2015年11月16日

フランス革命の世界的影響 (日本はアメリカ型でありフランスの理念が欠けていた)


フランス革命の世界的影響


(日本はアメリカ型でありフランスの理念が欠けていた)


「非宗教」が国是

フランスはまた、「非宗教」が国是である。公共の場でのイスラム教徒の女性のスカーフやブルカ(全身を覆った衣服)を禁止した通称「スカーフ禁止令」は決して「信教の自由」には抵触しない。この法律ではユダヤ教のキッパ(男性がかぶる小さな皿状の帽子)もキリスト教の大型の十字架も禁止されている。服装などによる宗教的規律から解放されるがゆえに《自由》であり、宗教的外見から無縁であるがゆえに《平等》であり、信仰とは無関係な市民的空間を構築できるがゆえに《博愛》だからだ。


フランス共和国は、1789年7月14日に起きたバスティーユ牢獄への襲撃事件に端を発する一連の革命により成立した国家であり、「自由・平等・博愛」という建国の理念が国の標語となっています。。宗教については世俗主義(ライシテ)を採用しており、いかなる宗教であれ政治への介入を拒んでいます

このような価値観の影響圏は、フランス語圏のみにとどまりません。イタリアやスペイン、中南米などラテン系諸言語を使う国は、歴史的にフランスの影響が強かったことがあり、このような価値観の影響を受けており、そのような伝統的なつながりの中で社会的連帯経済という概念が、フランスから諸外国に広がっていった経緯を忘れるわけにはいきません

デモクラシーの学校は、市場社会において競争力のある個人を養成することが任務であり、市場原理は教育においても有効であるだけでなく、市場経済に適応できる人間を養成して社会に送り込むポンプとしての役割が重視されることになる。



世界史の中でフランス革命は影響があったしそれが現代社会の先導役となり理念となった近代社会が作られたものはフランス革命で標語化したものである。「自由、平等、博愛」である。それは意外と思うごがネットからの引用でもそうなっている
ヨーロッパだと何かキリスト教一色にみえる、どこでも教会が立派な大聖堂があるからそう見える。それがキリスト教を重んじてもそれが否定されたのはカトリックが政治支配したことがあまりにも強くその反発からその理念が生れた。政教分離もそうである。
共和国とアメリカ的民主主義が違うというのもなかなかわかりにくいだろう。
共和国という概念がわかりにくいからである。
わかりやすいのはアメリカ型の民主主義である。これは日本ではそうであり現実生活に戦後はアメリカに支配されて浸透しているからもう肌でわかる。
日本はすでに日本人ではない、アメリカ人だというときそうしたアメリカ型民主主義を採用したからである。


そこで個々人の激烈な競走てありフランス革命のような共和国のような理念とも違うのである。アメリカ型民主主義には平等、博愛はない、自由を追及するが個々人の利益を追及するだけである。民利主義である。ひたすら民衆の個々人の利益を追及するだけである。だからこの辺でただひたすら個々が補償金をもらえばいいとしかならない、共和国というか共同体をどうして維持するかなど眼中にもなくなっているのだ。
個々人がただ私益を追及して肝心の市町村をどう建て直すのかという視点がない
補償金もらって若い人は外にでる、残る老人も年金代わりに補償金をもらえばいいとしかなっていないのである。そこに昔の村の連帯もなにもなくなったのである。
だからフランス的共和国の理念とアメリカ的民主主義が違ったものであり日本はアメリカ型になりすぎたのである。
共和国的な市民とか新しい共同体の再構築が必要になっているのだ。


フランスとかヨーロッパを見るときこれも相当な誤解かある。キリスト教の国だと思ったら宗教を否定する理念から新しくフランス国が建国されたとなる。
それを習ったのがトルコであり世俗主義になり政治と宗教を分離したのである。
それ故にEUにも参加したいとなったのである。
博愛というときそれはキリスト教の愛とも違っている。それはキリストがソマリア人を異邦人を助けたこととにている。その時ユダヤ人の宗教から万民の宗教へ変化して世界に受け入れられるようになった。ユダヤ人だけの宗教だったら世界宗教にはなれないからである。
さらに世界に受け入れられるにはカトリックという固陋な政治支配の宗教を否定せねばならなかった。それがフランス革命だったのである。
その理念が大規模なテロでゆきづまったというときそれはなぜなのか?
自由というときその自由の中味である。人間があらゆる自由が許されるのか、人権主義というときも人間としてあらゆる権利が認められるのか、自由に制限がない、それは結局混乱をもたらす。様々なカルト宗教団体も公然と跋扈して社会を動かす、それは自由にしても政教分離の法則も適用されていない、宗教分離の下に宗教の自由が許されているのだからそこには制限がある、なんでも自由ということでもないのである。


自由というのが近代化で求められてきた、それが世界的にもそうである。でも自由というときあらゆるものが自由となりうるのか?国境をなくしたら貧乏な国から大量の移民は流入してくる、そしたらそれをとめるためには殺さなければならないまで追い詰められる
人権主義になればかわいそうだとなり無下に殺すわけにもいかない
そういう深刻な矛盾にシリア難民などで世界は直面しているのである。
自由だといっても国を捨てるのも自由だとなるのか、国を捨てる自由もある、国に残る自由もある。自由は各人が選ぶものだというのも成り立つのか、それならはじめから国籍を与えない方がいい、国籍のない民族もいてその人たちのようにすればいいのである。
国籍には責任も強いられているのである。戦争になったらやはり国のために戦うことが強いられる。簡単に国籍は取得できないからである。フランスでも移民に国籍を与えたらフランスに敵対する行為したとなると見直される。在日しても常にそのことが言われているそれぞれの国があって歴史があって発展したきたものを否定して国を捨てて豊かな国に移ろうとしたらその国の人に拒否されるのはしかたないことである。
あくまでもその人たちの自由は制限されるのである。
だからなぜシリア難民はその国にとどまりイスラム国でもなんでも戦わないのかとか言われる。そんなに簡単に国を捨てていいのかとなる。








posted by 天華 at 09:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

南相馬市の「脳卒中センター」は放射能で脳卒中が増えるから? (また一人くも膜下出血の人がでた、医療の発達で介護の負担が増える)


南相馬市の「脳卒中センター」は放射能で脳卒中が増えるから


(また一人くも膜下出血の人がでた、医療の発達で介護の負担が増える)

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鹿島厚生病院ー「郷土愛[とあるのもいい



南相馬市にある市立総合病院に脳血管疾患に迅速に対応するための「脳卒中センター」が建設されることになり、16日、関係者が建設予定地で工事の安全を祈願しました。「南相馬市立総合病院」は、相双地域の医療の拠点となっている病院の1つで、震災と原発事故後、長引く避難生活によるストレスなど(ここはあいまいに誤魔化しているがはっきり言うと放射能の影響と考えられる)が原因と見られる脳血管疾患の患者が増えていることから、迅速に対応するために「脳卒中センター」を整備する計画です。


鼻血と、脳出血(くも膜下出血)どちらも、血管が原因。0.3マイクロシーベルトを越えると心臓発作やクモ膜下出血等リスクが急に増える


0.3ではこの辺では普通にある。自分の所は0.2である。0.3となるとそんなに影響があるのか?科学的根拠があるのかとなる。
南相馬市では小高や原町や鹿島でも相馬市でも0.2が多い、ただ相馬市の市内で0.5があった、でも今は減っているだろう。場所によって違っている。
脳卒中が増えたのは放射能が原因しているのかどうかわからないだろう。
ただ避難者にストレスがありそれで死んでいるとは聞いている、こっちの方が原因になっていることが多い。
この辺でどれだけの人が脳卒中になっているのか?その辺の統計が必要になってくる
医療関係では調べているだろう



