木の葉(写生俳句の意味するもの)
残月や木の葉一枚路地の道
鶏鳴きて朝日昇るや寺の鐘
冬の灯や街中にあれ福祉の湯
はらはらと木の葉一枚我が墓地に散りてここに我も眠らむ
路地裏に雨しととふり山茶花の散りて白しも我が一人ゆく
日々に行く路地裏の道我が墓の前を通りて山茶花白し
街中の菜畑にしとと冬の雨ふりつつあわれ目立たぬ人かな
残月の冬の未明に輝きぬ雲にかくろいまた輝きぬ
秋すぎて駅に散り残る薔薇の花もはや散りなむ我が母も死なむ
庭の石空家に淋しものさびて枯蔦はいて時は時はすぎゆく
写生というとき何か無味乾燥な感じになる、でも写生の意味するものを探求すれは深いものとなる
最近自分の行動範囲は狭い、一万の街の路地裏の道を買い物だとか病院にゆくだとか仮設の食堂にゆくだとかきるりきった平凡な道を往き来するだけである。
だけどそこを写生すれば何か趣深いものがある。
残月や木の葉一枚路地の道
これは最近死にゆく母をテーマにしている、するとなにかそのことにぴったりな俳句だった。
死にゆく母とは残月であり路地裏に一枚の木の葉が散っている
写生はそうして何かそこから深いものを読み取ることに意味がある。
写生はそれぞれ違ったものとして読まれることがある
写生俳句はなるべく主観を入れてはならないのである。
鶏鳴きて海に朝日や寺の鐘
これも全く写生俳句である。鶏が鳴いて海から朝日が昇る、そこに一回だけ寺の鐘がなったのである。
手地は嫌いだけど鐘の音だけがいい、鐘の音はもともと時を告げる時計の役割を果たしていたのである。ゴーンとなるとき何か心落ち着くものがあるのだ。
その寺は山陰の奥まった所にあることはわかっていた。
そこからひびいてきたのである。
短歌となると写生とは違うがやはり写生を基本にしている。ただ現代はもう俳句は短すぎて限界にきている、短歌だと長いからまだ現せるものがある。
俳句はもう短すぎて限界である。でも基本的に写生だということでは変わりがない
写生に専念すれば別に才能がなくてもいいものができる
だから俳句でも上達するのは写生を基本にすべきなのである。
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