2015年10月24日

大学に文系はいらない(2) 理系と文系の相違は何か


大学に文系はいらない(2)


理系と文系の相違は何か


この世界を見るのは二つの方法がある、それが物質世界と人間世界になる。物質世界は理系であり人間世界は文系になる。
理系には人間世界と関係しないで物質を探求する
例えば考古学があるとしたらそこで発見された石器がある。その石器がヨーロッパ
で発見されたものは大きいというとき殺傷能力も大きいということである。
理系だったらその石器をどういう状態でどんな石を使って作ったとかもっぱらその石器自体の物質的成り立ちに目を向ける。

一方で文系の人はその石器自体の成り立ちよりその石器が人間にどう影響するのかを見るそれを人間の歴史からみる、ヨーロッパでは戦争が多かったというときそれは石器の時代からアジアとは違っていたと書いたがそういうふうにみる
石器の違いが人間にどう影響したのかをみる、一方で理系の人はその石器の成分とかを念入りに調べる、人間社会にどう影響するかはあまり考えない
その物自体に興味を持つのである。それは化学式となり元素記号化する
そのことが理系と文系の大きな相違かもしれない。


文系の人は例えばいろいろな道具でも車でもその道具を作ることではなく車が人間社会にどう影響するかをみる、自分も文系だからそういう思考になる。
車が嫌いだとか車は人間的ではないとか交通事故になるから危険だとかもっと車をへらしてバスでもいいとか交通体系を変えるべきだとか社会体制まで論じる。
でも理系の人はそういう車が社会にどう影響するかよりより高性能な車を技術開発することをひたすら目指している。


自分もそうだが文系の思考は何か医療でもあらゆるる技術でもそれが社会にどう影響するかをみる、だから原発でもそれがどう回りに影響するのか心配する
原発が社会にとって必要なのかどうかを議論する。
理系の人は原発の社会的影響より技術的にその技術を完成しようと努力する
原発の危険性があっても技術者として原発の技術の完成に向かって努力する
理系の人は技術そのものを最高のものにしようと努力している。
それは医療でもそうである。人間を不死き体に老いない体にまでしようとしている。
結局技術の完成を目指すとしたら人間を死なない体にすることが究極の目的になってしまうからである。

象徴的なのはアルキメデスは足場を与えてくれ、そうすれば地球すら動かして見せよう。、、、あれば世界を動かすと言ったが戦争にまきこまれて死んだ、つまりこれこそ理系なのかもしれない、回りの状況を社会のことなど関心を払わずそれで殺されたとなるからだ。

街が占拠された時アルキメデスは砂の上に描いた[9]数学図形(en)について熟考していた。ローマの兵士はアルキメデスをマルケッルスの元へ連行するよう命令を受けていたが、アルキメデスは思案中だとこれを拒絶した。これに兵士は激高し、剣をもって彼を殺した

回りの人間がどうなっているか見ない、ただひたすら研究に没頭していたのだから理系のオタクのようになものともなる
理系的思考になるとそういうふうに世界も理系的思考で世界を動かせるという自負になる世界を作り動かしているのは理系だとなることがここに象徴的に示されているのだ。
回りで起きている社会の人間の動向に無関心だったのである。
社会の人間の動向に絶えず関心をもっているのが文系である。
なぜ事故が起きるのかと探求すると理系なら技術的な問題であり技術が改良すれば解決するとなる
でも文系だとモラルがないとか会社の組織が問題だとかコストを第一にするとか技術そのものよりそうした周辺的なものかかわる人間を問題にする
アメリカが古い原発をもってきたのが悪いとかアメリカがそうできたのは日本が戦争に負けたからだとかそういう歴史とかも関係させる、理系だと原子炉がどうなっているとか
原発そのものの技術的な問題に関心がありそれが第一となる
それで東電が原子炉のことばかり心配して回りの住民のことを心配していなかったというのもそのためである。
回りの住民を避難させることが遅れて混乱したのである。


