2015年10月23日

老人でも欲はきえない、味覚の秋 (田舎の老後はどうなるか)


老人でも欲はきえない、味覚の秋

(田舎の老後はどうなるか)


人間の欲望は老人になっても消えない、個人差はあるにしろ性のようなものでも残り火のように燃え上がる、本能というのはいかに強いかに驚くだろう。
見合い結婚した人が恋愛したいとか老人が言うのもわかる。
性だけではない、人間は異性に最後までひかれるのである。
それは必ずしも肉体的なものだけではない、女性は何か男性にとって癒しなのである。
鮭は最後に必死になって川を上り産卵して死んでゆくのと同じく本能はそれほど強いのである。
老人が枯れるなどと言っていたのは60くらいで死んでいる老人が多い時代であり本当の老人の姿がわからない時代だった。
つまりそういう時代は優秀な老人がしか長生きしていなかったのである。
今は普通に誰でも長生きするから卑俗なものが老人でも露骨になる
まず老人とはなにか?これも老人になってみないとわからないのだ。
若いときは老人になることがイメージできないのである。
ただやはり若い人でも賢い人は賢い、結婚しなかったら手術するときなど誰が保証人なってくれるのだとか誰が看取ってとれるのだとか考えている人はリアルに老人をイメージしているのだ。
自分は不安があったイメージしなかったからだ。そしてその通りなった、病気になったことで身寄りがなく悲惨だったことをプロクに書いた。

そして意外だったのは老人になると食が細くなるというが実際は違う。何か食にこだわるようになる。これも自分では意外だった。自分はまず食う意地があまりない
食うことにそれほどこだわらない、腹をみたせばいいとかしかなかった。
何かうまいものを食べたいという欲望がなかった、こういうのもやはり個人差があるのだろう。
老人になると量より質にこだわる、うまいものというときこってりしたものより何か野菜が多い、和食風な質のいいものを食べたくなる、量より味にこだわるようになる
そんなこと贅沢だろうとなるが老人に対する誤解があるから書いている
食にこだわるといとき、「寿司もってこい」と形相を変えて死んだ女性がいた。
この女性は死ぬまで食い意地があった。まさに餓鬼の状態で死んだのである。
それほど人間は食にこだわるのである。

では食にこだわることが悪いことかというとそうともなない、なぜなら介護しているとなんの楽しみがあって生きているのだろうとつくづく思う
食もうまいから食べいるのではない,ただ生き延びるために食べているし胃ろうになったりしたら味もなにもないのである。あれを見たら本当に悲惨だと思った
老人になるとどうしてもどんなに注意しても病気になりやすいし体が弱ってくる
そして最悪の状態になりかねない、食べるものもただ生き延びるためだとなる生きている心地もしなくなる
人間は食欲があって食べ物をうまいのであり食欲がなくなれば食べ物はただ生き延びるための薬のようになってしまう
それで自分の父親は癌で死んだけど明治生まれの一生貧乏だったから最後に言った言葉が「刺身食えるようになったけど食いたくない」と言って死んだ
体がもう食を受けつけなくなっていたからだ。これも悲惨だったとなる
人間はいつまでもこれがうまいと食べられるわけではない、いつか食べてうまいという感覚すら喪失する
これがうまいと食べられるときはまだ幸せな方なのである。
別に金をかけなくても旬なものを食べることはできるだろう
今日は何かソバが好きではないが秋の味覚でありソバをめずらしく食べた
自分はもともと食にはこだわらない、旅行に言っても旅行が目的であり食ではないから千円以上のものを食べたことがないのである。
ありきたりのもので安いものしか食べていないのである。

そして老後は身の回りが大事になる。行動範囲が狭くなる。「遠い親戚より近くの隣人」が助けになる。その遠いとは隣の村とかの距離だったのである。
これは自分の息子でも娘でも同じである。遠いと何かあったら助けてもらえないのである隣の街でも8キロとかでも遠いと感じた。なぜなら車で来るにしても10分かかるし往復になると20分で通うだけでも手間になるのである。
近くだったら通うのにも楽だから近くが大事になる。生活でも近くが便利だと楽になる。その点田舎は不便である、特に一万くらいの町だとかなり不便になる。
4万以上だとそれなりのものがそろっている。特に病院がそうである。これが老後の一番の問題になりやすい、だから過疎地域とかには住むべきではない、田舎にもいろいろあり東京から見ると仙台すら田舎になるのである。それから限界集落のような所もある。
その田舎の差も大きいのである。一万の町でも街中とたった500メートルくらいした離れていない所でも田舎は違っている。

そこに住んでいる人は回りが農家なので付き合いがめんどうであり四六時中監視されていて女性は家に入れないと言っている。農家になると付き合いが強制的になりめんどうなのである。それは一キロもない地点でそうなっているのである。
一キロ離れているとそこは田んぼになっているからである。
田舎と言っても多様である。不便なようでも隣に大きな市があれば車で通いるからさほど不便はないかもしれない、ぽつんと都市から離れている地点になると大きな病院に行くのに百キロあったとなるという所もある。
この辺ではむずかしい病気になったらもうあきらめるほかないだろう
糖尿病の人は仙台まで行ってみてもらっている。まず医者は選べない、そもそもむずかしい病気になるともうお手上げになる。自分の町では歯医者意外は二軒しか医者がいない
一軒は年取っているからいづれ終わるとなると一軒しか開業医はいない
病院はあるが大学から来る医者だからいつもみてもらえることはできない
ただディサービスなどの介護施設ができたから近くで便利だった

そして老人になると狭い範囲で暮らすことが多くなるから親密な人間関係を作ると楽である。ただ人間が親密になることは時間がかかる、十年くらいないと親密になれないから外から来た人は親密になることはなかなかむずかしい
人間関係は田舎に住んでいても一番むずかしいのは変わりないのである。
だから田舎でも仕事をもち田舎に貢献していれば溶け込みやすい
老後をただ年金だけで暮らすとなると田舎では働き手にならないから敬遠されるかもしれない、田舎では高齢化がすすんでいるから特にそうなる
限界集落ではすでに老人だけになりもう村を維持できなくなっているからである。

いづれにしろ老後問題はいろいろと問題がある。下流老人問題もそうである。
下流老人問題も深刻である。それで自分も被害にあった。ぎりぎりで生活している人が膨大に増えているのだ。そういう人は老後の食の楽しみすらないかもしれない
ただこの辺ではそもそも外食にしても限られているから特別なものは食べられない
世の中どこに住んでもあらゆることで恵まれることはないし満たされることもない
自分の条件は都会のように混んでいる所ではない、静かな所を好む、だからその他はあまり満たされなくてもいいのである。これは人によって異なる
結局自分の状態で一番たりないのは家事の問題なのである。
ある人が70くらいの人が家事のために結婚したいというのがつくづくわかる
家事というのが相当にな労力でありまた介護が加わるとさらに負担になる
介護で有能な人が会社をやめたりすると日本の国力の衰退にもなってゆく
テレビでみたけど有能技術者の妻が認知症になり介護して家でパソコンで設計していた。これも楽ではない、まず介護していると集中できなくなるからだ。
この夫婦は50代くらいで若い、介護問題は日本国民全部の課題なのである。

ただわかったことは人間が本当に能力を発揮するのは50以降だということは言える
それまで貯えていたものは必ず実りとなってくる。
今になると読んでいた本でも読んだ時はほとんどその意味がわからなかった。
ただ本を買っていてつんどくだった。何か本を買うと知識が増えたように錯覚していたのである。
だから本の山に埋もれていただけである。その内容を消化していたわけではない
今になると本を自分なり引用して自分なりに解釈できる
それでいろいろ今までわからないことがわかってくるから有意義な時間を過ごすことができる
知識もやはり蓄積だったのである。何事日々の蓄積の上に何事か成る
それはつまらない雑学のようなものでもそうなのである。
そういうものでも知識であり役にたつのである。
知識も膨大であり自分なり理解して積み重ねたのが自分自身の知識になっていた。

