2015年09月20日

原町の道の駅で盆栽展



原町の道の駅で盆栽展

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石川氏の作品

松林

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曲松

これは二つが組になってみるそうである。


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一本松

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下浦氏の作品


松風


こういう松は山の中でみかけた

いかにも風雪を帯びた松である。

枝垂れた松の枝がいかにも風に吹かれている感じになる

セッティイングが展示がもう少し工夫が必要だった

何か自分もフラワーアレンジメントしているけど

写真映りいいように配置しないといけない

現代はなんでも写真を意識しなければならない時代になったのである。

これは別に写真をとっていいと言っていたのでとった

でもここに出すと名前が必要に思った。著作権があるからだとなる

ただ名前を出すとまた許可されていないからめんどうだとなる

新聞でも許可しないのに名前と住所まで出した人がいたのである。

今はどこで写真がとられインターネットに発表されているからわからない時代である。

それで一応名字だけを出した。

名前の全部を知りたい人は連絡すれば教えることはできる

ただこれも問題になるということはある。

ただ写真をとることを許可したのだから出してみた


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羽根見ればヒョウモンとまる秋薊

ヒョウモンとつく蝶にはいろいろある。北海道が多いのか?寒いところの蝶なのか?
秋の薊にあっていた。



時々あそこで展覧会をしている。野草展などもあった。
今回は盆栽展である。盆栽にも個性がある。
今回を目をひいたのは松林のようになっている盆栽である。
一本の根からこれだけ生えた
これが気にいったのはこの辺では松原が津波で流されてなくなったからである。

右田の松原はいい松原だったけどなくなった。
あそこは一本の松がいいというより松原になっていたから良かった。
一本一本の松は良く見ていなかった。
松は一本一本見るのと二本と三本とか五本とかの松があり松原があり松林がある。
この松が松林のように見えたのである。
だから何か松原があったなとか見えたのである。
もう右田の松原でも高田の松原でも見ることはできないのである。






 

2015年09月21日

老衰でも人間の最期はみじめ (仕事をしながらいつのまにかに死んでいる死がいい)


老衰でも人間の最期はみじめ

(仕事をしながらいつのまにかに死んでいる死がいい)


 
我が母の苦労つづきをその最期我はみとるやいたわりつつも


NHKの「老衰死」を見たけどあんなふうにして母も死ぬのかもしれない、老衰死というけどあそこまでなるのはそれなりにまた時間がかかる。
老衰というのは徐々に生命力が喪失してゆく死である。
食べられなくなると徐々に細胞が死んでゆくというのがわかりやすい。
本当に食べる量が少なくなる、こんなに食べないのに生きているというのが不思議になる死んでゆく状態になるともう何も食べない日がつづくのだろう。
水さえ飲まないようになる。そして肩で息をして息が苦しくなり荒くなり息が途絶える
でも脳細胞が死んできているから苦痛を感じないというのもそうなのかもしれない
外から見ていると息が苦しいから死というのは非常に苦しいように見えるのである。

だから死の前に認知症になるというのは一つの人間の生命の摂理なのかもしれない、つまり認知症になると暑さ寒さも苦痛すら感じなくなるし死も怖くならないという。
でも認知症になって姉はの死にざまは無惨だった
意識不明になるまえに確かに正気に一回帰った。
それから一カ月くらい無意識になっていた。何にもわからなくなったから死んだも同然だったのである。
人間は意識がなくなると死んだも同然になる。
何か意識があるか限り生きているのである。
なんか姉は女性でも豪快な人だった、体育系であり太っていて男でも人を恐れないのである。

だからたいがい強面の男性でも恐れない、堂々とわたりあうのである。
ただ性格的にはあまりにも強きであり功罪があった。
常に人を見下していたのである。だから死ぬ時まで自分は優秀だったと言って死んだからそんなに優秀なことにこだわるのかというのがわからなかった。
それも認知症になって馬鹿になったとかなどと言うことがあったのでかつての優秀な自分でありたいということを強調したいためだったのかもしれない。
ともかく人間の最期は誰でも悲しい、特にその人のことを知れば悲しい
自分の母親はやさしくしてもらったことがほとんどない人生だったのである。
もともと性格は素直でやさしい性格だった。
でも継母に育てられたり結婚しても前の夫が事故で死んだりと何か不運つづきだったのである。
だから何か遊んだということもほとんどない、働きづめ苦労つづきでありそれがまた異常な性格にした。
花も何にも興味がないとしたらそれは異常なのである。
ただそれも過酷な人生だったということがあった。

