくさえなる。
介護にもだからその人により家族によりいろいろなケースがある。
一番ひどいのは両親でも二人同時に介護するときである。
その時一時そうなったからどうしていいかわからなくなった。
それで近くの人が家に火をつけたとか殺人までになる
でもなぜか介護というのは誰か一人がになわされるのである。
兄弟でも何か協力することが少ないのである。
そういうことから事件がこれからも次々に起きてくる


いづれにしろ高齢化社会で介護に費やすエネルギーは金銭的にも労働力にしても膨大なものである。それで国がつぶれると言う人がいるのもわかる。
介護はそれほどの重圧なのである。まず介護は最低で五年とかであり医療が発達しているからさらにこれからも長くなる
介護というのはそもそも昔はそんなになかったものだろう。
たいがい病気になっても介護もろくにできず死んでいた。
母の場合もすでに一年前入院したとき点滴などしないと死んでいた。すると一年は寿命が短くなった。
それでも祖母は脳出血になり五年生きていたという、藁がオムツ代わりだったという
戦前はそういうこともあったから恵まれている、日本のオムツを中国人が買うのもわかる

なんか地方の仕事が病院関係と介護関係と葬祭関係が主役のようにさえ思う。
病院が街の中心のビルでありそれを取り囲んで薬局があり介護施設があり介護関係の仕事がありとかそして団塊の世代になると死者が増えてゆく、すると葬儀屋が繁盛するとなるこういう社会が何なのだろうと思う
それだけ余裕ある社会ともなるがとにかく膨大なエネルギーが介護に費やされる時代なのは間違いない。
団塊の世代が介護されるようになるとさらにその負担は増える
あの人も母親を介護している、三食食べさせているから大変だとか同級生が脳出血になりやせ細りなんとか生き延びたとかあの人も脳出血になったのかとかそんなことが身近で増えてくる、そして団塊の世代も大量死を迎えるのである。


自分も十年間は介護に費やされた。それでも自分のやりたいことはやらせてくれたから自分の場合は特別であり恨んだりはしない、そして一時は苦しかったが一人でなんとかのりきれた。一時はパニックになり苦しかった。自分自身が病気になり入院してそのあとの二年間が身体障害者のようになり苦しかった。
その時助けるものがいないでただ責められるだけだったのも苦しかった。
それもあまりにも恵まれた結果としてのカルマだったのである。
人間は恵まれたままにいいことばかりで終わらない、かえってそのことが最後の方になり苦しむことになる、資産家の姉妹が餓死して死んだというのもそうである。
恵まれた人は生きる術をもたないからそうなる、地をはいつくばるようにして生きてきた人などを知っているあういう人ならどんなときでも生きられると思った。
人に頼むのがうまいもらうのもうまいし延々と交渉してあきらめないというのにも驚く
お嬢さんだったら自分もそうだが人に頼めないのである。
人に頼むということは相当な能力が必要になるからだ。
自分を偉いとしている、恵まれているとしていればできないのである。
そういう経験がないとこんな時代でも餓死してしまうことになる
おそらく役所の福祉とも交渉できないということもあるからだ。


介護は男だとまた苦しい、家事の延長に介護もあるからだ。介護で家の中がガタガタになってしまうからだ。それで介護になってから家の中がかたづかないのである。
家のことを一人で家事までやることは容易ではない、だからここ十年は何か毎日追われる生活だったのである。
まず食事でも三回ださねばならないというのが手間なのである。
常に何かしてやらねばならないとなりその緊張状態がつづくのである。
つまり気のぬけない時間が延々とつづくのである。
だから仕事でも介護しながらやるというのはむずかしい、技術者が母親を介護しながら仕事していたがあれも苦しいと思う、仕事に集中できないからである。
その人は五〇代であり技術者として仕事をまかせられている人である。
そうなると日本国んの国自体の国力をそぐことにもなるのだ。
高齢化によって国が衰退してゆくというのも現実味がある


ともかく母は何か急激にではなく徐々に死を迎えた、だから死に対する準備ができた。
死ぬ二日前ほど葬儀屋と相談して段取りはできていたのである。
そういう時間があった。だから必ず死ぬ前に葬儀のことは相談しておくべきである。
ただ一回経験していることは強みだった。経験しないことは何でも苦しい
認知症の介護でも経験しているから自分の場合介護しやすいとなる
認知症という病気はわかりにくいからである。