ともかく老後になると人生はなにかとか自ずからわかってくるのである。
そして人生を後悔しない人はいない、こうしたら良かった、あんなことしなかったら良かったとかどんな優秀な人だろうがなる。
結局それだけ人生は短いからそうなる、もし二百年でも健康に生きれるならそんなことはない、語学をこれからもっと勉強したいとなれば百歳からでもやれるとなるからである。結局人生の短さが様々な後悔となり終わることになる
結婚しても後悔があり結婚しなくても後悔があり何をしても後悔があるのが人生である。結婚しない人は何か人格的には欠けている
では結婚した人が人格円満かとなるとそうでもない、結婚してかえって人格が悪くなったという人もいるだろう。
結局人間は最後は健康がなくなることが最悪である。食べても何の味もない、この人は何で生きているのだろうとなる
百億の金があっても味覚がなくなれば何の楽しみもないのである。
宗教では食べることにこだわるなというけど味覚にこだわるのは脳の刺激にもなるし健康にもいいのである。
老人は五感が鈍化してゆく、だから何でも味覚でも刺激すると脳の働きが良くなるのである。だから貧しくても工夫して味覚を楽しむべきだとなる



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三井不動産の傾斜マンションはなぜ起きた (複雑に専門化して検査できなくなっている)


三井不動産の傾斜マンションはなぜ起きた


(複雑に専門化して検査できなくなっている)



建築業界に詳しい専門家は、工期重視の慣行や建設ラッシュなどが背景にあると指摘している。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG19H9F_Z11C15A0CC1000/

住宅ジャーナリストの榊淳司氏は「旭化成建材は、デベロッパーである三井不動産グループの下請けの立場になる。日本ではデベロッパーの命令は絶対なので、工期を守るため(旭化成建材の)現場監督は相当なプレッシャーを感じていたのかもしれない」
http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/151017/lif15101720010017-n2.html



なぜ手抜きしたのか?手抜きしてコストをおさえるためなのか?その辺がはっきりしない
最近起きている事故の原因は韓国フェリー沈没でも明らかに無理してもうけようとして船を改造して沈没した。
鬼怒川の土手のソーラーパネルが原因で洪水になったというのはそれも土手を削って無理して設置した。
原発でもコストをおさえるために高い所に建てることが決まっていたが電源を下に置いたのでわざわざ土地をけずって低くした結果津波の被害にあってとりかえしのつかないことになった。

そして被害者もここで暮らした思い出とかその他いろいろあるから簡単に他に移れないというとき何かこの辺の原発事故で故郷に住めなくなった被害とにている。
それで精神的被害として賠償金が払われたのである。
今回の問題はもし工期重視とか関係しているとなるとコストをおさえるために手抜きしたのとも違う、でもそれも関係していたのかもしれない
ただ露骨にコスト削減ということでワイロを出したとかはない。
でもなんらかミスではなく故意のミスだったのだろう。
杭が支持層に到達しないということを知っていてもそうした。
それは何らか理由があってそうしたとなる
杭打ちの担当者だけが一人のミスでこうなったのだろう?

原発事故のことからこういうことを考えるようになった。
そしてなぜ事故が起きたかというとその事故の原因に共通性がある。
それはコストをおさえるということである。
そのコストをおさえることが安全を無視することになる

「上の方から工期内に仕事を終わらせろ、そうしないと次の仕事はないぞ」
「早くしろといっても杭打ちでも時間がかかる、どうして早くしろというのだ」
「いちいち理屈を言うな、早くやれと言ったら早くやれ」
「そんなに言うなら,ごまかす他ない、、、、これは簡単には見分けられないからな
責任は誰がとる、上の人だよ、俺たちも仕事もらえなくなったら終わりだ
上の命令には従わなければならないかな」

下請けとかは弱い立場にある。この世の中権力がもの言う社会である。
権力のないものは上に抗議もできないし、力もないのだから従うほかない
何か雇用する人雇用される方でも権力関係がある、ビジネスでも仕事をもらうためにいろいろと工作する、受注する方は弱い立場になる
だから官僚は国の莫大な予算を使うのだから上にたち受注する方はワイロを送ったりして不正が起きる。

つまりこの世の中権力関係でこうした不正から逃れられない。東電の権力は国並みであり政府も一体化していたから「安全神話」が作られた。
検察も一体化して作られたからそれに抵抗できるものはいない、東電でも下請けの数は多いしまたトヨタなどの下請けでも膨大な下請けがいる。
その人たちは仕事がもらえなければどうにもならないから弱い立場になり上の命令に従わなければならない
結局この世の中権力で上下関係が生まれそこに不正が生まれる
権力をもつものとはいろいろな所である。病院でもそこは権力関係があり権力をもつものに従うシステムである。だから医療ミスがあっても権力があるから一患者は弱い立場になり明らかにされない
マスコミでも権力をもっているから報道でもかたよる、マスコミ自体が会社の宣伝費で成り立っているのだからすでに公正は望めない、会社が宣伝費を払わなければ成り立たないからである。
要するにこの世の中は権力によってあらゆるものが支配されるシステムなのである。
その権力に公正さがあればいいが実際はないから問題が起きてくる
アメリカは強大な軍事力で権力を持っているが公正とはならない。
そういう国際関係でもそうだし政治でも宗教でもビジネスでもそうである。
宗教でも巨大な団体になると公正とは関係なく権力化して従わせることになる

民主主義はこの権力を抑制するために三権分立ができた。でも現実の社会では権力の公正はない。
今回の杭打ちの不正でもそうである。何か原因が明確でないにしろ有名な大企業が権力がありその権力故に問題が起きてくる。
そもそも下請けに権力故に過重な要求をすること自体が危険に通じていた。
それはブラック会社で過労死されたとか訴えがあったことでもわかる。
権力をもつものは横暴になる。権力で何でも通るということが怖いのである。
それが回り回って消費者が被害者になる。
それは東電でも同じだったのである。政府と一体化した巨大な権力をおさえることはできない、そして安全神話は作られた。
もし安全でないというと検察とか戦時中の特高のようなもので逮捕されることさえありえた。戦争に負けるとか言うと特高につかまった。「安全ではない」というとこの辺では暮らしにくくなった。
東電で働いている人が多かったから今でも東電のこと悪く言えないんだよなという人が多いからである。それだけ原発は地元に利益をもたらしていたからである。

なぜ人は権力をもちたいとなるのか、創価でも他の宗教団体でも左翼系だろうがあらゆる団体が権力をもちたいと活動しているのだ。
それは結局権力で得をしたい、権力によって今回の下請けのように従わさせられるのが嫌だからだとなる。その人たち公正さなど追及しない、なぜなら現実の社会で得している人は権力をもっている人たちであり公正を追及している人たちでないからである。
そういうことを肌で知っているからそうなる。なぜ権力のないものはこんなに苦しみ下位に落とされて悲しい思いをするのだと身をもって経験しているからそうなる

もう一つの問題はそうして会社が大きくなり下請け孫請けとかに回すと責任の所在がはっきりしなくなる。そして検査するにも複雑になっているから簡単に検査できないのであるそして結局官僚でも検査しようがない、原発でも保安員は検査できなかった
それは専門的だから複雑であり検査しようがないのである。
専門家しかわからないしまた今回はその専門家の間でさえ見抜けなかった。

西区の住友不動産のマンションの杭の打ち込み不良も何段階も検査、確認の課程があっても ひとつもまともに機能していないのが報告されてるからな。というか確認っていったって確認なんかろくにしてないだろ。

もう検査すること自体できないように複雑になっているのである。
だから吉田所長が電源喪失時に原子炉を冷やす1号機の非常用復水器(IC)の仕組みをよく理解していなかったというのもそうである。
吉田所長は外からだと原発のことを何でも知っていると思うだろう。
それが肝心なことを知らなかったのである。
ここでも大企業がかかわっても下請けとして旭化成が請け負うとしても旭化成でも大企業である。それでもチェック機能が働かなかったということはにている。
チェックしきれない、検査しきれないという問題が常に起きている
ドイツのVWの偽装問題でもそうだった。
たまたま検査されて発覚していたのでありコンピュターでソフトで偽装していた。
これも検査できないからそうなった。

そしてマンションを買った方が企業を訴える場合、立証責任がある。それは犯罪と同じである。立証責任を負うということは容易ではないから犯罪にあってもあきらめる人が多いのである。
これは医療ミスでもそうであり原発事故だって放射能のことなどわからないから追及しにくいのである。相手が東電とか政府と一体になっていればもう追及はできない
前の佐藤知事がプルサーマルで追及してもできない、それが原因で落選したとか言われるその後釜には渡辺構造の甥が原発推進派が知事になったと言われる
こうして権力で政治でもビジネスでも動くとき不正でもごまかせるとなる。
いちいち原発の内部のことなど小さいミスなど報告する必要がないとかごまかして報告しておけとかなりそれが大事故につながる
だから権力の対等性がないかぎり同じことは起きる、権力の対等性があるとき本当の民主主義が機能するとなる。
それはあらゆる面でそうなのである。報道でもマスコミがあまりにも権力をもったから公正でなくなっていた。
でもこの権力の公正さ対等性がどうして実現するかとなると最高にむずかしいだろう。
それはこの世ではほとんど不可能に近いとなってしまうのである。

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2015年10月24日

大学に文系はいらないのか? (自分も文系であった経歴)


大学に文系はいらないのか?

