2015年10月13日

社会全般に意志疎通ができなくなった時代 (トータルに考えられない社会ー郷土史はトータルな学問である)


社会全般に意志疎通ができなくなった時代


(トータルに考えられない社会ー郷土史はトータルな学問である)


意思疎通というとき互いに何事かの共通認識である。それができなくなったのは明治維新後である。西欧化した結果として江戸時代からつづいた共通認識は失われた。
だから明治維新の混乱は今でもつづいている。
民主主義という言葉一つとってもそれを理解することが非常にむずかしい、西欧文明が入ってきたとき日本人は漢字でそれを訳した。
それは新しく造語した努力がある。権利とはRIGHTだけど英語だったら正義ということになる。権利は何かしら正義があって権利が要求できる。
それで権利は権理だったのである。この方が役として良かった。権利となると利の方に重点が置かれらである。
ともかく西欧文明の概念自体を日本語で訳すことは至難であった。
今でも本当はその概念を理解していない、それは仏教でも中国の文化でも取り入れたときその概念を理解することはむずかしかった
日本語には仏教用語もあり中国文化の漢字によって多彩なものになった。
それにまた英語が加わって言語が重層的になったということはそれだけ日本語は世界の文明文化を取り入れた言葉なのである。
それは大和言葉だけでは取り入れることができず漢字で取り入れたのである。
意思疎通するというときまさに言語の面でもそうだった。外国人と意思疎通するというときも言語が中心となっていたからである。
他国の文化を理解するときどうしても言語がわからないと根本的に理解できないからである。
意思疎通というときそれは明治維新から近代化したときあらゆる面で起きてきたのである江戸時代は日本人が日本的環境と生活の中で意思疎通できていた時代である。

なぜなら基本的にはその土地土地で狭い範囲で生活していたから共通認識ができやすい社会だったのである。
そして時間軸で考えると江戸時代は親の仕事を受け継ぐことが多いから世代間の分離もない社会である。
つまり侍は侍になり農民は農民になり職人ば職人になると親の仕事を受け継ぐから世代間の分離がない、職人でも十代以上もつづくとかそれだけ変わらない社会が基盤としてあった。それが可能なのは社会が江戸時代はあまり変化しないことだったのである。
現代ではもう二代でも仕事は継続されない、めまぐるしく変わってゆくからである。
すると当然世代間の分離が起きてくる。親の仕事を受け継がないのだから親との分離が精神的にも物質的にも起きてくる。
また大家族だったのは農業でもそもそも大家族でしていたからである。
すると家族が会社になっているようなものである。家内工業でもある。
それが土地と結びついているから土地と一体化して分離しないのである。
現代の特徴は何か、それはあらゆることで分離されてしまうことなのである。
家族でも大家族から核家族へ、世代間でも親は親、子は子となり所帯も分離してゆく
仕事もみんな別々であり分離してゆく、そして単身所帯が膨大に増えてゆく
次の世代に継承されないということが書いたがそれは社会の構造が変わりすぎたからである。それは江戸時代と比べると明確になるのである。

意思疎通ができないというときそれは家族内だけではない、家族の世代間でもそうであり故郷という場を共有するものでも意思疎通できにくいのである。
なぜ原発事故で故郷も失い、家族でも簡単に分離したのか?それを探求してきたがそれが原発事故だけに由来するのではない、そもそも家族も故郷も土に根ざした農民社会ではない、みんな会社員である、そしたらその土地に執着する生き方とは違ったものとなる
人間はふでに故郷という土地から分離していたのである。
だから原発事故が契機となっただけでその前からそういう状態にあったから家族も解体して故郷も喪失して分離したとなる。
別に金がもらえるからどこに住んでもいいという状態になっていたのである。
その土地にこだわっているのは農民くらいだとなっていたのである。
それで親が農業の跡など継ぐなとその子供を殴ったというから驚く、それだけ農業は現代では割に合わないものとなっていた。
その人は原発でも働き全国の工事現場で働いた人だった。そして七町あった田んぼはもうないという。

別に人間は意思疎通できないということは常にあった。江戸時代でも職業が違うと神秘的なものになっていたのはそのためである。木地師とか産鉄族は神秘化されるのはその仕事が理解しにくかいらそうなる。
そして江戸時代で意志疎通がしにくいのは空間的なものである。隣の村同士すら空間的に離れていると意志疎通できなくなる、それで隣から麦つきに来た若者が大蛇だったとかなる。何かそうした天狗だとか河童だとか動物とかの妖怪伝説になるのはその人と意志疎通できないからそうなる。明治維新では外人が天狗になったり火山の爆発を起こしたとかまで押しつけられている。そういう異形のものとされるのは意志疎通ができないからであるそういう意志疎通できないことが社会全般に家族でも故郷でも起きているのが現代である原発事故でもそもそも東電の社員のことを原発を放射線のことを知ることなどあっても理解できない、そのことからすでに意志疎通できないものとなっていた。
現代ではそうして意志疎通できないことから様々な問題が起きてくる。
もし意志疎通できていたら原発事故も起こらないしそんな危険なものを土地の人が賛成しないのである。