町村信孝さん70歳=前衆院議長

この人は良くテレビなどに出ていたけど死んだ、七〇才は早いだろう

同級生の人が脳梗塞になり体が麻痺したが軽かったのか、頭は正常だった。
それで助かったと思う、ろれつが回らなくなったりしたら悲惨である。


今日は病院に行ったらくも膜下出血の女性がいた。86才とかでその息子が
三食食べさせていた。
脳出血になると自分で食べられないから食べさせないといけない、そういう介護している男性をテレビで見ていてあんなふうになったらひどいな、付き切りで何もできなくなると見ていた。
その人は金もなく仕事をやめて新聞配達して介護になった。
介護はいろいろだけど増えるのはなぜかというとくも膜下出血になったら昔だったらほとんど死んでいると思う
脳出血自体死んでいる人が多かったろう、今は医療が発達して生き延びる
自分の姉も脳出血になって南相馬市立病院に入院した。
それは原発事故前だった。


脳出血はやはり多い病気である。これの怖さが脳をやられることである。
一人の女性はしゃべれなくなりわんわんと泣いていた。
60代でなるのと70代でなるのと80代でなるのはまた違っている
60代だとまだ何かできる年だからつらい、今は70代でもそうである。
脳出血の治療がすすんでいるから今はすぐに死ぬ人はまれかもしれない
その人は40分内に病院に行って助かったとか言っていた。
同級生は2時間内に行って助かった。時間が勝負なのである。
こうしして助かるのはいいが介護の負担が大きくなる
あのように家でも毎日三食用意して食べさせねばならないのは苦労である。
その人は役場に勤めていて退職したからまだいい方である。


医療が発達していい面もある。でも脳出血でもそのまま死んだ方が本人も楽だし世話する人も楽だと経験から思う、そして介護する期間が長くなるからである。
皮肉なのは医療の発達が介護を長くさせ医療費の負担を増大させている。
そうして老人の数も増えるし医療の進歩でさらに長生きして介護の負担が増えて金もかかる、だから医療の発達は何なのだろとなる、ただ50代とかでもなり助かっている人は医療の発達の恩恵を受ける
でも80以降とかなるとそのあとがかえって辛くなるのである。
母ももう点滴しないと死ぬ、それで点滴したくない、死にたいと言っている
もう百歳も生きたからいいと言っている、まだ何か意識があり正気になっているのも不思議である。


おそらく二人が助かったのは南相馬市立病院では手術がうまい脳外科が優れているからだろう。及川副院長が手術がうまい、それは前から言われていたしそれで若い医者は九州とかからも習いに来ているのが強みである。
近くで知っていた人がもし男性一人だったら三食たべさせて介護となると苦しいと思う
ほとんどつききりになるからである。
自分はそこまでならなかった、三食出しても自分で食べていた。
ふりかえれば水だけを飲んでいて水も飲めなくなったら自然に老衰死になっていた。
それを点滴にしたからまた生きているのである。

水分と最低限の栄養素だけ点滴で賄えれば、何年も生きる方もいますよ。
自発で呼吸ができず人工呼吸器をつけ、点滴だけで数年生きて、数年ぶりに目覚めたといった話を聞いた事はありませんか?

KN3は維持薬ですね。水分の維持をする為のものです。これだけでも生きられますが、胃ろうができない方に高カロリーの点滴を使う事もありますが、高齢でその状態ではちょっと難しいかも知れませんね。

こういうこともある。つまり前も入院して点滴してまた食べるようになった。今はこれだけどうしても寿命を伸ばすのである。点滴がいかに効果的なものかわかる
食べられなかったらもう人間は終わりだったが点滴で寿命が伸びる、そしてまた生きるから医療費もかかるし国の負担も増えてゆくのである。
寿命が伸びることは悪いことではないがそれによる負担がさらに増大してゆくことが問題なのである。


この人は何かそれだけ長生きする意味があるのだろうか、苦労をかけて国にも金を負担させる意味があるのだろうか、なんかこうもふえてくると考える
医者ならともかく手当てをせざるをえない、簡単に死なせることはできない
大正生れとか戦前生まれは苦労して日本を築いた人たちだから大事にせねばならないとか言われる、団塊の世代でも高度成長時代を作った人だからとも言われるがあまり評価はされないので早く死ねと若い人たちは言う、そういうのはやはりそれだけ生きる価値があるのかと問われているのだろう。
それは個々人にもあり家族でもあり社会的にもある、そんなことは外からみてわかりにくいが普通なら考えないがあまりにも増えて社会的負担も大きくなるから考える
その労力と負担が大きすぎるからである。


なんか母は葬式のことを盛んに言っていた。それが最後に言いたいことなのか、そんなことを言うことはすでに葬式して死ぬ準備もできているから点滴をとれと言っているのである。もう死にたいと前から言っていたからである。
何か死なせられないのも今の問題である。
ただ人間は無意識になったとき死んだと同じである。そういう人はいる。植物人間のようになって何年も生きる人もいる、そうなるとその人は生きているのかとなる
人間は意識があれば生きている、百歳でも生きている。まだわかっているから生きているとなる、意志疎通もなんとかできているから生きている、無意識になればもう意志疎通ができないから死人なのかもしれないとなる
若い人なら植物人間から生き返ってとかあるけど80とかすぎるとそういうこともないだろう。


これから団塊の世代が介護になるときもう介護できない、そうなるとどうなるのか?
放置されて死んでゆく、原発避難区域に帰るのは老人が多い、単身所帯とか二人所帯とか多くなる、そして子供は介護したくないから帰らないとか姑と一緒にいたくないから帰らないとか言っている。
では残された親を誰がめんどうみるのか?なんらか引き取ることも要請されるだろう。
これもまたこの辺の問題なのである。

タグ:脳卒中

2015年11月17日

フランス革命の理想、「自由、平等、博愛」が挫折 (理想は厳しい現実を克服してこそ実現される)


フランス革命の理想、「自由、平等、博愛」が挫折


(理想は厳しい現実を克服してこそ実現される)

過激派組織「イスラム国」(IS=Islamic State)による同時テロに見舞われたフランス政府が、再発防止に向けた対策に乗り出す。テロの温床になりかねないとみる反政府的な国内モスク(イスラム教礼拝施設)の閉鎖を命じる検討に入ったほか、危険人物からの仏国籍の剥奪などの法改正案も浮上している。テロの芽を事前に摘み取る 

人間は本当に理想と現実で苦しむ、いくら高邁な理想をかかげても挫折する。フランス革命の理想でも共産主義の理想でも悪いものではないしマルキシズムでも悪いものではないそもそも理想と現実で人間は苦しむようにできているのだ。
理想はお花畑だよなとか世間を知らないからだよなとか言われる。
それはどこの社会でも若いときは理想主義者だが年取ればリアリストになる。
理想が厳しい現実の前に打ち砕かれてしまう。
そういうことは推理小説でも良くでてくる、弁護士が理想に燃えてその職についても金のために汚れてしまう、何か権力者の金持ちの用心棒のようになってしまう。
そうした相剋の中に人間はそもそも置かれているのである。
フランスのかかげる「自由、平等、博愛」という理想が悪いものてはない、でも自国民が無惨に殺されたらその理想も打ち砕かれる、激しい憎悪となり戦争になることも辞さなくなる。

別にそれは国という大きな単位でなくてもどこの社会でも個々人で理想と現実の相剋は矛盾は起きている,なぜ左翼系が批判されるかというと現実の厳しさを見ていないからである。もちろん右翼でもカルト宗教団体でもそうである。
理想と裏腹に権謀術数のみを働かせている、一体これは何なのだろうとなる。
そして常に陰謀が裏で働いているとかなる、誰かが裏で動かしいる、それはオウムの時もそうでありイスラム国でもなぜかアメリカが裏で武器を供給しているとか言う
誰かが武器を供給して金を供給しないと戦争はできないからである。
大陸ではどこからでもモノでもカネでもヒトでも入ってくるからなかなか殲滅できない
日本だと海に囲まれているから入りこめないから有利でも海を閉鎖されるとモノも入ってこないから日干しになり太平洋戦争は負けた。
大陸は戦争でも陸続きだから拡散しやすいのである。
だから領土が国がモンゴルのように世界的にたちまち拡大したり縮小したりしているのが世界史である。日本だと海に囲まれているからその辺がわかりにくい
異民族が侵入してローマ帝国が滅びたというのもそうである。
大陸は陸続きだから変動しやすいのである。


