2015年10月30日

「心の青雲」の著者が求めるものは何なのか (鞍馬山に上り義経と一体化する)


「心の青雲」の著者が求めるものは何なのか

(鞍馬山に上り義経と一体化する)

山道も険しいが、山そのものが上から下を見ると絶壁といった感じで、道はつづら折りになっている。鞍馬山は岩盤で固く、杉の木が地下深くに根をはれないので、ぼこぼこと地上に根が出てくねっている。ために歩きにくいことおびただしい。


鞍馬山上りて思ふ義経のその心かな秋のふけゆく

義経の心を求め鞍馬山険しさ足に痛みて知りぬ


彼は何を求めているのか?アレキサンダーであり義経でありジンギスハーンであり戦争で勝った英雄である。
何か今はそういう戦争自体を否定している、戦争は悪いものだということが戦後の憲法までになった。だからこんなに戦争を肯定して英雄を求めているのに違和感を感じるだろうあなたは人を殺して英雄になりたいのかとなる
こういうことを堂々と書けるのもネットならではだろう。
戦争を経験した人は戦争を賛美していない、戦争だけはするなと言っているのである。
だからあんなに戦争を肯定して美化していることに誰でも抵抗を感じるのである。
まず現代の戦争だったらとても英雄化できない、機械の戦争になっているからである。
この次の戦争は明らかにロボット同士の戦争になる。そこにもはや人間はいないのであるでも実際はそのロボットという機械に殺される人が膨大になる。
現実にアメリカはすでにロボットで人を多数爆撃して殺しているのである。
それは鉄腕アトムのような架空のことではなく現実となっている。


ただアレキサンダーとか義経とかなるとまた別である。そもそも義経の伝説はなぜこれほどいたるところにあるのだろうかとなる。
それほど義経は日本全国に知られて伝説に残された、北海道までありそこから逃れて大陸にわたりジンギスハーンになったというのも伝説が残っているからそう見る人もでてくる心に青雲の著者は実地に義経という人物に迫りその人物と一体化しようとしているのである。その手法が単に小説を書くのとは違っている。
武道をしてきた体験からも語っている、だから一面迫真力がある
つまり義経を英雄視するのではなく自分自身もその英雄の跡をたどり英雄となろうとしいる、それが何か司馬遼太郎などと違っている。
司馬遼太郎は小説家であり歴史家でもない、物書きであり実践者ではない
心の青雲の著者は武道の実践家だということが違っている


だから鞍馬山を登るにしても義経に自分自身がなっているのである。
ある人物を語る時何かその人物になりきり語る
第一光厳天皇のことを知っている人すらまれだろう。そんな天皇をのことをなぜほめているのか?
その天皇が過ちを認めた、でも昭和天皇は戦争の過ちを認めないで責任もとらなかったと延々と批判している。
天皇自体が反省するとなるとし過ち認めることは異例のことだろう、ましてや戦争中現人神になっていた人が謝るとなるとそれはありえないことであった。
私は神ではない、人間だと言ったことに三島由紀夫は認めずに自死したのである。
結局情けないものを感じたのだろう。神からただの人間になったことが許せなかったのである。そのギャップも大きすぎたのである。
巨人が突然小人になる、巨獣が突然に踏みつぶされるような蛙のようになってしまう。
それはまるで魔法をかけられたようになる。そういうことは人間には常にある。
自分の家族でも認知症になった結果優秀な人が馬鹿になったということは信じられないことだった。

志高くもありて果てにけれ正しく清く秋の星光る

人間の最後はその志の高みに上ってゆき遂には死んでゆくことは確かである。
人間は死んでただの躯とか骨とか灰になるのではない、明らかに星になるのである。
彼はそれを義経とか英雄に求めている、自分は自然を求めてその志を一体化する。
その相違があってもやはり同じ志向があるので共感する
それは宗教とはまた違って共感するのである。