結局やさしくされたことがない人生だった。
だから自分は母には悪いなという気持が常にあった。
母は恵まれていたら上品なおくさんになっていた。
こういうことは大正生まれの人とかには多いかもしれない
戦前生まれでもやはり何か不運な苦労つづきの人が多いだろう。
それでも母は忍耐強い性格でありあまり愚痴も言わなかった。
これだけの不運でもそうだった。
今の人はささいなことでも忍耐しない、不満ばかり言っているのである。
そこが戦前とかの女性とは違っている、だからすぐに離婚するのである。
そんなに簡単に離婚することはわがままなことがあるのは確かなのである。

人間の最期はみんな悲惨である。成仏もなにもない、死は悲惨なのである。
ただ肉体の死とともに人間はすべてが終わるのか?
人間の生はなにかしら継続されてゆく、その次の世代に何か継続されてゆく
自分をよくしてくれた姉と母のことは忘れることができない
姉が死んでからいかに人間が非情かも知って余計に思うようになった。
人間の愛とか情は死ぬ間際まで通じている
愛は死後まで通じているのかもしれない、百歳になっても認知症になっても何もわからなくなったのではない、愛とかはわかるのである。
この人は優しくしてくれとかはわかるのである。
犬猫でもそうした愛情は通じるしわかる

だから介護は他人がするのはむずかしいし若い人には向いていないと思う
若い人のやることは別なことである。
家族として長く一緒にいた人がやるべきなのだろう。
ただもう最期の方になると介護の負担が大きくなりすぎるのである。
トイレにいけない、介助していたら夜すら眠れなくなる
何もできなるのである。
だからそこで情があってもその情の通りに行動できないというのがまた矛盾なのである。シリアの移民でもかわいそうだと言ってもそれでみんな受け入れたらどうなるのか
何かかわいそうだと思ってもそれを現実に行動に移すとなるとそう簡単には行動できないのである。

要するに死をどう迎えるのか?それは人間の死は肉体の死であり精神の霊の死でとないと
いうことを死ぬまで思いつづけることである。
肉体という殻は最期脱ぎ捨てる、でも精神は霊は死なないのである。
人間は死なないのである。キリストは死ななかった蘇ったからである。
聖霊は死なない霊である。肉体を越えたものでありそれがなくして人間はすべて敗北に期する
人間が死んで終わりだとなるなら生きていることすら無駄である。
人間は死なない命があってこそ生きることができる
永遠の命があるからこそ生きる希望がある。それがないといかに自然が美しいとか言っても死んだら終わりだとなる
自然が輝くのは永遠の命があるからである。
死とは肉体の殻を脱ぎ捨てることであり霊は死なないのである。

ただ誰でも自分でも病気になると精神まで病んでくる、病気に勝てる人はいない
体と霊の戦いがあるがどうしても肉体が衰えてゆくと心も衰えるのである。
元気溌剌として死ぬ人はいない、何か弱り果てて死んでゆく
だから死は死神の勝利であり人間は死によってどんな人も敗北すると見える
ただこう思いつづけること肉体に打ち勝つことは至難である。
すでにちょとした病気でも人間は自分でも弱気になってしまうからである。
老衰の死がいいというけど自分はなにか嫌である。
近くであれよあれよというまに仕事して一週間とか後に死んだ人がいる。
あういう死に方がいい、仕事しているうちにいつのまにかにあの世に逝ってしまっていたのである。
90才になり一週間前まで患者をみていて死んだのである。
別にその人は性格がいいという医者ではなかった、でも死に方はあまりそういうことと関係ないみたいである。

