2015年09月10日

抽象画(京の紋様)



抽象画(京の紋様)


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これも原画がインターネットにあって変化させたものである。
京都の紋様というとき京都ならではの紋様はすでに無数に作られている古典的なものがある。
インターネットにも出ている。
その延長としてのパソコンとインターネットの抽象画のバターン化なのである。
日本では紋様の芸術はすでに豊富にあった。
それがパソコンで容易にパターン化できるようになった。
このパターン化がパソコンでは一番得意なのである。

 
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記憶したものが人生となる (人間の脳の大事な機能は記憶すること-罪も記憶され消えない)


記憶したものが人生となる

 
(人間の脳の大事な機能は記憶すること−罪も記憶され消えない)


人間の快楽を追及するのは性だけではない、様々なもので快楽を追及する、食でもそうだし誰も苦になるもの不快なことはさけるのである
それは人間の本能である。人間の本能は快を求めるようにできている。
人間の不思議は一旦快を覚えると脳に記憶される
そしてまた快を求めるようになる。
だから麻薬であれ酒であれ快を覚えるからやめられなくなる、中毒になる。
この中毒をとめることがむずかしいのは節制とか禁欲がむずかしいのはそれが本能だからである。
苦行など誰もしたくないのである。欲望を否定することは誰もできない
人間の欲望は性だけではない、様々な欲望があり否定できない
人間の欲望をおさえることができればこの世は楽園になるだろう。
あらゆる問題が人間の欲望とかかわっているからだ
子供はまだそうしした大人のような様々な欲望がないから純真でいられる
それでも子供で快を求めていている、一度うまいものをたべるとまた食べたくなる
何か人間はうまいということを脳で感じて記憶される
そして一旦覚えた快はまた味わいたいとなる
性は最も強い快だからあくことなく求めてきた、老人になっても脳がその快楽を記憶しているから求めているのである。
体ではなく脳の快の記憶が求めているのである。

脳には体の神経のすべてが集まる、体にはりめぐらされた無数の神経が脳で感じる
風が涼しいとか冷たいとか感じるのは体の神経であり脳が記憶する
それは生まれたときから風を感じているし夏には涼しい風を感じている
だから涼しい風をまた感じようとしている
もし神経だけで感じていたら脳に記憶されなかったら涼しい風を求めないだろう。
認知症になると涼しいとか寒いとか暑いとかの感覚がなくなっていた
それは脳が麻痺してそうなっていたのである。
寒いところでも薄着で外出していたから脳が感じなくなったということである。
そのことは何らか危険な状態にもなっていた。
認知症の人が寒さも暑さを感じないということ外でそのまま凍死したりすることになる
寒いということを感じなければ外にいつまでもいるとなるからだ。

人間の能力意外と大事なのは脳で様々なものを記憶されるからではないか?
人間の一生も終わりになる何を記憶したかが生きた証拠のうよになってしまう。
老人が何度も何度も過去を語るのはその記憶が生きた証だからである。
自分の姉は従軍看護婦としてシンガポールに四年間とかいて辛酸をなめた。
そのことがどうしても忘れられないから死の直前までそのことを語りつづけていたし
認知症になると同じことを百回とか千回も言う、前言ったのを忘れていることもある。
ただ人間は一番人生で印象に残ったことを語りつづけるのである。
つまり記憶されないものはないものと同然になってしまわないか?

40年前とかにともに過ごしたとしてもその人のことは忘れてしまう。
認知症になると息子や娘でも「あなたは誰ですか」とかなるともうその人自体が記憶にないということは存在しなくなることである。
人間にとって記憶が記録などでも意外と大事なのは人間は何でも忘れやすい、40年とか過ぎる何でも忘れてしまうのである。
そしてこの辺で避難区域になり村や町に人が住まなくなった所がある
例えば飯館村には人が住まなくても家が残っている
すると錯覚していたのは家があるから人がいると思っていたのである。
つまり家というのは一つの記憶として形あるものとして残っていたからそう思ったのである。

一方で全くこの辺では磯部とか海老と烏崎村では家もなにもない、全く何もなくなった。残ったのは土台だけでありそうなると何も記憶するものがなくなった。
それは本宇とに空恐ろしいことだった。
そこには幽霊すら住んでいないとまでなる
まだ山の村の幽霊屋敷とか童話にしたけどあそこにはまだ人が住んでいるという気配が残っていたからそんな物語も書けた
しかし磯部とか海老とか烏崎とか他でも津波の恐ろしいのは記憶させるものがなにもなくなっていたことなのである。
幽霊すらそこには住んでいないという恐ろしさだった。
廃屋でもそこには人の気配が以前としてあるが津波で壊滅した村には何も記憶を呼び出すものがないのである。
村の歴史でも何でも避難して人が住まなくなればその記憶が失われることなのだ。
そうするともうその村の存在すら消えてしまう。
古い碑とか墓とか地蔵とか神社とか祠は何かその村の歴史を記憶を維持しているものでありそれも村人が消えればその記憶もやがては埋もれてしまうのである。

記憶と記録はまた違っている。記録になくても記憶に残ることはある。記録は文書とか何か形あるものであるが記憶が何かまた形にならないものである。
家族があるとするとそれは愛情でもって成り立つのでありその愛情というのは記録されない、記憶されても記録はされないとなる
だからすべてが記録されることはできない、記録という点では機械がコンピューターの方が優れている
最近近くのスーバーでレジを機械化した。これが意外と便利なのである。
お釣りを十円のこしていたとすると機械が教えてくれる
そこでは金を払ったとか払わないとかのミスがなくなる
確実にいくら入っていくらお釣りを出したということが記録されお釣りが残っていたら警告して教えてくれるからこれなら人間のミスはなくせる
つまり記録する点では機械の方が優れているのである。
デジカメでも次々に旅行した現場をとっていってあとでそれを記録したものからふりかえることができる。

