2015年11月30日

トヨタ創業一族の御曹司、女子大生に内定と引き換えに肉体関係迫った件で処分 (実質の権力は現代は会社がもっている)


トヨタ創業一族の御曹司、女子大生に内定と引き換えに肉体関係迫った件で処分

(実質の権力は現代は会社がもっている)


トヨタ自動車グループでvZ自動変速機(AT)世界最大手の「アイシン・エィ・ダブリュ(AW)」(愛知県安城市)の男性幹部が、 
就職活動中の女子学生に不適切な関係を迫ったとして、処分を受けたことが同社への取材でわかった。 
この幹部はトヨタグループ創始者の故豊田佐吉氏の兄弟の孫にあたり、すでに退社した。 http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1448778348/


企業の不祥事のニュース、例えば社員が飲酒運転で死亡事故を起こした場合、小さな企業ならそのまま報道されるところを、トヨタのような大企業の場合は、広告費をたくさん出しているので、報道を小さく扱ったり、自動車会社の社員が自動車事故を起こしたことが発覚したら企業イメージに打撃があることを、頼まれなくてもマスコミが自ら企業名を公表することに躊躇し、「会社員が飲酒運転で死亡事故」などの報道になります。


理彰氏と女子大生のやり取りはチャットツール「LINE」上でも「証拠」として残っており、「あなたの能力ではうちの会社には受からないから、私と特別な関係を持てば、親戚扱いにして入社させてやる」といった趣旨の発言をし、嫌がる女子大生に迫っている。そして、その女子大生が断ると、「採用は絶対にない」「友達を紹介してください」といった返事を送っている。強要とみられても仕方ない行為といえるだろう




現代の問題は会社が大きくなりすぎたことである。だからトヨタ王国ともなり東電王国ともなる。
社会の支配者の実質が実際は実業にたずさわるものであり富を産み出すものである。
政治家は仲介者でありかブローカーでありコーデネーターとかなる
政治家は実際は力を権力をもっていない、政治家は選挙で選ばれるからその地位も不安定なのである。それに比べて会社は政治家より長くつづく、東電となればもう電気社会なのだから電気がなければもう社会活動ができくなるから政治家などより力あるとなる
トヨタでも車がなければ社会活動もできないから車が必需品だからともなる
でも車は別に日本のものだけではなくて外国からも買える、それより日本車を売ることによって莫大な利益を得ているから国の経済を支えているのだから国の政策まで左右するし政治家以上の力をもっている


だから原発事故でわかったように東電は市町村を買収して市町村ごと買うほどの力ももっていたことに驚いた。つまり市町村が東電によって買いあげられていたのである。
原発事故以後も国や東電の補償金をあてにして生活が成り立つほかない状態になった。
東電にそれだけ依存した経済になっていたのである。
それは結局電気や車に依存する社会になっていることでありだからこそ東電とかトヨタが国並みの力をもつようになったのである。
そもそも自給自足のような生活のとき炭焼きして都会に頼らないで自力で生活することを誇りとしていた時代があった。
考えてみるとこのことも不思議である。科学技術の時代になると科学技術が権力を作るようになる、テクノクラートが支配者層を作る
「電気がなくなったらどうするんだ」「車がなくなったらどうするんだ」「その車でも火力発電所でも石油がなくなったらどうするんだ、、、」とか脅されることになる
要するに政治家なといなくなっても何にも困らないのである。
誰か代わりがいるしそれは選挙で選ぶものであり政治家が力をもっているわけではない
そして民主党でも電事連とか組合を通じて原発に賛成する立場にあったのである。
これからもわかるように今の社会は政治によって動かされている社会ではない
実質の権力は巨大会社にありそれはグローバル経済になるとアメリカですら国ではなくロックフェラーだとかロスチャイルトとか巨大会社が世界を動かしているとなる
その会社の利益のために国も動かされている、軍需産業ならば国が戦争して武器を売らせてくれとなり必要のない戦争までするように仕向けられるとなると怖いことである。
また金融となると何か株を操作して巨額の金もうけを金融会社でたくらむからそこで戦争までして金もうけしようとするとかそれがユダヤ人だとか言われる、それも一部あっても金融というのは今やそうして国の権力より上にあるからそうなる
そもそもだから今や国とは何かなどわからない、巨大会社の代表なのかとなる


