2015年10月11日

abstract(express ways)ー高速道路


abstract(express ways)

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これは何か現代的抽象的らしい、パソコンからできる抽象画である。
高速道路というのがぴったりである。
高速道路から見える景色も違っていた。これは早すぎるから旅になりくいが乗り物もメデアなのである。
人間はメデアによって道具によってつくづく影響されて新たな創造が生まれる
パソンコとかインターネットがそうである。

これは今までのメデアとはかなり違っている
パソコンやインターネットで表現するのと文章でも本とか紙に書いて表現するのとは違うプログだと毎日書いている、でも同じことを書いていても何か抽象画のように変化している
それはその人なりの思想をもっていてそうなる。
そういう人はまれでありインターネットではなかなか見つからない

だから毎日読むプログが自分では三つくらいしかない、「心に青雲」とdarkness dua とか武田邦彦氏のプログが毎日発信されているから読んでいる
その他は毎日読むとなるとそれだけのものを書くのが容易ではない
だから毎日読むプログはこれだけインターネットに出ていてもないのである。

ともかく抽象画は無限の変化であり変化しない抽象画は死んでいるともなる
次々に変化するときパソコンの抽象画が活きているとなる
ここにだしたのもまた変化しつづけるのである。
それはパソコンのソフトの操作でそうなるからである。
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一人一人をみれない施設での介護 (なぜ介護士などが低くみられるのかー仕事の意味が見いだせない)


一人一人を見れない施設での介護


(なぜ介護士などが低くみられるのかー仕事の意味が見いだせない)


母が腰をぶつけて急激に弱った。それは施設では一人一人を見れないからである。
まず弱った母を食堂で四〇分も座らせていたのが辛かった。
今はほとんど寝ているし起きていると辛くなっているからである。
でもそういう一人一人の状態を良く見れないのが施設である。
そして二度と行きたくないと言ったのは風呂に二度も入れられてひどかったという。
三日のショートスティの間に二回は必要なかった。
体を拭くだけでいいんだ、自分の母親は体を拭くだけで風呂には入らなかったと言っていた。というのは自分の母の母は祖母は脳出血で倒れて五〇代くらいで介護になった。
それは大正時代であり今のような介護はない、風呂のサービスもない、オムツもないから藁で便をとっていたとか言っていた。それを見ていてそう言ったのである。

そして施設の人が言うには夜は人手がたりない、昼間はいるけど夜は少ないから手がまわらないとポータブルトイレをベッドの脇に置くのができていなかった。
それで母はとまどって離れた所のポータブルトイレに行くの苦労したのである。
そういうことで腰をぶったのかもしれない、施設にしてみれば人手がたりないのだから一人一人を丁寧にみていられないのである。
人手不足というと大工でも工事関係でもどこでも人手不足で家を建てるのにも何でもこの辺では待っていなければならないとかこの辺では特にそうなっている。
これは全国的に人手不足はあらゆる所で深刻なのである。
建築関係とかでは人が集まらなくて会社がつぶれたとかもある。
今の日本は人手不足で国自体が危機にさらされているともなる

介護士という仕事が何かほとんどは食事の世話とかトイレの世話とか何か機械的に仕事している、風呂に入れれるにも人が多いのだから機械的に芋を洗うようにしているのだろう相手を人間とみているかどうかもわからない、忙しいからいちいち一人一人をみていられない、身体的にもそうだしそれより心になるともう関係ないだろう
このジジババがなんのだ、自分にとってなんなのだ、ただ食事の世話から下の世話をするだけの人となってしまう。
だから介護では何かその仕事に意味を見いだせることはまれになるだろう。
「なぜこのジジ、ババを世話しなければならないのか」というとき金をもらうからしかたがないとなるだけで意味が見いだせない、人間は何でも金だけですべて解決できない
人間は何でも意味を求めているのである。人間は哲学的存在なのである。
あらゆることに哲学が不可欠なのである。
「人間は考える葦」だというときそうである。宇宙であれ地球であれ人間にとって意味を価値を与えられのである。もし人間にとって意味と価値が与えられなければ宇宙も地球もただの物体になってしまうだろう。
宇宙の果てのどこか知らない星には意味も価値もないのである。

