2015年11月05日

金が人間を非情化させて分断させる (原発事故周辺に極端化して現れた)


金が人間を非情化させて分断させる


(原発事故周辺に極端化して現れた)


自分の家の混乱は一人が認知症になってからはじまった。その時まともな親戚がいなかった。だから親身になる人もいない、それはしかたがなかった。
そのことで象徴されていたのが
「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ」と血相変えて去っていった女性だった。
何も世話などすることなのい関係なのだからそんなこと言う必要もないのである。
でも何か現代を象徴した言葉だった。

この辺で原発事故などで補償金でもめている。それは30キロ圏外でも40万とかもらえるので差別がありもめているのだ。人間は少額の金でももめるのである。
南相馬市では小高は避難区域になったから特別であり何でも補償されている。
一時帰宅するのにも福祉関係でも高速でも無料とかあらゆる手厚い補償がされているのである。
同じ南相馬市民なのに鹿島区はあらゆることで差別されている。原町区は30キロ圏内だからこれも補償の点では鹿島区より三倍もらっているのだ。
要するに30キロ圏内で区切ったからそこで差別が生まれた。30キロ圏外でも40万くらいでももめているのだから金で人間はもめる。

そして金で分断されるというときこれも象徴的である。
浪江の工場を経営している人が前の仲間に仕事をくれと言ったら断られた。

「よう、、、君、仕事したいけど仕事ないか」
「うう、あるけど、お前は補償金もらっているから仕事しなくてもやっていけるだろ」
「そんなこと言わないで仕事をくれよ」
「どれだけもらっているんだ、何億だ、その金をくれよ、」
「、、、、、、、、、」

これも金のために協力できない状態になった。金をもらったからといって金で解決しにくくしているのもこの辺なのである。
一方で金のために働かず毎日パチンコに行っているとかにもなっている。

「仕事しろよ」
「金あるから仕事などしたくないよ」
「どこも人手不足で困っているんだよ、働いてくれよ」
「金あるし働くとかえって金もらえなくなるんだよ、それなら働かない方がいいよ)
「みんな困っているのになぜ働かないんだ、それじゃ復興はしないよ」

実際にこの辺で除染であれ工事建築であれあれなんであれ働いているのは外部から来た人が多く未だにフレハブの簡易宿泊所はいたるところに建ち増えている。
スキヤでは時給1400円になったとかでも人手がどこでもたりないのである。
パチンコ屋通いをしている人は多いが仕事はしなくても補償金で暮らせるからそうなっている。
これも金が作り出した矛盾なのである。

例えば自分が苦しいときも同じになる。

「今自分は病気で苦しいんだよ、親の介護もあるし、苦しいんだ」
「おまえ金があるんだから金でなんとかしろ、金でめんどうみてもらへ」
「、、、、、、」

こういうふうになるのを経験している。昔だったらこんなこと言わないだろう。
ともかくそうか事情はわかるけど自分も苦しいのでなとか何か言うことがあり会話があるだろう。
それが現代は露骨に金だけが全面に出てきてそれで会話は終わりになるのである。
金でなんでも解決できると思う時代だからそうなった。
でもこの辺では補償金で分断され心も分断され協力しないのである。

「小高の人はなんであんなに優遇されているんだ、同じ南相馬市民じゃないか
もうあいつらとは口も聞きたくない」とかともなる
それが激しくなるとイワキのように行動にでてしまう。
それも補償金で高い土地を建て新築の家を次々に建てればうらやましいとなる。
だからそこでも協力はしないのである。
金でめんどうみてもらへ」というとき金が何でも解決してくれる万能化してしまっているからそうなる。

結局避難区域では復興とか言っても子供などは帰らず老人だけが残る、それも今なら補償金をもらって他で暮らした方が得だとなるからである。
故郷にこだわらない、老人はこだわるけど若い人はこだわらない。

「一億円やるからそれで解決してください」
「じゃ、俺たちは故郷を出て他で新しい暮らしをするよ」

つまり金で解決しようとしたら結果的にはそうなる。復興するというめんどうなことにかかわりたくないとなる。それでいち早く原町や鹿島に家を建てた人もいる。

要するにまず金が全面にでてきて復興といっても何かこの辺の地域では協力関係にならないのである。
でも本当に金で何でも解決すればいいが実際はそうなっていない、それはここだけの問題ではない、金で何でも解決すらならいい、人間の問題はすべて金で解決しない
だから家族のない独身者は金をもっていても悲惨になることを書いた。
家族がないということで病気になったりしたら様々な不利益をこうむる。
病院で身寄りのない人は実験台にされるとか現実にある。

ただ全部金が悪いとかいのではない、金で助かる人もいるし金の効用が大きいから否定できない、その金の効用があまりに大きくなるのも問題だったのである。
金が介在することで人間と人間の対話もなくなり非情化してしまった。
それはすでに貨幣が発明されたときからギリシャで紀元前7世紀からはじまっていたのである。貨幣の弊害がそれだけ歴史があり古いのである。
現代はその極限の状態に突入している。グローバル化したとき特に世界がそうなってしまったのである。