例えば文明をみるときこれは理系が作ったのだろうか?ピラミッドなどは高度な建築だから理系が設計して膨大な労働力で人力で作り上げた。
それを作り上げたのは技術は理系である。でも文系になるとどうしてこんなピラミッドを作ったのだろうと考える、それは当時の人間社会にどう影響したのだろうかとか何のために作ったのかと考える、理系だったらその構造の分析をするが文系は当時の社会にとってどんな意味がありなぜこんな巨大なもの作ったのかと考える
それは実際に未だに王の墓でもないとなると一体なんのために作ったわからないのである

そもそも文明というときエジプト文明がありキリスト教文明がありイスラム文明があり仏教文明がある。これは理系が作った文明かとなる
それらはモラルを中心にしたものであり技術はあくまでもそのモラルがあって建築技術となり石像でも何でも宗教の建築物となっている。
宗教となると明らかに文系なのである。だから宗教的観点からすれば武器とか作ることましてや核兵器など作ること自体否定する。肉食を否定しているように宗教が平和を目指すのだから武器そのものを否定する。それはどの宗教でも同じである。
でも理系にとっては技術を開発することであり核兵器が人間社会にどう影響するかなどあまり考えない、アイシュタインなどが広島に原発が落とされたことで反省はした。
でも物質そのものの研究は物理学で延々と行われている。それが社会にどう影響するのかとか考えない、技術にはそれ自体が人間社会と関係なく追及されているのである。


例えば不老の医療が発達してさらに寿命が伸びたときそれが人間社会にどう影響するかを考えない、そんなに人間が長生きしたらどうなるのか?
それもかなり苦痛になるだろう。暇をもてあますこともあるし子供を産まなくなるなるとどうなるのかとかもある。
不老不死になったら確かに子供はいらないとなる。それも淋しい社会だとなる
つまり科学とはそういう人間社会にどう影響するかを考えないで研究がどんどんすすんでゆく
それが原発事故とかいろいろな社会問題を引き起こしているのである。
DNAまで遺伝子まで操作したらどうなるのかとかそこには原発のように危険なものとなる
そこに理系と文系の大きな相違がある。
この辺の原発事故でもうどうしていいかわからない、その解決方法がない、そういうことをある程度予想できたのけど原発は建てられたし理系の人は回りの影響についてはあまり考えないのである。
つまり科学技術信奉になってゆき、事故は百万年に一回しか起きないと何か科学万能の信仰になり神話になりもうとりかえしのつかないことになったのである。





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大学に文系はいらないのか? (自分も文系であった経歴)


大学に文系はいらないのか?

(自分も文系であった経歴)


最近文系の大学など無駄だ、税金の無駄だということで廃止した方がいいと議論になった自分は大学をでても三流であり実際にほとんど勉強していない、文系の大学は遊ぶ場となっていた。
急速に団塊の世代が大学に入るころ学生が増えたのである。それで文系の大学は特にマンモス大学になった。3000人も講堂で講義するということが異様な風景だったのである。
高校と大学はあまりにも違っていた。高校は授業は強制であるが大学は授業に出なくてもいいというのがあまりにも違っていたのである。
授業に出ている真面目な学生はかえって嫌われていたのである。そして文系の単位は授業に出なくても最後に何回かでてとれるし卒業できたのである。
そんな卒業証書に何の意味があるのかと思う。
文系の学問の成果は何なのかとなる。理系はまるで違っていて毎日実験とか勉強の度合いがまるで違っているのである。だから文系大学は遊びだというのは本当である。
一日マージャンしていた人もいるし勉強しないのが普通なのである。