現代はあらゆることで意志疎通できない社会である。職業も複雑であり無数にありどういう役割をしているのかどんなことをしているのかもわからない、それぞれの職業で意志疎通できない、江戸時代だから家内工業で何でもその土地に根付いてその延長に仕事があり意志疎通できた。今は職業が無数にあり高度に専門家してできない
例えば弁護士がいたとしても医者でも専門用語を使われるともう意志疎通できない、
もちろん放射線のことを言われたら何も意志疎通できない、お前ら素人は何もわからないから何も言うなで終わりなのである。
そうすると専門家の言うなりになり事故も今回のような原発事故も起きてくる。
そもそもそれは政治家でもマスコミでも原発のことなどわからないから金になるからいいというくらいの認識しかもてない、政治家とかマスコミは文系が多いということもある。放射線のことなどわからないのである。ここでも意志疎通ができない、理系と文系では意志疎通ができない、ノーベル賞でニュートリノが中性子がどうのうこうのと言っても理解できるのはまれだろう。科学者と素人は意志疎通できない
それは化学が錬金術からはじまったことでもわかる、何か怪しいことをしている、不気味だとされていたことでもわかる。
その時も一般の人と化学を科学を扱う人は意志疎通できないからそうなっていった。

グローバル社会になるとますます一見物が自由に入ってきて世界が理解できるように思えるけど実際は物が入っているだけであり世界のことを外国人を理解しているわけではない外国人と意志疎通できているかとなるとできない、そしてますます人間は互いに意志疎通できないものとなり他者との共通認識をもつことができなくなる
現実に身近なことでも例えば銀行とは何なのか理解できますか?
何かこの銀行を理解することは本当にむずかしい、銀行は何をしている所なのかわかりにくいのである。ましてや株でもあれ世界経済のことを理解できるのかとなるとできない
江戸時代だったら確かに理解できないもの意志疎通できないものがあったが今の時代とはレベルが違う、現代はますます他者と意志疎通できなくなる時代である。
未来もますます社会は分化してパーツ化して互いに意志疎通ができなくなる
ともかく社会をトータルに理解できないのが現代である。

郷土史は実際はトータルな学問だった。その範囲はあらゆるものに及んでいたのである。だからとても一人でできるものではなかった。地理学であり地質学も科学も関係していたしあらゆる学問が関係するトータルなものだった。
細分化した学問が郷土史ではない、それは自然と人間と全般にかかわるものだったのである。
だからそれを自分なりに追及してきた。郷土史とは人間復活再生の学問である。
なぜならそれは自然と土地とか社会と歴史とかトータルに探求するものだからである。
文化がculture(耕す)というときまさにそうだった。文化の再興は郷土史にあった。
郷土史は全般的なものだから芸術もその中に入る。
しかし今はなぜ文化がないかというと自然に根ざしたアイディンティティが欠落した社会だからである。
つまり詩語が喪失したというときそれを一番物語っていたのである。
経済用語、科学用語、法律用語、、、、しか言葉は使われない、詩語を使う人は異形のものとなりアウトサイダーとなってしまうのである。
自分も山とか石とか樹とか自分の住んでいる土地からも主に追及してきたがそれは理解されない、都会の人に石を理解することはむずかしい。
ただ材料としての石を理解することはできなるが文化としての石を理解することはむずかしい

そもそも田舎と都会人でも意志疎通はできなくなっているのだ。
ビルに囲まれて暮らしている人とはもはや自然のことはわからない、詩語はそこで死んでいてただ数字化した言葉を使っているだけなのである。
それはシュペングラーやニーチェや上野霄里氏などが指摘してきたことである。
アウトサイダー化してゆくのはもうそうした個人でしか一つのトータルな世界観を価値観をもちえない、作りえないからそうなったしまった。
マスコミは大衆の価値観でありそこから真実の価値観は作りえない、だからマスコミに紹介されたり有名なにる人は大衆的価値観の浅薄な人たちである。
新しい文化を創造することはマスコミではできない、大衆はもはや文化を創造できない
大衆と民衆は違う、民衆は文化を作っていたが大衆は作らないからである。
それで文化創造を目指すものはアウトサイダー化するのである。
そしてその人はまさに天狗とか河童とか山姥とか異様なものとされてこれまた大衆とは意志疎通できないものとなる。
まず言葉が通じない、詩語が理解できないからそうなる。
言葉が意志疎通の基礎にあるときその言葉時代が存在感を失っているのはその基盤となるコミニュティとか自然が失われているからである。
それで田舎人と都会人は意志疎通できない、では田舎人が意志疎通できているかとなるとできない、第一次産業に従事しているのは一割にもみたないからである。
その土地に根ざして生きているのではいなやはり会社員がほとんどだからである。
田舎でも隣は何をする人ぞとなってしまっているのである。