フランス革命の世界的影響
(日本はアメリカ型でありフランスの理念が欠けていた)
「非宗教」が国是
フランスはまた、「非宗教」が国是である。公共の場でのイスラム教徒の女性のスカーフやブルカ(全身を覆った衣服)を禁止した通称「スカーフ禁止令」は決して「信教の自由」には抵触しない。この法律ではユダヤ教のキッパ(男性がかぶる小さな皿状の帽子)もキリスト教の大型の十字架も禁止されている。服装などによる宗教的規律から解放されるがゆえに《自由》であり、宗教的外見から無縁であるがゆえに《平等》であり、信仰とは無関係な市民的空間を構築できるがゆえに《博愛》だからだ。
フランス共和国は、1789年7月14日に起きたバスティーユ牢獄への襲撃事件に端を発する一連の革命により成立した国家であり、「自由・平等・博愛」という建国の理念が国の標語となっています。。宗教については世俗主義(ライシテ)を採用しており、いかなる宗教であれ政治への介入を拒んでいます
このような価値観の影響圏は、フランス語圏のみにとどまりません。イタリアやスペイン、中南米などラテン系諸言語を使う国は、歴史的にフランスの影響が強かったことがあり、このような価値観の影響を受けており、そのような伝統的なつながりの中で社会的連帯経済という概念が、フランスから諸外国に広がっていった経緯を忘れるわけにはいきません
デモクラシーの学校は、市場社会において競争力のある個人を養成することが任務であり、市場原理は教育においても有効であるだけでなく、市場経済に適応できる人間を養成して社会に送り込むポンプとしての役割が重視されることになる。
世界史の中でフランス革命は影響があったしそれが現代社会の先導役となり理念となった近代社会が作られたものはフランス革命で標語化したものである。「自由、平等、博愛」である。それは意外と思うごがネットからの引用でもそうなっている
ヨーロッパだと何かキリスト教一色にみえる、どこでも教会が立派な大聖堂があるからそう見える。それがキリスト教を重んじてもそれが否定されたのはカトリックが政治支配したことがあまりにも強くその反発からその理念が生れた。政教分離もそうである。
共和国とアメリカ的民主主義が違うというのもなかなかわかりにくいだろう。
共和国という概念がわかりにくいからである。
わかりやすいのはアメリカ型の民主主義である。これは日本ではそうであり現実生活に戦後はアメリカに支配されて浸透しているからもう肌でわかる。
日本はすでに日本人ではない、アメリカ人だというときそうしたアメリカ型民主主義を採用したからである。
そこで個々人の激烈な競走てありフランス革命のような共和国のような理念とも違うのである。アメリカ型民主主義には平等、博愛はない、自由を追及するが個々人の利益を追及するだけである。民利主義である。ひたすら民衆の個々人の利益を追及するだけである。だからこの辺でただひたすら個々が補償金をもらえばいいとしかならない、共和国というか共同体をどうして維持するかなど眼中にもなくなっているのだ。
個々人がただ私益を追及して肝心の市町村をどう建て直すのかという視点がない
補償金もらって若い人は外にでる、残る老人も年金代わりに補償金をもらえばいいとしかなっていないのである。そこに昔の村の連帯もなにもなくなったのである。
だからフランス的共和国の理念とアメリカ的民主主義が違ったものであり日本はアメリカ型になりすぎたのである。
共和国的な市民とか新しい共同体の再構築が必要になっているのだ。
フランスとかヨーロッパを見るときこれも相当な誤解かある。キリスト教の国だと思ったら宗教を否定する理念から新しくフランス国が建国されたとなる。
それを習ったのがトルコであり世俗主義になり政治と宗教を分離したのである。
それ故にEUにも参加したいとなったのである。
博愛というときそれはキリスト教の愛とも違っている。それはキリストがソマリア人を異邦人を助けたこととにている。その時ユダヤ人の宗教から万民の宗教へ変化して世界に受け入れられるようになった。ユダヤ人だけの宗教だったら世界宗教にはなれないからである。
さらに世界に受け入れられるにはカトリックという固陋な政治支配の宗教を否定せねばならなかった。それがフランス革命だったのである。
その理念が大規模なテロでゆきづまったというときそれはなぜなのか?
自由というときその自由の中味である。人間があらゆる自由が許されるのか、人権主義というときも人間としてあらゆる権利が認められるのか、自由に制限がない、それは結局混乱をもたらす。様々なカルト宗教団体も公然と跋扈して社会を動かす、それは自由にしても政教分離の法則も適用されていない、宗教分離の下に宗教の自由が許されているのだからそこには制限がある、なんでも自由ということでもないのである。
自由というのが近代化で求められてきた、それが世界的にもそうである。でも自由というときあらゆるものが自由となりうるのか?国境をなくしたら貧乏な国から大量の移民は流入してくる、そしたらそれをとめるためには殺さなければならないまで追い詰められる
人権主義になればかわいそうだとなり無下に殺すわけにもいかない
そういう深刻な矛盾にシリア難民などで世界は直面しているのである。
自由だといっても国を捨てるのも自由だとなるのか、国を捨てる自由もある、国に残る自由もある。自由は各人が選ぶものだというのも成り立つのか、それならはじめから国籍を与えない方がいい、国籍のない民族もいてその人たちのようにすればいいのである。
国籍には責任も強いられているのである。戦争になったらやはり国のために戦うことが強いられる。簡単に国籍は取得できないからである。フランスでも移民に国籍を与えたらフランスに敵対する行為したとなると見直される。在日しても常にそのことが言われているそれぞれの国があって歴史があって発展したきたものを否定して国を捨てて豊かな国に移ろうとしたらその国の人に拒否されるのはしかたないことである。
あくまでもその人たちの自由は制限されるのである。
だからなぜシリア難民はその国にとどまりイスラム国でもなんでも戦わないのかとか言われる。そんなに簡単に国を捨てていいのかとなる。
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