いつれにしろ歴史を知ろうとするときまずはその地理を知ることが基本にある。地理を知らないと何もしることができない、だから磐城の豊間で津波の被害のことを聞いたがあそこを自転車て通ったことがあるからすぐに話を合わせることができた。
何か淋しい場所であり海に接しているから被害も大きかったろうなと思った。
あそこに銀行がないからタンス預金していたということはやはり街から離れた淋し場所だったのである。
鞍馬山には上ったことがないけど何かイメージはできる。ただそれほどに深い険しい山の中だったということはそこに行かないと実感できないのである。
この実感することはやはりその地を踏まない限りわからないし歴史もまたわからないのである。
詩はまずイメージするにしてもそこに一度行っている人と行かない人の差は大きい
イメージするにもやはり一度そこに行くのと行かないのでは差が大きいのである。
京都もいろいろあり広いからかえっていろいろなものがありすぎてわからなかった。
でも義経の跡をたどるということで焦点をしぼれば何か得るものがあることは確かである大原に一回行ったがあそこも一度行ってみればそこで暮らした感じがイメージできるのである。

タグ:義経

磐城(いわき)の豊間の人は津波でタンス預金を流された (車に自転車をのせてきた人とあう)


磐城(いわき)の豊間の人は津波でタンス預金を流された

(車に自転車をのせてきた人とあう)


原町のレストランの前で自転車を組み立てている人がいた
それをみていたら簡単だった、簡単に組み立てられるようになっている
その人は車にその自転車をのせて組み立てて走る
これも便利だなと思った。景色のいいところを選んで走れるからである。

「この自転車はどこのですか」
「イタリア製ですよ、イタリア製はいいんですか」
「自転車はヨーロッパが発祥だからいいんです」
「そうですか、日本でもシマノは部品として使っていますね
これにもシマノとありますね」
「ヨーロッパもいいですが今はアメリカもいいですよ、ジャイアントとか」
「その名前はよくききます」
「このペダルの部品をとりかえたけど一万したましたよ」
「そんなにしたんですか、この自転車はいくらしました」
「三〇万です」
「まあ、そのくらいはするでしょう、重さはどれくらいですか」
「七キロです」
「ええ、軽いな」
「フレームはカーボンですよ」

こんな会話をしたあと磐城の津波の被害の話になった。

「豊間では被害が大きかった」
「豊間は知っています、そこを自転車で通ったけど前が道路で海でした、あそこなら被害が大きかったでしょう」
「あそこは街から離れているから銀行がないんですよ、あの辺の人たちはそれでタンス預金していたんですよ、それで津波を来たとき、七百万円ばかり持ち出したのですが途中であわてて落として流されたそうです」
「七百万は大きい金ですね、タンス預金は実際は何かと危険なんですよ、自分もそれで失敗して大金を失ったからです」

今回の津波ではタンス預金とかしていした人はみんな流された、でも銀行に預金した人はあとから通帳がなくてももらえたのである。
タンス預金は実際は相当に危険なのである。盗まれても証拠がないので警察に訴えてもとりあってもらかない、警察は重大事件でも証拠がないとりあげない、はっきりした証拠がないと裁判では必ず負けるからである。
だから証拠さえなければ罰せられないとなってしまうのが民主主義の社会である。
だから罰せられない犯罪者の数は膨大にいる、証拠がない限り罰することができないからである。殺人犯でも何でもそうである。
それだかけ民主主義社会では犯罪を犯しても容易に捕まえられなくなる
犯罪者の方が得するような仕組みなのである。犯罪にあって泣き寝入りしている人は無数にいる、でもどうにもならずあきらめる他ないのである。
ただそういう人はやはりカルマをもち何らか警察ではなくても罪を背負うことになる

今回の津波でも原発事故でも様々なことが起きた。それはみんなとても語り尽くせないものである。この話も一つの話にすぎない、富岡町長の五億円の金庫が流されたというのもそうである。このタンス預金の話でもそうだがそういうことはかなりあった。
通帳でもハンコでも流されても銀行に預金していればこういうことはなかった。
自分の一身上もここ十年は介護と自分の病気でつぎつぎに災難が起きたのである。
ただ直接人から聞くとその話もリアルに感じるのである。


