2015年09月15日

老後は年金が15万くらいもらえないと老後難民になる (介護は金の計算になる)



老後は年金が15万くらいもらえないと老後難民になる

(介護は金の計算になる)


新幹線で自殺した人は年金18万もらえると思っていたのにもらえなかったのか理由だった18万といえば高いと思うがそこで4万以上家賃にとられるのが大きい
地方では持ち家であり18万あれば十分である。
老後のことなんか若いときから考えることないとか思っていた。
若いときは若いときで精一杯だから老後のことなど考える余裕がないのが普通である。
だから普通は考えないしそれでいいと思う

でも老後が長くなると何が大事になるか?年金なのである。
例えは百歳も生きるとなると年金をもらえない親を世話するのは経済的にゆきづまる
国民年金の8万くらいではやっていけない、8万でも実際は助かる
自分の母は年金が月に2,3万とかである。それは積み立ててなくても支給された時代である。長生きのご褒美として国でくれた年金だったのである。
だが今になって親を世話していみると介護は金の計算だなとつくづく思った。
施設に入れるにも地方だって最低15万とかかかる時代である。
すると年金は15万くらいもらえないとまず施設に入ることもできない
貯金より年金をみるからである。

そして地方では年金が15万とかもらっている人は恵まれた人でありあとは公務員くらいとなる
他は国民年金になってしまう。それではとてもたりないのである。
それで老後難民が6百万人になるというのは年金で暮らしていける人が少ないからである
そして年金から介護保険とかひかれるし物価にスライドしてあげないし、かえって減らされているから15万もらっても実質はさらに低くなっているのである。
ショートスティでも一日5000円くらいかかるとなると金の計算をしてしまう。
施設にあずけても一カ月で5000円で15万とかなる、それは特養でそうであり民間は地方でももっと高くなる。
そして地方ではまだ施設が不足しているしこの辺では余計にそうである。
ただ最近近くにできた老人ホームは募集しても人が集まらないという。
それはなぜなのか?良く内情がわからないがおそらく15万とかの金を払える人が少ないからではないか?
地方ではそんなに年金をもらっている人は少ないからである。

一日5000円でもそれに介護保険からでるから一日3万くらいになっているかもしれない、つまり実質の金はそれだけかかるとなる介護も金の計算にな簡単にサービスを受けていいのかとなる
もし一日とまるのに介護保険から金がでて何倍にもなるらその金をもらって自宅で手伝いさんみたいな人を雇った方が効率的だとなるし老後難民になっている人もそういう仕事をすればいいとも思う。
介護は実際は誰でもできるものであり看護師の仕事ととは違うからである。
だから何か老人を子供のようにあやしている、そのあやしている若い人もなにか知的に遅れている感じもする
老人介護はそもそも女性に向いていて男性には普通は向いていない。
家事とかの延長に介護もあるからである。

ともかく金の計算するというとき命も金なのかもしれないとみる。
つまり一日命を伸ばすためにいくらと計算してしまう。意外とその額が大きいからである国とか介護保険からも金がでているからその金は一日5000円でも何倍にもなっている
だから年金でも若者が納めないとと成り立たないとなりこれだけ老人が増えれば若者に負担がのしかかるのである。
それで若者が老人に金かけるなというのもわかる。
老人で国がつぶれるというのも冗談でもないのである。それほど介護とか医療には金がかかるのである。

今の自分の状態だと自分は国民年金がもらえるけどもらっていない、とするともし施設に母を入れると15万かかり自分の生活にも15万とかかかる
一月30万もかかるのは大きいのである。これでは破綻してしまうだろう。
ところが母がもし15万の年金をもらっていればこういうことはなかったのである。
姉は公務員で16万もらっていたから施設に入れても負担にならなかったことでもわかる
金の負担がないということが意外と助かるし介護は金のかかるものだということに気づいた。
在宅だと手間はかかるが金はそれほどかからない、一カ月15万などかからない、4,5万かもしれない。
まだ手がかからない状態だったらそうである。介護度がすすむと在宅は金もかかるし厳しくなる。
何か老後というとき一日生き延びるとかえっていくらと金で計算されやすいのである。
若い人はには貧乏でも一日いくらだとか計算しないだろう。
まず介護状態にならないし病気にもなりにくいからそこに金を使わないからである。
介護は誰かかめんどうみてショートスティでも施設でも結構金がかかるからである。
だからこそ一日生き延びるといくらかかるとか計算されやすいのである。
それが何か無駄な金にも手間に思いてしまうのである。