人間はとにかく理想と現実の狭間で常に苦しむ、理想をかかげても厳しい現実の前に打ち砕かれる、実際は別に理想をかかげることは悪いことではない、ただその理想を実現することは現実になると様々な障害がありそれを克服せねばならない、必ず障害がありそこで民族間でも離反があり苦しむ、そのように今フランスはなっている。
自由が不自由になり平等が不平等になり博愛が激しい憎しみになる。
こういうことは人間では個々人でも良くある、いくら愛しなさいと言っても結局自分が殺されるような目にあったり犯罪にあったら一変して復讐心に燃えるだけになる
愛しなさいなどというのは誰でも言うことできる、そんなこと説教することは誰でもできる、それを実行することがむずかしいのである。
キリストはそれを全部実行したからまねのできないのとなった。
愛というとき十字架上の愛である、愛といってもたちまち今回のようなことがあれば崩壊する。、目に目を、歯には歯になってしまう。
キリスト教とイスラム教の戦いは十字軍時代からだから古い、それをまだひきづっているでもそれを克服しようとしたがのフランス革命の理念だったのである。

人間は争いつづける
血を互いに流しつづける
その原因は何なのか
それはすでに千年もつづくのか
その争いの中から真の平和が生れる
憎しみは消え融和が生れる
その時こそ平和を本当に知る
それまで人は争い血を流し続ける
真の平和は訪れるまで


平和を知るために争い、愛を知るために憎しみ合い、合同するために離反して争う、、、それが人間だった。人間の理想というのはもし簡単に実現したらまた簡単に崩壊する。
その平和と理想が血でもって作られていないからである。
日本が戦争しないというときヒロシマで原爆の被害にあったり300万人が無惨に死んだりしたから戦争はこりごりだとなったのである。
そういう経験から戦争だけはしたなくない、戦争だけはするなと戦争した人が一様に言っている、でもまた戦争に憧れる若い人がでてくる。戦争の悲惨さを知らないからそうなる要するに人間は経験からしか学べないのである。
それは個々人の人生でもそうである、辛い経験をしない人はわからないのである。
ここ自分は十年間そうした経験をしてきたから現実を学んだことは苦しかったけど人間とはどういうものか、理想と現実がどういうものか身をもってわかった。
こういうことは言葉だけでは本を読んだだけでもわからない、自ら血を流してわかるものなのである。

タグ:理想と現実
posted by 天華 at 17:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2015年11月18日

最近面白い30年前とかの推理ドラマ (請戸、夜ノ森駅、相馬港、塩釜を舞台にしていた)


最近面白い30年前とかの推理ドラマ


(請戸、夜ノ森駅、相馬港、塩釜を舞台にしていた)

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5年ちかく時がここでとまっている


1号機沸騰水型軽水炉 (BWR-3)Mark-11971年3月26日46.0万kWGEGEGE約390億円

最近40年前とかの推理ドラマをBSで放映している。今回は請戸中心を中心にして塩釜まで舞台が広がっている、これになぜ興味を持ったかというと津波でこの辺は大被害を受けたからである。そもそももう請戸港は壊滅して何もないし立ち入り禁止区域にもなっている原発ができたのは44年前だった、その時原発景気でその水商売の女性が浪江の請戸に来ていた。その前は塩釜でありそこで請戸の船乗りと出会っている。
その時の原発景気は相当なものだったろう。
今はこの辺で外部から除染作業員などが一万人も入っているという、いたるところがプレハブの簡易宿泊所なのである。
そして地元の飲み屋で対応できないから韓国のバー原町にできたという。
まず外からくる除染の人は全国である。北海道の人もいれば九州の人もいる。
こういうい人たちが集まり方言で話したらおかしなことになるだろう。
どうしても訛りが出てくるからである。


原発景気というとき大熊とかあの辺は塩田があり塩を東京に売りに行ったとかそんな時代があった。
それで話の面白い小高の人は原発で働いていたのが戦時中塩がなくて釜で塩を焼いた話をしていた。そんなことで塩がとれるのかと思ったがとれるのである。
塩焼くにも燃料が問題になる、それだけの燃料を用意するのが容易ではなかった。
原発景気のときあの鹿島の加藤建材が真野川で砂利をふるいにかけてその砂利を原発に運んで財を成した話を聞いた。そもそも原発ができて財を成したものはこの辺には結構いるだろう。
特に漁業関係者は原発御殿を建てたと今は問題になっている。
その請戸に呼ばれて家に案内されたら金の襖だった。それは東京から職人を呼び寄せて作ったという、それだけ景気が良かったのである。
それも今になると夢のように消えたのが不思議である。
その請戸の人が相馬総合病院で特等室で家を建てると豪語していたのも回りからどうみられるのか、その時はまだ意識していないかったのかもしれない。


このドラマは請戸、夜ノ森駅、相馬港、塩釜を実際にロケしている。だから貴重なものになっている。時々三陸の方でも津波の被害のあったところのドラマを見た
それがなにか不思議である。
今回の津波で意識されたのが津波にあった海岸線はもともと海でつながっていた。
海の道ができていた。江戸時代に請戸港ち岩手県の宮古から鉄の延べ板が運ばれて葛尾村で製鉄していたことは有名である。葛尾大臣がそこで生れた
松川浦には名取の人が遭難したと石碑に記されている
このドラマも請戸の船乗りが遭難したことがテーマになっている
必ず海では遭難があるからである。
そして塩釜神社の御札をもっているというのも塩釜から海でつながる歴史がある


海には海の旅情がある、これもずいぶん前だけど40年前とかなる、女川に行ったとき、鯨の解体するのを見た、そこで小学校の先生していた人が絹で漁具を作っていたという、その絹の糸を束ねたものは強度が強いから利用された、その頃養蚕がいたるところでしていたから絹はいくらでもあったから海でも利用されたのである。
その時港に入ってきたのは外国人である、中国語のようなものをしゃべっていた。
外国船の貨物船は女川にも入ってきていたのである。
そしてバーの灯が雨にぬれていて旅情があった。

女川港外国船よる秋の夜や雨ぬれあわれバーのともしび

このドラマでもそうである、塩釜の港などで相馬民謡を歌っていたというのもこれもドラマで演出したのだろう。
津波の後には何かこうした風景が失われたので不思議に思う。


駅名も開業以来平駅(たいらえき)であった。いわき市が成立した後も駅名はそのままであったが、1994年12月3日にいわき市などの要望により、現在のいわき駅に改名している

なにかいわき市というのがなじみがない、それでも20年たっている、南相馬市もなじみがない、やはり地名というのはたいだい何百年とか古い、だから地名がなじみがある、定着するには相当な時間がかかる。
夜ノ森駅には桜を見るのに一回くらいおりた。あそこはツツジの駅だった。
つつじを車窓に写して過ぎ去ってゆくのが旅情があった
ここはもう当分開通しない、写真をみるとなつかしいとなるだろう


ともかくこの辺は津波原発事故で失われたものが多すぎる、それが今は年取るとさらに回想するだけだとなる
スーバーヒタチは原町駅にもう5年近くとまったままである。
すでに5年もすぎようとしている、5年は本当に大きな区切りである。
小高の避難民も来年は避難解除になる、これも長かったなとつくづく思う。








タグ:請戸港
posted by 天華 at 19:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2015年11月19日

南相馬市鹿島区に多い只野(但野)氏の謎 (お浜下りの祭りのおつづら馬の話ー野馬追いの旗印は杉紋)


南相馬市鹿島区に多い只野(但野)氏の謎

(お浜下りの祭りのおつづら馬の話ー野馬追いの旗印は杉紋)