それでも団塊の世代は自分の中学のクラスだと4,5人しか大学には行っていない、第一その頃中卒であり金の卵として東京の中小の工場で働いた。
それは中学でてすぐに東京で親元を離れて働くのだから過酷な面があった。アルバイトでその下町の工場では油にまみれ汚い狭い部屋で寝泊まりしていたのである。
それは中国の出稼ぎ者とにていた。その人たちが高度成長の労働力となったのである。
だから大学で遊んでいた自分などと中卒で東京で働いていた人たちの差も大きかったのである。
自分はまず勉強嫌いであり何かあらゆる面で劣っていたから体力でもだめだし何か人格的にもあまやかされてためだった。また自分は集団になじめなかった。
でも東京の大学で一時は体育系に属していたりカルト宗教団体に入り集団生活にとけこむために必死だった。
その後は会社にも入らないし集団生活はしていない、今で言うニートとなった。
その時は無職のような人はアウトサイダーになっていたのである。
ほとんどが会社員になっていたし誰でも正社員になれた時代だからである。
Fランとかでもみんな正社員として就職できたから楽だった。
でも自分は大学に入ってから遊びくせがついたというか真面目になれなくなった。
だから団塊の世代がほとんど企業戦士になったことが理解できない
一回文系の大学に入れば遊びの場だからそんなに企業戦士になれると思えないからである自分は特殊でも何かそれが今では理解できないのである。


でも自分は何か今になると学問好きだったと思う。そして思うことは自分のような体力のないものは学問とかで身をたてる他ないということを自覚した。
職人であれ建築現場であれそこで働くにはやはり体力かものいうのである。
体力があればブルーカラーでも勤まるが体力がないと勤まらないのである。
だからそういう体力のない人は事務系とかなるから学問に励まねばならなかったのである自分の家の庭を作ってくれた大工兼庭師は体力でも優れていた。
何か柔道の有段者のようにも見える、体が全然違っているのである。
そうでなければまず大工でも庭師でもできない、基本的に現場の仕事は体力がものいうのである。
それでアルバイトでしたことは流れ作業しかないのでそのことで仕事を嫌悪して一切仕事はせずに旅とかばかりするようになった。
流れ作業をしたらまず仕事自体に嫌悪しか覚えなくなる、一つのロボットにされるのだからそうなる、そこにはすでに人間の誇りも何も奪われてしまうのである。
自分は多少英語などは好きな面があったがこれも根気がなくてものにならなかった。
学問とか語学とかは根気が必要でありそれに欠ける人はものにならないだろう。
理系も実験だとなると相当な根気のいる仕事であるから何事根気がなしでやれる仕事はこの世にはないのである。


自分の人生をふりかえると確かに遊びの人生だった。それは大学が遊びだったことからはじまっていたのである。たまたまそういう家庭環境があり許されたということになる。
だからこれも特殊だったとなる。今はニートが普通にいるがその頃はいないからである。文系とはなにのなか?これは別に本当に大学に行かなくても本を読んだだけでも学べるものである。
とくに今になると有利なのはインターネットで学ぶだけでも別に授業に出なくてもいい、文系の教授は専門性に欠けているし学ばなくてもいいとかなる
そして本を買うということが本をそろえることが文系では大事である。
自分の興味のある分野の本をそろえることが読まないにしろ必要なのである。
それがインターネットでアマゾンで古本でも何でも安く買えることはかなり文系の勉強にとっては有利である。
文系は本を読むだけでもすでにそれで十分だとなっているからである。
文系は特に何か教授でも教えるものがないというのが現実だからである。


しかしそれでも文系の分野も実際に相当に広範囲であり何を学ぶのかとなると専門にするのかとなるとむずかしい。
ただ文系なら他の分野のことでも一応理解できる、理系となるとこれだけ細分化されているから他の分野は理解しにくくなる。
それで東電の原発を指揮していた吉田所長が肝心の複水器のことを知らなかったというのは意外だったのである。
所長となれば原発のことをたいだい知っていると思ったからである。
今は何でも複雑だから理系でも知らない分野になると知らないのである。
それにしても所長も知らないとしたら一体何かあったときもう何もできないとなるのではないか?
旭化成の社長は東大の薬学部げあった、としたら建築関係のことはわからないとなる
社長がわからないのだから支持しようがないとなるのではないか?
だから理系でも細分化されてあらゆることを知る人などいないのである。