要する人間は最期まで仕事していることが大事なのである。
仕事でもいろいろある。別に医者だけではない、自転車屋の人も病気になったが最期まで仕事していたし同じように病気になった人も仕事している。
仕事がないということが意外と人間にとって辛いものにもなるのだ。
退職してからでもそうだし老後でも何か仕事がないことはもう生きがいもないということになり危険な状態になる。
その人は生きなから用なしとなることが怖いことなのである。
それはもう報酬の問題ではない、医者なら医者として任務を全うすることこそ大事になるともかく仕事というものが人間にとって金にならなくても欠かせないものなのである。
何か老衰というのも死ぬまで弱ってゆく姿がみじめなのである。
つまり死が意識されないように死んでいけたら幸せだとなる
仕事して病気になった、そしたら死んだとかなるのはほとんどみじめな死を意識されないのである。
あの人は仕事していたけど死んだのという感想なのである。
50才の人でアルツハイマーにてっても会社に行き仕事をして社会とかかわっている人は10年も症状が遅れて生活している驚きがある。
何かそこで脳が刺激されて脳の萎縮が進まなかったのである。
人間にとってやはり何か生きがいがないと病気でなくても衰えてゆく

姉がアルツハイマーになったのは退職してから怠け者になり家事も料理もなにもしなかったことが悪かったと思う。
画家はキャンバスの前で死ぬべきであり職人は仕事場で死ぬのがいいし農民は畑とかで死ぬのがいいとなる。
何か仕事をもたない人はだから老後でもみじめになっている、死ぬ前にすでに用なしとなっている、ただ命を伸ばすだけとなり無用の老人となって迷惑をかけるだけだとなる。
そしてだらだらと人に迷惑をかけて死んでゆくだけだともなってしまうのである。
ただ人間はどういうふうに死ぬかはどういうふうに生きたかともに通じる。
仕事をしているというときまさに仕事しながら死ぬというのはそこが死に場所だったとなるのである。

ともかく高齢化社会は介護社会でもある。介護の負担が大きすぎるのである。
まず仕事しながら死んでゆく人がまれである。延々と介護がつづく
自分だってすでに十年にもなるのである。
その労力は並大抵なものではない、だから旅行に全く行けないし近くすらゆっくりと行けない
そしてもっと深刻なのは重要な社会の仕事をしていた人が50才くらいでも仕事をやめて介護しなければならないことである。
それは社会にとって損失が大きい、その仕事にもよるがやはり技術職であれ何か社会的に重要な仕事をしている人が介護になると海外との競争力が衰えるとかまでなる
自分にしても何か介護が負担になると何か創作することも書くこともままならなくなる
介護が意味がないものでもない、でもその負担が現代では大きくなりすぎるのである。
だから一方で介護するということは人間として悪いものでないにしろ一方で仕事もできなくなる、有益な時間が奪われるとかなる。
だから若い人にしても結局介護は実りのない仕事だとなり誰もしたくない
それで有能な人間は介護などしない、介護している若者は社会のおちこぼれがふさわしいともなっているのが現状でありそれで問題を起こしたりしているのである。
タグ:老衰

インターネットで変わった本の読み方 (私設の図書館くらいの本が知的作業には必要)


インターネットで変わった本の読み方


(すぐに注文して買える本ー全部読むのではなく一部を読む)


本は高いものだから前は買いなかったしまずインターネットでわかったことはこんなにいろいろな本があるのかということである。
古本も全国だとあるしもうあらゆる本がある。それが全国的になると安く買える
このことで知識が増大して知の効率が飛躍的に増した。
田舎だとまず本自体がないし買うこともできなかった。
仙台まず行っていたのは仙台でないと本が買えないし専門書は買えない
これは今になるとかなり不便なことだった。
だから知的に相当田舎では不利であった。
それがインターネットで田舎でも発信できるし本はいくらでも買える
それでまた本は半分捨てたがまたその半分の量をインターネットで重にアマゾンで買っているのである。

本をどう利用するかは本というのはある一定の蔵書が必要なのである。
それが読まないにしろ必ず必要なものなのである。
本はいわば自宅で図書館のように備えて置くことが必ず必要である。
だから作家とか学者でも自宅が小さな図書館となっていない限り研究もなにもできないのである。
それは小説などを書くにしても膨大な資料が必要になってくるからである。
つまり何か書くとき必ず本は必要になる、今ではインターネットがその一部の役割を果たしている。
でも内容が濃いものとなると本になる。だから今は自分で文章とか書くとき必ずそれと関連する本を買っているからまた本が増えてきた。
そして本の読み方は今はまずさーと全体を見渡して自分にとって必要な部分を引用して使う。
厚い本でも全部は読まない、二三行でもそこを自分の文脈の中で使うのである。
その二三行が文章に重みを加えるのである。