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 南相馬市鹿島区日吉神社(ひよしじんじゃ)のお浜下り(はまおり)は、12年に1度の申年(さるどし)の4月に行われます。神輿(みこし)の行列に、宝財踊り(ほうさいおどり)、手踊り(ておどり)、神楽(かぐら)などの組々が奉納(ほうのう)します


只野が関連姓でありルーツ。現山形県の広域である羽前、現福島県西半部である岩代国安積郡(多田野村)只野村が起源(ルーツ)である、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)鎌倉氏流。仙台藩の士族は清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)和賀氏流。近年、福島県相馬郡鹿島町に多数みられる。

只の(普通の)野原という意味。

岩代国(陸奥国)安積郡只野村をルーツとする。

宮城県の只野家:仙台藩の重臣。もとは毒沢氏を称して和賀氏に従っていたが、江戸時代の初めに伊達氏に仕え、仙台藩士となる。



同級生の只野(但野)氏についての由来を聞いて不思議だった。
同じ鹿島町の街内に住んでいてその家の由来を語った。有名な真野のお浜下りに「つづら馬」というのがある。つづら馬とは馬につづらをのせて荷物を運んだ。
霊山城で南朝が滅んだとき落ち延びたことを由来にした祭りなことは知られている。
それは真野の中館に落ち延びたのは桑折氏であり桑折氏が田中城の城主でありのちに伊達氏などがかかわり攻防があって相馬氏が支配することになった。
鹿島町は鹿島神社から起きていることは古代の歴史でもわかっている。
古代から鹿島神社はあった。でも中世とかなると鹿島神社がある場所が中心ではない
田中城とか真野の江垂(えたり)の中館が中心である。
その前に鎌倉から来た屋形に館をかまえた岩松氏が飯館から原町の新田とか広く支配したのである。それで鹿島町内に御前内とかその奥方が住んだ場所が伝えられるのはそのためである。


只野(但野氏)はではいつ頃からこの地に来たのか?その姓の由来は郡山の古代の安積郷の多田野村なことは確かである。
その多田野に由来して只野(但野)になったのだがそれがどうしてここに移住したのか?
鎌倉時代に由来をもつというけど史書に残されたのは霊山城が滅びたとき落ち延びた一団の中に只野氏がいた。
でも史書に残されているのは桑折氏が中心なのである。只野氏が中心ではない。
それでも盛んにつづら馬のことをいい自分の家ではそれを代々になっていてお浜下りの祭りの中心だったようなことを言っていた。
それは大学で調べに来た人もそのことを記したという。
只野氏がつづら馬を祭りで担当していることは確かである、でも史書では桑折氏が中心である。只野氏は史書にもでてこない。
ただ最初に霊山城が滅びて移住した場所が真野の中館ではなく平地の今の鹿島町内辺りだったのだろうか?
すでにここは鎌倉からきた岩松氏の妻とかが住んでいて御前内という地名が残っているからだ。
それから田中城は町内から離れたところにありそこは湿地帯であり自然の堀になっていて防御するにいい場所だった。湿地帯を利用して城を築いていたのである。
そこまでは今回の津波でも津波は来なかったのである。その近くまで津波が来たことには驚いた。
つまり田中城を築いたのは岩松氏のあとにその離れた湿地帯を利用して防御にいいから作った。


只野氏がお浜下りでつづら馬で中心的役割を果たしたとはいえないだろう。
史書にも残されていないとなるとそうなる、つづら馬という役割をになわされたのは荷物を積んで逃れた役割を果たしたからだろう。
ただ只野氏はなぜ鹿島区にこれほど多いのか他に福島県ではまれでありこの地域だけに多い、近くにも只野の姓の人が住んでいるし本当に鹿島区に多いのである。
只野氏がこんなに多いのはなぜかとなるとそれも謎だが子孫が繁栄したとなる
とにかく南北朝の動乱は全国的にありその時勝者と敗者にも分かれ落ち延びた武者がどこにでもいてその人たちが土着していった歴史がある。
郡山の安積の多田野村から南朝勢に加わり霊山城が滅びて只野氏の一団もおちのびて鹿島に来た。桑折氏が中心だが今の鹿島の街内は只野氏が住んだ。その後子孫が繁栄したとなるのか?
これはまだまだ謎であり何か只野氏の一団は入とか何か一つの文字を共有して結束していた。分かれるときその文字を記して分かれたとういう、その字は良くわからないがそういう話が伝えられていること自体、まさに口碑であり口伝だということで歴史の再発見がある。
実際人間はつくづく灯台下暮らしであり自分の住んでいる一番身近な歴史とかでも人についてもわからないという不思議があるのである。
日本の歴史とか世界の歴史とかに詳しくてその郷土の足元の歴史を知らない人が実に多いのである。その一人が自分でもあった。
屋形にある慶長津波の前の田中城主だった相馬氏の墓を知っている人はまれである。
案内板に書いてあるけど地元の人すら知らないしまた鹿島街内にそれもすぐ近くの神社に天明の碑がありまた自分の街内の墓地に安永や天保の碑があることも注目されていないのである。つまり自分の住んでいる街についての歴史を知らないということである。


三輪山をご神体とする大和の三輪神社の杉は、『日本書記』や『万葉集』に神杉として記されており、 「わがいほは 三輪の山もと 恋しくば とぶらい来ませ 杉たてる門」という歌が『古今集』にのっている。三輪神社は大神(オオミワ)神社ともいい酒の神様として親しまれ、「三本杉」が神紋である。神酒(ミワ)神社から求めた杉葉で作った鞠状の飾り(杉玉・酒林)が、むかしから酒屋の看板となっている。

只野氏の野馬追いの旗印は杉紋である。これの由来は三輪山に由来している、なぜこの三輪山に由来したものを野馬追いの旗印にしているのか?
ただ郡山の多田野村から南北朝の騒乱の時に移住したというときその紋が只野氏の紋となっていた。でもこの紋にするにはそれなたの由来があるはずである。
でも野馬追いの旗印は3000とかあるのにわからないのが多いのである。
只野氏のこの杉の紋は小池、岡和田、横手に多い、この辺に只野氏一族が勢力を広めた。
でもそもそも只野氏がなぜ南北朝に由来するお浜下りの祭りのつづら馬をになうようになったのか?
只野氏はほとんど史書には記されていない、それはなぜなのだろう
ただお浜下りの祭りのつづら馬をになっているとなると重要な一族だったはずである。
はっきりしているのは杉紋を野馬追いの旗印に採用していたことなのである。
これは明確な由来があって採用していた。
三輪山の神社と関係している何かがあったとなる
相馬野馬追いというと相馬氏の祭りでもそこに南北朝の騒乱の中で落ち延びた武士がいてそのあとにその家由来のものもを旗印とした。
だから相馬氏でもいろいろな一族がまじりあっている。山王とかの旗印も南北朝由来のものである。
野馬追いの旗印を由来を知るには南北朝からもその前の鎌倉時代からもつづいているからわかりにくいのである。



タグ:只野氏の謎
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2015年11月20日

平景政(鎌倉)までたどれる只野氏の由来 (奈良の三輪山に野馬追いの杉紋は由来している)


平景政(鎌倉)までたどれる只野氏の由来

(奈良の三輪山に野馬追いの杉紋は由来している)

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鎌倉景政(平景政)は、桓武平氏の流れをくむ平安時代後期の武将で、鎌倉地域を領有していたことから鎌倉氏を称しました。新吉田一帯も景政の領地であったといいます。景政は八幡太郎源義家に仕えて、16歳の時に後三年の役(1083〜87年)に従軍しますが、右目を矢で射られました。『港北百話』によると、傷ついた景政は馬で運ばれて帰ってきましたが、吉田村で亡くなります。

片目で思い起こされるのが、製鉄・鍛冶の神、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)です。
産鉄民が祀る鍛冶神は片目、一本足に特徴があります。それは、片方の目で赤く燃える炉内を見続けることでその視力を失い、長い時間鞴(ふいご)を踏むことから足が萎えるなどの欠陥を引き起こすからでした。