母のことで近くの人がしもやけのことを知っていた、そんなことまで知っていたのかということで驚き親近感を覚えた。姉と関係していた人だけど母もいたから知っていたのである。あのころは水道ができても水が冷たかった温水器がなかっんたからである。
そのことを自分は知っていた。でも何かその頃そんなに母のことに同情したことはない
ただあまりにも店屋をやっていて忙しいから嫌だったのである。
なぜ日曜日も休まずご飯もまとも座って食べないのか嫌だったのである。
そんな働き詰めの母を自分は嫌っていた。ただそう強いられたという面があったから全部が母の悪いのではない、母はそういう性格だったということもある
死者について語るのにもやはり知らない人だと語れない、しもやけのことを知っていたので母の苦しいことを知っていたのだとなり何か共有するものを感じたのである。
第一回りでも人間が変わるし昔のことを覚えている人はまれになる
自分自身すら老人であり昔を語る存在になっている。この辺では母が一番生きたがその前にこの辺を知っている人が死んでいるのが多いからである。


年の暮に母の遺骨と自分一人の家というのも淋しい、でもそれが現実である。
俳句は写生というときまさにその現実が重いものであれば俳句にも重みを帯びる
死は最も重い現実だから俳句も重いものとなった。
つまり文学でも重い現実を反映すれば重い文学となることがわかった。
死から死体を焼き骨となるのは最も重い現実だったからである。


タグ:遺骨

2015年12月19日

百歳生きる意味 (社会的にもその下の世代にも影響する)



百歳生きる意味

(社会的にもその下の世代にも影響する)


母がなぜ百歳まで生きられたのか?それが一つの疑問としてある。
生来体細身であり体力もないのである。
だから仕事にしても力仕事などできない、それで原町紡績で糸取りを十年して働いた。
これも結構楽でなかったと思う。でも現金収入になり良かったと言っている。
それから東京に出て女中になった。
学校では一回も休まなかったと自慢していた。
根がそういう真面目な人間だった。
そして店は7〇才頃までしていたかもしれないがその頃はもうはやらなかった。
その後は家事を一人でずっとしていた。
家事の面では料理でもしていたから92-3才までしていたのである。
つまりその年まで現役だったのである。


このことが意外と大事だった。常にボケの原因が退職したり後継者に仕事をまかすことなどにより生きがいとか張りがなくなるとなりやすい
二人家に女性がいて一人がただ何もしないで料理でもしてくれたので食べていた
でもどっちがボケたかというといつも何もしないで料理を出してもらっていた人だったのである。
奇妙なのは主人がいて召使がいるとするとどっちがボケるかというと何でもしてもらえる主人だとなる、これも本当に奇妙な逆説なのである。
「嫁におばあちゃんはもう何もしないでいいですよ、テレビ見ていて下さい」とか言われるばあちゃんはボケるとういのもそうである。役割がないとボケ安いのである。
女性は家で役割をもち続けることも大事なのである。
人間とは本当につくづく複雑なものであり何が幸福か不幸か結果をみないとわからない
死んでやっとそのことがわかったりする
もちろん人間はいろいろな不幸がある、でもその不幸が幸福につながることもあるし幸福と思えることが不幸につながることは普通にある
それは誰でも長く生きていれば現実にみているのである。
だからやたら自分は不幸を背負っている、かわいそうな人間だと思うことも問題がある。そもそもなぜ「悲しむのは幸い」だとなっているのか?
これも不可解なものとなってしまうだろう。


百歳を生きることは何なのか?それは様々な影響がある、それは金銭面でもそうである。
ただ百歳でも健康で生きている人はそんなにいない、百歳の前になんらかつまづいている母も五年間は介護になった。九〇才を越えると介護状態になるのが多い。
だから実際は百歳までボケないで生きている人は少ないのである。
百歳の金の計算するとこれも信じられないことになる
母は金を使わない、それで六〇才になって国から3万円もらうことになった
それを一〇〇才まで計算するとどうなるのか?