家族で介護するときは父であれ母であれその人ととなりを知っているから違っている
自分の介護した姉でも母でもそういう点で違っていた。
母は子供の頃、不幸だった。継母に育てられて不幸だった。
継母に弁当を子供の頃作ってもらったのだが残したら「俺の作ったものを食えねえのか」と投げられたというからひどい、その継母は異常に気が強い女性だったのである。
その女性は最後は施設で盲目となり「悪かったな」と母に言って死んだ。
そういうことを聞いて知っているのと知らないでは接し方も違ってくるが施設ではそういうことを知らないでただ身体だけの世話をしている
その女性がどういう一生を送ったかはわからないのである。

介護は体を直すということはもうできない,ただ死んでゆくのを見守る看取るという仕事である。身体も苦しくなるから楽にするということはあるが老人の介護はその人の一生を看取るということがある。
そこに介護の意味があるとすると若い人にはてかなかむずかしいともなる。
ある程度の人生経験がないとそういうことにはたちいれないだろう
それよりその人のことをまず家族のようにしりえないこたとなのである。
だからただ死んでゆく、用のない人間をみているだけで意味のない生きがいのない仕事だとなってしまう。
そして社会的にもその地位も医者や看護師のようには見られない、一段と低いものとして社会的にも認められていない、そして給料も安いから誰もしたくないとなる

自分も老人だから自分は老人の話を聞くのか好きである。それが郷土史とも関係していたその人の一生は郷土と深く関係している場合が多いからだ。
自分は八〇代の人とからいろいろ話を聞いてそれをプログに書いてきたりした。
ただ人によっていろいろであり話が面白い人とそうでない人がいる。
やはり面白い人はいろいろな経験した人になる
ただ人の経験したことはみんな違っているからそれぞれに興味がある。
これは認知症の人でも変わりがない、昔のことは覚えていて何百回も語りつづけるからである。
姉は従軍看護婦でありそのことを死ぬまで語りつづけていた。
それを千回も聞いたので嫌になってしまったのである。
でも人生で一番印象に残ったことが戦争のことだったからそうなったのである。
介護と郷土史とか関係ないというが郷土史というのはトータルな学問なのである。
郷土全体が対象だから介護とも関係してくる、原発とも関係していた。
津波のことなどその土地の歴史が関係していたのである。

ともかく介護という分野は新しい仕事でありその意味とか社会的に評価がされない
もちろん介護自体が税金の無駄使いだということもある。
そんなものに金を使うのはもう無駄でありその余裕が国にはないというのも言える
例えば一割負担でも五倍とかが国で支払うから施設とかを利用するとその額が大きいものとなるから問題なのである。
でも在宅でもその負担は結局大きくなる。金銭的にもそうであり介護は長くなるからそうなる。
そして家族も核家族しているから一人がみるのが多く負担になる
それで公共的な援助になると金がかかりすぎて若い人の負担にもなる
だから金銭的に介護は無駄となり批判される

それは確かに言える、老人ばかり増えて介護する数が膨大なにるともう税金を使えなくなる、国が破綻しかねない状態になっている
在宅介護にシフトしてもこれもまた負担が大きいから退職して介護に専念すると社会の損失になる。
そういう問題はあるにしろ何か介護自体にもなんにも意味がないということではない
つまり介護士という仕事の意味が問われているということもある。
それはそもそもこれまで介護があったとしてもこれだけ社会的に介護する人数が増えたり医療の発達で寿命が伸びたりしてこういう問題が起きてきたのである。
いつれにしろ何か身体だけの介護をしていたら介護の仕事に意味は見いだせない,ただ便の処理だとか老人自体が汚いものとしか写らないだろう。
でもその人生をみて介護すれば何か意味を見いだす、でもそれは若い人にはむずかしいし向いていないとなる。
だからそうした心を見るのはかえって六〇代くらいの人が向いているとはなる。

テレビで死んだとき介護士と家族が一緒に風呂に入り死者を清めることをしたというのもやはり介護というのが家族とのかかわりが不可欠なためだろう。
介護は本当は家でするものだとすると女性の場合は嫁というように女と家は一体のものになっているからである。男性は社会的役割の方が大事だが女性は家で生きることが多かったからである。
家で生きることに意味があるのが女性だったからである。
----刀自という墓があるけどそれは家事をとりしきった女性のことである。
家と不可分に一体化していたから死んでもそうなったのである。
だから家で死にたいとなるのはわかるが負担が大きすぎる。
ともかく人間というのは何であれ意味を求める哲学的存在なのである。
意味がないことにいくら金をもらっても耐えられないのはそのためである。

神々がシシューポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。

介護とかにはそういうことを感じる仕事だということである。家族すらそう感じることもあるから他人だったら余計にそうなるのである。そこに介護の問題もあった

 
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