ここまで見て、景政の最終居住地が由井の里とされる理由も明らかになります。由井の民は産鉄・鍛冶の特殊技能民だったところから片目の景政と結び付いて、景政が由井の里に居を構えたと言う伝承が形成されたのです。由井の里、坂ノ下、甘縄と地域がばらばらなのは無理に話をこじつけたからそうなったのでしょう。


義家公の御家来である鎌倉権五郎景政の伝説も多く、役の後にこの地を治め善政をしいたと伝えられ、逢瀬町多田野の鎮守「多田野本神社」では、権五郎景政を御霊として祀り、「御霊櫃峠」の名の由来にもなっています。


桓武平氏三浦氏族という油井(由比氏)。

河国庵原郡由比から発祥した藤原南家為憲流或いは大宅氏族、桓武平氏三浦氏族という油井(由比氏)

仙台藩士は恐らく岩代国安達郡油井村発祥。


杉紋を用いる代表家は、大和の大神神社関係の家である。中心はその祖神から出た大神氏である。一名大三輪とも書き、オオカミ・オオガとも呼称する。この後裔に、豊後の緒形氏がある。緒形氏の後裔に幕末の緒方洪庵が出ている。この緒方家も杉紋を用いている。
 穂積氏流の鈴木氏、清和源氏流の新見・上林・小島の諸氏、藤原氏流の本多・有馬・岩瀬・杉浦・戸川の諸氏が杉紋を用いた。さらに酒に関係した家でもこれを用いている。 


 古事記では玉依姫は神武天皇のお母さんと言う事になっています。
このような伝承もあって万葉集にも「旨酒を三輪の神主が斎ふ杉、手ふれし罪か君に逢い難き」と歌われています。
毎年十一月十四日醸造安全祈願祭りが開催されています(酒祭り)。
杉の葉で作られたしるしの杉玉を作り酒屋さんは貰い受けて新酒の醸造に入るという古い慣わしです。
大神神社は古神道の様式を最も良く残している神社といえます。

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柳田国男の目一つ五郎という中に景政のことがでている。この武将は鎌倉では有名であるそれは源氏来る前から力をもっていた武将である。
鎌倉の武将が関東から東北に移住して先祖になったのが多い。南相馬市の鹿島区の屋形の岩松氏もそうである。それは東北全般でそうである。鎌倉幕府によって平泉の藤原氏が滅ぼされたときから関東武士が東北に進出して先祖になったのが多いのである。
だから東北で先祖がはっきりしているのは鎌倉時代からでありその前となると明確に残っているのはまれであり伝説になる。南相馬市でも岩松氏が一番古く原町の新田とか飯館村の方まで支配地があった、それだけ広い領域を最初に鎌倉から来た岩松氏が支配していたのである。

それは他でも同じであり景政伝説があるのは御霊神社があるのはそのためである。
上杉謙信まで景政の御霊を祀っていたのである。広範囲に景政の伝説が広がりその御霊が祀られていた。

謙信の母は古志長尾家の出自で、姉は上田長尾家の政景の妻であった

景政の御霊が祀られたのはこういう経過があった。

そして奥州二本松領の多田野村において、御霊を祀ったのも長尾氏だった。
只野油井などの苗字に分かれて今も栄えている

ここに只野油井がでてくる。油井という地名は鎌倉にあり油井を姓にする人もでてくる。不思議なのは岩代国安達郡油井村がある、これはどういう経過で名前となったのか?
只野油井という姓は多田野村からでている、名前はなぜ油井なのか?それは鎌倉の地からでていることは間違いない、前に飯館村の大倉が岩松氏と関係して名付けられたと書いた鎌倉に大倉郷とかあり同じような名付け方をするということはありうる、鎌倉山などもそうだろう。つまり全国になぜ同じような同類の地名が多いのかというと人間の移動ととも地名もあり、アイヌ地名などと違い伝播性が強いのである。
地名にすくときどうしても自分が住んでいた土地の名とにたよう名づけかたをするし油井は姓が移動して地名化したともなる


南北朝の大乱の時に鎌倉に由来する武士の末裔も南朝と北朝に分かれ争った。そして只野油井とは何か二つの氏族が合体したものかもしれない。そういうことは古代からあった。昔の姓名は今とは違って個人のものではなく一族を現していたからである。
ともかく相馬氏一族でも鎌倉時代までたどれる武士の末裔はまれだろう。
南相馬市では岩松氏のことは一族皆殺しにされたことで伝説化して伝えられてきたのである。その子孫もはっきりしているし殺した子孫も現実に生きているということである。
だから意外と500年たってもこのことは生々しいのである。あいつが主君を殺した末裔かとまで今もなっている、そしてそのために姓を変えたということもわかっているからそれも無駄だったのである。
一方で400年前の慶長津波のことは一行700人溺死としか記されていないのである。
こっちの方が重大であっても記されていない謎なのである。
確かに岩松氏は悲劇だったけど700人津波で死んだ方が大惨事だったはずなのに記されていないのである。


野馬追いの旗というとその由来をたどれば戦国時代だけではない、南北朝時代から鎌倉時代からその前からも由来しているのがある、それは関西の方にその由来をたどることができる、第一杉紋は奈良の三輪山に由来していた。三輪神社の氏子から広がった門なのである。そうなると奈良時代からはじまり関西に広まり関東に広がり鎌倉時代に伝わったとなる。
そして万葉集とも関係したというからそれはまるで日本の歴史だったとなる。
只野氏からたどれるのはまさに日本の歴史である。杉紋の旗印からたどる歴史は日本の歴史だとなる。
東北では南相馬市の鹿島区の真野の草原の万葉の歌は有名である。でもこれは奈良から歌われたものであり具体的に一族の歴史としてたどることはできない
只野氏の場合は連綿とつながる氏族の歴史からたどれるから違っている

「旨酒を三輪の神主が斎ふ杉、手ふれし罪か君に逢い難き」

酒と関係したことは酒作りも鎌倉から伝えられたのだろう。原町の泉長者も酒で財を成した伝説が残っている。酒というのは江戸時代からそのあとも日本で大きな産業であり酒作りの家が長者になっているのはいくらでもあるし街の中心が酒屋だった、それは双葉の前の長塚の富沢酒店でもそうだったのである。自分の家も実はその近くの酒屋の暖簾分け支店だったのである。
万葉集までたどれる歴史がすぐ近くの只野氏からたどれる、だいたい東北ではそうした古い歴史をたどるのがなかなかできない、関西辺りだとそういうものが普通にある。
東北ではたどりにくいのである。自分の家は葛尾村の柏原から出たことはわかったがそれ以上はたどれない、鎌倉時代までその前までたどれるのはこの辺では非常に少ないだろ。う、それでも野馬追いの旗というのは鎌倉時代からその前からも由来したものがあり
それがほとんどわからない、どうししてその家でその旗印になっているのかわからないのである。
そもそも野馬追いが旗祭りだというときその由来を知らないと歴史がわからない、その解明ができない、今回はたまたま同級生が口伝として伝えたもので興味をもち杉紋というのが奈良の三輪山に由来していることがわかり一つの日本の歴史をここに実感したのである。



タグ:杉紋
posted by 天華 at 15:27| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2015年11月21日

冬の夜明け(海老浜)


冬の夜明け(海老浜)


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海老の浜

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牛越城



七年の牛越城や薄紅葉

鶏(かけ)鳴きて朝日昇るや海明けぬ

路地裏の道や晩菊今日も見る



海老浜に朝日昇りて冬の朝鶏も鳴きけり暮らしのつづく

はらはらと木の葉一枚我が墓地に散りてここに我も眠らむ

路地裏に雨しととふり山茶花の散りて白しも我が一人ゆく

街中になおかすけくも残る虫余命いくばく病院にゆく


牛越城は七年間で終わった、でも一応城の役割を果たした。それも歴史である。
薄紅葉というと何かにあっている。赤い紅葉として燃えない城だったともなる
それより今年は何か気候が変だ、今頃寒いはずだがなまぬるい風が吹いたりする
寒暖の差も大きい、だから風邪ひいた。何年も風邪をひいた覚えがない、