でもそうして記録しないと人間の思い出すことは限られていてあらゆるものを思い出すことができなくなる
こういうことは歴史でも資料があればそこから過去をたどることができるからにたものはある。
ただ記憶と記録は違っている。人間はあらゆることを記録できないが記録したものの意味と価値を与えるのは人間にしかできないのである。
自分は膨大なものをプログとかに書いているけど自分の書いたものを読んでいてこれが自分が書いたものかと不思議になる。
自分の書いたものすら忘れていたのである。だから記録することは人間にとって大事だともなる。記録したものから過去を読み解く作業ができるからである。

老人が若者より優れていることがあるのは人生で記憶したことが多いからである。
一時代でも生きているとその長さから時代をみることができる
若い人はそれができない、これから記憶することになるからである。
戦前から生きている人はやはり記憶しているのものがあるから違った見方ができる
ともかく脳の機能で大事なのは記憶していることである。
記録したものはまだ別であり記憶したものがその人間を作っている
記憶はまた消えやすいのだけど若いときのことなどの記憶は消えないことがある
若いときの奔放な無謀な欲にまかせた行動などの記憶がよみがえり消えない
なんであんなことしたんだろうとか後悔しても消えないことが怖いのである。
悪い記憶も消えないのである。罪として記憶される刻印されているということも怖いことである。
それは別に警察につかまるとかではない、脳に心に記憶されたことなのである。
悪行は明らかに脳に心に記憶される刻印されるから怖いのである。
カインのように額に徴しをつけられたということもそのことを言っていたのである。

若いときはそういうことを考えない、欲望のおもむくままに生きるし老人になってどうだこうだなど考えないのである。
だから推理ドラマのテーマは必ず若きの到りとか若いときた悪行が老人になって暴かれるとかがテーマになる。
それはたいがい若い時はそういうことが多いからテーマになる
それがのちのちまでも老人になっても影響しているのである。

「耄碌した好色家は接吻することができないのになお接吻したがり少しでも味わいたいと思うのです」チョーサーーカンタベリー物語

これは脳科学から考えれば一度覚えた快は忘れられないのである。
だからうまいものの味を覚えたらまた食べてみたいとなる。
嗜好品というのはそういうものである。
そういう脳に記憶された快の記憶は肉体が衰えても消えないのである。
自分の場合は何か体力もないし欲望も強くないからそうした罪からはまねがれた
それでも罪は犯している
でも優秀な体力ある人間は大きな罪を犯す、この世で大きなことを成す人間はまたそれだけ欲望が強いともなるのである。

聖ペルナルドゥスはこうおしっています「人はこの世で自分に与えられたいっさいのもについて決算を提出せねばならぬ、それらのものをいかに費やしたかを報告せねばならぬ、それであるからほんのとうはつ毛一筋を失ってもまた生涯のうちのほんの一瞬を時を失ってもそれについて計算を提出しなければならないのである」
チョーサーーカンタベリー物語

人間は老人になったらすべての決算を否応なく決算を強いられる。
それはカルマもそうであり様々なカルマを人は積んできた、だからカルマの清算を強いられる

なぜ自分に起きた苦難はカルマだったのである。
なぜなら60年間も母は自分のために食事を用意してくれた。それのカルマ返すことを要求されている。毎日ともかく食事を出し続けねばならなくなったのである。
そして人はカルマがあるが恩があったら必ず返さねばならない、それを怠るととうなるのか?
さらなるカルマが重なりもう返せなくなり破綻することにもなる
その人は恩など何も感じない、それは親の代とも関係している
親の代のカルマは二代くらいはつづいているのである。
その人は全くのそのことも意識していない、だからまたカルマを積んで窮地に追い込まれたりする、恩とかは明らかにカルマなのである。
それを無視したりするとさらなるカルマが負わされることになる
親との関係もまた恩でありそれは返さねばならない、親は愛情があるからだとかにならない、やはり恩というのは返すことが強いられるのである。
それをしないものは親子ではなくなるし親子の縁も実際はきれるのである。

ともかくたいがいの人はは「俺は悪いことはしなかった」とか自分に威張って言う
ところがそれを自分に威張って言うことではない、神に向かってそういえばいいのであるそんなことを自分に言われてもそうですかと言えないだろう。
人に悪くした人は最後に必ず後悔する
継母だった人は最後に「悪かったな」と言って盲目になり苦しんで死んだ。
ただ最後に頼るものもなくなり継母にいじめられた母が後始末をしたからである。
別に優しくしていればそんなことはなかったのである。

生涯のうちのほんの一瞬を時を失ってもそれについて計算を提出しなければならないのである

これは老人になればわかる。いかに時間が大事でありそこで記憶するものかが大事であるかを言っている。
この世の時間はたちまち過ぎる、その時間を何に使うかは最後に問われるのである。
つまりいかに時間を無駄にしているか、時間を失ってはじめてわかる。
故郷を失ってはじめて故郷の大事さが価値がわかる。
愛する人を失ってはじめてその人の大事さがわかったとか人間の弱点は失ってみないとわからないことなのである。
何かありふれたものでも実は尊い価値あるものだったとかは失った時わかるのである。
だから人間は結局みんな老人になって後悔しない人はいないのである。
特に時間の大事さがわからないのが人間の最大の弱点だったのである。





 
タグ:脳と記憶