それでエジプトの奥の方でロバに乗った少年がワンドーラーくれと叫ぶ、アフリカの果てまでそうなっているだろう。そこまでドルが通用すること自体ありえないことだったのである。
今やこの辺でそうした金のことが極端なものとして意志疎通できなくさせている。
お互いに対話もない、お前ら補償金をたんまりもらっているのだから話し合うこともない「金でめんどうみてもらへ」となって対話も何もできないのである。
何かみんなで南相馬市民で問題を解決しようとよう気持もくなっている。
ただ外部まかせでありあとは何もしない、パチンコ屋で遊んでいるだけだとなる
そんなことで復興できるのかとなる。かえって金がいい方に働かず悪い方にも大きく働いたのがこの辺なのである。


タグ:金でもめる
posted by 老鶯 at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

人間の経験は限られているから困難に対処できない (相手のことを理解できないから同情もしない)



人間の経験は限られているから困難に対処できない

(相手のことを理解できないから同情もしない)


人間の老人になればわかる、個々人で経験することが極めて限られている
ほんのわずかなことしか人生では経験できない、それぞれの一生でもそうである。
だから原発事故のとき、吉田所長が肝心の復水器のことを知らなかったというのは
外部から見ればそいなことがあるのかと思った。
普通だったら外部から見れば所長となれば全体を指揮するものだからそれを知らなければ指揮しようがないからだ。
管首相が理系の大学をでて原発も知っていたから「自分は原発を知っている」と叱咤して命令した。でも実際は原発のことをすべて知っていたわけでないから過ちがあった。
旭化成の社長でも薬学部出身であり建築のことは門外漢だとなって指揮はできない
もう今の社会はそうして分野が違うとわからないとなる
それでふくきょうこう手術で十人とかの死者を病院で出したがそれも手術する人の分野が違っていてうまく意志疎通できなかったと言っている
そもそも複雑に分化した細分化した社会は意志疎通ができなくなる社会である。
それはますますそうなってきてもう互いが異星人のようになってくる。
それは常に起きてきたことだけど社会そのものが互いが異星人化しているのは現代である

職業でもあいつは何をやっているんだとかなかなか理解できない、簡単なものは理解できる、原発で働いている技術者のことなど理解できない、そこは秘密のベールに閉ざされた世界である。理系と文系の分離も極端になったのも現代である。
人間と人間が意志疎通できない時代だから人間疎外とう言うことが言われる。
相手の立場にたって意志疎通できない、理解できない社会である。
何か仕事するにしても一人一人のお客さんの顔が浮かんでくるとか従業員の一人一人の顔が浮かんでくるとかないだろう。
一人一人はロボットが機械のように見えているという方が適切だろう。
だからこそ非正規の社員が膨大に増えたのである。それは部品のように取り付けてまた切り離すだけである。それは一個の人間として見ないから見れないからそうなる
便利な道具であり部品でありいつでも部品としてとりつけてまた新しいのを取り付けるとかいうのが雇用になっている
特に終身雇用がなくなれば余計にそうである。


そもそも人間が生きることは時間をきりうりすることではない、時間をその人の人生のために使われるべきであり会社の部品化として時間を消費させるべきではないというのが理想である。
それぞれの時間はその人のためにその人の人生を生きるために与えられているというのが理想なのである。
ただそれだからといって会社で働く時間が無駄だとはならない、そこで経験するものはやはり人生を作るからである。
社会で何も仕事を経験しない人は何か欠けているようになる
ただ人間は完全な人間はいない、必ず何か欠けている、それは人間は経験することがわずかだからである。ほんの一部しか経験できないからである。
どうしても人間の視野は必ず狭くなっているのだ。
都会に住む人は田舎に住む人を理解できない、漁師と山に住む人は海彦山彦のように古代から理解できないことがあった。それは人間として常にあったことである。
そういう物語が伝説でも神話でも昔話でも多いのはそのためである。
柳田国男の「遠野物語」でもそうした理解できない人が神秘化されていることでもわかる

例えば世界情勢でもいくら解説されても理解しにくい、要するに外国になると実際に経験することが少ない、本を読んだとしてもわかりにくい解説されてもわかりにくい。
自分がシリアで関心をもったのはトルコの宿で中年の日本人がいてその人が実際にシリアに行って盛んにシリアの人はいい、素朴だと言っていたことである。
それはその場で聞いたことでありシリアについては全く知らなかった。
それはラオスについて同じことを言う人がいた。それはなぜなのかというと日本で言えば江戸時代のようになっている。
外国の悪いものが入ってこない、貧しいけど素朴な人間が暮らしているからそうなる
つまり江戸時代が外国の人が見たとき平和な幸福そうな顔していたというときそれは別に日本だ下ではなかった、文明人が入ってきたときそうした素朴さは失われた。
ブータンなどもそういう素朴な社会が残っていることで人気があった。
文明とは様々な物欲を刺激する社会である。すると金が唯一の価値になってしまう社会なのである。その時人間はもう金しかないとなっているのが現状である。
田舎が素朴などということはもうとっくにない、この辺では原発があるときも金のことしかないし原発の後も補償金でもめているだけなのである。