今日の朝の海老浜に冬の朝日が昇る、松原がなくなったから常に朝日が昇るのが見えるようになった。海老にゆくといつも鶏の鳴く声が聞こえる、それが気持いいのである。
卵産むだけのベルトコンベアーの鶏は自然ではない、ニワトリは庭の鳥なのである。
その時ニワトリは生きている、卵産む機械ではない、ニワトリとして生きているのである
海老村は津波で消失した、そこを発掘している。何が発見されるのか、その発掘した土から昔の津波の跡でも発見すれば大発見になる。400年前に津波が確かに来たという証拠になるだろう。ただそこまでは調べないだろう。

何日か前は雨だった、その時路地裏の道に雨にぬれて白く山茶花が映えていた。
自然は何か一人だと映えるということがある。その白さが心に残る
わやわやと騒いで観光しているのは何か自然に接するには適していないのである。
自然に集中するにはやはり一人がいいのである。


母は死にたい死にたいという、点滴をとってくれとか小便をとる管が嫌だとか看護師が若くて乱暴だとか言っていた。
水しか家で飲まなかったとそのままいたら死んでいた。自分はその方がいいのかなと思っていた。つまり老衰になっていたのである。
また点滴したから生きているけど苦しいともなる
でも家で死なせるのはなかなかむずかしい、なぜ放置していたのだとか怪しまれるだろうまず水も飲めなくなったら死んだ方が楽である。
それにしてもまだ意識が鮮明だということに驚く
物忘れでは明らかに認知症になっていたことはわかっていた。
でも自分が今どういう状態なのかわかっている、それは意識が正常だということである。姉は一カ月間無意識となり目も死んで死んだと同じだった。
母の不思議は百歳でも今でも意識は正常であり自分の状態をわかっていることが不思議なのである。
人間はこれだけ百歳にもなり死ぬ間際まで意識が正常だということはやはり生きているのである。
脳が死ぬと意識がなくなれば人間は死んでいるのである。
ほとんどミイラのようになっているけど意識が正常だから生きているのである。
なぜこんなにまで生きるのかいうのも不思議である。


写真を加工したもの
タグ:海老浜

2015年11月22日

人間の見栄の怖さ (世間を脱しなければ見栄からも脱することができない)


人間の見栄の怖さ


(世間を脱しなければ見栄からも脱することができない)



あれよ、スタップ細胞で自殺した人がいたけど責任なんてないんだから 
こういうどうでもいいことに拘るのが自殺者の決定的特徴。 
それは恋愛であったり仕事関係であったりの些細な問題を含む。 
そんなものは蜂に刺されるより痛くないんだから、何故に痛みを求めにいくのだろうか。 

極々小さなプライド、世間体、感情に振り回されているに過ぎない。 
それをノイローゼという。大局に縛られず、小局に縛られる者ほど 
ノイローゼの傾向を持つと言い切れる。 


俺の答えはシンプル。 
自殺の原因は、人間の見栄と、人との関わりだと思う。 

例えば一例をあげると、結婚して、マイホームローン組んで、 
破綻して自殺、 「結婚」も「マイホーム」も糸をたどっていくと結局は「見栄」。 



本当に常に人間社会は見栄の競走である。見栄は様々なものがありそのために死ぬ人までいる、例えば子供でも親は子供を何か自慢したい、自分の子供は優秀だと何か他の親の子供と比べて自慢したい、その見栄の競走は尽きることなくあるしつづいている。
ただ時代によっては様態は変わってきているが本質的には変わりない
見栄などたわいもないものとして無視することもできない、それが世間というものだからである。見栄から脱するには世間から脱するほかないともなる
出家することは世間の見栄から脱することであったことでもわかる。
世間にいる限りもろもろの見栄とか世俗のことにかかわらざるをえないからそうなる


見栄というときだからそれを簡単に無視できないのである。
ある人が大学で一番の美人と結婚したのは博士となり世界保健機構に就職したことを装っていた。毎日出勤していたのである。金は親戚から工面していた。
それが長い間わからなかった、そしてそのことがわかったときその夫は妻と子供を殺して自殺したのである。
その人は優秀でありたいということで装っていたのである。
そこまで極端になるのかと言うが何か人間は極端なところに真実が現れる
これと同じような人を近くで知っている。
その人はある資格で一級の免許をもっているから頭いい人だといつも言われていた。
本当に頭がいいのは確かだった。でも事業をはじめたのが失敗した。
その失敗を隠すためにどうしたかというと借金していたのである。
最近までそのことがわからなかった。自分とも関係していたから怖いことだった
自分の家が苦しいとき病気の時、弱みにつけこんで借金をしてきたからである。
借金してまで自分は成功したのだと装っていた。


たいがい借金している人は常に犯罪者の動機になっている
借金に追い詰められると非常に人間は危険な状態に追い込まれるのである。
もう相手のことなどどうでもいい、金さえとればいいとしかならないのである。
それも人間の見栄からそうなったのだから見栄は恐ろしいのである。
優秀だと言われることに固執するからそうなる
自分の身内でも自分は優秀だと死ぬまで言っていた、でも最後は認知症になったのだから痴呆化したのだから馬鹿になったのでありそれでも自分は優秀だと言って死んだのであるおそらく認知症になって馬鹿になったことを自覚して自分はそんなはずがない、優秀な人間なんだということをかえって言うようになったのかもしれない
ただそんなに優秀だとこだわる心理がわからない、何か自分などはあらゆる点で劣っているから優秀だと一度も思ったことがないからである。
最近やっと詩歌でも何かいいものができているなどは自覚しているが優秀だと思ったことがないのである。だからその心理が理解できないのである。


見栄でもたわいのないものがありそれがその人で終わって他に迷惑とか影響されないならいい、その見栄が他人に甚大な悪影響を及ぼすことが恐ろしいのである。
借金が見栄のためだとしてその借金を他人に要求されて脅迫されたり殺されたりするまでなることが恐ろしいのである。
そんなになるまで借金しなくても手をうてたはずだがその人は自分が優秀だとして通っていたし成功者だとして通っていたから失敗したとは見せられなかった。
おそらくそのことは妻と子供を殺した人のように自分の全存在の否定になるからそうなったともなる。
その人は博士でもないし世界保健機構に就職した訳でもいないし何一つ優秀な所がなかったのである。それがばれたら当然妻にも子供に見捨てられることになるから妻も子供も殺して自殺したのである。


見栄とは自尊心なのだろう、その自尊心が砕かれるから恐怖なのである。
でも人間は宗教的には心理的にはそうした自尊心を一度完膚なきにとりさられるような経験が必要なのである。
それも一つの心の回心となる、宗教は心の回心にあり外見にはない
だから他人からひどいことをされても心の中で許すのも回心である。
そういう心の状態を求めたのが宗教であり外見ではない、だから本当の宗教者は外見にごたわらない、でも世間では常に外見にこだわっているのだ
その外見が見栄なのである。
どんなに家に住んでいるとか、あいつのもっている車は俺より安いとか何か比べて優越感をもつのである。
大学なども会社でも何か世間的評価がありそれが見栄ともなる
社会にでてからも学歴にこだわるのも異常である。でも世間の評価はその人の実質もっているものなどわからないから外見とか学歴とかで判断してしまうのである。