(自分も文系であった経歴)


最近文系の大学など無駄だ、税金の無駄だということで廃止した方がいいと議論になった自分は大学をでても三流であり実際にほとんど勉強していない、文系の大学は遊ぶ場となっていた。
急速に団塊の世代が大学に入るころ学生が増えたのである。それで文系の大学は特にマンモス大学になった。3000人も講堂で講義するということが異様な風景だったのである。
高校と大学はあまりにも違っていた。高校は授業は強制であるが大学は授業に出なくてもいいというのがあまりにも違っていたのである。
授業に出ている真面目な学生はかえって嫌われていたのである。そして文系の単位は授業に出なくても最後に何回かでてとれるし卒業できたのである。
そんな卒業証書に何の意味があるのかと思う。
文系の学問の成果は何なのかとなる。理系はまるで違っていて毎日実験とか勉強の度合いがまるで違っているのである。だから文系大学は遊びだというのは本当である。
一日マージャンしていた人もいるし勉強しないのが普通なのである。


それでも団塊の世代は自分の中学のクラスだと4,5人しか大学には行っていない、第一その頃中卒であり金の卵として東京の中小の工場で働いた。
それは中学でてすぐに東京で親元を離れて働くのだから過酷な面があった。アルバイトでその下町の工場では油にまみれ汚い狭い部屋で寝泊まりしていたのである。
それは中国の出稼ぎ者とにていた。その人たちが高度成長の労働力となったのである。
だから大学で遊んでいた自分などと中卒で東京で働いていた人たちの差も大きかったのである。
自分はまず勉強嫌いであり何かあらゆる面で劣っていたから体力でもだめだし何か人格的にもあまやかされてためだった。また自分は集団になじめなかった。
でも東京の大学で一時は体育系に属していたりカルト宗教団体に入り集団生活にとけこむために必死だった。
その後は会社にも入らないし集団生活はしていない、今で言うニートとなった。
その時は無職のような人はアウトサイダーになっていたのである。
ほとんどが会社員になっていたし誰でも正社員になれた時代だからである。
Fランとかでもみんな正社員として就職できたから楽だった。
でも自分は大学に入ってから遊びくせがついたというか真面目になれなくなった。
だから団塊の世代がほとんど企業戦士になったことが理解できない
一回文系の大学に入れば遊びの場だからそんなに企業戦士になれると思えないからである自分は特殊でも何かそれが今では理解できないのである。


でも自分は何か今になると学問好きだったと思う。そして思うことは自分のような体力のないものは学問とかで身をたてる他ないということを自覚した。
職人であれ建築現場であれそこで働くにはやはり体力かものいうのである。
体力があればブルーカラーでも勤まるが体力がないと勤まらないのである。
だからそういう体力のない人は事務系とかなるから学問に励まねばならなかったのである自分の家の庭を作ってくれた大工兼庭師は体力でも優れていた。
何か柔道の有段者のようにも見える、体が全然違っているのである。
そうでなければまず大工でも庭師でもできない、基本的に現場の仕事は体力がものいうのである。
それでアルバイトでしたことは流れ作業しかないのでそのことで仕事を嫌悪して一切仕事はせずに旅とかばかりするようになった。
流れ作業をしたらまず仕事自体に嫌悪しか覚えなくなる、一つのロボットにされるのだからそうなる、そこにはすでに人間の誇りも何も奪われてしまうのである。
自分は多少英語などは好きな面があったがこれも根気がなくてものにならなかった。
学問とか語学とかは根気が必要でありそれに欠ける人はものにならないだろう。
理系も実験だとなると相当な根気のいる仕事であるから何事根気がなしでやれる仕事はこの世にはないのである。


自分の人生をふりかえると確かに遊びの人生だった。それは大学が遊びだったことからはじまっていたのである。たまたまそういう家庭環境があり許されたということになる。
だからこれも特殊だったとなる。今はニートが普通にいるがその頃はいないからである。文系とはなにのなか?これは別に本当に大学に行かなくても本を読んだだけでも学べるものである。
とくに今になると有利なのはインターネットで学ぶだけでも別に授業に出なくてもいい、文系の教授は専門性に欠けているし学ばなくてもいいとかなる
そして本を買うということが本をそろえることが文系では大事である。
自分の興味のある分野の本をそろえることが読まないにしろ必要なのである。
それがインターネットでアマゾンで古本でも何でも安く買えることはかなり文系の勉強にとっては有利である。
文系は本を読むだけでもすでにそれで十分だとなっているからである。
文系は特に何か教授でも教えるものがないというのが現実だからである。


しかしそれでも文系の分野も実際に相当に広範囲であり何を学ぶのかとなると専門にするのかとなるとむずかしい。
ただ文系なら他の分野のことでも一応理解できる、理系となるとこれだけ細分化されているから他の分野は理解しにくくなる。
それで東電の原発を指揮していた吉田所長が肝心の複水器のことを知らなかったというのは意外だったのである。
所長となれば原発のことをたいだい知っていると思ったからである。
今は何でも複雑だから理系でも知らない分野になると知らないのである。
それにしても所長も知らないとしたら一体何かあったときもう何もできないとなるのではないか?
旭化成の社長は東大の薬学部げあった、としたら建築関係のことはわからないとなる
社長がわからないのだから支持しようがないとなるのではないか?
だから理系でも細分化されてあらゆることを知る人などいないのである。


ともかく文系と理系を考えることは結構大きな深い問題である。
だから簡単には解決できないし決定できない問題である。
一つの視点としてもしかしたら文系が無駄だというとき優生思想のうよなものがあるのかもしれない
障害者は無益で社会の負担にすぎないから抹殺すべきだということがナチスの優生思想で起きた。アーリア人が優秀だから他の人種は劣っているから抹殺すべきだという思想である。
理系の人は何か文系が根本的な理系の常識である知識すらないから馬鹿にするということがある。そこで理系は文系は無駄と思ってしまう。
実際に日本のとき戦争では学徒出陣でも理系の学生は免除されたのである。
今でも理系は国を支えるものとして見られているのである。
ノーベル賞のように世界に通用するのは理系であり理系が実学であり現実に役にたつものとして社会からも認知されるからである。
だからお医者様となり社会でも優遇される
一方政治家でも官僚でも法律関係とかなると文系的なものはうさん臭いものに見られる
理系は何か必ず結果がでるしその責任が偽ることができない
傾斜マンションでもそうだし原発でもそうだしはっきりと結果としてでる。
甚大な被害があり責任が理系の人には技術者には課せられているのである。
文系にはそうしてはっきりと責任が問われることはない、だから社会を支えるのは理系だと理系の人は言う。
弁護士すらさげすまされている、ブラックな仕事だと言われる。それは法律をたてに巨額の遺産とか何かそういうものにかかわり示談屋のようになっているからである。
法律をあやつってぬれてで粟の利益を得るとなる。


ともかくこの理系と文系という問題は奥が深いし簡単には語れないだろう。
ある意味で人類史的な観点とか歴史的にも人間をふりかえらないと何が理系で文系なのかもわからない、奥深い問題である。
つまり理系と文系というとき浅薄な問題としてしか考察していないのである。
これは人類史的視野で見るべきものなのである。
確かに哲学が俺はこういう哲学をもっているとか誰でも今は言う
しかし哲学とは体系的なものでありそういうものは哲学ではないというのもわかる。
たいがい西洋の哲学は体系的でありそれで力をもったが日本ではそうした体系的な哲学という学問は生まれていない、「心の青雲」で言う弁証論というのがそうなのかそれも社会ではまだ認知されていない、弁証学というのはアウフへーベンとかドイツ哲学の流れをくむものだろう。
理系と文系を考えるとき心の青雲は役にたつ、文系が理系的なものを見る視点がある。
だから文系のものでもわかりやすいのである。
理系と文系をかねそなえた人はまれである。自分はまず理系的に説明されるとまるでわからなくなるからだ。