30000×12×40=14400000円になっている

これは140万円ではない1400万なのである。40年間で国からこれだけの金をもらったということは国でそれだけ負担したということなのである。
そして母は65からもらえば良かったと言っていた。65からだともっともらえていたからである。
ともかく60から40年の計算になるとこんなふうになるのである。
それが経済的に百歳を生きる意味になる
つまりこれは百歳まで生きられると年金の負担もそれだけ増えてくるから国の財政に大きく影響するから国が老人によってつぶされるというのも大げさではなくなる
それで年金の支給を70才にするとか75才になるとかそれまで働けとなるのもうなづける。寿命が伸びれば伸びるほど負担が増えてくるし人数が多ければ多いほど負担が増える
その額はこの計算のように膨大なものとなってゆくのである。


百歳まで生きるということはまた悪いことばかりではない
普通人は親の死んだ年齢まで生きる目標となる、これまでたいがい60代とかで死ぬのも多い、自分の父親は67で死んだからそれ以上生きたとなればいいとなる
ところが百歳となるとそこまで生きるとなるとどうなるのかということである。
人生百年と考えるとどうなるのか?それは長期的に生きるということであり人生観も変わってしまうのである。
つまり相当に息の長い人生を考える、60でも還暦すぎたからあとは死ぬだけだとはならない、これから30年の人生があるとなると違う。
30年間健康でボケなければ何かを達成できるということである。
だから退職しても第二の人生がはじまると考えるべきであり今までのように終わるという考えにはならないのである。


そして親が百歳生きたということはやはり子供に影響する
百歳生きたのか、自分も百歳を生きねばならないのかとか考える
それは長期的視野で生きることになる、何か創作するものにとっては百歳まで生きれば余裕をもってできる、その他でもこの世のことを理解することは本当に時間がかかる
自分は50代で海外旅行したから海外のことが本を読んでも50代ではわからなかった。
このようにグローバル化するますます理解することが多くなるから時間がかかるのであるだから百歳まで生きれば世界のこともある程度理解できるようになる
そして歴史でも長い時間をかけないと見えてこないのである。
人間は百歳生きてももうそれだけの時間のことしか理解しにくいから問題なのである。
三陸で明治33年とかに今回と同じような大被害だったのにそれを語り継がれなかった。
祖父母から聞いていなかったという、そういうふうに人間の生きる時間が短いからそうなっているのである。

そして百歳生きた人がいたということはその地域とか食生活とか風土とか人間関係とか何かいろいろな要因がある、それは国によってそうである。日本は長寿社会になるということ百歳が増えるということはやはりそれだけ生きられる風土があり文化があり豊さがあるからだとなる、高齢化の負の部分が強調されるがプラスの面もある
それは未だ経験していないことだからいろいろ言われるのである。
それにしても経済的負担が大きいから老後を設計することは容易でなくなる
一億円必要だとか5000万必要だとか言うのはそのためなのである。
一年生きればそれだけ金がかかりる国の負担になるからである。
ただ長寿社会とはそういう社会なのである。だからそれに適応した社会を作る他ないとなる、若者に負担ばかりかかるというのも問題である。
だからこそ70までも75才までも働き年金の支給は70となり75才となるということを国では計画しているというのもそれだけ国で財政的に負担できないからである
60以上はなんらか病気になりやすく医療費の負担も増えてくる
老後に下流老人が増えてくるというのも当然なのである。
高齢化社会というの人類は経験していないからである。そういう備えもないからそうなる

タグ:百歳

2015年12月20日

この世の最大の無常は死 (死を克服するには信仰しかないーそれもキリスト教しかない)


この世の最大の無常は死

(死を克服するには信仰しかないーそれもキリスト教しかない)


今回の母の死もショックだった。すでに家族で三人の死を経験した。一番のショックは自分が中学生のとき死んだ父の時だった。それが野辺送りであり薪を積んで焼いたからすさまじかった。それ以来自分は死の恐怖にとりつかれた
それが求道のはじまりだった。もちろんどう求道していいかもわからなかった
死の解決方法がわからなかった。それで失敗したのはカルト宗教団体に入ったことであるそういう所は政治団体でありそうした死の問題は関係ないのである。
つまりこの世のパンの問題が最大の問題でありそのために政治的便宜を提供するものとしてあれだけ数を獲得したのである。
どうししても集団化すればたいがい共通しているのは利害で団体化する、それは宗教とは関係ないのである。
天草四郎とかキリシタンの反乱なども政治的なものであり権力争いであり浪人がそこに集結して徳川幕府の転覆を計った。だからこそ徳川幕府は敵対したのでありり信長も比叡山を敵対したのはそれは権力に敵対するものとして団体化していたからである。
別に予言者のように日蓮のように一人戦うものならそんなことはない、その一人が迫害にあうだけど団体化組織化した宗教団体は政治団体化して時の政権奪取を目指すのだから争うことになる


