徴兵制より、徴介護士制にするべき。3年義務化。
(団塊の世代が介護になるともう介護できない時代に)
介護が大問題になるのは長寿社会の負の面が露骨に介護に現れるからである。
特に認知症になる人の数が膨大になる。もはや国民病でありこれで国の負担も家族の負担も増えて国が危うくなるとまでなる
そして介護は十年とか二十年とかまであり長いことが問題なのである。
90才頃まで生きる人は病気にならなければ必ず弱り介護状態に自然になる。
病気でないとなかなかすぐには死なない、90才から最低5年とかさらに長くなるだろう。
十年というのもめずらしくないのが介護なのである。自分は二人分で十年くらいになっているからだ。一人はひどい認知症だったけど早く死んだの助かった。
介護はしてみると軽いものでも意外と体を使うし神経も使う体力仕事である。
だから老々介護というのは相当に厳しいものとなる
看護師の仕事が体力仕事のように在宅介護もそうなる
家族が少ないなかでその介護をになう人は一人とかなると苦しくなる
若い人などは介護の仕事などしたくない、給料も安いし汚い仕事だからしたくない、それで介護をする若者にはいい心材が集まらない、いいところに就職できない人が入ってくるしやめる人も多いから人材が確保できない、そういう所で介護されると虐待も起きる
介護は何か生産的ではない、何か産み出すものでもない、たいがいトイレの補助とか
なんか汚いことも多いしそこに生きがいを見いだす人はまれだろう。
社会的にも評価が低いし給料も安いから誰もしたくないのである。
本当はこういう誰もしたくない仕事こそ給料を高くするのがいいのかもしれない。
何かその仕事に見合うものがなければ誰もしないのである。
一方で自分の好きな仕事なら給料が低くても金払ってでもやりたいとなる
ある人は農業が好きだからそのことで苦労するのだが好きだからやっている。
でもその農業は趣味であり一人分にもならない野菜しかとれない
その野菜をとる苦労の話を聞かされていだけでるあ。
そこに投資しても何も得られない、ただ苦労話を聞くだけである。
農業そのものが趣味でなくてもそういう傾向があったのである。
美瑛では美しい場所だけどそこで農業している人の話を聞いたら延々と農業はやっていられないと愚痴る、そして中国人の方がいいとまで言うのには閉口した。
農業は趣味の範囲でもそれだけ苦労が多いのである。
でもその人は農業が好きだから金にならなくてもしている
そして金になる仕事は掃除とか何かしたくないとなる。
この世の仕事はそういうことがまた多いのである。
金になる仕事が必ずしもやりがいのあるものとならないしその方が多いだろう
やりがいのある仕事は世の中ではなかなか与えてくれない
自分もこうしてプログで書いていてもやりがいがあっても何の収入にもならない
でも何か報道するにも自分の創作したものを出すのでも面白いから生きがいになるからやっている
むしろ金をだしてもこういうことをやりたいとなるのである。
人の奴隷になるようなことは誰もしたくない、家政婦などでもしたくない、むしろ家事は機械がしてくれた方が頼む方も頼まれる方もいいとなる
それが金になってもそうである。金のために嫌なことをしたくないとなればそうなる。
介護の仕事には何かメリットがない、あるのは家族だったらある。親に世話になったから恩返しだとか何か動機になるものがある。
家族でないものにはそうした動機がもてないのである。
例えば介護自体が面白いということもなかなかないだろう。
仕事でも何か新しいもの作るとか創造するとかなると面白いとなり生きがいになる。
そういう仕事ができるのは今では特別優れた人でありまれだろう。
介護には面白いことも給料も安いとかいいことがないのである。
そして介護は体を使う労働でもあり意外と疲れるのである。
介護が人手不足だというとき介護のために強制的に人を集めてやらせるほかないとか週刊誌にでていたのもわかる。
外国人を雇うのもめんどうだし介護をできる人はいる。
特別なスキルなど必要ないからである。
介護で貴重な人材を奪われるのも社会の活力が奪われることになる
だから介護のために強制的に人を徴兵制のように集める
それほど団塊の世代が介護される状態になればもう介護する人はいなくなる
自分の経験ではこの辺で原発事故が起きた時、仮設に移り住んだ人が何もすることなく
パチンコ屋におしかけた。
その時親戚の人が借金のためにパチンコ屋で働いていた。
そしてパチンコ屋で人手がたりないから困っていると言っていた。
これも腹ただしいことだった。
自分の家が介護で苦しい状態にあり自分も病気で苦しんでいるとき何もしない、
ただパチンコ屋で忙しい、忙しいで何もせず帰ってゆくだけだった。
別にパチンコ屋が普通だったら息ぬきもありすべては否定できない
でも自分の家の状態がどうなっているのかも全く配慮されていなかったのである。