だから何か今はいろいろなものを組み合わせるとそれが一つの創作的文章にもなる。
抽象画で変化させたようになる、例えば一つのテーマで今「人間の顔」ということで文章を書こうとするときそれに関するものを本を集める。
でもなかなかどこにそうした文があるかは見つけにくい、でもいろいろな今まで集めた本をぱらぱらとなんとなく読んでいると見つかったりする。
このなんとなく本を読んでいる、拾い読みしているのが意外と大事なのである。
つれづれなるままに......というのが何か知的作業だったのは昔から変わらなかった。
つれづれなるままに読んでいたらそれが心に残り自分なりの文章に文脈に取り入れられるのである。
こういうことができたのは有名な作家とか研究者とかであり普通はできない
なぜなら本は前は高価でありまた買うこともできなかったからだ。
本は膨大な数があってもどういう本があるのかどうかもわからなかったのである。
それでいつもベストセラーなどが話題になり何百万も売れていたというのはそれだけ本は流通しにくいからでてある。
本はその人なりに読む本が無数にあった。でも本は流通しにくいからそうした目立ったものが地方の小さな書店に置いて売れることによって商売が成り立っていたのである。
そんな本は実際は何の価値もない紙屑になる本だったのである。
それでも売れたから地方の書店では商売が成り立っていたとなる

ともかく人間の生きる時間は限られている。だからとてもあらゆる本は読めない
もう年取ると余計に読む気力もなくなる。今読むのはそういう読み方ではない
全体に目を通して自分に役立つものを素早く抜粋して利用する読み方である。
本というのは全体に目を通すのに優れている
インターネットでは全体がわからない、部分に細分化されすぎているのである。
一ページを読むというのが多いのである。
本は厚い本でも全体に目を通して要約して読むということもできる
電子本でもそういうことはできないから本の効用は今でもあった。
だから本はなくならないが書店はなくなる、特に地方の書店はなくなる。
それでも本はインターネットでいくらでも買えるのだから困らないのである。

その人の知識というのもその人が人生の時間で蓄積したものである。
知識でもそうだがそれはその人の体験とかそれぞれの地域に住んでいて知識化している。それは長い時間の中で知識化しているのである。
だからマヤ文明というときもそれは長い時間のなかで一つの知的コスモスを総合的に作りだしたのである。一つの芸術ではない、総合的共同体の知的体系なのである。
そういう作業を地域地域で人間はしている、だから地域地域に世界でも日本でも文化が生まれた。
知的体系の構築というとき芸術はその中に組み入れられたものである。
自分でも一つの詩ではなくそれは知的体系として構築されたものの中にある
その時一つの詩とか一つの絵ではなく全体の一部としてそれは構築されている。
そもそも絵のはじまりが建築物に飾るものとして生まれた。
建築に映えるように絵が生まれたのであり絵として独立していなかったのである。
そういう総合的なものとして芸術はあった。


地域とはそうした総合的な場としてある、一つの物を車だけを車の部品工場のようになるものとは違う。それは地域の風土から生まれる。
どうしても会津だったらあれだけの高い山があるのだから山の文化が生まれる。
太平洋に面した海側は海の文化が生まれのは当然だとなる。
これまではマスメデア中心の情報や知によって支配されてきた。
本でもベストセラーとか何か中央で宣伝されるものによって知識が支配されてきたのである。
地方から発信しにくいシステムだった。
今はインターネットだと発信することは本当に簡単である。誰でも内容は別にしてプログだったら簡単にできる。
簡単すぎるからなにか軽薄なものも多いし情報過多になっている。
現代はともかち知的にも何か孤立しないようにシステム化されてきた
だから一方でその地域の風土というのは地域の個性を産むものだから新しい知の創造は地方から生まれる。
限界集落とか今回の原発事故とかそういう地域の消失と破壊は文化を衰退させた
多様性が失われ東京のような中央集権の文化もない索漠として世界になる