この人は一日生き延びる価値があるのか?何か認知症になり何もわからなくなっているのではないか?
こういう老人は果たして生きる価値があるのか?そのため一日いくらと金がかかるからそう問われる。
ただ生き延びる価値があるのかないのかという判断は誰もできない、それは最高にむずかしいし神のみがてきるとまでなるだろう。
だからこそそんなこと誰もしないのである。そもそもできないのである。
自分の姉はひどい認知症になったけどこの認知症の謎はどこまで正気で正気でないのかわからないのである。
正気にもどったりまたわけわからなくなったりとまだら状態になる。
でも姉は確かに死ぬ一カ月前に正気に一瞬もどってそれかは意識不明になり一カ月後に死んだのである。
だから認知症でもその人は何もわからなくなったから生きる価値がないとも判断できないのである。

今日厚寿苑で聞いたら自分の子供の名前を覚えていたし孫の名前も覚えていたし曾孫のことも覚えていた、それも忘れていたと思っていたのである。
二年とあわないと忘れてしまうからである。
そしてしきりにこの施設にいるといくらかかると金のことを気にしていた。
約5000円かかるというと金がかかるからいられねえなと言っていた。
つまり金のことを理解していたとなる
だから人にもよるが認知症になっても百歳になっても何かわかっていることがある。

ただ社会的こうした老人ばかりに金をそそぎこむことが何か価値を生み出しているのかとはなる。もちろん人間の価値など多様であり計ることなどできない
でも例えばショートスティであれ施設であれそこにあずけて金を使うより自分の場合、花を買ってアラワーアレンジメントするのが価値あるとか、老人の代わりに孫であれ奨学金のように金を使った方がいいのではないかとも思う。
ここでも老人に金をかけすぎるからそうなるのだ。
ショートスティが一日5000円でも実質は何倍も金がででいる。
そんなに金を払っていいのかとなる、それより国の将来をになう子供に若者にその他に金を使った方が国でも有益ではないかとなる
つまり老人問題は金が深くかかわっている。金がかからなければそれぞれの家で安上がりにできれば国でも負担がへるし若者の負担もへる
施設でも田舎では今は老人施設が一番立派なのである。
金をかからないようにするために国では在宅をすすめたのだが今は大家族ではないから
今度は人手が家にないとなりできない
でももし立派な施設など建てないで介護士とかも雇わないで在宅にするなら介護する人に10万とか与えた方が国の負担は格段にへるだろう。
隣近所とか暇な老人でも介護度3くらいまでならできるからである。

いづれにしろ介護でも国の負担を少なくすればこんなに若者とかから老人は早く死ねとか言われない、金のかからない介護を目指すべきなのかもしれない。
あまりにも施設でも立派だし介護士だとかも雇うとか何か介護は病気とも別なものだから金がかけすぎているのである。
介護士の給料をあげなければそもそもいい人材はえられないというが介護は本当は別に隣近所の暇な老人とかでもやればできないことはない
そんなに負担にもならないことはありうる
何かそういう方向にもっていかざるをえない、それで在宅介護という方向は間違っていないのだろうがそれをするためには地域包括センターがあるように隣近所とか助け合いのが必要になる。
そういう社会でなくなったときそれがむずかしいから困るのである。
やはり助けてもらうにも老後難民の人たちがブラックバイトとかしないと生活できないとかあり介護する人に10万支給するというふうになればその老後難民化した人たちに仕事を与えれることができるかもしれない
ただこれも一つの提案にすぎないし何かとうまくいかない机上の空論だともなってしまうでもなんらか対策しないと本当に老後難民だ医療や介護の負担で国がつぶれるとまでなるのが冗談でないのである。


 
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鬼怒川の堤防決壊の原因 (原発事故ともにて失敗の法則もあるのか?)


鬼怒川の堤防決壊の原因


(原発事故ともにて失敗の法則もあるのか?)


原突事故がどうして起きたのかその原因を追及してきたけどそこには何か同じ法則のようなものがあった。
成功の法則があれば失敗の法則があるのだろうかとなる
鬼怒川は一級河川であり国土省の管理するものだった。
その管理を怠ったから国土省の責任が問われている。
その前に民主党もソーラーバネルを推進したから今になるとそれも原因とされる
いづれにしろ堤防も完全なものではない、おそらくスーパー堤防にしても完全ではない
どこで自然災害が起きるかわからないしどこに弱点があるかわからない
堤防自体が自然なものではない、自然に逆らうものだったということも不思議である。
なぜならナイル川であれ川というのは洪水があるのが自然なのである。
その洪水によって栄養のある泥が流れて小麦がとれエジプト文明が栄えた。
つまり洪水は自然作用でありそれがすべて悪いものではないのである。
だから堤防自体が自然に逆らうものであり決壊もするとなる
それで一部増水したときは水の逃す池を作るのは自然に逆らわない方法である。