そしてマスメデアは全くこうした巨大企業に支配されている、トヨタでも東電でも湯水のように巨額の金が流れる、そうすると何も批判できないとなる、現実にトヨタのこうした悪質の江戸時代の代官のようなことが現代の民主主義社会で行われていることが暴露されたことでもわかる
でもマスコミでは何にも報道していない、話題にもしないのは宣伝費をもらっているからだとネットでは盛んに言うようになった。
それは東電の原発事故のときもそうだった。ちょうと中国にマスコミの要人を招待していたとき事故が起きたのも因縁だった、何か事故というのは自分も一身上に起きたことを書いたが偶然とも思えないのである。
何か偶然にその時起こったのではなく日頃からそうしたことをしていてマスコミに金を流していたから起きたのである。
そして福島県自体がそうした東電とかに政治家であれ市町村自体がとりこまれていた。
それは東電が金のなる木だったからである。
もちろん福島県の地方紙などは何も批判などはしない、金をもらっているから批判できないのである。要するに現代は何でも金で買収できる、市町村すら買収されていたことに驚いたのである。それだけの権力を東電とかトヨタはもっている、だからトヨタでも名古屋ではトヨタの悪口は言えない、新聞でも言わない、もうトヨタ城下町でありトヨタ王国となっている
それで江戸時代のような代官のようなことができる


巨大権力化すると何か悪いことでも隠蔽できることが問題なのである。東電も前の佐藤知事がプルサーマルで指摘してもとりあわなっかたとかいろいろ隠蔽されていたのである。つまり権力でいくらでも隠蔽できる体質になっていたことが事故につながっていたのである。
庶民はどうにもならないといえばそうだけど庶民自体も金になるからと安易に金だけを求めているからそうなったともいえる。
景気よくなるなら何でもいいとかなっていた。
権力で隠蔽できるということは非常に常に危険になる。悪がとくに巨悪は隠蔽されるとそれがどうなるのか?
最後はそのが戦争になったり巨大事故になったりするから怖いのである。
建設関係でも不正が行われていても隠蔽される、それが名だたる大企業だったから問題になった。
権力が巨大化するとモラルも腐敗してゆく、権力でどうにでもなる、警察なんかも怖くない、権力に従うからだとなる、現実検察は時の権力者に従うからである。
まず社会で権力がないものは訴えることもできない、とりあげることもしない、隠蔽されるのである。
権力というとき実は大会社の幹部に問題なのかとなると組合も恩恵を受けているからそれは民主党支持でありやはり民主党も恩恵を受けている
それで福島県で原発に賛成していたのは民主党であり民主党主導で原発は推進されていたと矛盾があったのである。
自民党の政策を受け継いだの民主党だったのである。渡辺恒三が政治家のボスとして原発を推進させていたのである。


民主主義の最大の問題はこうして巨大な権力をもつものをどうして監視して操作できるのかということである。
創価などのカルト宗教団体でもそうである。それも巨大な権力意外の何もものでもない
だからそこでは悪は隠蔽される、司法とか政治に権力をもち隠蔽させるのである。
マスコミも聖教新聞をすらせて金を流して批判させないのである。
それはあらゆるものが権力をもつことを目指して活動しているからそうなる
それで民主主義社会では宗教の権力をおさえるために政教分離政策が生れた、政治が宗教に支配される、宗教でも権力をもつと宗教ではなくなる、権力を操作することなるからである。もちろんそもそも権力をもって支配しようとするのが目的なのだから当然だとなるそういうことを許していたらまたファシズムとなり庶民がその犠牲になる
でも人間はそうした巨大権力に金でも支配されてゆく、それをどうしたらいいのかとなると最もむずかしい問題になる
現代の権力機構からはじきだされたものはまたそうした権力に頼らざるをえないのであるそれは宗教とは何の関係もない、でも現実社会ではパンの方が大事なのである。
それがカラマーゾフのゾシマ長老が天からふってきたパンより地上でのバンが大事だということを言っていた、つまりそれを実行しているのが政治社会である。
それは自民党でも民主党でも創価でも共産党でも全部政治は現実のパンのことであり天上のことなど関係ないのである。庶民が日々求めているのはそれしかないからである。
まず詩にしてもそれを理解して読む人などほんのわずかなことでもわかる
庶民が求めているのはそういうものではない、文化でもない、日々のパンなのである。
動物でも餌をやればなつくのとにている、高等なものはいらないのである。