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この本は共同体の美というテーマであった。
美の形式が共同体では確立していた
エジプト文明でもそうでありマヤ文明でもそうである
中世のキリスト教文明でもそうであり
国々によって様式がありそれは総合的知的体系化したの文明である
現代のグローバリズムはそういう文化を創造しない
グローバリズムは文化を破壊する、その土地の風土とかを無視するからである。
一つの貨幣、ドルによって統一される、そうなるとアメリカの価値観が普遍化するのである。
科学技術もまた巨大化して地方の文化を根こそぎ破壊する
それがこの辺では原発事故で現実化した見本だったのである。

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2015年09月22日

初秋松川浦と浜街道をめぐる



初秋松川浦と浜街道をめぐる(写真)

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藤の蔓ここに残りて春なればまた咲かむかな死者を弔ふ

この後ろに残っているのは奇跡の藤の蔓だという、津波にも残ったから春になると藤の花が咲くのだろうか?
それはあたかもその花が死者を弔うともなる



松川浦初秋の風や舟一艘
松川浦釣り人一人秋の雲
海の風松に薄や社古る
島見えて塩釜神社に薄かな
文字島に秋の鴎の一羽かな
柿なりて街道暮れむ細き月
五本松夕月いでて実りかな
街道の五本松暮れむ稲刈りぬ
しみじみと秋夕焼けの濃くなりぬ
薄雲に月のほのかや隠る石

津波跡残る社に幹と根や磯部は消えて秋の風吹く
岩の子の塩釜神社の古りにけり浦に島見え秋の風吹く
津波より五年も過ぎむ秋日和実りもあれや魚も釣れむ
萩しだれソバナの花のうなだれて月のいでしや街道帰る
街道の細道あわれ日立木の家並変わらず月のいでしも

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今日は秋晴れであり松川浦の方に行った。磯部の神社には大杉の幹き根だけが残っていたあれは相当な大きな杉だった。ただあそこの神社には注目していなかった。
ただ稲荷神社とあるだけである。
津波は磯部の村を壊滅させた。そこには何も残らなかった。
そこから少し離れたこの神社には杉の幹と根が残った。
何か今や津波を偲ぶものが少なくなっている。この大杉の幹と根も枯れるのか?
潮水をたっぷりとかぶっているからである。
たいだい残った松でも枯れてゆくと思う
松は潮水に弱いし強く根を張る樹ではなかったのである。

松川浦の岩の子を回ったら塩釜神社があった。この神社の由来は慶長津波の前からあったのであり碑に年代も書いてある。でも慶長津波ののことは書いていない不思議なのであるここからのながめはいい、島が一つ見えることは古歌の通りである。
岩の子の文字島は前を埋め立てたので防波堤にさえぎられ景観が悪くなった。
秋の鴎が一羽はとまり季節を感じる
今日の風は秋風であり北風であった。もう南風とかは吹かないし東風も吹かなくなる
明らかに秋であり風景も変わってくる


松川浦では大橋の辺りでは連休なので釣りの人が一杯いた。仙台から来る人が多い。
食堂も五軒くらいはじめたから困らない、でもまだ津波の影響は消えない
旅館は工事関係者がとまりまだ観光客はどれほどきているか
まだまだ元のようにはもどらない、放射能の影響もあり魚もとることができないのは痛いただ漁師は別に補償金があるから生活には困らないのである。
そこが前の見方とは違っている、前は生活は魚だけでは苦しいと見て同情していたのである。今はあまり同情する気になれなくなったのである。

帰りはまた街道の細道をゆく、ここはなぜか何度も通っても情緒があるのが不思議である普通だったらこれだけ通っていればあきるだろう。
でも何か季節が代わりまた別なものを感じているのも不思議である。
浜街道といっても日立木から松並木から城跡までなのである。
あとはどこが街道なのか良くわからないのである。


