2015年09月21日

インターネットで変わった本の読み方 (私設の図書館くらいの本が知的作業には必要)


インターネットで変わった本の読み方


(すぐに注文して買える本ー全部読むのではなく一部を読む)


本は高いものだから前は買いなかったしまずインターネットでわかったことはこんなにいろいろな本があるのかということである。
古本も全国だとあるしもうあらゆる本がある。それが全国的になると安く買える
このことで知識が増大して知の効率が飛躍的に増した。
田舎だとまず本自体がないし買うこともできなかった。
仙台まず行っていたのは仙台でないと本が買えないし専門書は買えない
これは今になるとかなり不便なことだった。
だから知的に相当田舎では不利であった。
それがインターネットで田舎でも発信できるし本はいくらでも買える
それでまた本は半分捨てたがまたその半分の量をインターネットで重にアマゾンで買っているのである。

本をどう利用するかは本というのはある一定の蔵書が必要なのである。
それが読まないにしろ必ず必要なものなのである。
本はいわば自宅で図書館のように備えて置くことが必ず必要である。
だから作家とか学者でも自宅が小さな図書館となっていない限り研究もなにもできないのである。
それは小説などを書くにしても膨大な資料が必要になってくるからである。
つまり何か書くとき必ず本は必要になる、今ではインターネットがその一部の役割を果たしている。
でも内容が濃いものとなると本になる。だから今は自分で文章とか書くとき必ずそれと関連する本を買っているからまた本が増えてきた。
そして本の読み方は今はまずさーと全体を見渡して自分にとって必要な部分を引用して使う。
厚い本でも全部は読まない、二三行でもそこを自分の文脈の中で使うのである。
その二三行が文章に重みを加えるのである。

だから何か今はいろいろなものを組み合わせるとそれが一つの創作的文章にもなる。
抽象画で変化させたようになる、例えば一つのテーマで今「人間の顔」ということで文章を書こうとするときそれに関するものを本を集める。
でもなかなかどこにそうした文があるかは見つけにくい、でもいろいろな今まで集めた本をぱらぱらとなんとなく読んでいると見つかったりする。
このなんとなく本を読んでいる、拾い読みしているのが意外と大事なのである。
つれづれなるままに......というのが何か知的作業だったのは昔から変わらなかった。
つれづれなるままに読んでいたらそれが心に残り自分なりの文章に文脈に取り入れられるのである。
こういうことができたのは有名な作家とか研究者とかであり普通はできない
なぜなら本は前は高価でありまた買うこともできなかったからだ。
本は膨大な数があってもどういう本があるのかどうかもわからなかったのである。
それでいつもベストセラーなどが話題になり何百万も売れていたというのはそれだけ本は流通しにくいからでてある。
本はその人なりに読む本が無数にあった。でも本は流通しにくいからそうした目立ったものが地方の小さな書店に置いて売れることによって商売が成り立っていたのである。
そんな本は実際は何の価値もない紙屑になる本だったのである。
それでも売れたから地方の書店では商売が成り立っていたとなる

ともかく人間の生きる時間は限られている。だからとてもあらゆる本は読めない
もう年取ると余計に読む気力もなくなる。今読むのはそういう読み方ではない
全体に目を通して自分に役立つものを素早く抜粋して利用する読み方である。
本というのは全体に目を通すのに優れている
インターネットでは全体がわからない、部分に細分化されすぎているのである。
一ページを読むというのが多いのである。
本は厚い本でも全体に目を通して要約して読むということもできる
電子本でもそういうことはできないから本の効用は今でもあった。
だから本はなくならないが書店はなくなる、特に地方の書店はなくなる。
それでも本はインターネットでいくらでも買えるのだから困らないのである。

その人の知識というのもその人が人生の時間で蓄積したものである。
知識でもそうだがそれはその人の体験とかそれぞれの地域に住んでいて知識化している。それは長い時間の中で知識化しているのである。
だからマヤ文明というときもそれは長い時間のなかで一つの知的コスモスを総合的に作りだしたのである。一つの芸術ではない、総合的共同体の知的体系なのである。
そういう作業を地域地域で人間はしている、だから地域地域に世界でも日本でも文化が生まれた。
知的体系の構築というとき芸術はその中に組み入れられたものである。
自分でも一つの詩ではなくそれは知的体系として構築されたものの中にある
その時一つの詩とか一つの絵ではなく全体の一部としてそれは構築されている。
そもそも絵のはじまりが建築物に飾るものとして生まれた。
建築に映えるように絵が生まれたのであり絵として独立していなかったのである。
そういう総合的なものとして芸術はあった。


地域とはそうした総合的な場としてある、一つの物を車だけを車の部品工場のようになるものとは違う。それは地域の風土から生まれる。
どうしても会津だったらあれだけの高い山があるのだから山の文化が生まれる。
太平洋に面した海側は海の文化が生まれのは当然だとなる。
これまではマスメデア中心の情報や知によって支配されてきた。
本でもベストセラーとか何か中央で宣伝されるものによって知識が支配されてきたのである。
地方から発信しにくいシステムだった。
今はインターネットだと発信することは本当に簡単である。誰でも内容は別にしてプログだったら簡単にできる。
簡単すぎるからなにか軽薄なものも多いし情報過多になっている。
現代はともかち知的にも何か孤立しないようにシステム化されてきた
だから一方でその地域の風土というのは地域の個性を産むものだから新しい知の創造は地方から生まれる。
限界集落とか今回の原発事故とかそういう地域の消失と破壊は文化を衰退させた
多様性が失われ東京のような中央集権の文化もない索漠として世界になる

