2015年09月24日

小高の老人語る戦争の話(続編)


小高の老人語る戦争の話(続編)

土手のテーブルのあるところでまた例の小高の80くらいの老人と話した。
あの人の話は面白いのである。
ともかく戦争の話を延々としている。戦争に参加したわけでもないのに戦争の話を熱ぼくしている。
もちろん自分の姉も従軍看護婦でシンガポールに四年いた話を延々と聞かされた。
それは死ぬときまで話していた。そことが一番印象に残っていたからである。
もともと話好きな人であったこともある。
話が面白い人と面白くない人がいる。それはその人の体験したものがどういうものだったか話からわかる
その人は工事関係でいろいろな所に行っていた。なぜか沖縄にも行っていたし横田基地でもGHQのもとでも働いていた。
そこで面白いのは鉄砲玉を盗んで帽子に隠してもってきたという。それは見つからずにすんだ。その鉄砲玉は高く売れたという、そのGHQお進駐軍に物がありそれを売ってもうけた人もいる。盗んだというのもそこに物があったからである。
当時の日本には何もない、敗戦で食べるものもない時代である。

そして進駐軍で秘密が厳守なので英語のできる人は別にしたという、英語がわかると中の様子がわかり秘密がもれるからだという。その人は英語がわからないから入れたと言っていた。
軍隊はもともと秘密厳守である、もれたら命にかかわるからである。
それで日本兵のことで隊長クラスの人が肺が悪くなり隊についていけない、その時どうするかというと殺すほかないという、なぜなら生かしておけば置き去りにしてもその人から軍の秘密がもれるからである。だから殺すことが規則なのである。
でもその隊長についていた部下は殺さずに放置した。
放置したらしんでいるはずだが死なずに戦後5年してその部下のもとにたずねてきたという、なにかベニヤ板の商売で成功して社長になっていたという。
その人がなぜたずねたかというと部下をうらんではいないし殺さずに放置したから助かったということでたずねてきた。
普通は殺すのが規則であり体調も知っていたからである。
軍隊はそれほど厳しい゛かわいそうだと思っても生きる死ぬかとなると人軍隊は全員の方を守らねばならない、根こそぎ一部隊が敵に通報されて全滅ともなりかねないからだ。
戦争というのはやはり現代の戦争でも戦国時代でも似通ったものはあった。

その老人はいろいろなことを話する。特攻隊のことを良く話する。原町の飛行場で訓練した特攻隊は銅像も立っていたという、肉弾なんとかで神扱いされていた。
霞ヶ浦に大きな飛行場がありそこから支店のように原町飛行場が作られた。
その人が言うにはガソリンがない、ガソリンがないという話だった。
ゼロ戦でもガソリンがないから片道飛行であり帰ってこれないということになる
ゼロ戦でアメリカの船にめがけて飛んでも当たったのはわずかだった
ほとんどは海に沈んだ、その前に海にわざわざ特攻隊は荷物をすてて軽くして逃げたのだという、島の方にも逃げたりとし特攻隊がみんな勇ましく死んだわけでもなかった
人間魚雷でもあれも逃げたらしい、というのはアメリカでも人間魚雷が来る前に丸太をその前に投げたらそれにぶつかって何の役目も果さなかったという。
つまり最後の日本軍の抵抗は巨象にねずみがたちむかうような状態になっていたのであるそれは物資や武器の面でもそうだった。ゼロ線でもトタンで作っていたヤハなものだった、アルミニウムなら柔軟性があるがトタンでないしヤハものだった。
アメリカのB29は二気筒四気筒エンジンとかで大型でありゼロ線は最初だけは効果があったがあとは歯がたたなかった。
面白いのは竹などで作ったゼロ線を並べていてあるようにみせかけていたという。
こんなことまでしていたのは何か戦国時代ともにている。

中国でも馬で輸送していて軍刀をもっていたのだから戦国時代ともにていた
中国人はまず馬の頭をねらって打ってきたというのもそうである。
馬のことはいろいろ書かれているし馬の戦死したので墓まである寺がある
それは野馬追いではないけど戦国時代とにていたのである。
そういう古風な戦争だったが実際は航空線になっているのだから時代が変わっていた
山本五十六は海軍の出て東郷平八郎に教えられて海には通じていたが飛行機には通じていなかった。
日本では戦艦大和とか巨艦を作ったがそれは東郷平八郎がバルチック艦隊を破って以来、伝統として日本が海軍が主力になっていたのである。
東条秀樹は陸軍であり山五十六とはあわず争っていた。陸軍と海軍は一致して戦争していない、争っていたのである。東条秀人を憎んでいたとか目の仇にしていたとかなる