ただこの辺では原発事故で放射能のことが毎日のように放送されるし被害があった。
するとどうしても放射能のことを知る必要が出てきたのである。
距離の二乗に反比例して拡散するから30キロまでが避難区域になった。
放射性物質は数字でしか計れない、そうなると数学の世界だった。
数字で確実に出るから明確だともなる、浪江では0、5くらいだったのに急に7になったときは驚いた。大熊でもそうである。そこは確実に高いから住めないと思った。
これは数字ではっきりと出るからかえってわかりやすいとなる
原発事故や津波のことでもこれは理系の分野だったがまた文系の分野も関係していた。
一体この辺の様々な複雑な問題を解決するのは理系だけのなのか?
この辺では政治でもそうだが様々な問題の場なのである。一体それをどう解決するのかとなると理系だけでは解決できない、郷土史とか関係ないと思っていたが関係していた。
郷土史などは好事家のものだと思っていたがこれを郷土学とすればトータルに郷土を追及する学問になる。
だから原発事故周辺の問題の解決は様々な分野の人がかかわる場になった。
それは理系が主でもやはり文系でも関係していたしその解決はトータルなものとして追及されるものとなったのである。




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大学に文系はいらない(2) 理系と文系の相違は何か


大学に文系はいらない(2)


理系と文系の相違は何か


この世界を見るのは二つの方法がある、それが物質世界と人間世界になる。物質世界は理系であり人間世界は文系になる。
理系には人間世界と関係しないで物質を探求する
例えば考古学があるとしたらそこで発見された石器がある。その石器がヨーロッパ
で発見されたものは大きいというとき殺傷能力も大きいということである。
理系だったらその石器をどういう状態でどんな石を使って作ったとかもっぱらその石器自体の物質的成り立ちに目を向ける。

一方で文系の人はその石器自体の成り立ちよりその石器が人間にどう影響するのかを見るそれを人間の歴史からみる、ヨーロッパでは戦争が多かったというときそれは石器の時代からアジアとは違っていたと書いたがそういうふうにみる
石器の違いが人間にどう影響したのかをみる、一方で理系の人はその石器の成分とかを念入りに調べる、人間社会にどう影響するかはあまり考えない
その物自体に興味を持つのである。それは化学式となり元素記号化する
そのことが理系と文系の大きな相違かもしれない。


文系の人は例えばいろいろな道具でも車でもその道具を作ることではなく車が人間社会にどう影響するかをみる、自分も文系だからそういう思考になる。
車が嫌いだとか車は人間的ではないとか交通事故になるから危険だとかもっと車をへらしてバスでもいいとか交通体系を変えるべきだとか社会体制まで論じる。
でも理系の人はそういう車が社会にどう影響するかよりより高性能な車を技術開発することをひたすら目指している。


自分もそうだが文系の思考は何か医療でもあらゆるる技術でもそれが社会にどう影響するかをみる、だから原発でもそれがどう回りに影響するのか心配する
原発が社会にとって必要なのかどうかを議論する。
理系の人は原発の社会的影響より技術的にその技術を完成しようと努力する
原発の危険性があっても技術者として原発の技術の完成に向かって努力する
理系の人は技術そのものを最高のものにしようと努力している。
それは医療でもそうである。人間を不死き体に老いない体にまでしようとしている。
結局技術の完成を目指すとしたら人間を死なない体にすることが究極の目的になってしまうからである。

象徴的なのはアルキメデスは足場を与えてくれ、そうすれば地球すら動かして見せよう。、、、あれば世界を動かすと言ったが戦争にまきこまれて死んだ、つまりこれこそ理系なのかもしれない、回りの状況を社会のことなど関心を払わずそれで殺されたとなるからだ。

街が占拠された時アルキメデスは砂の上に描いた[9]数学図形(en)について熟考していた。ローマの兵士はアルキメデスをマルケッルスの元へ連行するよう命令を受けていたが、アルキメデスは思案中だとこれを拒絶した。これに兵士は激高し、剣をもって彼を殺した

回りの人間がどうなっているか見ない、ただひたすら研究に没頭していたのだから理系のオタクのようになものともなる
理系的思考になるとそういうふうに世界も理系的思考で世界を動かせるという自負になる世界を作り動かしているのは理系だとなることがここに象徴的に示されているのだ。
回りで起きている社会の人間の動向に無関心だったのである。
社会の人間の動向に絶えず関心をもっているのが文系である。
なぜ事故が起きるのかと探求すると理系なら技術的な問題であり技術が改良すれば解決するとなる
でも文系だとモラルがないとか会社の組織が問題だとかコストを第一にするとか技術そのものよりそうした周辺的なものかかわる人間を問題にする
アメリカが古い原発をもってきたのが悪いとかアメリカがそうできたのは日本が戦争に負けたからだとかそういう歴史とかも関係させる、理系だと原子炉がどうなっているとか
原発そのものの技術的な問題に関心がありそれが第一となる
それで東電が原子炉のことばかり心配して回りの住民のことを心配していなかったというのもそのためである。
回りの住民を避難させることが遅れて混乱したのである。


例えば文明をみるときこれは理系が作ったのだろうか?ピラミッドなどは高度な建築だから理系が設計して膨大な労働力で人力で作り上げた。
それを作り上げたのは技術は理系である。でも文系になるとどうしてこんなピラミッドを作ったのだろうと考える、それは当時の人間社会にどう影響したのだろうかとか何のために作ったのかと考える、理系だったらその構造の分析をするが文系は当時の社会にとってどんな意味がありなぜこんな巨大なもの作ったのかと考える
それは実際に未だに王の墓でもないとなると一体なんのために作ったわからないのである

そもそも文明というときエジプト文明がありキリスト教文明がありイスラム文明があり仏教文明がある。これは理系が作った文明かとなる
それらはモラルを中心にしたものであり技術はあくまでもそのモラルがあって建築技術となり石像でも何でも宗教の建築物となっている。
宗教となると明らかに文系なのである。だから宗教的観点からすれば武器とか作ることましてや核兵器など作ること自体否定する。肉食を否定しているように宗教が平和を目指すのだから武器そのものを否定する。それはどの宗教でも同じである。
でも理系にとっては技術を開発することであり核兵器が人間社会にどう影響するかなどあまり考えない、アイシュタインなどが広島に原発が落とされたことで反省はした。
でも物質そのものの研究は物理学で延々と行われている。それが社会にどう影響するのかとか考えない、技術にはそれ自体が人間社会と関係なく追及されているのである。


例えば不老の医療が発達してさらに寿命が伸びたときそれが人間社会にどう影響するかを考えない、そんなに人間が長生きしたらどうなるのか?
それもかなり苦痛になるだろう。暇をもてあますこともあるし子供を産まなくなるなるとどうなるのかとかもある。
不老不死になったら確かに子供はいらないとなる。それも淋しい社会だとなる
つまり科学とはそういう人間社会にどう影響するかを考えないで研究がどんどんすすんでゆく
それが原発事故とかいろいろな社会問題を引き起こしているのである。
DNAまで遺伝子まで操作したらどうなるのかとかそこには原発のように危険なものとなる
そこに理系と文系の大きな相違がある。
この辺の原発事故でもうどうしていいかわからない、その解決方法がない、そういうことをある程度予想できたのけど原発は建てられたし理系の人は回りの影響についてはあまり考えないのである。
つまり科学技術信奉になってゆき、事故は百万年に一回しか起きないと何か科学万能の信仰になり神話になりもうとりかえしのつかないことになったのである。





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2015年10月25日

抽象画(拡散する街ー連結する街)


抽象画(拡散する街ー連結する街)

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拡散する街

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連結する街

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異国の花



抽象画が何に見えるかは決められない、でも何かに具象画にしたいのである。
だからこれも街の拡散と連結というときそういうふうにすでにタイトルから見るのであるでもタイトル通りにはならない
これは秋の色という自分が作った抽象画をまた変化させたのである。
抽象画は無限の変化である。