ともかくその人は六五才以上であり自分とたいして年が変わらなかった。
車で自転車をのせていい景色の所を走るのはいいなと思った。
その人は毎日一時間半くらい自転車にのっているという。そのくらいなら疲れないだろう何か自分は距離が長くなるからあと疲れるようになった。特に筋肉が痛くなるのである。でも自転車は70でもそれを越えても楽しめる、車と併用すればもっと楽しめる
でもそういう器用なことをできる人とできない人がいる。
車も運転してバイクものりとか外国旅行も自在にするとか外国で仕事までしている器用な人に外国の旅で出会った。
そういう器用な遊び上手な人が団塊の世代などには多い、あの人もそういう感じだった。自分はまず不器用であり雑であり車の運転は向かない、必ず事故になるから原付バイクでも乗らない、何か器用さに欠けるからいろいろうまくやれないのである。
俳句短歌はできるにしろ他のことはうとくなるのである。
人間なんでも得意な人はいない、何かできれば何かできなくなるのが人間なのである。
車とは現代では何かと便利なものだから車がないとかなり損することは確かである。



タグ:タンス預金
posted by 老鶯 at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

事業失敗に家系の因縁はあるのか? (結婚すればやはり相手の因縁を事業でも受ける?)



事業失敗に家系の因縁はあるのか?


(結婚すればやはり相手の因縁を事業でも受ける?)


いろいろな因縁を問題にする、事故の因縁もそうだし病気の因縁もそうである。
そして事業失敗の因縁というのがあるのか?
これは自分の実家の母と父方とも言えないが関係した親戚が二軒がすでにある。
もう一軒を事業に製鋼していたと思っていたが失敗していた。
母方の実家は警察所長までしていた機織り産業が盛んなときで事業に手を出して失敗して一家離散になった。
おじいさんになる人だったが母が威張っている人だというときそううい人でそもそも事業ができる人ではなかった。
もう一軒は町工場をしていた人が経営不振で借金で倒産して土地も家もとられた。そこは更地になり駐車場になった。
もう一軒はこの人はもともと一級の免許をもっているから優秀な人であり事業できるものはもっていた。それがなぜか60頃になって失敗していたことが判明した。
借金をしていたので判明したのである。その額はわからないにしろかなり大きいと思う。なぜなら自分に要求するのが一千万とか百万とかは軽くするからである。
だから貧乏人が一万とか二万をやりくりして借金しているのとは違う。
こういう人とつきあったら本当に怖い,何か恩着せて保証人とかになってくれとかなるからである。
それが病気のとき入院保証人とかになるとき恩きせられたのである。
これも相手の弱いところついてくる非情化した人間になっていた。
借金で追い詰められる人は怖い、犯罪の動機で多いのが借金なのである。
もう相手のことを考える余裕などない、もちろん助ける余裕もない、相手から金を奪おうという考えしかないから怖い、保険金殺人とかあるからそういうものに近くなる。


ただ事業とかに失敗する人はこの世ではいくらでもいる。第一二〇人に一人くらいしか事業に成功していない、それだけ厳しい世界だということである。
自殺する人も借金とか事業で失敗する人が多いだろう。
事業というのは相当なリスクなのである。
だから家系の影響なのか本人の自己責任なのかはわからない、母方の実家には奢りがあった。警察所長ということで俺は偉いんだということで通っていたからである。
だから事業しても成功するんだという考えになっていた。
でも実際は警察所長と会社経営することは全く関係ないことだったのである。
今なら警備会社関係となら警察関係なら何かしらつながりがあるが全くなかったのである奢りが失敗の原因になることは多々ある