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この本は共同体の美というテーマであった。
美の形式が共同体では確立していた
エジプト文明でもそうでありマヤ文明でもそうである
中世のキリスト教文明でもそうであり
国々によって様式がありそれは総合的知的体系化したの文明である
現代のグローバリズムはそういう文化を創造しない
グローバリズムは文化を破壊する、その土地の風土とかを無視するからである。
一つの貨幣、ドルによって統一される、そうなるとアメリカの価値観が普遍化するのである。
科学技術もまた巨大化して地方の文化を根こそぎ破壊する
それがこの辺では原発事故で現実化した見本だったのである。

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老衰でも人間の最期はみじめ (仕事をしながらいつのまにかに死んでいる死がいい)


老衰でも人間の最期はみじめ

(仕事をしながらいつのまにかに死んでいる死がいい)


 
我が母の苦労つづきをその最期我はみとるやいたわりつつも


NHKの「老衰死」を見たけどあんなふうにして母も死ぬのかもしれない、老衰死というけどあそこまでなるのはそれなりにまた時間がかかる。
老衰というのは徐々に生命力が喪失してゆく死である。
食べられなくなると徐々に細胞が死んでゆくというのがわかりやすい。
本当に食べる量が少なくなる、こんなに食べないのに生きているというのが不思議になる死んでゆく状態になるともう何も食べない日がつづくのだろう。
水さえ飲まないようになる。そして肩で息をして息が苦しくなり荒くなり息が途絶える
でも脳細胞が死んできているから苦痛を感じないというのもそうなのかもしれない
外から見ていると息が苦しいから死というのは非常に苦しいように見えるのである。

だから死の前に認知症になるというのは一つの人間の生命の摂理なのかもしれない、つまり認知症になると暑さ寒さも苦痛すら感じなくなるし死も怖くならないという。
でも認知症になって姉はの死にざまは無惨だった
意識不明になるまえに確かに正気に一回帰った。
それから一カ月くらい無意識になっていた。何にもわからなくなったから死んだも同然だったのである。
人間は意識がなくなると死んだも同然になる。
何か意識があるか限り生きているのである。
なんか姉は女性でも豪快な人だった、体育系であり太っていて男でも人を恐れないのである。

だからたいがい強面の男性でも恐れない、堂々とわたりあうのである。
ただ性格的にはあまりにも強きであり功罪があった。
常に人を見下していたのである。だから死ぬ時まで自分は優秀だったと言って死んだからそんなに優秀なことにこだわるのかというのがわからなかった。
それも認知症になって馬鹿になったとかなどと言うことがあったのでかつての優秀な自分でありたいということを強調したいためだったのかもしれない。
ともかく人間の最期は誰でも悲しい、特にその人のことを知れば悲しい
自分の母親はやさしくしてもらったことがほとんどない人生だったのである。
もともと性格は素直でやさしい性格だった。
でも継母に育てられたり結婚しても前の夫が事故で死んだりと何か不運つづきだったのである。
だから何か遊んだということもほとんどない、働きづめ苦労つづきでありそれがまた異常な性格にした。
花も何にも興味がないとしたらそれは異常なのである。
ただそれも過酷な人生だったということがあった。

結局やさしくされたことがない人生だった。
だから自分は母には悪いなという気持が常にあった。
母は恵まれていたら上品なおくさんになっていた。
こういうことは大正生まれの人とかには多いかもしれない
戦前生まれでもやはり何か不運な苦労つづきの人が多いだろう。
それでも母は忍耐強い性格でありあまり愚痴も言わなかった。
これだけの不運でもそうだった。
今の人はささいなことでも忍耐しない、不満ばかり言っているのである。
そこが戦前とかの女性とは違っている、だからすぐに離婚するのである。
そんなに簡単に離婚することはわがままなことがあるのは確かなのである。

人間の最期はみんな悲惨である。成仏もなにもない、死は悲惨なのである。
ただ肉体の死とともに人間はすべてが終わるのか?
人間の生はなにかしら継続されてゆく、その次の世代に何か継続されてゆく
自分をよくしてくれた姉と母のことは忘れることができない
姉が死んでからいかに人間が非情かも知って余計に思うようになった。
人間の愛とか情は死ぬ間際まで通じている
愛は死後まで通じているのかもしれない、百歳になっても認知症になっても何もわからなくなったのではない、愛とかはわかるのである。
この人は優しくしてくれとかはわかるのである。
犬猫でもそうした愛情は通じるしわかる