そして本当は人間の最大の問題は何かという問うとき、それこそ人間には無数の問題をかかえている、第一問題がないということがまた問題になっているのだ。
問題がないということはそれだけ恵まれているということはのちのちまた災いになるのである。何か苦難の時が来たらばあまりにも恵まれた人間は対処できないのである。
それで資産家の姉妹が餓死したというのもそのためなのである。
つまり恵まれすぎたことが後の災いを生んだのである。
いづれにしろ人間が死ぬということが最大の問題として宗教がある
一番のショックは人間が死んで骨になり灰となり形も何もなくなってしまうことなのである
だから骨を拾うとかは本当に酷だと思う、いちいち骨がどうだったとかこの骨はどうだとか説明されるのが何か嫌なのである。これは太い骨ですねとか太った人だと言われるだろう。そんなことを想像するだけでも嫌だろう。
何か人間の解剖に立ち会っているようで嫌なのである。実際の解剖なら医学に役たつのだからいい、骨を拾うというのはそんなこともないのである。
だから骨壺に入れて渡された方がいいともなる、ただ無常観を感じさせるには骨を拾うことは一番効果あることは言える。
人間は結局は骨となり灰となるものであるとういうことをまざまざと見るからである。
それが人間として生きてきた最大のショックなのである。
要するに人間の壊滅状態を見るのである。何もなくなってしまう無をまざまざとみる
それでショックになり何か食欲までなくなり気力も喪失して立ち直れなくもなる


この死のショックはいかに慰められようと慰めることは人間にはできない、そして死に関しても平等である。どんな金持ちでも権力者でも有能な人でも必ず死に骨となり灰となるこの世にいかに権勢を誇っても行き着く先は骨であり灰になるという現実が死である。
それは美人でも女性でも最後は同じである。その前に皺くちゃになり醜悪な顔にもなる
それが女性の現実でもある。
そうした老人とか死の時点から人生を考えるときこの世の様々なことが虚しくなるだろうこの世のことに人はみんな必死で追われている姿が虚しいとなる
文学者でも感受性の強い人は芥川でも川端康成でも太宰でも他にも自殺している
それは死を克服できないからである。どんなに栄誉栄華を誇っても死があるだけであり
骨となり灰となるだけだとなる、死とは人間の壊滅状態なのである。


死はまた宗教でも仏教でもイスラム教でも克服できない、お釈迦様も死んだからである。死ななかったのはキリストだけだとなる、その前に聖書には人が骨から蘇るとかそうした奇跡が記されていることは人間の死に関して特別な見方をもっていた。
すでにエホバというときそれは見えないが神と認識されていて人を蘇らせる神としてみていた。だからそういう宗教は他にないのである。
でも実際は蘇ったのキリストだけでありその後にいかなる偉大な聖人も蘇っていない、みんなやはり死んでいるのである。では死を克服されてはいないではないかとなる
やっばりみんな死ぬには変わりないとなると言われるのもわかる。
でも聖霊は死なない霊でありこれは肉体を越えたものとして授けられる
聖霊は永遠の命であり死なない霊なのである。でも実際は聖人でも人間は死んで骨になり灰になっている。
でも来世では生命の書に記されたものは蘇るということは確かである。それは契約であり今世では確かに骨となり灰となる無惨がある。だからこの世での肉体をもった姿は仮の姿だともなる
永遠の命があることこれを信じる意外救いがない、
そうでない限りどんな栄光かあるのか?結局は骨となり灰となるだけだとなってしまう。
キリストに栄光があるというとき死なないからであり死んだら栄光はない
死ぬものに栄光はない、神がいたとしても死があるなら神の力もないとなる
医者でも結局死に対しては無力である。どんなに科学技術が発達しても死を克服できないそれは神にしかできないのである。科学技術の栄光も限界があり死は克服できない
どんなに文明が栄えても死は克服できない、それが人間の限界なのである。