もう一人は事業をできる人だったがこの人も奢りがあったのだろう。
先の見通しも甘かった。ただやはりそれなりに実績がある人だから事業をしても成功することはありえた
それがなぜ失敗したのか、その詳細はわからない、そしてなぜ家系とかに関係あるのか?
その人自身の家系について皆目わからないが親戚と関係していた人の家系というか家族がどういうものか知っていた。
妻は若いとき夫が身体障害者となりずーっと世話する役目にをになわされてしまった。
それは不幸だったのだが結婚した娘の夫は優秀であり給料も高かったので恵まれていたと思っていた。それは端からみて恵まれた結婚だったのである。
それが今になってなぜその優秀な夫が事業に失敗したのか?
それは結婚した相手の妻の家系に家族にその家風とかが問題だったのかもしれない
夫で苦労するとか何かその家系と家族に問題があった。
それは知っていたことだが結婚した娘の相手はそうではなかったのである。
それが事業に失敗したことで妻の家系の影響を受けてそうなったのかとなる
夫がしっかりしていて大黒柱になっていれば問題なかった。
事業に失敗した結果夫は頼りない人になりその負担が妻とか同居する母とかにかかってきた。
必ず長男長女は何かその家系の家族のプラス面でありマイナス面であり一身に背負う運命にある。
自分が今や大黒柱といっても女性だったが家族をなくした結果全部自分一人で家族のことを背負う結果になったのである。
長男でない場合は長女が背負うことになる。長男長女はそういう宿命を背負っていたのである。


相手の家系の因縁を受けるというとき結婚がそれだけ単なる好きだ嫌いだというだけではない重みがある。家系の宿縁を背負わされるのが結婚にもなる。
それは悪いものだけでなくないいものを受け継ぐが悪いものも受け継ぐ
事業の失敗はその人個人の奢りがあったものだが結果的には妻の家系のマイナスの面を引き継いでその悪い面に同化したとなるのか?
家系というときその家が形作る運命的なものもあるが家風というのももあるだろう。
家風があわないから結婚しないとかもある、あまりに金持ちの家と貧乏人とかの家だとあわないこともあるしあわないことは職業でもあるだろう


その点江戸時代は同じ家風の人同士が結婚していたからうまくいっていたのではないか
侍は侍同士の結婚であり職人は職人同士で農民は農民同士とかが多いからである。
今は多種多様な人々が入り交じっているから家風でもわからないし思わぬことでそのずれが大きくなりやすいのである。だから離婚が三分の一と多くなったとも言える。
好き同士で結婚してもあとあと60になってからでもその家系の影響がでてくる怖さであるただその人が事業に手を出さなかったらこんなことにはならなかった。
恵まれたものとして老後もなっていた、それでも今は何かやと下流老人が増えているのだから別にこういう人はいくらでもいるからいちがいに家系とか家風とかから見ることもてきない
客観的に見た場合その人は知っているから家系の家風とかの影響を受けてそうなったのかと思った。
家のことはそれぞれ複雑でありわかりにくい、でも親戚関係だとやはり具体的に見えてくるから自分のこととも関係して被害を受けたから深刻になるから考える
その家系とか家族を傍観しているならいいができない、災いでも具体的に及んでくる
その事業のことなどわからなかったが今回は自分の家に自分にも被害となったから考えたのである。


ともかく小さな会社でも大きな会社でもいかに経営というのがずかしいかわかる。
東電がそうだったし旭化成でもあれだけの大企業がいくつもかかわってもそうだった。
事業というのは大会社でも経営するのがむずかしいのである。
ここにもやはり大会社だという奢りがあったことは確かである。
大会社だから安心だということで内部でも油断と奢りがあった。
何らか常に人間は奢るとき失敗に通じる、奢れるもの久しからずというのが常にあったからである。奢ること自体が危険になってくる。それは国単位でもそうである。
大きな国でも奢りから衰退してゆくこともある。
ただ人間には思わぬ落とし穴が常にある。津波もそうだし原発事故もそうだったしそういう大事故でなくても常に思わぬ落とし穴があり人生が狂ってしまう。
思わぬ落とし穴だからこそ予想がつかないからその穴に落ちるのである。
思わぬ幸福もあるにしろ思わぬ不幸もまた人間には多いのである。


ここ十年の介護や自分の病気などはそうだった。そこに思わぬ幸運というかそういうものあった。ただそれ以上に不運が不幸が大きくのしかかってきたのである。
結局自分の不運とか不幸は恵まれすぎたということにもあった。
恵まれすぎると苦難に対処できない、例えば美人の妻をもっても意外と苦難が来たとき役にたたないということがある。だから妻の良し悪しも見栄えだけからは判断できないのである。苦難に強い女性もいるからである。
人間は結局何が思わぬ落とし穴になるからわからないということである。
それに備えようにも備えられないということもあるのだ。
いくら金をためて備えてもそれが役立たないということもありうる、かえってその金が遺産争いのようにまた強盗のような人がきて奪われるとか殺されることにもなる
そういうことを自ら経験したから金は怖いとつくづく思った。
何か落とし穴になるかわからないというのは備えようがないということでもある。


