2015年11月22日

人間の見栄の怖さ (世間を脱しなければ見栄からも脱することができない)


人間の見栄の怖さ


(世間を脱しなければ見栄からも脱することができない)



あれよ、スタップ細胞で自殺した人がいたけど責任なんてないんだから 
こういうどうでもいいことに拘るのが自殺者の決定的特徴。 
それは恋愛であったり仕事関係であったりの些細な問題を含む。 
そんなものは蜂に刺されるより痛くないんだから、何故に痛みを求めにいくのだろうか。 

極々小さなプライド、世間体、感情に振り回されているに過ぎない。 
それをノイローゼという。大局に縛られず、小局に縛られる者ほど 
ノイローゼの傾向を持つと言い切れる。 


俺の答えはシンプル。 
自殺の原因は、人間の見栄と、人との関わりだと思う。 

例えば一例をあげると、結婚して、マイホームローン組んで、 
破綻して自殺、 「結婚」も「マイホーム」も糸をたどっていくと結局は「見栄」。 



本当に常に人間社会は見栄の競走である。見栄は様々なものがありそのために死ぬ人までいる、例えば子供でも親は子供を何か自慢したい、自分の子供は優秀だと何か他の親の子供と比べて自慢したい、その見栄の競走は尽きることなくあるしつづいている。
ただ時代によっては様態は変わってきているが本質的には変わりない
見栄などたわいもないものとして無視することもできない、それが世間というものだからである。見栄から脱するには世間から脱するほかないともなる
出家することは世間の見栄から脱することであったことでもわかる。
世間にいる限りもろもろの見栄とか世俗のことにかかわらざるをえないからそうなる


見栄というときだからそれを簡単に無視できないのである。
ある人が大学で一番の美人と結婚したのは博士となり世界保健機構に就職したことを装っていた。毎日出勤していたのである。金は親戚から工面していた。
それが長い間わからなかった、そしてそのことがわかったときその夫は妻と子供を殺して自殺したのである。
その人は優秀でありたいということで装っていたのである。
そこまで極端になるのかと言うが何か人間は極端なところに真実が現れる
これと同じような人を近くで知っている。
その人はある資格で一級の免許をもっているから頭いい人だといつも言われていた。
本当に頭がいいのは確かだった。でも事業をはじめたのが失敗した。
その失敗を隠すためにどうしたかというと借金していたのである。
最近までそのことがわからなかった。自分とも関係していたから怖いことだった
自分の家が苦しいとき病気の時、弱みにつけこんで借金をしてきたからである。
借金してまで自分は成功したのだと装っていた。


たいがい借金している人は常に犯罪者の動機になっている
借金に追い詰められると非常に人間は危険な状態に追い込まれるのである。
もう相手のことなどどうでもいい、金さえとればいいとしかならないのである。
それも人間の見栄からそうなったのだから見栄は恐ろしいのである。
優秀だと言われることに固執するからそうなる
自分の身内でも自分は優秀だと死ぬまで言っていた、でも最後は認知症になったのだから痴呆化したのだから馬鹿になったのでありそれでも自分は優秀だと言って死んだのであるおそらく認知症になって馬鹿になったことを自覚して自分はそんなはずがない、優秀な人間なんだということをかえって言うようになったのかもしれない
ただそんなに優秀だとこだわる心理がわからない、何か自分などはあらゆる点で劣っているから優秀だと一度も思ったことがないからである。
最近やっと詩歌でも何かいいものができているなどは自覚しているが優秀だと思ったことがないのである。だからその心理が理解できないのである。


見栄でもたわいのないものがありそれがその人で終わって他に迷惑とか影響されないならいい、その見栄が他人に甚大な悪影響を及ぼすことが恐ろしいのである。
借金が見栄のためだとしてその借金を他人に要求されて脅迫されたり殺されたりするまでなることが恐ろしいのである。
そんなになるまで借金しなくても手をうてたはずだがその人は自分が優秀だとして通っていたし成功者だとして通っていたから失敗したとは見せられなかった。
おそらくそのことは妻と子供を殺した人のように自分の全存在の否定になるからそうなったともなる。
その人は博士でもないし世界保健機構に就職した訳でもいないし何一つ優秀な所がなかったのである。それがばれたら当然妻にも子供に見捨てられることになるから妻も子供も殺して自殺したのである。


