2015年09月09日

火と海の抽象画(fire and the sea) (画像類似検索からいくらでも類似の抽象画が見れた)


火と海の抽象画(fire and the sea)


(画像類似検索からいくらでも類似の抽象画が見れた)


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火と海の花

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花の細胞




これも最初の線のような色合いが原画であり変化させたものである。
抽象画は無限の変化であることがわかった
最近佐野氏のエンブレム問題で類似の画像検索が簡単にできることでわかった
同じようなものが検索でいくらでもでてくる
そこからさらに類似のものを芋ずる式に出せる
それで画像検索の範囲が無限に広がった
キーワードだけでは限界がある
ともかく画像は言葉が違っても世界共通に理解できるから便利である。
おそらく一つの原画から無数に変化したものが出ているかもしれない
インターネットは世界的だからそうなる
インターネットとかソフトとかはまだ使い方がわからないのだ
この世界はハードより使い方が理解するのがむずかしいのである。
何事今や本当は物を買っても使い方がわからないのが多いのである。
機械でもそうだし何でもそうである。
つまり現代というのは消費社会だというときその消費が実は創造的な消費になりやすいのである。
ただ浪費するのとは違う、何か買ってもそれをいかに活かすかが労力かかる創作的になるパソコンでもインターネットでもそうだし買うとうしもそれを使いこなす労力の方が手間になるのだ。

そもそも電子楽器を買ったとしてもそれをみんなが簡単に演奏などできないのである。
たから消費というのも今は何か創造的消費になる。
お前は消費するばかりで何も与えないとかなるが旅も実はこれも創造的消費だった。
旅でも旅に集中しないと記憶にも残らない、どういう場所に行ったかもわからない
あの時かわいい子がいたなとかそんなことばかりが頭に残っていたらその土地のことも自然も記憶に残らないのである。
そしてたちまち時間が過ぎてしまいもうその場所に二度と旅にも行けなくなっている
だから旅の時間も貴重だったと今ではふりかえる

ともかくハパソコンとかインターネットとは創造的に使いこなすことが強いられる
それが今までの機械とは違っている
消費するというけど今や消費することが手間であり労力がかかる
老人になると何も買うものがないというとき消費するのにも体力とか労力とか知能とか経験が必要になっているからである。
金があってバイクにまた乗ってみようとするときこれも体力と時間と労力が必要になる。若いときとは違うからである。だから老人になってみて何かを消費すること自体金があってもできないとなっているのだ。
本を買っても読めないとかいろいろなことができないのである。
最近自分は忙しくて花さえ活けられなかったし見てもいられなかった。
家事から介護をしているとそれだけ追われるからそうなる

ともかく抽象画は無限の変化であり変化を楽しむ芸術であることがわかった
類似検索というのは優れた検索方法だった
これも今になって知ったことでありどういうふに使っていいのかわからないのである。
まずインターネットというのは検索が一番の問題である。
どこになにがあるのか知ることはもうできない,ただ偶然に出会い知るとなっているからである。
世界的だからもうその数は計り知れなくなっているからである。

タグ:火と海

マヤやインカの文明の意義は何なのか (日本も大きな文明の転換点に来ているー日本文明が再興が志向される時代)


マヤやインカの文明の意義は何なのか


(日本も大きな文明の転換点に来ているー
日本文明が再興が志向される時代)

マヤ文明というときこれも謎である。紀元前までさかのぼるから古いのである。
そしてまず文明とか歴史を知る基礎がやはりその土地の自然環境とか地形にある。
人間は地理に制約されて生活するから当然だとなる。
マヤ文明の生まれたところはジャングルであり大きな川がない、小さな川しかない、
ジャングルに60とかの都市国家がばらばらに発展したのである。
その文化はつながりがあり共通性があっても統一した国家を作っていない
その原因がその自然環境に地形とかにあったのである。
なぜなら大河の辺にナイル川とかチグリスユーフラテス川とかインダス川とか黄河の辺に大文明ができたということは大河が大きな役割を果たしてた。
大河があるということはまず交通するのに便利であり大河が道となる。
大陸の大河は運河と同じなのである。船が往き来するようにできている。
日本の川が滝だというときまるで違っていて運河のようになっている。
それはヨーロッパでも同じである。日本にないものはこの大河でありだから大河とか草原とか砂漠がない日本は外国のことが実感としてわかりにくいのである。

常に自分が言ってきたことはまさにこの地理がわからなければあらゆることがわからない歴史も地歴であり地理がわからないと歴史も根本的にわからないのだ。
だからマヤ文明もまさに地理を知らなければ知りえようがないのである。
ナイル川がエジプト文明を作ったとか黄河が中国文明を作ったというのはまさにそうである。
あれだけの大きい川があれば統一国家ができやすいのである。
それはむずかしい理屈は知らなくても実感としてわかるのである。
ナイル川とピラミッドは結びついていた。大きな船がナイル川を往き来していたのであるナイル川は今よりはびっと広く流れていたからピラミッドに近かったのである。港がありピラミッドがあったともなる。
大河があり砂漠があり草原があるとそこは自然の道となり移動しやすいから交流しやすいから大きな統一国家が成り立ち安いのである。
アンデス文明、インカ文明も地理的にみると山が多く孤立した文明なのである。
他との文明の交流がなかった孤立した文明になっていた。
孤立した文明なるが故に石器文明であり鉄が作られなかったし文字もなかった。
それでその歴史も謎であったがマヤにはマヤ文字があり解読されつつある。