人間は自ら高くするとき卑(ひ)くくされる、だから地位とか何か金持ちでもどうしても高慢になる。自ら高くするから卑(ひ)くくされるのである
地位ある人や金持ちの危険はそこにある、そんなことを意識しなけど心の修行としては危険な状態にある、自分は偉いんだとどうしてもなりその地位や権力にこだわるからであるそれも結局一時的なものであってもそうなのである。
誰も貧乏になりたくないし貧乏になることをすすめているのではない、貧乏というのもまた人間を相当にゆがめてしまう、特に金がこれだけ力をもつと普通にみんなそうなっている。金さえあれば何でもかなうとかなる時代である。
そういう中で貧乏も人間をゆがめる、今は清貧などありえないのである。
最低限の生活を維持するのにも金がかかるからである。清水を飲み裏山の薪でご飯たくなどできないからである。
だからあえて貧乏を求めるのは今では変人になるのである。テレビでそうした人を話題にするのは貧乏は普通と今は違うから注目される
昔はみんなそういう貧乏な暮らしだったけどその貧乏に注目していた人はいない
みんな貧乏だったらみなん同じだとなり変わってもいない普通だから注目しないのであるテレビでは不幸が楽しみとして提供されているのである。
幸せな家族の風景を放送しても誰も注目しないのである。
事件とか犯罪とかともかく変わったことなら注目されるから放送するのである。
それをみんなが要求しているから放送するのである。


だから別に事業に失敗しても世間から見放されても宗教的に心からみればそれですべて終わりだとか自殺するまでもないのである。
そこで世間はどういうものか知れば回心につながる
優秀なとき金があるときは世間の人はほめたりして寄ってきたが一旦失敗するともう誰もよってこない、これが世間の正体だとか悟るかもしれないからだ
でもその前に自殺したり犯罪になるのが多いのである。
つまりこの世に生きるということ自体すでに世間から離れてありえないとするとき
見栄からも離れられない、そしてその見栄が自分だけですむならいいが必ず家族であれ他人に悪影響を及ぼす、殺される人間だっているのだから世間は怖いとなる。
自分は隠者だったから世間とかかわらないから長い間世間を知らずにすんだから良かったのである。それも家庭環境が特殊だからそうなっていたのである。
ほとんど世間と交わらずにすんでいたのである。


ともかくインターネットにはいろいろな実生活の経験を語るものがあるから有名人でなくても示唆に富むものがある。人間の経験が極限られたものであり一体それぞれがどんな仕事をして何を感じているからわからない、そうした個々の経験から語るものが誰でももっているのでインターネットは何か今までとは違ったメデアなのである。
確かに大局的に生きれば小さいことはどうでもよくなる、現代は仕事でも細分化されてもう全体が見えない、全体に機能するものがない、仕事だって金を稼ぐだけだとかなっている
戦争は否定されるにしても日本が世界を導くのだとかなるとそのために生死をかけるとなるとまずそんな小さなことにいちいちこだわらなくなるのである。
そういうものがなくなったから小さなことにこだわりそれが人間の生活のすべてだとなってしまうのである。









タグ:見栄

2015年11月23日

貧乏になり落ちぶれる日本 (観光で稼ぐのもそのためか)


貧乏になり落ちぶれる日本


(観光で稼ぐのもそのためか)


豊になる条件として

●資源

●技術

●精神力(モラル)


日本をふりかえると明治維新がありそれは評価が定まらないにしろ日本がアジアで先進国に西欧化をいち早くできたことは評価できる、他はみんな植民地になったからである。
中国などはまず欧米に領土まで分割されて植民地化されていたのである。
それはイギリスの阿片戦争からそうなっていた。
でも今や中国がイギリスに原発を建てる、資金も中国から出るのである。
こういうふうに歴史は常に変化している
第一イギリスの鉄道の技術を取り入れたのに日本の鉄道を取り入れるのだからそれも変わったし中国も高速鉄道を売り込むのだからその変化も激しかった。
中国の鉄道が十年前辺りどうなっていたか見ればわかる
中国の鉄道は人間を家畜のように詰め込んで出稼ぎ労働死者を運んでいたのである。
聞いた話ではその乗客を笞で打っていたという、鉄道は流民化した膨大な地方からの労働者を運んでいた。そのエネルギーはすさまじいものだった。
中国はあれだけ人口が多いのだから何かあると流民化する、食いなくなると膨大な流民が発生するのである。
そんな時代は一五六年前だった。それもすでに変わったから時代の変化は早い、十年前とか行ったときは満州里でトヨタを買って乗っているとかあの辺で豊になる人は豊になっていたのである。
約二十年くらいでそれだけ変化したのである。
自分は海外旅行したこともないのに中国を一人旅した、それも50才以降だからひどいめにあったのである。
今になると良く旅できたと不思議に思う。海外旅行で最初に中国にゆくというのは危険だったのである。


そして今中国人が爆買いとかで日本に大量に来ている、日本が観光立国のために外国人を呼ぶ政策をとる、観光で稼ぐというときそれは国に力がなくなったからである。
高度成長時代なら家電が特にテレビなどは日本製が飛ぶように売れた、その時日本の国力は飛躍的に増大したのである。電気製品の基礎となる半導体とかも売れた。
しかし今やそれも中国や韓国が追い上げてきて家電は中国製でもまにあうとなってきた。まだ日本の技術の優位があっても高度成長時代のように日本が一人勝ちとはならない、
するとどうなるか、グローバル経済では何か外国に売れるものを作らないかぎり豊になれない、それが日本にはない、まず資源がない、豊になっている国は投資をしてみればわかる。石油がとれるとか資源のある国である。
中東とかカナダとかオーストラリアとか資源がある国が有力な投資国になっている
まだアメリカが強いのは資源国でありまた軍事力があるためである。
ただアメリカも軍事力とか他にも中国に追い上げられている。
グローバル経済では技術がないときは中国では安い労働力を売っていた。
後進国は今でもそうである。安上がりな労働力を売る他ないからである。
日本が今派遣とかパートとかが安上がりな労働に頼るのはそれだけ日本の経済が衰退しているからである。高度成長時代はみんな正社員であり終身雇用であったからだ。
それが成り立たなくなったのは日本の力が衰退しているからである。


グローバル経済では何か売るものがない限り貧乏になる、日本ではもの作りで家電などを売り込んで豊になっていたのである。
そうした技術力がなくなるときどうなるか、何を売るのかとなる、まだ確かに日本の技術で優れたものがあり売れているものはある、車はまだ売れている
それも高度成長時代のようにな勢いがない、すると衰退国家になってしまう。
グローバル経済を批判してきたが豊になるには現代では世界に売るものがない限り豊になれない、結局フクシマ原発でもみんな豊になるために誘致した。
大熊とかでは塩田があり塩を作って東京に売っていたというから貧しい時代だった。
前は日本は資源がないから東京に資源を売っていた。森林資源があり石炭資源があり常磐炭鉱があり日本全国で炭鉱が資源だったのでありそれで鉄道はまずは石炭を運ぶものとして作られた。北海道の鉄道もそうである。
そして資源を今度は外国から買うようになった。ではその金はどうしたかというと家電など電機製品とか技術力があり外国に売って金を稼ぎ外国の資源を買うようになったのである。


観光立国というとき貧乏な国である。ギリシャはまさに観光で食っていた国である。
ギリシャで買うものは何もない、その風光明媚な自然を見るとか遺跡を見るだけであり買うものがない、日本ではまだ中国人が買っているうということは日本の製品に魅力があるためである。ギリシャが経済危機に陥ったのは観光立国だからであり何も売るものがないからである。ギリシャはヨーロッパの保養地としてあり何か生産しているものがなかったそれで公務員が多くそこに金が使われていた経済危機に陥った
つまり観光だけ食う国は実際は貧乏な国になったということである。
日本も同じなのである。何か売りたくても電気製品でも売れない、何を売るかとなると観光になったのである。さらにアジアの後進国になると女性を売るとまで普通になっていたカンペジアで5ドルで女性を買うとかそういう所が未だある。
そういう所に日本人がたむろしていた。そして今やその逆になった。
日本人か今度は中国人に同じことされる、売るものがないとなればそうなる
それも日本人かさんざんしたことだから因果応報だとなる
そういう変化が現代は激しい時代である。