民主主義の課題がいかに政治であれ宗教であれ会社であれ組合であれマスコミであれ巨大な権力をもたないようにするか監視して制御できるようにするかである。
それが今もむずかしい、結局原発事故が起きたのはそうした国と東電が一体となり「安全神話」を作りあげたが津波によって悪が暴露された。
それは神の力でしかできないともなっていたのである。なぜならすべてが庶民すらも欲に動かされて原発推進になっていたからである。
それをとめることができるものはなかった。そして津波が起きてその悪が暴露されたのである。
だからそういうことがこれからも起きてくる、もう人間の力ではどうにもならない
神の力が天の力が悪を暴露して悪を滅ぼしてくれなければどうにもならないとなる
権力とは結局サタンなのである。サタンが支配されているこの世だから権力によって支配される
この世は権力によってゆがめられるようにできている
それは人間の欲がそうさせるのである。欲がない人間はいない、トヨタの御曹司でも権力があり欲があるからそういうことが実行するようになる
ただ何にも権力がなかったら人間はそういうことはできない、権力をもつと人間の悪が露骨になるのである。
そして人間は社会ではどうしても権力をもつものともたないものとに分かれる
ただいつまでも権力をもつことはできない、東電の権威は事故で失墜したしまたトヨタ王国でもいつか凋落する、それが権力の運命である。
劇的に権力が崩壊するのは別に大会社だけではない、個々人でも家族でも起きてくる
一家に君臨していた人が突然認知症になり銀行から金もおろせなくなったことには驚いたその時完全に一家を牛耳っていた権力は喪失してしまったのである。
痴呆になったのだからその極端な失墜は驚愕だった、これは老人には起こり安いのであるいくら社会的地位や権力があった人でも認知症になると一転して最悪の弱者になってしまう、だから認知症は恐ろしいのである。
病気になっても頭がわかっていれば権力は維持できるかもしれないが頭がやられるともうすべてを失ってしまうのである。





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posted by 老鶯 at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

我が街の家の墓地への情をつづる (文語体で記す)


我が街の家の墓地への情をつづる

(文語体で記す)


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我が家の近きに墓地あり、その墓地に眠れるは我が父と姉と姉の母なり、次ぎにこの墓に入れるは我が母と我となりしや、ただその後に継ぐものなしも
この墓地の街中の近くにあれば日々我が墓の前を通りぬ、我が墓は道に面してあれば親しく我の通るを死者の見るごとしも、今し秋はすぎ冬となりしも、木の葉は一枚この墓地にひらひらと散りぬる、この墓地の街中にあれどもふるしも、その故の古き碑のあれば知りぬ、古きは宝永(1700)の大きなる石碑なり、これ弘法大師空海の真言宗の碑なり


さらに古きは隣が古代に由来する神社なればここは鹿島神社の領域なり、その後寺になり神宮寺となれり、これは全国的に神社より神宮寺になるもの多し、他に天保の碑あり、これは記されし字を見ればここは寺子屋なりしも、これまた全国に多し、何か暗唱せよという文字の記されてあればなり、天保と言えば明治維新に活躍した吉田松陰、山県有朋、坂本龍馬、,,元勲と言われた人々はみなそうなり
天保が1840年として明治元年が1868年として丁度天保に生れし人が明治に青年となり
重責を担いしなり、それ故に天保は今につづく年なりしを知るべし
天保よりの墓の多くなりしも幕末となりこの頃から豊になりて庶民も墓を作りしためなり
久しくも話もしない、同級生のその家はこの近くにあり、その家の由来を今に知れば古りしも、南北朝時代にさかのぼる古さなり、南北朝時代に霊山から落ち延びた時の祭りお浜下りのおつづら馬という馬につづらをのせたものの役を担う古い家柄なりを知りぬ
その人の街中に住むとなればこの街もまたそれなりに古りしを知りぬ