だから介護は他人がするのはむずかしいし若い人には向いていないと思う
若い人のやることは別なことである。
家族として長く一緒にいた人がやるべきなのだろう。
ただもう最期の方になると介護の負担が大きくなりすぎるのである。
トイレにいけない、介助していたら夜すら眠れなくなる
何もできなるのである。
だからそこで情があってもその情の通りに行動できないというのがまた矛盾なのである。シリアの移民でもかわいそうだと言ってもそれでみんな受け入れたらどうなるのか
何かかわいそうだと思ってもそれを現実に行動に移すとなるとそう簡単には行動できないのである。

要するに死をどう迎えるのか?それは人間の死は肉体の死であり精神の霊の死でとないと
いうことを死ぬまで思いつづけることである。
肉体という殻は最期脱ぎ捨てる、でも精神は霊は死なないのである。
人間は死なないのである。キリストは死ななかった蘇ったからである。
聖霊は死なない霊である。肉体を越えたものでありそれがなくして人間はすべて敗北に期する
人間が死んで終わりだとなるなら生きていることすら無駄である。
人間は死なない命があってこそ生きることができる
永遠の命があるからこそ生きる希望がある。それがないといかに自然が美しいとか言っても死んだら終わりだとなる
自然が輝くのは永遠の命があるからである。
死とは肉体の殻を脱ぎ捨てることであり霊は死なないのである。

ただ誰でも自分でも病気になると精神まで病んでくる、病気に勝てる人はいない
体と霊の戦いがあるがどうしても肉体が衰えてゆくと心も衰えるのである。
元気溌剌として死ぬ人はいない、何か弱り果てて死んでゆく
だから死は死神の勝利であり人間は死によってどんな人も敗北すると見える
ただこう思いつづけること肉体に打ち勝つことは至難である。
すでにちょとした病気でも人間は自分でも弱気になってしまうからである。
老衰の死がいいというけど自分はなにか嫌である。
近くであれよあれよというまに仕事して一週間とか後に死んだ人がいる。
あういう死に方がいい、仕事しているうちにいつのまにかにあの世に逝ってしまっていたのである。
90才になり一週間前まで患者をみていて死んだのである。
別にその人は性格がいいという医者ではなかった、でも死に方はあまりそういうことと関係ないみたいである。

要する人間は最期まで仕事していることが大事なのである。
仕事でもいろいろある。別に医者だけではない、自転車屋の人も病気になったが最期まで仕事していたし同じように病気になった人も仕事している。
仕事がないということが意外と人間にとって辛いものにもなるのだ。
退職してからでもそうだし老後でも何か仕事がないことはもう生きがいもないということになり危険な状態になる。
その人は生きなから用なしとなることが怖いことなのである。
それはもう報酬の問題ではない、医者なら医者として任務を全うすることこそ大事になるともかく仕事というものが人間にとって金にならなくても欠かせないものなのである。
何か老衰というのも死ぬまで弱ってゆく姿がみじめなのである。
つまり死が意識されないように死んでいけたら幸せだとなる
仕事して病気になった、そしたら死んだとかなるのはほとんどみじめな死を意識されないのである。
あの人は仕事していたけど死んだのという感想なのである。
50才の人でアルツハイマーにてっても会社に行き仕事をして社会とかかわっている人は10年も症状が遅れて生活している驚きがある。
何かそこで脳が刺激されて脳の萎縮が進まなかったのである。
人間にとってやはり何か生きがいがないと病気でなくても衰えてゆく

姉がアルツハイマーになったのは退職してから怠け者になり家事も料理もなにもしなかったことが悪かったと思う。
画家はキャンバスの前で死ぬべきであり職人は仕事場で死ぬのがいいし農民は畑とかで死ぬのがいいとなる。
何か仕事をもたない人はだから老後でもみじめになっている、死ぬ前にすでに用なしとなっている、ただ命を伸ばすだけとなり無用の老人となって迷惑をかけるだけだとなる。
そしてだらだらと人に迷惑をかけて死んでゆくだけだともなってしまうのである。
ただ人間はどういうふうに死ぬかはどういうふうに生きたかともに通じる。
仕事をしているというときまさに仕事しながら死ぬというのはそこが死に場所だったとなるのである。

ともかく高齢化社会は介護社会でもある。介護の負担が大きすぎるのである。
まず仕事しながら死んでゆく人がまれである。延々と介護がつづく
自分だってすでに十年にもなるのである。
その労力は並大抵なものではない、だから旅行に全く行けないし近くすらゆっくりと行けない
そしてもっと深刻なのは重要な社会の仕事をしていた人が50才くらいでも仕事をやめて介護しなければならないことである。
それは社会にとって損失が大きい、その仕事にもよるがやはり技術職であれ何か社会的に重要な仕事をしている人が介護になると海外との競争力が衰えるとかまでなる
自分にしても何か介護が負担になると何か創作することも書くこともままならなくなる
介護が意味がないものでもない、でもその負担が現代では大きくなりすぎるのである。
だから一方で介護するということは人間として悪いものでないにしろ一方で仕事もできなくなる、有益な時間が奪われるとかなる。
だから若い人にしても結局介護は実りのない仕事だとなり誰もしたくない
それで有能な人間は介護などしない、介護している若者は社会のおちこぼれがふさわしいともなっているのが現状でありそれで問題を起こしたりしているのである。
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