家系とかの問題で何かその相談などで金をとるとか除霊とか先祖をなんとかとかで商売にするのは危険である。それなりにいいことを言っていても危険である。
宗教とかそうした相談にのる人は相手の弱さがあってそれに対して金をとる
弱いものに対してその弱さにつけこんで商売にするのは何か危険である
そこに何か人間性がそこなわれるし悪魔的にもなる
だから医者とか看護師とかでも常に病人を弱者を相手にしているから一歩間違えば悪魔的になる。
いらない薬でも金のために飲ませるとかいろいろある。弱者に対してはそういうことが簡単にできるからある。
宗教でもカルト団体などに頼るのも危険である。人間が弱者化するとき危険なのはその弱さにつけこんでくる人が必ずいるしそれが多いということである。
宗教などはむしろ生きのいい病人でもなんでもない健康な人を相手にすべきなのである。弱者になるときいくら金持ちでも必ず優位にたてる、自分もそういうふうに借金していた人から病気の時脅迫まがいのことをされたし現実に大金を失った。
そういうことは老人に対してやりやすいからそうなる。


ともかく相手の弱みにつけこんで脅したりするのは人間として最低ではないか?
でも相手も窮迫していたのだからそんなことを言っていられない
それは弱肉強食のまさに自然界とも同じだった。食うか食われるかの世界である。
飢えていれば子供とか弱ったものが先に獲物にしやすいから狙うのである。
そういう経験をしたから人間界も動物界と同じだったのである。
人間は弱者に対して本当に同情心がもてるのかということさえ思う
カルト宗教団体などでは同情心は全くない、ただ一つの政治団体として権力を得るために人を集めるためにある。
そうはいってもそういう底辺の人たちはどこにも頼る場がない、頼る人がいないからそういう場所でも安易に入ってゆく、だから生活保護関係とかそういうことを斡旋してくれる政党とかカルト宗教団体は必要悪として否定できないのである。


つまりそこに弱者の悲しさがある。
上級階級だとコネがあったりいろいろ得するが底辺層は保証人になってくれる人もいないなど常に不利になり損するからである。
そういうコネも得られないとなるとそういう政党でもカルト宗教団体でもなんでもかまわない頼れる所に頼るというのが庶民なのである。そこでは宗教など関係ない
何か得することがあるから入るのでありそれ以外何もない、コネとか金がない人はそういう場所に頼る他ないのである。
ただ人間は金があっても権力があっても弱者化することがまねがれない、必ず病気になり老人になり弱者化するからである。
「悲しむものは幸いである」という意味は何なのだろうか
それは悲しまない立場にある人はすでになんらか奢りにありこの世で得をしているが実はそのことは下々のものがいて苦労していてその人たちのおかげで悲しまない立場にある
だから上にたつ人はそういう弱者のことを考えねばならないだがほとんど無関心である
そして弱者になってみないと弱者の気持すらわからないことなのである。
だから上に立つ人は悲しまない立場にある人はある意味で天国に行けないというとき
かえって小さい人やそうしてこの世で悲しんだ人たちの方が天国にいたともなる。
この世であまりにも得する強者になっていること自体が罪なことだともなってしまうのである。


いづれにしろ家系の因縁はそれぞれの家族で違っているから複雑であり外から見てわかりにくい、家系というよりその人自身の人間性とかも関係しているからすべて家系の問題でもない、何かの犯罪であれこうした不幸であり必ずいろいろな要因が重なっているのである。家系もその一つであり家系がすべてとはならない
ただ家系も家風も確実に影響している、家系とか家族とかが形成する家風には癖がありそれも影響している
商家だったらやはり商家の家風を受け継いで成功することもある。
一からはじめると商売で成功するのはむずかしくなる


タグ:事業の失敗