小高の菜種油「浦里の滴」生産販売
(復興になるのか?-地域の特産物を作るのはむずかしい)
テレビで放映した菜の花が放射性物質の影響を受けにくいということで田んぼだったところに菜の花にして菜種油をとることにした。
その名前が浦里の滴である。福浦だから浦里になった。
米も試験的に作ったが放射性物質の影響がありうまくいかないとかなった。
そもそも米というのはずっと余っていて困っていた、それで余計に放射能の影響があるとなるとまず売れない、飼料の米とかなるだろうとか言っている
現代の経済は昔のような江戸時代のような自給自足経済ではない、絶えず物がいくらでも全国から世界から入ってくる、だから米がとれなくてもいろいろな米がいくらでも入ってくる、そうすると地元の米というより新潟産だとか秋田産だとか最近は北海道の米がうまいとか全国から米で入り選ぶことになる、農産物は全国的競走の中に否応なくさらされている
それは米だけではない、味噌にしても全国の味噌がスーパーに並ぶ、自分はめんどうだからダシ入れの味噌を使って味噌汁を作っている、地元の味噌も置いてあるが買っていないこれも地元にとって困ったことでもみんなどこでもそうなる
地元が繁栄しないと地元に生きるものにとっては困っても便利だからそうしてしまう
なんか知人が蔵王の米を買ってくれと言われてしかたなく買った、これは義理で買った。一人になると精米したものを一袋とか買った方がいいのだが義理で買う、それがやはり地元に生きるとそういう義理が生れるからどうにもならない
菜種油にしてもこれも別にここだけで作られるものではないしすでに各地で作られているからここだけのものを作ることは最初からむずかしい、だから搾るのできないので前からしている業者に頼むとかなる、自力できない。
菜種油の面白いのはもともと菜種油は江戸時代が広範囲に作られていたのである。
昔は油は食べるためのもんじゃなくて行灯(あんどん)の火に使う貴重品だった。
日本の油についてはここに詳しく説明されている。
「油を売る」とかが
先 生「菜の花の実の菜種を絞って油をとります。油を売る人は,買う人の
器に,ほそぼそと油を注ぐので,注ぎきるまでに時間がかかります。
その途中,なすこともないので,むだ話などをして時間をつぶしていました。」
そんなようすを表した言葉がありましたね。
カメオ"油を売る"という言葉ですね。
今はこんな言葉を使わない、酒でも樽から注いで売っていた時代があった。
そういう不便な時代はかえって人間と人間のコミニケーションが生れる
例えはこの待つという時間が意外と貴重なのである。
電車というとき駅舎がありホームがあり待つ時間が必ずある。それは五分とか待つ時間でもそれが電車である。電車がくるのを待っている、線路が伸びていてそれが何か旅情になる。
自分は電車の旅が長いからこうして電車で待っていることが多かった。
それが今ではなつかしい思い出となっている。
現代はこの待つ時間も失った。まず新幹線だと待つという感覚がなくなる
バスでも飛行機でも待つ感覚が生れないから旅情かないのである。
駅舎に電車を待つや秋薔薇
そのことはさておき。精製したものが白絞油(しらしめゆ)で食用油に
なる。搾り取った油粕は素晴しい肥料になり、肥料になるというのも重要である。
農業で一番苦労しているのが肥料である。鶏糞が安いから肥料にするとか肥料なしで農業は成り立たない、だから菜の花を農家で作りそれを加工して油にしてまたその油粕を肥料にするリサイクルが生れていたのである。
ともかく江戸時代から戦後十年でも自給自足が基本だから無駄にするものはなかった。
ともかくそういう時代は何でも貴重だった、油は特に貴重だった。
そもそも行灯に菜種油を利用したというときその灯自体が貴重なものだった。
それは長く使えば油を多く使うからもったいないとなる。要するに何でももったないとなるのが昔だったのである。
今でも貧乏になると電機を節約したり水を節約したりしている
それと同じ感覚なのだが電機は相当に無駄にしている
油というとき今はオリーブオイルも人気である。それで磐城ではオリーブを作りオリーブオイルを作るのに成功した。緯度が地中海沿岸と同じであり温暖だから適していたという、でも乾燥地帯にできるものだから水はけが悪いのでうまくいかなかったと言っている。外国はヨーロッパとかでも乾燥地帯が多いからそうなる