ともかく文系と理系を考えることは結構大きな深い問題である。
だから簡単には解決できないし決定できない問題である。
一つの視点としてもしかしたら文系が無駄だというとき優生思想のうよなものがあるのかもしれない
障害者は無益で社会の負担にすぎないから抹殺すべきだということがナチスの優生思想で起きた。アーリア人が優秀だから他の人種は劣っているから抹殺すべきだという思想である。
理系の人は何か文系が根本的な理系の常識である知識すらないから馬鹿にするということがある。そこで理系は文系は無駄と思ってしまう。
実際に日本のとき戦争では学徒出陣でも理系の学生は免除されたのである。
今でも理系は国を支えるものとして見られているのである。
ノーベル賞のように世界に通用するのは理系であり理系が実学であり現実に役にたつものとして社会からも認知されるからである。
だからお医者様となり社会でも優遇される
一方政治家でも官僚でも法律関係とかなると文系的なものはうさん臭いものに見られる
理系は何か必ず結果がでるしその責任が偽ることができない
傾斜マンションでもそうだし原発でもそうだしはっきりと結果としてでる。
甚大な被害があり責任が理系の人には技術者には課せられているのである。
文系にはそうしてはっきりと責任が問われることはない、だから社会を支えるのは理系だと理系の人は言う。
弁護士すらさげすまされている、ブラックな仕事だと言われる。それは法律をたてに巨額の遺産とか何かそういうものにかかわり示談屋のようになっているからである。
法律をあやつってぬれてで粟の利益を得るとなる。


ともかくこの理系と文系という問題は奥が深いし簡単には語れないだろう。
ある意味で人類史的な観点とか歴史的にも人間をふりかえらないと何が理系で文系なのかもわからない、奥深い問題である。
つまり理系と文系というとき浅薄な問題としてしか考察していないのである。
これは人類史的視野で見るべきものなのである。
確かに哲学が俺はこういう哲学をもっているとか誰でも今は言う
しかし哲学とは体系的なものでありそういうものは哲学ではないというのもわかる。
たいがい西洋の哲学は体系的でありそれで力をもったが日本ではそうした体系的な哲学という学問は生まれていない、「心の青雲」で言う弁証論というのがそうなのかそれも社会ではまだ認知されていない、弁証学というのはアウフへーベンとかドイツ哲学の流れをくむものだろう。
理系と文系を考えるとき心の青雲は役にたつ、文系が理系的なものを見る視点がある。
だから文系のものでもわかりやすいのである。
理系と文系をかねそなえた人はまれである。自分はまず理系的に説明されるとまるでわからなくなるからだ。


ただこの辺では原発事故で放射能のことが毎日のように放送されるし被害があった。
するとどうしても放射能のことを知る必要が出てきたのである。
距離の二乗に反比例して拡散するから30キロまでが避難区域になった。
放射性物質は数字でしか計れない、そうなると数学の世界だった。
数字で確実に出るから明確だともなる、浪江では0、5くらいだったのに急に7になったときは驚いた。大熊でもそうである。そこは確実に高いから住めないと思った。
これは数字ではっきりと出るからかえってわかりやすいとなる
原発事故や津波のことでもこれは理系の分野だったがまた文系の分野も関係していた。
一体この辺の様々な複雑な問題を解決するのは理系だけのなのか?
この辺では政治でもそうだが様々な問題の場なのである。一体それをどう解決するのかとなると理系だけでは解決できない、郷土史とか関係ないと思っていたが関係していた。
郷土史などは好事家のものだと思っていたがこれを郷土学とすればトータルに郷土を追及する学問になる。
だから原発事故周辺の問題の解決は様々な分野の人がかかわる場になった。
それは理系が主でもやはり文系でも関係していたしその解決はトータルなものとして追及されるものとなったのである。




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posted by 老鶯 at 08:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層