これからは英語ができないと金にならないというとき観光だと日本人が大勢くるブッダガヤなどでは日本語をぺらぺらにしゃべる人がいた。それは日本人を相手にして金になるからである。
それと同じように外国人を相手にするには英語をしゃべれないと金にならない、そういう人たちは必死になって日本語を学ぶ、なぜなら金になるからである。
何か動機が金になるというとき学校に行かないものでも必死に語学を学ぶとういことがある。語学の才能は学校の勉強しなくても上達する人は上達する。
中国の満州から来た人は三年くらい地方にいて日本語がうまくなった、それも驚いたことである。それだけ日本語がうまくなれば日本が豊なら商売にもなる
英語ができれば金になるから世界で英語を学んでいる、中国ができれば金になるとなれば中国語を勉強するのである。、実益がないと普通人間は熱心にならない、文化とかだけでは普通は一部だけであり熱心にならないのである。
でも英語については武田邦彦氏が言っているように別に英語ができなくても機械に詳しくなれる、英語に精力を費やすより機械を作る仕事の方に若い人は精出すべきだという
それも確かに言える、英語とか外国語が必要となるのは要するに日本の電気製品が売れていればそんなに外国語が英語が必須だなと言わないのである。
世界で技術力が優れていれば英語ができないと通用しないとはならない、技術力で世界に通じればいいことであり英語ができることと技術力は関係ないのである。
観光の分野であれビジネスでも英語が必須だというときそれだけ外国の力が強くなるから英語ができないと商売にならない、特に観光となると外人は日本では英語が通じないから観光で困るとなる、それは日本が観光で人を呼び売るものがないからそうなったのである


ともかく日本人自身が観光しにくくなったなとなる、ビジネスマンすらホテルをとれない、そしてホテル代も上がっている、そうなると日本人自身が旅行しにくい、どこでも中国人だらけだとなると旅情も壊される、だから自分は自由に旅行してきたけど旅行もしにくくなったとなとつくづく思う。
自分は貧乏旅行でいつも安い宿を探すのに四苦八苦していた。どうしても旅行代を節約するのには宿泊代と食費しかない、だから食費はまず千円以上のもの食べていない
自分はこれまで貧乏性でありそういう習慣はなかなかぬけない、外国旅行でもそうだった外国旅行はかえって安い宿が多いから助かったのである。中国などは馬鹿みたいに安い時代だったのである。
まず日本人が日本をゆっくり旅できないということ日本の旅情すら味わえないということは正に日本がギリシャのように落ちぶれたことなのである。
金を稼ぐにはそんな文句を言っていられないからである。
観光で商売するも温泉であれ客が中国人とかになれば日本人より中国人にサービスするようになる、それがグローバル経済社会なのである。

日本が衰退してきているということは

2000億円あっても窮乏するのは盛田英夫が教えてくれている

ソニーの創業者である盛田昭夫はその事業の成功で莫大な資産を残したが、この盛田昭夫の長男が盛田英夫である、この人は場当たり的にその莫大な金を使って事業を起こしてみんな失敗して財産を失った。
こんな人がいるのも驚くがやはり二代目は親の遺産を受け継ぎ発展させることはむずかしい、これだけの遺産があったら何か有効なことができたと思う
そんな人に金を与えても何もできない、消尽するだけだとなる
でも今は何か金があってもでは新しい事業を作り出すことができるのかとなるこれもむずかしい、金があっても必ずしもそれで事業を起こして成功するとは限らないのである。
それを証明したのがこの人だったのかもしれない、ただそこには何の目的もなくその時の思いつきとか場当たり的に金をつぎこんで金を失ったのである。
何か事業にも何かしら理念が必要なのだろう。ただ一山あてようとかでは成功しないだろう。だから事業を起こして成功している人は20人に一人しかいないのである。
この人の失敗の教訓はいくらこれだけの金があっても有効に使えなかったということである。
だから金だけあっても豊にはなれない、むしろ金を産み出すものが必要になる
ソニーの創業者である盛田昭夫氏はそれを産み出したがその息子はただ消尽しただけだとなる


もう一つ日本が衰退するものとして指摘されたのが日本はポルトガルとにている、ボルトガルが衰退したのは海外に出る冒険家的資質が喪失したためだという、それはリスボンの大地震が影響して若者が覇気を失い保守化した、海外に出て冒険しようなどという覇気もなくなっていたからだという、それも今の日本の状態とにている。
若者が第一少子高齢化で少ないこともある。今も若者は明治の若者とかその後の戦前から戦争、戦後の団塊の世代とも違う。その時若者に活力があり若い世代が多い時代だった。団塊の世代でもそうした若い人が多いから活力があった時代である。
子供がわんさとどこでもいて地方でも活気があった時代である。
それは後進国になるとイスラム諸国は若い人が多い、だからその不満も大きいからテロになる、それは逆にそれだけのエネルギーがあり不満が爆発しているとなる
まず日本でもあれだけの戦争をするには若い人が多くてエネルギーがないとできないだろう。その時もどうして戦争になったかというと若い人が働く場を広げるたに戦争になった満州国が建国が戦争の発端だからである。
満州国に開拓民を送りそこに若い人の働く場として提供することが必要だったのである。ということはそれだけ若い人が多いからそうなったのである。
今のような高齢化社会だったらそうはならない、満州のような寒い所には行きたくないとなるし労働力にもならないからである。
老人はもう死ぬだけとなり津波や原発事故で復興がきないのも少子高齢化が影響しているそれはポルトガルとにている、リスボン大地震は今回の東北の津波であり原発事故でありそれは日本の技術力の衰退でもあった。
そして若者が少ないから日本全体の活力がない、老人の医療とか介護に費やされている、国もそうであり金も使われていれば余計に衰退してゆく
では何か日本を活力あるものにするものがあるのか?
それは何かあることは言える、それを見いだし成長させることはありうる
つくづくこの辺でも悲惨な状態になっても希望だけは何か残るいうのは本当だった。
どんなに悲惨な状態でもそこに神は希望を与えているという不思議があるのだ。
だからこそその希望があるからこそ新しい時代は作られてきたのである。



参考にした本

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英語教育と日本の没落(武田邦彦)


これらを編集すると自分なりの文章になっている、今はアマゾンで本を簡単に手に入るから便利である。武田邦彦氏などは理系でありその見方がでているから参考になる
英語が必要かどうかと言ってもいろいろな分野で意見がある
ただなかなか理系の人の言うことはわかりにくいがここはわかりやすいのである。









posted by 天華 at 15:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

写真はそのままでは映えない (photshopで加工すると映える-その例)


写真はそのままでは映えない

(photshopで加工すると映える-その例)

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闇を破る朝日

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こんなふうに変わる、これは写真の絵画化であり見栄えする



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七年の牛越城や薄紅葉

こっちの方が良かったとなる


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この写真を見たらいい紅葉だと錯覚するだろう

今の写真がきれいなのは何か加工しているためだった

そのままの写真ではあんなにきれいにとれないだろう


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shinoburedooooo12344.jpg

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どっちも色合い深くなり加工した方が見栄えがいい




photshopはまだまだ使いこなせていない、このソフトを使いこなすことが手間である。
今日は写真の加工をしてみたら見違えるようになったというか写真そのものより
見栄えがいいし色合いが深くなったとか絵画的になり不思議だった
今までもしてきたがphotshopではしていなかった
どういう機能があるのかソフトを使いこなすには時間がかかる
ただ膨大な写真の原画があるからそれをphotshopで加工すれば膨大な作品となる
写真の元があればそれでphotshopでどうにでも加工できる
ただ写真だけでは見栄えがしない、芸術品になっていなかった。


これは一つの例である。加工したものと加工しないものではその見栄えが
かなり違っている、加工した方が芸術性が高くなっている
写真とはやはり絵なのであり絵が描けなくてもソフトによって加工して芸術化できる
これも新しい芸術だった
その前にソフトの使い方を習わないとできない
これも結構手間だからそれが一番の問題である。
ソフトを使いこなすことによって芸術化できるからである。