ただ不思議なのはすべてが変化して抽象画にはならない、いくら変化させてもそれらしいものにならない
抽象画とは何なのか作っている方でもわからないのである。
変化させてみたらこれは街だなとか岩があり森がありとかイメージする
でもそうみんな見えるかといったら見えないのである。
それが具象画と根本的に違っているのである。





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国際性が身につくとは何か (株とか世界に投資してみるとわかるー信用が一番大事)


国際性が身につくとは何か


(株とか世界に投資してみるとわかるー信用が一番大事)


カナダに投資したらカナダのことは行ったこともないし知らない、でもカナダがどういう国なのか気にかかるようになった。
カナダに投資しているからカナダが経済的にも利益を出す国で政治でも安定していてその他でも何か世界に利益になるものを売り出しているとか気になる
石油の資源国なことはわかったがその他のことも気になる

投資することとか商売することとかグローバル経済とは何かというとき何か自分は学問的に考える、するとそれが学問上の問題のようになり現実から離れる
でも投資するとなると違っていた。中国の経済の不安で株価が世界的に下落したしカナダも下落して一割ひかれたことは大きかった。
株は前からそういうことがあった。だから株はリスクがあるから怖いのである。
ただ日本では株を多少していたが外国に投資したのははじめててである。
だから投資した外国のことが気になるようになった。
それはただ旅行しているとか学問的に外国のことを知るのではない、実際に自分の金がどうなるのかという深刻な問題になったからである。

人間は自分の金が得したり損したりするとき真剣になる。ギャンブルがやめられないのはそうした金の真剣勝負になるからである。
株は必ずしもギャンブルではない、外国に株であれ国債であれ何であれ投資することは何を意味しているのか?
例えば会社で働いている人は外国で勤務したりするとビジネスでも具体的に理解できる
外国と取引すること商売することがどういうことなのかわかる。
そういう経験を積んでいれば別に株をしなくても外国と取引する外国人とつきあうということがどういうことかわかる

外国に投資することで最大の問題は何なのか?そこは日本ではないということである。
それは当たり前のなのだが日本でないということはまた大きなリスクである。
なぜなら日本ではないということは日本で受ける保証がないということである。
だからある時投資した金がゼロになる、外国だったらそういうことも簡単にできる
としたらまず外国に投資したりしないだろう。。
現代のグローバル経済というときいろいろ批判してきたけど自分が株とかに投資したときそのグローバル経済の中に組み入れられていることを実感した。
資本主義が資本を投資してはじめて資本主義を理解するのである。
貯金していてもわからない、資本をもちその資本を金でも投資するとき資本主義を理解するのである。


その資本主義であれグローバル経済で一番大事なのものは何なのか?
それは信用なのである。金をあづけることは信用するからあづける、そんなことが当たり前というけど信用がなければまず商売は成り立たない、経済も成り立たない、まずカナダという国を信用するから金をあづける。そこは外国だから余計にそうなる。
政府で簡単にあずけた金をゼロにされたりしたらもう世界経済も資本主義も成り立たないのである。
商売で一番大事なのは信用なのである。これはあらゆる面でそうである。
信用がなければ社会も人間関係も成り立たないのである。
信用ということは農民だったらあまりなじみがない、信用にかかわることがあるとしても具体的に人と人のやりとりがあっても農民だったら何を信頼するかというと大地だとか自然になる。人間と人間の関係ではないのである。
商売では契約が一番大事であり命に懸けても守らねばならないものとなっているのは信用が第一だからである。
それで聖書が絶えず人間と神との契約の書だというときまさにその信用のことだったのである。中東辺りでは商売がはじまった歴史が非常に古いからそうなった。
法律でも商売に由来するものが多いのである。
宗教と商売とは関係ないようでも密接に関係していたのである。

グローバルな資本主義世界となったとき、そもそも貿易をして商売するのだから信用がなければ成り立たないのである。
中国では偽物が多いから日本で爆買いするというときもそうである。
中国はなにかと政治でもまだ信用がないから投資するのが世界でも不安になる。
それは政情不安な国とかもそうであり何か信用できないとなる
だから投資しにくいとなる。投資というのは大損するときがあるから個人的にでも簡単にできないのである。
ともかく投資することは信用するから投資するのである。
問うされた人は国でもその信用に答えねばならない、それが世界経済として成り立つ、信用がなければ国と国の貿易でもできなくなるからだ。

それで例えばTPPというときこれも日本だけが不利とはならない、アメリカでも反対しているからアメリカでも不利なのである。
でもこれも互いに信用しなければ成り立たない、アメリカが一方的に得する仕組みだとなると他の国も参加しないだろう。
そしてTPPの一番の問題がその参加国が信用しあえるかなのである。
その一番の不安が食料にあるだ。
何かあったとき食料が入ってこなくなる、金でも買えなくなる、何かそこが一番外国だから不安になる。日本国内だったらそういうことはない、食料だと輸送するのも新鮮なままに輸送するのもむずかしくなるからだ。
これも経済でそうした協定を結ぶことは国が違うのだから国同士の信用関係がないと成り立たないのである。

なぜ中国とか韓国とかと日本はうまくいかないのか?それは常に戦争のことで責めれるし日本を敵国のように攻撃してくるからである。
すると中国はいつ日本を攻めてきて占領されるかもしれないと不安にさいなまされているのである。日本人が滅ぼされるという極端な不安をあおる人もネットにいる。
それは信用できないということにある。
ただ信用できないというとき国同士信用しあっている国があるのかともなる。
ロシアは信用できないとかもそうである。それは歴史的にもシベリア抑留とかで信用できない、政治的に信用しあっている国があるのかとなる。
ヨーロッパは連合したがEUになったときそれは信用しあうものとして連合である。
その国々では国境もなくしたというのはそのためである。

ともかく商売とか経済とかはグローバルになったとき信用がさらに大事になる
なぜ例えば原発を最初に福島に作ったときアメリカのGEは古い型のマーク1を日本に売りつけたのかというのもそうである。
それは危険なものだったが外国だから売りつけたのである。

外国だから粗末なものでもいい、もうければいい

つまりこうなるとき公平な商売貿易は不可能になる。外国となるときすでにもう信用関係がない、危険な原発でも被害が及ばないとなれば安いものでも古いものでも売りつける。それは無責任だとなり外国は信用できないとなる。
日本国内でも東電は東京では危険だからはフクシマに原発を作った。それは東京までは事故が起きても被害にならないということフクシマに作ったのである。
すでにそこで原発はリスクをともなうものと認識していたのである。
それほど安全を言うなら東京に建てれば良かったのである。
そこにすでに信用できないものとしてフクシマでも見れば良かったのだが金欲しさが優先されて信用したのである。
その信用は見事に裏切られたのである。

ともかく人間関係でも信用が一番大事である。それは人を雇う者と雇われる者でもそうである。まず信用がなければ雇うこと自体できない、だからどうして雇う人間を信用するのかということが最大の問題だった。
近くに住んでいるからとかそんなことで信用したりしたのが失敗だった。
田舎だから安全だとは今はならない。
そして信用関係は簡単に築けない、時間もかかるし互いに信用するには必ず問題が起きて信頼できないとかなる。でも何とか問題があったが和解したとか信頼関係ができたとき
安全になる。それは狭い地域でもそうだから日本国内でも広いから同じである。
外国となるともともと国同士が常に信頼できないとなっているとき、どうしてでは経済でも商売でも貿易でもできるのかとなる