我が家の墓は新しきものなり、なぜなら我が家は明治か大正時代に今の双葉町の新山より移りすむ、父はそこの酒屋の丁稚にして葛尾村(かつろう)村から出て奉公しぬ。
その後暖簾分けしてここにいたりぬ、明治までさかのほるにしても江戸時代まではさかのぼれぬ新参者の家なり、ただこの街でも我が家の近くの神社に天明の碑あり、天明と言えば相馬藩の大飢饉で三分の一の人口の減りしときなり、そのようにその神社の古しを知らじ、天明は1780年とかになりぬ、天保より一時代前の80年前とかなりぬ
それでもまた天明もさほど遠きにはあらじか、明治より二百年前、今から三百年前、そして慶長津波はそれより百年前なりしも

たいがいの墓地は古く神社も古く江戸時代にさかのぼる、ただここが墓地となりしは明治以降であろう。江戸時代は寺の領域なり、それ故に寺子屋がありその碑があるなり
この墓地の我にとりて親しきは我が父と姉との眠ればなり、父は13才の頃に死ぬもその面影はあり、また姉は最近死ぬ故にその記憶は生々しも、次ぎに入るは我が母なり、余命幾ばくもなし、その後に我も寿命なればいつ死すとも知らじ、故に墓のことの気にかかりぬ我はここ十年介護に追われ遠くに行けず、ただこの狭き街の路地を往き来す、そしてその時必ずこの我が墓のある墓地の前を通りぬ、故に我が墓は親しきものなり

ここに眠れる人はいかなる人や、近くに生きて知る人もあり、同級生もすでにここに葬られてありしも、60代になれば死す人もあり、同じ同級生は脳出血となり一命をとどめしと語りぬ、まことに六〇代は病気の世代なり、必ずやなにかしらの病気のいでくる世代なりそれ故に死はすでに身近なり、両親の今は長生きして我が母の百歳ともなれり、余命幾ばくもなしも次ぎに死すは我なりしも、我が生きるは何故ぞ、我のみの残りて墓参りと供養なるべし、故に母死してもこの墓は我が墓参りと供養のためにありぬ
しかしその後は知らじ、我が生きる限りは墓参りと供養は欠かさじ、近くにあればその前を日々通れば墓は身近にて死者も身近なり、死者とともにあるともなれり


ここに北風は吹き木の葉は舞い散り落葉たまりぬ、この墓地の回りも前は幼稚園がありそれが取り壊されて更地となり次ぎにまた津波や原発被害で復興団地となれり、これは大変化なり、この墓の前はもともと沼地なり、それ故に地盤悪しと建設にたずさわる人の言えり、それが都会のような団地になることに驚く、ここには原発の避難者の小高の人も住めり、この変遷の大きく人の入れ代わりも激しきなり
世は常に変わるとてこれほどに変わることを前もて知るは不可なり、津波にて草茫々となり一軒の家も海岸地帯にはなくなりぬ、この変化はあまりにも無常なりしも
その海岸の村の人は家もなく仮設に住みて同じ場所に住むことなしも