いづれにしろこの世のいかなる力をもってしても死は克服できない、この世のことならできる、貧乏でも克服できるときはくるだろう。無数の問題があるがそれも克服できるだろう。しかし死だげは人間の力では解決できない、ただこの世では死がどうのこうのというより日々のパンのことの方が大事でありそのためにあらゆる労力は費やされているのである。カルト宗教団体でもそうであり団体となればみんなそうである。
死の問題は普遍的であっても個別的なのである。
それは団体に頼っても友人に頼っても親族に頼っても科学技術に頼っても解決できない
だから教会に行っても解決できない、団体に入ることではない、個々人の問題として死があるからだ。その個が神と結びついて解決される問題であり団体化しても解決しない
だから団体とは肉でありパンのことである。
bodyは団体[人],統一体,組織体,法人でもある
ところが聖霊は個々人に授けられるのであり団体には授けられない、bodyには授けられない、教会もbodyでありその団体には授けられないのである。
別に教会に行かなくても授けられるのである。教会は否定できないとしても信仰は別である。


むしろ個々人の求道のなかで人生の中で紆余曲折して神の信仰にいたる、そして教会で説教を聞いてもそれはヒントみたいなものを得るだけである。
そして前にも書いたが誰であれ牧師であれ誰であれ教えられるもの説教するものによって奴隷の霊を与えられることが危険なのである。
四国の遍路であった人は金をやると言ったら経文を唱えた、あれも何なのかわからないで接していたが危険だった。あの人はただホームレス化した遍路でありそれが遍路だからお経を唱えた、それは食う手段として宗教をまねる人物となった。
そうなれば乞食ではない、尊敬される師ともなるからである。
そういうものにお経をとなえてもらったら心も支配されるのである。
何か今は僧侶とかは誰も尊敬していない、そして自分でお経を習って唱えるような時代になっている。
それも時代でも危険だなと思った。でもまたそれがキケルゴールの言う民主主義であり水平化の時代なのである。すべての面で精神的なもの宗教でも個々に追及して平等化してくる、もう師など従う人などいない、従うとしたらカルト宗教団体に入りそこで利害を一致させて政治運動することになる
要するに宗教も自己責任の時代となる、何を信じてもいい、唱えてもいい、しかし他人にそれをおしつけるなとなる、その教える人が師となれば弟子となる人がいて支配されるからである。師はまた偶像崇拝化されるのである。
だから民主主義とは何でも自己責任になる。あなたが何を信じようがいい、それは自己責任でありあなたの自己責任で解決して他者にそれをおしつけてはならないとなる
団体化したものはすでに宗教をその数で団体化して権力でおしつけているから危険なのである。



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母は百歳生きる意味があった (家庭の事情で違ってくる介護)


母は百歳生きる意味があった

(家庭の事情で違ってくる介護の様々)


母死して風鳴りにつつ冬椿

日曜日枯野にあわれ昼の月

母死して玄関に光る冬の月



二本の枯木のここに変わらざれ歳月経てそさらに堅きも

我が母の百歳生きぬ千歳なる巌(いわほ)となれや冬のくれかな

骨のみそ家に飾られあわれかな母ようやく我が家の主


私は人間です。血も心も通った人間です。だから今にも消えそうな命の火が目の前にあれば、努力して1日でも燃やし続けさせてあげたいです。理由はうまくいえませんがそれが人間ではないでしょうか?

介護は家庭の事情と深くかかわってくる。家庭でのその人の立場がどうなっているかで違ってくる。
自分の家は複雑であり他からはわからない、姉が家の主であり母は脇役だった。
目立たない存在だった。だから母が我が家の主役になったのは奇妙だが姉が死んでからであった。
そしてこれも不思議なのだが姉が死んで母が死んで祭壇に母の遺骨が置かれてから我が家の主人となっていた
92-3才までも料理をして家事をしていたから家では現役だった。
自分の家では嫁がいないからそうなった。
だから自分は介護は嫌でも義務だった。介護でも確かに三食を出していたがオムツもしていないし最後まで自力でトイレに行っていたから三食食べさせるよりはずっと楽だった。だからプログとかも創作もつづけていたのである。