その人はあらゆることをどう見るかは極めて限られた経験と視野でみているのである。
世界情勢になるとますますわからないからテレビなどで一方的に洗脳されやすいのであるなぜならシリアでなぜあんなに難民が出ているのだ、シリアって何なのだとなるとほとんどわからないからである。たまたま自分はトルコでそういうことを聞いていたからどうしてだろうとなった。
社会主義政権で外と余り交わらず欧米の文化が入らないから素朴な人が多いと今では思う欧米の文明がすべていいものではない、悪いものも大量に入ってきたのである。
トルコだろうがインドだろうが中国人だろうが外国人の観光客となる普通に金をふっかける、それは貧乏だからでありでも何か素朴ではないとなる。
観光地になると余計にそうなるのである。だまされるのが普通だとなる。


人間は経験で学ぶのが一番体で覚える、でも本とか知識が間接的なるとなかなか理解できない、外国でもいくら本を読んでもわからない、その土地の広さとか川の大きさとかいろいろテレビとか本だけでみてはわからないのだ
だから百聞は一見にしかずなのである。自分は外国に行ったのが50代だから遅かった。
それが大失敗だったとなる。外国に行ったことがない人が外国を語ることはできないのである。
でもなんとか要所は回ることができた、もう介護になったら行くことすらできなくなっていた。
外国では実際にアルジェリアの日本人が油田で働いていてテロで十人くらい死んだのには驚いた。そこにスヘインから船で入って働いていた人を知っていたからである。
今はそういう外国とかかわる人は日本人でも多いのである。
そういう人と直接会ったということは関心が違ってくる。これも経験である。
この十年間は一身上で病気とか介護で経験を積んだ。これも病院は何かとなると経験しないとわからないのである。
自分は病院を自分は身寄りがないから恐怖を覚えるようになった。家族もいない人が入院したら悲惨なことを身をもって経験したのである。
これも経験しないとわからない、人間はつくづく経験しない限りのんびりしているのである。
津波だってこんな経験して家族を失った人は一生忘れられない、その経験から何もいらないとか欲すらなくなった、それは死んで人たちがこれだけいて自分が助かったことだけで良かったとなってしまったのである。これも普通に経験できないことを経験したのであるともかく人は経験したことからあらゆるものをみて判断することが多い。
何かを経験しない限り人間は理解できないから視野狭窄に陥るのである。


頼るってのは、何もお金のことじゃない。 
病院まで送り迎えしてもらったり、施設の見学に付き合ってもらったり、 
入院の保証人になってもらったり家から着替えを持ってきてもらったり 
というようなこと。独身だったら、すべてお金で解決せねばならず、 
それが高くつくんだよ。


このことを痛切に経験した。結果的には病気になり独り身で大金を失った。
いかに人間が非情か、他人が信用できないか知ったのである。
そんなことお前は世の中のことを知らないからのんびりしていたんだと言われればそうである。
でも人間は体験しない限りあらゆることを理解できないのである。
ただこういうふうに考えがある人はやはり賢いというか人間を知っているとなる
人間はこういうことは家族なら当たり前だが他人になれば全く違ったものとなる
金で頼むにしてもそれは高価なものとなる、結果的に自分の場合は大金を失った。
もう金だけではこういうときはどうにもならないのである。
だからニートとか何か独身者が増えているがこの人たち最後に悲惨なものとなる
この世で家族がいないことはどれだけ悲惨なのものか知る。
もちろん家族があっても悲惨なことはあるがやはり家族のない悲惨はこの世を生きるのには最も厳しいことかもしれない。
ただそういう覚悟をしている人は独身者には少ないのである。


この辺で起きた原発事故でもそうである。補償金でもめているが「前の仕事仲間に仕事くれ」と言ったらあなたは補償金もらっているから仕事なくてもいいだろうと仕事をくれなかったというのもそうである。
確かにその金は事業していればかるく億の金になるからそう頼まれた人はうらやましいとなるだけである。
そういうことは他にもいくらでも起きているのがこの辺である。
かえって金が互いに理解させなくさせているのである。
極端になると「金でめんどうみてもらへ」とすべてなりやすいのが今の社会である。
そういうこともこの辺では極端なものとして起きている
金があるからいいじゃないかということで互いに理解できない、同情もしない、心は離反しているのである。
金がたがいを理解させない、離反させるものとなっている。
金の問題がなければお前困っているのか、一緒にしごとした仲間だから仕事を与えてやるよとかなり協力関係になったことは確かである。