この路地の道の何回か曲がりて行きぬ、晩菊のかたまり咲き日のあびぬ、山茶花の垣根に咲きて道に散り雨しととふりその白さき映えぬ、我はこの道を一人行く、この街の小さくなにもなし、最近この町の本屋も空地となり店もわずかなり、スーパー一軒のみの小さき町なり、ここに用をたすもできず、隣の市に行く、自転車屋すらこの町よりなくなると淋しも、電車は通るも駅舎はあるも二両の電車の相馬市と原町市と往き来す、中に鹿島駅のあれど淋しも、一応無人駅にあらじも乗客も少なく淋し、枯菊の何かにあうもあわれ
秋薔薇も冬となり残る花びらも散りぬれ、寥々と北風の吹く、津波原発事故の後の変わりようは予想だにせざりことなり、ただ我はこの町に生れこの町に生きる、そしてこの町に死するや、その往き来するのは路地裏の道なり

この町に開業医二軒のみなり、前は四軒ほどあり、すぐ近くにもありて往診のあり、我が父は病気のとき良く往診にきて最後を看取りしなり、その医者もなく今は空家なり
そしてもう一軒の町医者の医院も空家となり、その前も日々通りぬれば淋しも
石がありその医院に枯蔦のはいていかにも淋しも、空家となるも多し時代なり、全国にて八〇〇軒の空家ありという時代なり、何か少子高齢化で日本はさびれゆく
その路地の道に一枚の木の葉散りぬ、朝見れば残月のなおかがやく、それは我が母のもはや死なんとするとかさなりぬ景色なり
それで一句作りぬ

残月や木の葉一枚路地の道

この町もしかしにぎやかなる時あり、我が家は駄菓子屋のときあり、子供たちにて活気あり、母は忙しく働き休むことなし、母は大正生まれにて働くことしかなし、何か趣味もなく遊ぶこともなし、しかし子供のときは子供は多くその声は巷に木霊しぬ、町医者も四軒ほどありて忙しき、店も多く活気あり、町はその時活きてありしも、街中に店があり人は買い物をする、今はみなスーパーに行き街中に活気はなし、どこも街中の店はシャッター通りとなりぬ、街自体がなにか空家となる淋しさのあり
墓地もまた街と一体となりてありて活きぬ、墓地もただ死者のみならば活きず、今を生きる人の通いて墓も生きるなり、死者も生きるなり
ああ 我もこの墓地に我が家の墓に眠らむやなればこの墓地の親しきものとなりぬ
四季を通じて我はこの我が家の墓の前と墓地を通りぬ、墓にも墓地にも意味のあるべし
ここに眠れる人々のまたこの町に生きし人たちなり、ただ死者はこの変わりよう知らじ
ただ墓とていつまでもあることなし、墓もまた取り壊されて無縁墓となる時世なり
この世に永遠にあるものはなし、墓も墓地も変わりゆく、しかし我が生きる間しばらくは我が墓と墓地を通りて墓参りと供養のあらむ。
なお我が父と姉とのなおそこに立ちてあらむや、ここを日々我は通りぬ



俳句も写生だが文学でも基本は写生なのである。
空想したとしても実際に起こったことを記すことが歴史であり文学である。
だから写生に忠実だとそれで別に飾らなくても一つの記録となり文学となり歴史となる
それがなぜか現代文より口語体より文語体になると平凡なものでも味わい深いものとなる不思議かある
前にもそういうものを書いて読み直してこれも書いた
これも別に空想ではなく写実文なのである。

やはりある街でも平凡な街でもそこに長く生きることは思い入れができる
だから人は老人は特に簡単に長年暮らしたと土地から離れにくいのである
別にこの土地が街がいいというのではない、長く住んでいる所は人間でも自ずから親しいものとなり一体化してゆく
大都会になるとこういう感情はもていな、あまりにも大きく無機的になり何か書き記すことさえできない
人間が感じ得る範囲は広すぎると人が多すぎてももう人間的に一体化できない
だから大都会に情を感じるということはない、索漠とした世界があるだけになる

ともかく何か書き記すとか語るとかは何か思い入れがあり記して起きたいとなる
それが人間なののだろう。墓地に眠っている人もわからないにしろそれぞれの人生があり今は忘れられ眠っているのである。
いづれにしろ自分に残されたのは墓参りであり墓守となり供養することである。
それもまた人間の勤めなのだろう。
タグ:墓地