だから国際関係の基本は政治だけではない、経済にあり商売にありその他国と国が行う事業とかでも信頼関係が必要になるのである。
信用できないということが致命的なのである。
物を売ったけど金が払われなかったとかインターネットであればインターネット自体信用できないとか問題になる。
インターネットというメデアが何か信用できなるのかとなるとここでも商売をしているからそうなる
人間関係とは国同士でもどうしたら信用関係がもつことができるかが最大の問題なのである。
契約はその信用を証明するものだから一番大事なものとなる。
いくら自分はそんなこと契約していない、金を借りていないと言っても契約書があれば
嘘はつくことができないとなる。それで契約書が大事になる。
でも日本ではこの契約の大事さを認識していない
つくづくだから中国とかと政治問題でこれほど信用できないとなるときどうして経済が貿易ができるのかともなる。
日本の会社は中国をひきあげるとか投資もしないとかなるのである。
それは韓国でもそうだけど信用できないからそうなるのである。
中国の日本の会社が打ち壊されたりしたらもう経済活動も何もできなくなるのである。
戦争のことと経済商売のこととは別である。戦争の問題とかで日本をたたくことで貿易もできなくなる、戦争のことはなかなか今でも判断しにくいのである。
そのことで常に攻められたら日本でも中国とはかかわりたくない、経済的にもかかわりたくないとなってしまうのである。





posted by 老鶯 at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2015年10月26日

みちのくと十三夜の月と金色堂


みちのくと十三夜の月と金色堂

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月雲に隠れてあわれ秋薔薇

みちのくに十三夜の月眠るかな

みちのくに十三夜の月金色堂

十三夜の月光照らす金色堂


津波の後荒寥と秋の日の没りて枯木のなお立ちにけり

津波より五年も過ぎむ庭の樹のなお立ちにつつ秋のくれかな

一三夜の月の静かな田舎かな遠くに行けず籠もる我かな

十三夜の月こそあわれ夜はふけぬ百歳の母の介護のつづきぬ

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クリック拡大

津波の跡にまだ残っている家の庭の樹、枯れているけど倒れることもない
何か離れがたく以前として残っている




昨日が十三夜の月とネットに出ていたけど今日も満月でありきれいである。
何か十三夜の月は神秘的である。
一段と宇宙の静寂の中に美しく輝いている


今は遠くに行けない自分だから籠もる自分になったからこれもにあっているともなる。
一五夜と一三夜の感じが相当に違っている。十三夜の月は何か奥深くものを感じる
だからみちのくにあっているかもしれない、みちのくというときやはり現代でもその感覚は歴史とともにある。
みちのくというとき芭蕉によって一詩人によって印象化された面がある。
もちろん古代からみちのくというのはすでに歴史的に独特の位置づけがあった
京都から離れた遠い辺境の地としての位置づけがあった。
だから「五月雨の降り残してや金色堂」があった


この句にみちのくが印象づけられる、みちのくというときなかなかそれが一つの地域としても一体感をもちにくい、みちのくといっても広いからである。
青森とかなるとみちのくでもさらなる辺境である。秋田といっても何かなじみがない
実際は平泉までがみちのくとしてありその奥となるとまた違っていた。
平泉が栄えたということがみちのくの栄華なのである。ただそれも三代で終わったはかない栄華だったのである。
ただみちのくの魅力は西のように華やかではないのだけど何かそこに魅力がある。
辺境の地として魅力である。それはスコットランドとかにている。
ローマの辺境としてスコットランドがあり薊がその国の紋章となっていることでもわかる

ただ常陸とみちのくの感覚はやはり違うだろう。それは古代からそうなっていたのである白河の関から勿来の関からそうなっていた。その歴史はそれだけ古いのである。
みちのくはだから京都から見たとき遠い辺境の国として江戸時代までもあったのである。今は何か外国人とかの観光で騒々しくなった。
京都でもそうである、どこでもそうである。そうなるとやはり日本的風情もある程度はそこなわれる。経済的には落ち目になり観光の国となりやがて日本人女性が売り物になる時代になってきているのかもしれない、それもカルマだった
日本人もさんざん外国でそういうことをしてきたからである。


今になると日本国内すら旅しにくい、ホテルもとれないとかさらに騒々しくなっている。自分はみちのくが好きである。静寂を追及してきた者としてみちのくが好きである。
西になると騒々しくなるから嫌なのである。そもそも都会が嫌なのである。
そういう性格だったということもある。
まず月を鑑賞するとき騒々しい所ではできない、都会の月は書き割りの月である。
自然の静寂から離れているからだ。都会には自然は映えないのである。
月は一段と闇のなかでこそ輝くものなのである。神秘性を増すのである。
現代は電気の光で闇が消えてしまった。それで本来の自然の神秘性が失われた。
京都には確かに自然があるが観光客が多くなりすぎたことは日本の残した文化でも鑑賞できないものとする
庭などは一回見たくらいではわからない、四季折々何回も見れば鑑賞できる


ともかく月は不思議である。月と蟹は関係しているのか?満月になると産卵するというのも月と関係している、天体は人間にも影響を及ぼす、蟹座生まれなことも月に魅力を感じるのか?
性格的にも自分は陰だからそうなる、十三夜の月がだから何か神秘的でありみちのくにふさわしいともなる
俳句は写生でないといいものはできないが金色堂というとやはりみちのくでありそこをイメージする距離にはある。
今金色堂に平泉にこの十三夜の月が照らしているのをイメージして作った。

後の月

こことあわせて読むとみちのくの月として連続したものとなる

タグ:十三夜の月

2015年10月27日

秋の日(栃窪村俳句十句) (川や小川や街でも堀川で洗濯していた時代)


秋の日(栃窪村俳句十句)

(川や小川や街でも堀川で洗濯していた時代)


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延々と悪路を上り山あざみ

石に菊清流ひびき栃窪村

橙の晩菊にさす朝日かな

動かざる石により映ゆ菊二色

山よりの流れに洗い場秋の蝶

石二つここに動かず秋の暮

秋日さし石重々と無言かな

森深く散れる木の葉や人知らじ

薪積みて栃窪村や冬支度

みちのくの奥津城眠る後の月


小山田の方に出る森の道に迷った、あそこは前にも行ったことがあった。道がぼこぼこであり上るのに苦労した。電動自転車でもヤマハのマウンテンバイク用だから上れた。
ヤマハのは馬力があるから悪路でも上れる

栃窪村というと橲原村よりかなり広い、江戸時代にどれくらいの村の規模だったかは知っておく必要があるだろう。
村というのはなぜ日本では大事かというと村の規模で生活が営まれ村単位で相馬藩だったら藩で支配していたからである。米を納めるのもそうである。
村というのは行政単位でもあり生活の単位でもある。
だから日本では村が消失してゆくと歴史も失われる、日本は村があって国があったとなるからである。
そしてコンパクトシティでももし村がなくなったら何か日本は国としてつまらなくなるだろう。
どんな奥地でも山の中でも営みがあり村があることに日本の特徴があったからである。


ただはっきりいってこの辺は原発事故で田でも集約化がすすみ企業とかが入って大規模農業になるほかないのかもしれない、津波の跡とかは一部そうなっている
小さい田んぼがあちらこちらにあっだがそこは放棄されているからだ。
もう跡継ぎもないということで放棄される、だから小規模農業は成り立たなくなる。
そうなるとこの辺では村はどうなるのかということである。
この辺はまだ村でも限界集落というのとは違っている
街がありんなに離れていないから住居としては残るだろう。車があるから通いるからである。
ただ農業とかはもうやっていけないからどうなるのかわからない。
そういうふうになると何か村の景色とかもなくなり何か嫌である。


例えは栃窪村には山からの水が流れてその水で洗いものしていた家があった
ところがそこも堀にしたのでなくなっていた。
要するにまず自然の小川はなくなった、だから何かそうした自然と調和した生活が今になると牧歌的に見えるのである。
実際は貧しい生活でもなにか自然の中で生きた人間が牧歌的に見える
今になると信じられないけど街中でも川から水をひいて洗濯物まで洗っていた時代があったのである。
自分の家の裏がそうだったのである。それが今になるとここもそうだったと思い出したのである。
つまり山の中だけではない、街ですらそうだったのである。
水道がなければ洗濯物を洗うのは川でするほかなかったのである。
「かわらのおばさん」という黒い蜻蛉を言っていたのは洗濯しているおばさんがいたからだろう。川にいつも洗濯しているおばさんがいたのである。


冬場の洗濯

萩の洗い場

この写真がそうである。これは大きい川だが堀とか小川でもしていたのである。
それは萩などでも街中を流れる堀の水で洗いものしていた。
何か鯉が泳いでいるから新しく作られたように見えるのである。
自分の家では井戸がなく水を近くからもらっていたのである。
水道ができたのは戦後十何年かたってからだったのである。
もともと水道がない、江戸には水道橋があり水道があった。それだけ都会だったとなる