見栄とは自尊心なのだろう、その自尊心が砕かれるから恐怖なのである。
でも人間は宗教的には心理的にはそうした自尊心を一度完膚なきにとりさられるような経験が必要なのである。
それも一つの心の回心となる、宗教は心の回心にあり外見にはない
だから他人からひどいことをされても心の中で許すのも回心である。
そういう心の状態を求めたのが宗教であり外見ではない、だから本当の宗教者は外見にごたわらない、でも世間では常に外見にこだわっているのだ
その外見が見栄なのである。
どんなに家に住んでいるとか、あいつのもっている車は俺より安いとか何か比べて優越感をもつのである。
大学なども会社でも何か世間的評価がありそれが見栄ともなる
社会にでてからも学歴にこだわるのも異常である。でも世間の評価はその人の実質もっているものなどわからないから外見とか学歴とかで判断してしまうのである。


人間は自ら高くするとき卑(ひ)くくされる、だから地位とか何か金持ちでもどうしても高慢になる。自ら高くするから卑(ひ)くくされるのである
地位ある人や金持ちの危険はそこにある、そんなことを意識しなけど心の修行としては危険な状態にある、自分は偉いんだとどうしてもなりその地位や権力にこだわるからであるそれも結局一時的なものであってもそうなのである。
誰も貧乏になりたくないし貧乏になることをすすめているのではない、貧乏というのもまた人間を相当にゆがめてしまう、特に金がこれだけ力をもつと普通にみんなそうなっている。金さえあれば何でもかなうとかなる時代である。
そういう中で貧乏も人間をゆがめる、今は清貧などありえないのである。
最低限の生活を維持するのにも金がかかるからである。清水を飲み裏山の薪でご飯たくなどできないからである。
だからあえて貧乏を求めるのは今では変人になるのである。テレビでそうした人を話題にするのは貧乏は普通と今は違うから注目される
昔はみんなそういう貧乏な暮らしだったけどその貧乏に注目していた人はいない
みんな貧乏だったらみなん同じだとなり変わってもいない普通だから注目しないのであるテレビでは不幸が楽しみとして提供されているのである。
幸せな家族の風景を放送しても誰も注目しないのである。
事件とか犯罪とかともかく変わったことなら注目されるから放送するのである。
それをみんなが要求しているから放送するのである。


だから別に事業に失敗しても世間から見放されても宗教的に心からみればそれですべて終わりだとか自殺するまでもないのである。
そこで世間はどういうものか知れば回心につながる
優秀なとき金があるときは世間の人はほめたりして寄ってきたが一旦失敗するともう誰もよってこない、これが世間の正体だとか悟るかもしれないからだ
でもその前に自殺したり犯罪になるのが多いのである。
つまりこの世に生きるということ自体すでに世間から離れてありえないとするとき
見栄からも離れられない、そしてその見栄が自分だけですむならいいが必ず家族であれ他人に悪影響を及ぼす、殺される人間だっているのだから世間は怖いとなる。
自分は隠者だったから世間とかかわらないから長い間世間を知らずにすんだから良かったのである。それも家庭環境が特殊だからそうなっていたのである。
ほとんど世間と交わらずにすんでいたのである。


ともかくインターネットにはいろいろな実生活の経験を語るものがあるから有名人でなくても示唆に富むものがある。人間の経験が極限られたものであり一体それぞれがどんな仕事をして何を感じているからわからない、そうした個々の経験から語るものが誰でももっているのでインターネットは何か今までとは違ったメデアなのである。
確かに大局的に生きれば小さいことはどうでもよくなる、現代は仕事でも細分化されてもう全体が見えない、全体に機能するものがない、仕事だって金を稼ぐだけだとかなっている
戦争は否定されるにしても日本が世界を導くのだとかなるとそのために生死をかけるとなるとまずそんな小さなことにいちいちこだわらなくなるのである。
そういうものがなくなったから小さなことにこだわりそれが人間の生活のすべてだとなってしまうのである。









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