そしてそうした日本軍の内部でも上官と下士官は対立していた。
下士官への上官の虐待は知られていてそのことで戦争終わってからも下士官が恨んでいたのである。だから戦後に北海道開拓に入った上官が下士官に殺されたということもあったという。戦争終わったとき上官は下士官をいじめていたから下士官の復讐を恐れていたのである。それほど下士官をビンタとかなんとか制裁するのが習わしになっていたからである。
上も下も組織的に団結してアメリカと戦うということも日本軍にはなかったのである。
日本は下士官の方が優秀だったというのは本当である。
日本軍が天皇陛下のもとに団結していたから怖かったなどはなかった。
アメリカはその時、日本のことを知り尽くして勝てると確信していたのである
その装備から海軍と陸軍の確執とか日本軍内部でもまとまらない軍隊だった。
上官は九州から沖縄に行ったけど島に逃げてまた鹿児島に帰ってきたという
沖縄本土にいたらアメリカ軍と戦うから他の島に逃げたのである。
日本の上層部は指揮官や上官はだめだった。逃げる算段をして戦っていた。
下士官は返って優秀であり良く戦ったとなる。

戦争のことを語れば調べればきりがない、自分も姉が従軍看護婦だったからそのことを死ぬ直前までしゃべっていた。その戦争がまさに青春だったからそうなる
だからそういうことは別に認知症になっても忘れなかったのである。
その老人も何か自殺した人がかなりいたといっていたが病院でも苦しくて窓から飛び下りる人がいたなど自殺した人がかなりいたのである。
それは戦争がどれだけ過酷だったかを示している。そんな病院でどんな手当てをしていたのかもわからない。まさに地獄だったかもしれない。
ただ従軍看護婦は人を殺したりしないからいろいろ語ることができた。
ともかく戦争は今でも80くらいでも少年のとき戦争していたし親から戦争の話を聞くからまだ生々しいのである。自分も聞いているから遠いものではない
でもその次の代とかなると直接経験した人から聞けなくなるから遠いものとなってゆく
80才くらいの人とでも自分は貧乏な時代でも経験しているから話は通じる。
同世代はやはり話が通じる。戦後十年の炭とかの燃料の時代の人とは話が通じる。
でも戦後生まれでも十年くらい年が離れるとまた違ってくる。
高度成長時代になってくるから貧乏な時代でなくなってきたからである。


ともかく小高の人でも仮設に住んでいる人の問題は何もすることがない暇で困っている
それでパチンコとかギャンブルに行っている、日がな何もることがないというのも結構楽じゃないだろう。
ただこれまでも老人はパークゴルフなどをやっていた。
老人は昔を語るのがある意味で仕事でありそれが郷土史の一端になっている。
自分は貧乏な時代も知っているし10年くらいの年齢の差があっても話が合わせられる
でも戦前生まれと戦後生まれの差はある。
でもそんなに差はない、ただGHQとかに実際にかかわっていたのはその時代の人だと思った。進駐軍の時代が戦後あったから必ず話題になることだったのである。

それからその人は仙台に行ったら黒人が百人くらい自衛隊の服を来て日本人と一緒に訓練していたという。百人は多いと思った。アメリカ軍には黒人が多い、貧乏な人は兵隊になるということもある。
集団的自衛権が適応されればますますこうしたことが普通になる。今までもこうして日米は協力してきたからである。
百人の黒人を見るということはこの辺ではなかなかない、黒人が色で目立つのである。
仙台には外人が多いというのは本当である。通りでもそうだしどこでも外人がいる国際都市になっている。
そして小高の人が原町に家を建てたがそこで働いていたのは中国人だとも言っていた。
建て売りだと組み立てるだけだから中国人でもできるのだろう。
一週間くらいで組み立ててしまうからである。このことからもすでに人手不足が深刻なのである。この辺でも人手不足で介護であれ工事現場であれ不足して復興が進まないとういことがある。これは今日本の大きな問題なのである。


タグ:戦争の話
posted by 老鶯 at 01:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)