戦後十年の暮らしは江戸時代のつづきだった。燃料は炭だったからである。
だからこの時の経験は貴重だったとなる
人間は時代で錯覚するのは水道がない社会がもうイメージすらできなくなっていることである。
まず洗濯自体が一仕事でありその費やされた労力は世界中で同じである。
セーヌ川で大勢で洗濯している女性の絵があった。
セーヌ川というとロマンチックにイメージするが同じだったのである。

栃窪村は真野川の上流にありあのどっしりと隠れた石がいい
あれは底が平たいし大きいから安定感がある
あの石に気づいている人は少ないだろう
今日は秋晴れで気持が良かった、ともかくこの辺は除染のダンプなどひっきりなしに走っているし落ち着かないのである。
落ち着きを取り戻すには後三年なのか五年なのかわからない
それにしても長すぎるのである。そのうち死んでいる人もでてくる。
なにかわたわたしていて落ち着かずに死んでゆくのも嫌だとなる
とにかく見かけるのは老人が多いのである。





タグ:栃窪村

2015年10月29日

秋の日(石二つの俳句を英語にして鑑賞)


秋の日(石二つの俳句を英語にして鑑賞)


石二つここに動かず秋の暮


the two stones

the silenced ones

an autumn day close

、、、、、、、

in the TOCHIKUBO villiage


なぜ今言葉が死んだとか言われるのは現実にある事物と結びつかないためである。
言葉より前に自然の事物があった。それを言葉でもって結びつかせた。
だから言葉というのは事物なしではありえないのである。
万葉集などは明らかに奈良という場所でその自然と密着して生活していたから言葉はその環境と結びついていた。
枕詞が今になると理解できないがそれも奈良という場と結びついていた。
そして人間がその土地に山でも川でも名前をつけるとき人間化したのである。


言葉というとき日本語だけではない、様々な言葉がある、でも言葉の共通性として最初に事物がありその事物と結びついて言葉が生まれる
だからaではなくtheになる、その石でありその石のある場所やその石の形状とかまでイメージする、像としてイメージする。抽象的なaではないのである。
それで俳句を英語にしてみるとやはり言葉には共通性がありそれなりに石を表現できる。ただ英語力がないからこれは俳句を英語化したものではない、なんか俳句の英語でもルール化したものがすでにあるからだ。

an autumn dayというのは季節は毎年違ったものとして感じるからそうなる
英語とか外国語の特徴は中国語ですら韻を踏みやすい、中国語を習うために留学した人が中国語の音がいいから中国語にひかれたというのもそうである。
中国語は音がいいというとき日本では漢詩は漢字に注目しているが音にはあまり注目しないのである。
そして最近面白いと思ったのは日本語は何かアクセントがない、どこか強調するということがない、ただ日本語でも強調する語を強くいうと意味が変わる
やはり人間の言葉何か強調するとき強く言うことになる。それがアクセントである。
英語などはアクセントが多いというのは異民族と交わるとき何か強い調子で言わないと通じないということがあった、日本語のようなめりはりのない一本調子では通じない
言葉が最初音だというときどこの国でも字がなくても音としての話し言葉はあった。
日本語もそうである。漢字が入っても文字化して平安時代にひらがなができたのである。
人間がその土地と一体化する、アイディンティティ化するときやはりあまりにも広いとしにくい。
丁度相馬藩くらいの規模がアイディンティティ化しやすいのである。


現代の言葉は自然から離れて自然の事物から離れて自然と結び合う言葉ではない
そこに言葉の重みがなくなっている、沈黙もない世界だから余計に言葉に重みがなくなっている
ビジネス、政治、科学技術用語である。純自然と結びついた言葉ではない
それで詩語の衰退というのがある。ただ詩語というのは漢詩に多いから漢詩を学ばないと詩語は豊にならないだろう。自分の詩も詩語が貧弱だというのは確かである。
ただ大和言葉には詩語としてはもう一つ豊ではない、そもそも俳句という芸術が日本に生まれたのは極めて日本的風土に適して生まれたものである。
その短さが日本の風土に適していたのである。
グランドキャニオンとかで俳句とか茶道などしたら全く違和感があり通じない、ここは宇宙の別な惑星にでも来た感じだったからである。
こういう場所では言葉で現せないものを感じたのである。

いづれにしろ座禅とかは禅宗では沈黙を静寂の世界を追及した。それは日蓮宗とか念仏宗とはあまりにも違うのである。日蓮宗でも念仏宗でも一日唱え続ける、それは麻薬のように唱え続ける、何かあったら題目を唱えて解決しようとする、だから何か騒々しいのである。
自分にあっているのは禅宗でありその沈黙である。禅宗には何かそうした沈黙とか清楚があり枯山水も生まれた。
そもそも日蓮宗とか念仏宗は大衆化されやすいものだったのである、題目を唱えていればいいとなれば誰でもわかるからである。禅宗はその点大衆化しにくいものだったのである

結局自分の性格もあり石を追及したのが自分でもあった。人間の幸せはその人の性格に適した活動ができことにもある。自分の性格にあわないことを職業に選んだりしたら不幸になる。
自分は人と接するのが苦手である何か疲れるのである。
この十年間くらいは介護とか自分の病気とか俗世のことにかかわり苦労してきた。
これも経験だったけど今は何か前の静かな生活にもどっているから幸せだともなる
人がいない、人と極力かかわらない世界にいるとき安定して安らぐのである。
介護や自分の病気でかかわった人に毎日のように責められたから苦しかったのである。

タグ:英語の俳句

2015年10月30日

事業失敗に家系の因縁はあるのか? (結婚すればやはり相手の因縁を事業でも受ける?)



事業失敗に家系の因縁はあるのか?


(結婚すればやはり相手の因縁を事業でも受ける?)


いろいろな因縁を問題にする、事故の因縁もそうだし病気の因縁もそうである。
そして事業失敗の因縁というのがあるのか?
これは自分の実家の母と父方とも言えないが関係した親戚が二軒がすでにある。
もう一軒を事業に製鋼していたと思っていたが失敗していた。
母方の実家は警察所長までしていた機織り産業が盛んなときで事業に手を出して失敗して一家離散になった。
おじいさんになる人だったが母が威張っている人だというときそううい人でそもそも事業ができる人ではなかった。
もう一軒は町工場をしていた人が経営不振で借金で倒産して土地も家もとられた。そこは更地になり駐車場になった。
もう一軒はこの人はもともと一級の免許をもっているから優秀な人であり事業できるものはもっていた。それがなぜか60頃になって失敗していたことが判明した。
借金をしていたので判明したのである。その額はわからないにしろかなり大きいと思う。なぜなら自分に要求するのが一千万とか百万とかは軽くするからである。
だから貧乏人が一万とか二万をやりくりして借金しているのとは違う。
こういう人とつきあったら本当に怖い,何か恩着せて保証人とかになってくれとかなるからである。
それが病気のとき入院保証人とかになるとき恩きせられたのである。
これも相手の弱いところついてくる非情化した人間になっていた。
借金で追い詰められる人は怖い、犯罪の動機で多いのが借金なのである。
もう相手のことを考える余裕などない、もちろん助ける余裕もない、相手から金を奪おうという考えしかないから怖い、保険金殺人とかあるからそういうものに近くなる。


ただ事業とかに失敗する人はこの世ではいくらでもいる。第一二〇人に一人くらいしか事業に成功していない、それだけ厳しい世界だということである。
自殺する人も借金とか事業で失敗する人が多いだろう。
事業というのは相当なリスクなのである。
だから家系の影響なのか本人の自己責任なのかはわからない、母方の実家には奢りがあった。警察所長ということで俺は偉いんだということで通っていたからである。
だから事業しても成功するんだという考えになっていた。
でも実際は警察所長と会社経営することは全く関係ないことだったのである。
今なら警備会社関係となら警察関係なら何かしらつながりがあるが全くなかったのである奢りが失敗の原因になることは多々ある