オリーブはヨーロッパではどこでも作られている、イスラエルのゲッセマネに樹齢千年くらいのオリーブの樹がある
「ゲッセマネの園」に入場した。ゲッセマネとはヘブライ語で油搾りを意味する。昔この辺り一面はオリーブの木が植えられており、オリーブの精製が行われていた場所である
これだけオリーブオイルにも歴史がある。
農業というのはそもそも歴史が長い、工業の歴史とは違う、だから磐城でオリーブの樹を作るのに6年とかかかり油を搾った。そもそも自然相手の仕事は時間がかかるのである。
だからとても簡単に菜種油でも作れないと思う。その土地土地の気候風土も問題になる。その土地独特のものを作ればそれは単に食料とかではなく文化となる。
まさにcultur-cultivate(耕す)ものとなる、農業がそもそも文化だったのである。
農業が自然相手であり文化も土に根ざすから長い時間がかかってできるものでありとても即性的にはできない、そこに農業の問題がある。何か特産物を作れと言っても簡単にできないのである。
それで面白かったのは鶴岡のだだちゃ豆である。
栽培する土地が合わないと風味が落ちてしまうことから、生産地が限られている。収穫期も短く、保存も困難だったため、長らく幻の豆と呼ばれたが、
だだちゃ豆は明治の後期に誕生したとされる。当時の大泉村白山に帰農した士族、森屋藤十郎の娘初が、隣村の寺田から貰い受けた早生種の茶豆の種を畑に植えたところ、なかに晩生で味の良い豆があったため、その種を大切に保存して自分の畑で増やしていき、現在のだだちゃ豆のルーツとなった藤十郎だだちゃを育てたという
だだちゃ豆の種は門外不出!食用のだだちゃ豆とは別に種取り用に栽培して、長年伝えられた味を伝承しています。
農業で大事なのは肥料と種である。この種が高いと趣味で畑をしている人は常に言っている。種がいいものでないといい野菜も作れないのである。
その残された種が貴重でありそれが特産物となったのである。
だから何か簡単にその土地の特産物が作れないし生れないのである。
小高ではその福浦でも家を壊していた、竜田駅前でもリホームするのかと思っていたら家を二軒壊していて更地になった所をここは自分の家があったところだと言って老婆が帰ったりと帰らない人が多い、子供に従うほかないとなり外に出て行く人が多いのである。
この菜種油は一つの復興の希望として作られたのだがこれを売るとなると高くなるし他と競走しなくてはならないとかまたむずかしい。
でも米がとれないとなると一つの復興の希望として託されたのである。
「菜の花や月は東に日は西に」蕪村
山村暮鳥の詩にもいちめんのなのはなという詩がある。菜の花が一面に咲いている風景は日本の風景かと思ったがギリシャに春に行ったときそこも一面の菜の花であり遺跡も菜の花に埋もれていた。ギリシャの遺跡は花に埋もれいるから美しかった。
そこはスパルタのあったペロポネソス半島である。
質実なスパルタと菜の花があっていたかもしれない、他でも菜の花は咲いていたのであるいづれにしろグローバル社会になると世界視野で何でも見なければならない
農業すらそうでありそうなると世界的知識も必要になるがインターネットではそれで役立つのである。
インターネットは知識社会にふさわしいものだったのである。
鶴岡ではテロワールを重視した地域作りをしている。今でも焼き畑をしていたというのは驚きだった。
スパルタの故地に菜の花一面に
テロワール(Terroir)とは、「土地」を意味するフランス語terreから派生した言葉である。もともとはワイン、コーヒー、茶などの品種における、生育地の地理、地勢、気候による特徴をさすフランス語である。
この菜種油のことで名前のことで工夫していたが「浦里」というのは霞ヶ浦とかにありそこも浦里とインターネットにでてくるからまぎらわしい、
やはり今はインターネットで同類のものを探してダブルないような工夫が必要だった
インターネットは年配の人はやらないから情報的には欠けていたとなる
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