そして母が我が家に嫁いで主役となったのは姉が死んでからであり介護されてからだったのである。だから自分の家では十分に介護されていても存在感があった。
まだ家では生きる意味が価値が存在感があったのである
家族が多いと嫁が主役になったりするとそういうことはなくなる場合がある
嫁からすると早く死んでもらいたいとなるだろう。
介護では常にそうした矛盾に悩むのである、もう世話はしたくない、早く死んでくれというのは常にある、それと矛盾しているんだけどやはりまだ生きてほしいということもあるこの二面性は誰でも常にあるのが介護なのである。
だから死んでくれというのは強烈になると、それは我慢の限界が来て殺人にもなる
そういう相反する葛藤が介護者にはある


ともかく母は死んで我が家の主役となった。姉は脇役化したのも不思議である。
死んでから主役になれるのかというがやはり人間にはそういうこともある
生前は注目されなくても死後に注目されることは多々ある
それが生前はその人の価値がわからないが死後に発見されるということがある
だからつくづく人間は死ぬまでわからないものであり死後もまたわからない
死後にその人が見直され価値があるものとされることは良くある
それは別に有名人ではなくても平凡な人でもある


介護はとにかくそれぞれの家庭での立場が強く影響するのである。だから最後まで家で介護されたいとか在宅で死にたいというときその家族のなかでどれだけの立場にあるかが問題になる
病院であったただ手をあげることができるだけの人がいた。その人は妻が来て手をにぎるだけでありほとんど意識がない状態だった。
介護度5であり寝たきりでありしゃべることもできない、ただわずかに手を上げられるだけだった。その介護度5の人を家で介護していたのだから驚く
その人は農家として優秀であり娘三人を大学に出していた、だから家族で大事にしていたのである。
それだけみてもいかに大事にされていたかわかる。
その後どうなったかわからない、浪江の人でありおそらく郡山に娘がいたからそこに避難したのだろう。


こういうふうにそれぞれ介護する家族の事情が違っている。自分はあんな人をとても介護はできない、比較的楽だったからできた。ただ姉がひどい認知症だったから一時はパニックになった
でも2年半くらいで死んだので救われたとなる、もし二人を介護するようになったらもうもたなかった。これも天の助けなのか、悲劇にならないで助かったとなる
あとは母の介護だったがこれも5年は長かったが重度ではなかった。
それは母の頑張りがあったからである。そうでないと苦しくなった。
だから不思議に自分は介護しても恨んでいないし二人には特別良くしてもらったから感謝している。
死んでも今は母を家の主役として祭壇に骨を置き大事にしている
供養もこれから近くに墓があるのでする、死んだ後も二人への感謝は変わることがないからだ。

我が母の百歳生きぬ千歳なる巌(いわほ)となれや冬のくれかな

人間はやはり百歳生きることは何か重みがあると思った。年寄りなど金ばかりかかり社会にとって何の役にもたたないとか言われるが百歳にはやはり意味がある。
千歳の巌のようになってゆく,死んでもやはりそういう重みが残る
やはり百歳はまだ特別なのかもしれない、これが百歳が多くなり百二十才とかにならないと珍しくないとなればまた違ってくる。
人類は百歳の時代からさらに百二十才とかの時代になるのだろうか?

だから今にも消えそうな命の火が目の前にあれば、努力して1日でも燃やし続けさせてあげたいです

母は病院に行っても最後までこうして生きたのである。何日か前までは自分の顔を見てわかっていたのである。意識があったのである。
そうして母は何か師走に冬に死ぬのつくづくふさわしかった。生れたのも2月4日でありもう少しで百一才だったのである。冬に生れ冬に死んだとなる。
苦難の一生だったから冬にふさわしい女性だったのである。
ともかく確かに人間は死んで骨と灰になるが人間はやはり子供であれ他者の心に生き続ける。
あのように自分にトイレに懸命に行っていたこともやはり今になれば良くがんばったなと思うからである。

例の二本の枯木はやはり歳月を経ることによってさらに堅く結ばれる感じになる
何か平凡なんだけど何度もみているのだけど年によって違ってみえるのも不思議である。見慣れたものでも同じものでも違って見えるのである。


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タグ:介護の様々

2015年12月21日

百歳に死ぬ母を偲べる短歌十首 (女性は家に生きて家に死ぬ)


百歳に死ぬ母を偲べる短歌十首

(女性は家に生きて家に死ぬ)