自分のことで精一杯だから他人のことなどみえなくなっていたのである。
借金したことはすでに何か選ぶことなどできない、ブラックでもなんでも金を返すためにするほかない、それもまたその人のカルマだったのである。
こういうことは何か介護問題でもある。介護している方になると何であいつらはゲートボールだパークゴルフだハチンコだと遊んでいるのだろうとなる
現代はニートであれ元気な老人でも仕事しないで遊んでいる人が膨大なのである。
だから自分が介護になったときそういう人たちを見て腹ただしくなったのである。
お前は遊んでいたのではないかと言えばそうだが自分か働いている人からみればそうみられたということは言える
でも介護するようになってからなぜあいつら遊んでいるんだ、困っている人が一杯いるのにと見る
それで原発避難者でも介護などで仕事をもたせるべきだという意見がでたこともわかる
回りで働いている人から見ればあいつら補償金で遊び暮らしているじゃないかと見られるからである。
あいつらの遊ぶために地元の人は働いているのかとまでなるからである。
いづれにしろ今や前もそうだが介護であれ認知症であれ国民的課題になった。高齢化社会でそうなった。これをいかに克服するかは一家族だとかでは解決しない、国民的課題だから政治であれあらゆる分野でその課題に向けて働きかける必要がある。
そうでないと国自体の活力も失い、その負担で次々に悲劇が生れる。今も生れている。
そうは言うもののお前か介護を手伝いというとき十年もしたかしたくないとなる
たいがい介護が長いから介護した人はしたくないとなるのもまた当然なのである。
自分は役目を果したからしない、次はあなたの番だとなり高みの見物だともなる
なぜならみんな介護したとき助けてくれたという経験がまれだからそうなる
一人に背負わされて四苦八苦しても近くに暇な人は遊んでいたのを見ているからそうなるもし助けてくれたりしたらそうはならない、自分の介護のとき助けてくれたから今度は少しでも助ける方に回ろうとなるのが人情である。
そういうことがないから他人の介護は無関心なのである。
いづれにしろもうぎりぎりになり強制的に介護させられる時代が来るかもしれない
在宅でも限界があり施設はたりない、人手はたりない、どうするんだというときもう強制的に暇な人とか余力のある人は介護させられる、ニートなんかは一番その標的にされるかもしれない。
それはもう個々の家族ではどうにもならない、国民的課題として解決が迫られているからそうなる。
ともかくこれまでのような日本が豊かな時代も終わり悪いことが重なる冬の時代になったのだと思う。膨大な下流化する老人でもそうでありもう日本のいい時代は終わったのである。そんなに医療や介護に金を使ったら国がつぶれるというのも笑い事ではないのであるそれほど窮迫してくると強制的に介護させる法律が施行これるのもありうる。
外国人を雇うというのも無理があるしそれなり働ける人を働かせるのがいいとなるからである。
やりたくもない介護の仕事をさせられた腹いせに、被介護の方が酷い目にあう未来図しか見えません…
これも仕事にはある、つまり生きがいを見いだせない意義を見いだせない、自分に合わない仕事を強制的にやらせるといつか不満が爆発してその被害者が介護される方になるから深刻になる。
でも第一介護するような特殊な人はほとんどいないというときどうすれば人材を確保するのかとなる。
確かに仕事は強制できない、では何か方法があるのか?それはもう一つの国民の義務としてやらせて意義をしらしめるとまでなる。
いちいち強制できない、やりたくないものはとやりたくない、そういうことを認めていたらいつまでも解決できない、では人材が集まるのかとなれば集まらない、義務だというときかえってそれはやっているうちに生きがいを見いだし国のためにもなっているのだ、他人を助ける仕事として意義があることだと見いださせるのだともなる
結局人間は何でも自由だというとき何もしなくてもいい,自分のやりたいことをやればいいというのも違う。義務としてやらねばならないことがある。
何か意義を見いだすこと自体むずかしいからである。それが義務としてやっているときかえって意義を見いだすとういこともある。
そもそも普通の人間は何か意義を見いだして働く生きるということ自体むずかしい、そういうことができるのはほんの一部なのである。
だから人間にとって自由は重荷にもなる。かえって義務を与えてくれた方が楽だともなる江戸時代はそうして上から与えられたものを義務として果す社会だから自由がなくても悩む必要もなかったのである。
何でも自由だというときでは何でも人間はできるのかとなるとできないからである。
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