今回の鬼怒川の決壊でも最初は私有地であり法律的には問題ないとかなるし私有地だからどうにもならないという議論がある。
これも明治以降私有地化された結果、公共の概念がなくなった。
入会権として村の所有地だったのが広島の土砂災害 でも私有地化されて細分化されて公共事業がしにくくなっていた。
そういうことも災害に結びついていた。めして原発事故の補償では家の前の海が私有の海だとして要求していたのである。
原発でも最初はその私有地を買い上げることからはじまる。それでその土地をもっている人が反対するばそこには建てられないという権利がある。
でも東電や国となると対抗できないのである。
たいだいは私有地があれば公共事業はしにくい、今回は私有地になっていて堤防の決壊につながった。

国家の役割が何なのか?国土省があるときそれは安全を守ることにあった。
それは原発でもそうだった。まず安全を守ることが第一として国の役目であり保安院を置いたが何の役目も果さなかった。
むしろ東電と国は一体となり「安全神話」を作っていた。
何か安全というとき企業でもそこに金を使うともうからないからしたくないのである。
だからこそ安全面は国でしなければならない、国で安全を管理することが役目となる。
今回のソーラーバネルが自然堤防を削ったとかが問題になったのは業者ではもうけだけを考えるからそういうことにもなりかねない。
国土省でも危険だと地元の人が陳情しても無視していた。
削った跡に土嚢を積んでいたということは危険の認識はあったということである。
ここでも私企業と国の関係に問題があった。
この私企業は規模が小さいけどそれでもこういう問題を起こしたのである。
東電は国並みの私企業だから違っていた。それは国をも支配できる力をもっていたのである。私企業は安全面が必ずおそろかになるのである。

そもそも日本は本当に災害の国だったことをまた認識された。
実際自分の家も二回も近くの川が氾濫して床上浸水になっている。特に自分の家が一番町で低い場所にあり被害が大きかった。
二回目は今回と同じように土手を削って道を作ったという農家の人が批判された。
そこから決壊したからである。これも今回の鬼怒川の決壊とにている
それでその農家の人はさんざん批判されていた。
確かにそれが原因だったとすると人災だったとなる。
ただ果たしてそれが原因なのかどうかは良くわからない。
その後は堤防は強化されて水害はなくなったのである。
つまりそうした災害の原因はどこかで同じようにあるということになる
今回の自然堤防を削ったのが原因かどうかははっきりしないがこれは大規模な水害となり人まで死んでいるから国土省まげ関係するようになったのである。
本当は日本では自然災害は不可避であり防ぐことができないものなのかもしれない
だから津波では海岸に津波の来るような場所に住んだやつが悪いとか
今回もあんな危険な場所に住んだ人が悪いとまで言われるようになったのである。
あそこはもともと沼地であり土地が低い場所だった。
それが宅地開発して家が増えたからである。
自然条件を考えないで住宅地にしたから悪いとなる。地震の液状化でも言われた。
地盤が悪い所に建てたやつが悪いとなってしまう。

要するに日本では地震や水害でも津波でも災害をまねがれない国なのである
そういう国になぜ原発のような危険なものを作るのか、それはどんな安全策を講じても事故は起きる、予測つかないからである。
だから津波の来るような海岸線には住まない方がいいとか水害の起こるような所には住むなとなる。
でも日本は狭い国だから危険な場所でも住まざるを得ないから必ず犠牲者が出ているのである。
ともかくソーラーバネルは自分の場合は最初は景観を破壊するので嫌だった。
実際に森を切って設置しているし台風などがきたら危険なものとなる
いかにも原発よりいいと民主党が宣伝したことも裏目になった。
そのソーラーバネルには税金が使われているからそれはエコではないというのもわかる。そしてこれも利権化して危険な面あったが無視されたのである。
結局エネルギーを何に頼るかとなると石油とか今は石炭が見直されている。
いづれにしろ必要悪でも今はそれしかないとなる。
ソーラーバネルなどはエコだといっても電気事業としては成り立たないとなり電力会社では迷惑だともされるからである。

国土省の責任が今回問われるとなるとか言われる。その国土省の大臣が公明党である。
つまりその堤防を削った近くの人が危険だと訴えたの国土省では無視したからである。
だから民主党だけに責任があるともならない、政治となると必ず責任が問われる
それは国土省の官僚の責任も大きいがその当時の大臣も責任が問われる
そうなると公明党の責任とか創価の責任まで問われる。
政治の責任と宗教の責任が違っていても何か政治と一体化すると政治の責任が宗教の責任になり宗教の責任が政治の責任にされる。政教分離しないとそうなりやすいのである。
殺人罪にすらなりえるからそういう立場になると責任がそれだけ重くなる。
でも日本では今回も誰も責任を問わないとなる。
文字通り水に流せとなる、そういう言葉が生まれたのもともかく災害が水の災害が常にあったのである。
八竜神社というのが実に多いがこれは水にまつわるものでありそれだけ日本では水の災害が多かったのである。
反面水が豊なのも日本である。津波もあるが海の恵みもある。
その国の風土にはプラスになるものとマイナスになるものがあるがそれは表裏一体なのである。

 
タグ:国土省
posted by 老鶯 at 05:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層