七〇年やともにありしもあわれかな目立たぬ母の死にけるかな

我が家に嫁ぎてあわれ七〇年悲しむことの多かりしかな

姉死して母も死にき我が一人家を守るや年のくれかな

それぞれの家にしありて人は生く悲しみ喜び女人のあわれ

我が家に争いありぬそのことの死せばはかなし昔となりぬ

玄関に散りし紅葉や冬となる訪ねし女の昔語りぬ

何故か苦労負わさる母なりき我が家にしもあわれ深まる

霜焼けに苦しむ母のあわれかな温水器なし冬のことなり

我が家に七〇年をありしかあらば思い出は深く家にあるべし

我が家は姉と母との二人して作りしものなり感謝すべしも


母の一生は苦労の一生だった。そして体力的にも性格的にも目だたない存在だった。脇役だった。先の夫は東京で工場の事故で死んだ。
それから実家に帰り我が家に嫁いだ、ただ我が家にきても下働きのようにされた。
だからあまりいいことはなかった。ただ母は細身であり何か自分で世間をわたれるような人ではなかった。そういう女性もまた多い。
女性にもいろいろあり自分はわからない、姉は太っていて過酷な世間でも渡れる女性だった。それでシンガポールに四年間従軍看護婦しても生き延びたのである。
何か人と話すときも恐れない、だから大の男が恐れていたのである。
だから母も姉がいたから一面楽したともなるしじ自分は二人がいた結果本当に楽をしたのである。だから三〇年間世間と没交渉でいられたのも不思議だった。
世間の荒波にもまれることはなかったのである。
ただ二〇代は自分は相当に苦しんでいた。他からたいしことがなくてもやはり自分も体力もないからそうなった。それで二〇代で六〇代のようになったのはそのためだったのである。それから楽をした結果体力がなくてもこれまで生きてきたのだと思う。


我が家では母には優しい家ではなかった。それは父の時からそうである。父も再婚であり母よ良くしたとは言えない、だから自分は母には悪いなといつも思っていたのである。
そう思ってもどうにもならないのが自分の家だった。
それぞれの家に必ず何かしらの事情がありみんな違っているからわかりにくいのである。人間の一生にしてもそれぞれであり不運な人もあり楽な一生もある
でも楽なことがいいかというと何かそこが人間の不思議であり楽な人生を送った人はあまりあわれまれない、何か死んだときでも印象を残さないというのも不思議である。
あの人は苦労したなとなるとき人々はその人を思うということかある
それは両親でもそうだろう、苦労して育ててくれたなと思う子供は両親を裕福な両親より思っているのである。
何も苦労しないで育だったとしたらあまり親のことも思わない不思議がある


ただ人間と生きる限りなんらか苦労しない人はいないだろう。
まず苦労しないとすればそのこと自体が人生で欠けてものとなってしまうだろう
自分もここ十年介護で苦労した。そして介護して親の苦労に報いた、親孝行できたということで満足しているのである。
これだけ楽させてくれたのだから当然だとも自分では思っていたのである。
だから介護はこうして常にその親子でも家族でもそれぞれの事情が違ってくる
手厚い介護がされるとすればやはりその親子関係か良かったとなるのだ。
親戚の人は親に対して全くそういう感情がなかったからもう介護もなにもできない
ただ金目当てだけになっていた。その親に金があるから余計にそうなっていた。
金があるからいって老後でも介護されるとは限らないのである。
金がなくても介護できないがまた金だけでも介護することはむずかしいことがある


ともかく女性は今は多少違っても嫁は家に女であり家に生きて家に死ぬというのが定めである、男は家ではなく社会での仕事をして死ぬということがある
女性と家は切り離せないのである。だから家で死ぬのが一番いいとなる
一応家で介護したから自分の場合は良かったとなる。
でも在宅の介護は人手も金もかかるから容易ではない、それで事件が起きる
それでも人間は死んだときみんなふりかえりもっと良くしてやれば良かったと言っているそれも矛盾なんだけどそうなりやすい、実際生きているときはなかなか人間は偲べない
第一嫌なことが必ずありその人時代でも実際はどんな人でも親でも嫌悪を覚えることがある、ただ死んだときそういうことかなくなるから純粋に偲べる
つまり人間が死んだとき美化されやすいのは直接せっしていれば嫌なことが目立つがそういうこともないので美化されやすいことはある。
歴史でも何か過去の人物が美化されやすいのはそのためである。
現実に生きているときはそうはならないからである。