一方日本は海に囲まれても大陸文明と中国とかかわり文明をとりこんでいた。
だから漢字がありその前にも言葉があり歴史が残された。
ヨーロッパ文明とも信長の時代にかかわっていたから孤立文明ではない。
明治維新でももしマヤやインカのように孤立文明だったら西欧化できない、
簡単に滅ぼされてしまったろう。
日本文明がありその日本文明はすでに歴史的に中国文明とか大陸の文明をとりいれた厚みのある文明だったのである。
もし鉄もない、文字もない、マヤやインカのような文明だったらとても西欧化などできないのである。その基礎がないからできなかったのである。
技術的にもそうだし文化的にもそうである。
そもそも封建制というのはヨーロッパと日本にしかなくそれは文明的に進んだものだったのである。中国には封建制はなく王朝であり常に一党独裁になりやすい国だった。
日本は合議制とか村々であり民主化しやすい土壌があった。

日本は日本文明がありそこに誇りをもたねばならなかった。
ところが明治維新後から太平洋戦争の敗北で日本文明のアイディンティティを失ったのである。
例えはキリスト教が入ったとして日本文明がありえたのである。
仏教が入ってきたとき中国の仏教と韓国の仏教と日本の仏教は違った如く日本のキリスト教も違ったものとなっていた。
日本文明はやはり独自のものであり誇るべきものがあったのである。
その日本文明が純なる日本というものが今や何かわからない失われたのである。
日本文明というとき天皇のことではない、政治的なものだけでなく文化的なものもあり全体のことである。
全体から文明が生まれる、ただその日本文明が何なのかとなるとわからなくなった。
だから日本文明の復古(ルネサンス)が必要になったのである。
それを自分は文化的な面から俳句でも短歌でも詩とかでも追及してきた。
日本は今やいろいろな面で曲がり角にきている。
それは世界でもグローバル化の矛盾が危機的状態になっている
そういうとき新しい文明を個々の国でも地域でも目指すように強いられているのだ。
それは容易なことではないにしろ時間がかかるにしろそういう歴史的転換の時代なのである。
津波のような天変地異もまた大きな時代の変わり目に起きたのである。

政治的な面と文化的の面は別々にではなくやはり一体であり最近集団的自衛権とか中国とかの関係がとりざたされるのもまた右傾化するというのもそうである。
政治的にも日本の独自の道を追及せざるを得なくなったとかもそうである。
何かそうした時代の大きな変わり目にきているのである。
それはなかなか意識しにくいがグローバル資本主義でもそうであり日本自体も変革を迫られている
それは大きな歴史的変革になる。単なる経済が衰退するとかではない、それは目先のことであり日本文明自体の復古であり変革なのである。

古代文明を考察することは現代を知るためであり過去の死んだ遺物を個々にみるのもまた新しい発見なのだけどそれだけではない、現代を知るには古代を知ることにより古代の時代の意味を知り現代に活かされることなのである。
現代の文明は別に人間が進歩したものでもない、かえって人間的には退歩した奇怪な文明とすらなっているのである。
現代の文明は経済と科学の機械文明であり日々語られることはそれしかない
神官は科学者であり経済の話しかない、古代の文明の遺物を見ればかえって自然と調和した豊かな文明だったということがみられる
マヤとかの文明が不思議に縄文土器と共通性があり装飾性が豊でありその時代はかえって今より人間は人間らしく自然と調和して生きていたことがわかる。
現代はビジネスとか科学と機械とかそうしたことしか話題にならないのである。
だから何か自分が山と石とか樹から発想することが別世界のことのようになってしまっている。

そのことは古代文明が別世界の文明にみられるのと同じなのである。
縄文の文明とマヤとインカの文明が土器などに共通性が見られるのはエジプト文明でも
動物と人間が一体化していたことなど深く自然と密着して生活していたことは同じだから共通していたのである。
現代文明は自然から遊離しているからこそ異様な文明、人間が人間でなくなる文明になっている。
そのことが原発事故をもたらして故郷にすら住めなくなったということが大きな観点からみればそうなる。
津波とか原発事故は大きな文明の転換をうながしいる事件だった。
天変地異が文明を滅ぼしたり変えたりしてきたからである。
だから今はこれから百年とかは大きな文明の転換期であり日本文明の再興(ルネサンス)の時代になる。
個々の小さな事象にだけ注目するのではなく全体を見ればそうなるし全体が文明だからそうなる。
いづれにしろ歴史は連続したものであり今は世界的視野でグローバルに地球を見る時代である。
マヤ文明とかインカ文明も世界史のなかで意味が与えられる時代なのである。

 
タグ:マヤ文明