もう一人は事業をできる人だったがこの人も奢りがあったのだろう。
先の見通しも甘かった。ただやはりそれなりに実績がある人だから事業をしても成功することはありえた
それがなぜ失敗したのか、その詳細はわからない、そしてなぜ家系とかに関係あるのか?
その人自身の家系について皆目わからないが親戚と関係していた人の家系というか家族がどういうものか知っていた。
妻は若いとき夫が身体障害者となりずーっと世話する役目にをになわされてしまった。
それは不幸だったのだが結婚した娘の夫は優秀であり給料も高かったので恵まれていたと思っていた。それは端からみて恵まれた結婚だったのである。
それが今になってなぜその優秀な夫が事業に失敗したのか?
それは結婚した相手の妻の家系に家族にその家風とかが問題だったのかもしれない
夫で苦労するとか何かその家系と家族に問題があった。
それは知っていたことだが結婚した娘の相手はそうではなかったのである。
それが事業に失敗したことで妻の家系の影響を受けてそうなったのかとなる
夫がしっかりしていて大黒柱になっていれば問題なかった。
事業に失敗した結果夫は頼りない人になりその負担が妻とか同居する母とかにかかってきた。
必ず長男長女は何かその家系の家族のプラス面でありマイナス面であり一身に背負う運命にある。
自分が今や大黒柱といっても女性だったが家族をなくした結果全部自分一人で家族のことを背負う結果になったのである。
長男でない場合は長女が背負うことになる。長男長女はそういう宿命を背負っていたのである。


相手の家系の因縁を受けるというとき結婚がそれだけ単なる好きだ嫌いだというだけではない重みがある。家系の宿縁を背負わされるのが結婚にもなる。
それは悪いものだけでなくないいものを受け継ぐが悪いものも受け継ぐ
事業の失敗はその人個人の奢りがあったものだが結果的には妻の家系のマイナスの面を引き継いでその悪い面に同化したとなるのか?
家系というときその家が形作る運命的なものもあるが家風というのももあるだろう。
家風があわないから結婚しないとかもある、あまりに金持ちの家と貧乏人とかの家だとあわないこともあるしあわないことは職業でもあるだろう


その点江戸時代は同じ家風の人同士が結婚していたからうまくいっていたのではないか
侍は侍同士の結婚であり職人は職人同士で農民は農民同士とかが多いからである。
今は多種多様な人々が入り交じっているから家風でもわからないし思わぬことでそのずれが大きくなりやすいのである。だから離婚が三分の一と多くなったとも言える。
好き同士で結婚してもあとあと60になってからでもその家系の影響がでてくる怖さであるただその人が事業に手を出さなかったらこんなことにはならなかった。
恵まれたものとして老後もなっていた、それでも今は何かやと下流老人が増えているのだから別にこういう人はいくらでもいるからいちがいに家系とか家風とかから見ることもてきない
客観的に見た場合その人は知っているから家系の家風とかの影響を受けてそうなったのかと思った。
家のことはそれぞれ複雑でありわかりにくい、でも親戚関係だとやはり具体的に見えてくるから自分のこととも関係して被害を受けたから深刻になるから考える
その家系とか家族を傍観しているならいいができない、災いでも具体的に及んでくる
その事業のことなどわからなかったが今回は自分の家に自分にも被害となったから考えたのである。


ともかく小さな会社でも大きな会社でもいかに経営というのがずかしいかわかる。
東電がそうだったし旭化成でもあれだけの大企業がいくつもかかわってもそうだった。
事業というのは大会社でも経営するのがむずかしいのである。
ここにもやはり大会社だという奢りがあったことは確かである。
大会社だから安心だということで内部でも油断と奢りがあった。
何らか常に人間は奢るとき失敗に通じる、奢れるもの久しからずというのが常にあったからである。奢ること自体が危険になってくる。それは国単位でもそうである。
大きな国でも奢りから衰退してゆくこともある。
ただ人間には思わぬ落とし穴が常にある。津波もそうだし原発事故もそうだったしそういう大事故でなくても常に思わぬ落とし穴があり人生が狂ってしまう。
思わぬ落とし穴だからこそ予想がつかないからその穴に落ちるのである。
思わぬ幸福もあるにしろ思わぬ不幸もまた人間には多いのである。


ここ十年の介護や自分の病気などはそうだった。そこに思わぬ幸運というかそういうものあった。ただそれ以上に不運が不幸が大きくのしかかってきたのである。
結局自分の不運とか不幸は恵まれすぎたということにもあった。
恵まれすぎると苦難に対処できない、例えば美人の妻をもっても意外と苦難が来たとき役にたたないということがある。だから妻の良し悪しも見栄えだけからは判断できないのである。苦難に強い女性もいるからである。
人間は結局何が思わぬ落とし穴になるからわからないということである。
それに備えようにも備えられないということもあるのだ。
いくら金をためて備えてもそれが役立たないということもありうる、かえってその金が遺産争いのようにまた強盗のような人がきて奪われるとか殺されることにもなる
そういうことを自ら経験したから金は怖いとつくづく思った。
何か落とし穴になるかわからないというのは備えようがないということでもある。


家系とかの問題で何かその相談などで金をとるとか除霊とか先祖をなんとかとかで商売にするのは危険である。それなりにいいことを言っていても危険である。
宗教とかそうした相談にのる人は相手の弱さがあってそれに対して金をとる
弱いものに対してその弱さにつけこんで商売にするのは何か危険である
そこに何か人間性がそこなわれるし悪魔的にもなる
だから医者とか看護師とかでも常に病人を弱者を相手にしているから一歩間違えば悪魔的になる。
いらない薬でも金のために飲ませるとかいろいろある。弱者に対してはそういうことが簡単にできるからある。
宗教でもカルト団体などに頼るのも危険である。人間が弱者化するとき危険なのはその弱さにつけこんでくる人が必ずいるしそれが多いということである。
宗教などはむしろ生きのいい病人でもなんでもない健康な人を相手にすべきなのである。弱者になるときいくら金持ちでも必ず優位にたてる、自分もそういうふうに借金していた人から病気の時脅迫まがいのことをされたし現実に大金を失った。
そういうことは老人に対してやりやすいからそうなる。


ともかく相手の弱みにつけこんで脅したりするのは人間として最低ではないか?
でも相手も窮迫していたのだからそんなことを言っていられない
それは弱肉強食のまさに自然界とも同じだった。食うか食われるかの世界である。
飢えていれば子供とか弱ったものが先に獲物にしやすいから狙うのである。
そういう経験をしたから人間界も動物界と同じだったのである。
人間は弱者に対して本当に同情心がもてるのかということさえ思う
カルト宗教団体などでは同情心は全くない、ただ一つの政治団体として権力を得るために人を集めるためにある。
そうはいってもそういう底辺の人たちはどこにも頼る場がない、頼る人がいないからそういう場所でも安易に入ってゆく、だから生活保護関係とかそういうことを斡旋してくれる政党とかカルト宗教団体は必要悪として否定できないのである。


つまりそこに弱者の悲しさがある。
上級階級だとコネがあったりいろいろ得するが底辺層は保証人になってくれる人もいないなど常に不利になり損するからである。
そういうコネも得られないとなるとそういう政党でもカルト宗教団体でもなんでもかまわない頼れる所に頼るというのが庶民なのである。そこでは宗教など関係ない
何か得することがあるから入るのでありそれ以外何もない、コネとか金がない人はそういう場所に頼る他ないのである。
ただ人間は金があっても権力があっても弱者化することがまねがれない、必ず病気になり老人になり弱者化するからである。
「悲しむものは幸いである」という意味は何なのだろうか
それは悲しまない立場にある人はすでになんらか奢りにありこの世で得をしているが実はそのことは下々のものがいて苦労していてその人たちのおかげで悲しまない立場にある
だから上にたつ人はそういう弱者のことを考えねばならないだがほとんど無関心である
そして弱者になってみないと弱者の気持すらわからないことなのである。
だから上に立つ人は悲しまない立場にある人はある意味で天国に行けないというとき
かえって小さい人やそうしてこの世で悲しんだ人たちの方が天国にいたともなる。
この世であまりにも得する強者になっていること自体が罪なことだともなってしまうのである。


いづれにしろ家系の因縁はそれぞれの家族で違っているから複雑であり外から見てわかりにくい、家系というよりその人自身の人間性とかも関係しているからすべて家系の問題でもない、何かの犯罪であれこうした不幸であり必ずいろいろな要因が重なっているのである。家系もその一つであり家系がすべてとはならない
ただ家系も家風も確実に影響している、家系とか家族とかが形成する家風には癖がありそれも影響している
商家だったらやはり商家の家風を受け継いで成功することもある。
一からはじめると商売で成功するのはむずかしくなる


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