10年近くも何か遠くに行けない、近くを行くだけである。
その近くすら行けなくなるという恐怖を感じた
介護して母が腰を打って動けない、ホータブルトイレに行けないと騒いだからだ
そうしたらつききっりで介護しなければならなん、そしたら外も出歩けない
テレビでは脳梗塞になった母を三食食べさせて朝は新聞配達して収入にしている男性を写していた。
ああなると本当に何もできなくなる、外出すらできなくなる恐怖である。
代わってくれるものがいなければそうなるのだ。
介護はそれだけ人の自由を奪ってしまうのである。
その代わりというか自分は自由に旅したのだからその代償なのかと思った。
なんか人間はどんな幸福でも必ずツケを払わされる
60以降に一番具体的なのは借金のツケを払わされることである。
その他自分の場合、自由の代償がこうして全く自由を奪われることであった

津波もまた何かの代償だったのかもしれない、海の幸を与えるがその代償として災いも与えるとなっていたきかもしれない、そういうカルマが常にあるのがこの世だということを身をもって知ったからである。




 
タグ:松川浦

2015年09月23日

松川浦岩の子の塩釜神社の由来の謎 (慶長津波の被害があったのか?)



松川浦岩の子の塩釜神社の由来の謎


(慶長津波の被害があったのか?)


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クリック拡大(塩釜神社の碑)

( 1338 )延元三年暦応元年戌寅三月宇多一群
黒木城主大膳太夫定信公の勧請なり
(1544)天文13年頃より相馬氏栄え(1573-1591)
天正年間相馬讃岐守顕胤厚く此の神社を尊崇し
神田(塩田)五反歩を寄進す

(1611)慶長16年相馬年胤小高城より中村城に移り翌年17年5月岩の子此の地に社殿を復興す

慶長津波とは、1611年(慶長16年陰暦10月28日)、三陸沖を震源とした地震によって発生した津波。
 その範囲は、北海道南西部から東日本太平洋沿岸の広範囲に及ぶ。


 「奥州筋生波(ツナミ)」700人溺死(相馬藩政記)

 ここで生波をツナミとしている。奥州のツナミだから広い範囲にツナミがあったと記しているし今回のツナミと同じなのである。ツナミということば慶長津波で全国で普及して定着したのである。



 
大津波で鎌倉と由比に溺死者二百人を出し、9月には早雲が小田原城を攻め落としたという。

 他の史料は小田原「自落」と記すものもあり、津波と早雲の軍勢の両者によって大森氏は抵抗をあきらめたとのニュアンスが感じられる。
こういうことが相馬藩内でも起きた

相馬氏が進出しても相馬藩内は相馬氏の支配下にはない、館を構えて中世の豪族が支配していた。
それは小高に大きな港があり原町の泉にも港があり勢力をもっている豪族がいた。
磯部も港の機能があり佐藤氏が大きな勢力をもっていた。
そうした在地の豪族が相馬氏に敵対していたのである。
だから小田原で北条早雲が

津波と早雲の軍勢の両者によって大森氏は抵抗をあきらめたとのニュアンスが感じられる
http://musubu2.sblo.jp/article/125743125.html



佐藤氏が磯部館から鬼越城へ

築城年代は定かではないが永禄6年(1563年)頃に佐藤伊勢好信によって築かれたと云われる。佐藤氏は源義経の家臣佐藤忠信・継信兄弟の後裔を称し、好信ははじめ岩城氏の家臣であったが、後に相馬顕胤・盛胤に仕えて軍奉行を務めた。天文11年(1542年)伊達輝宗との合戦の功により磯部・日下石など宇多郡の内六ヶ村を領しはじめ磯部館(佐藤伊勢館)に居を構えた。しかし、
海水による浸食が激しく鬼越館を築いて居を移したという。
http://musubu.sblo.jp/article/99906310.html

相馬市黒木の諏訪神社の社頭の松は「桃井の松」と呼ばれる。諏訪神社は、もと宇多郡尾浜村(相馬市の松川浦北部)にあり、天文七年(1538)に西方の黒木に遷座になったといひ、当時の歌が伝はる。桃井とは神官の名前らしい。(諏訪神社由緒)

○陸奥の宇多の尾浜の浪風の音だに声こい(恋)の百永ももえい(桃井)の松  古歌



 
岩の子の塩釜神社の由来が碑に記してある。

1338年というと古い神社である。第一そこまで記録がさかのぼれることが大事である。

天正年間相馬讃岐守顕胤厚く此の神社を尊崇し神田(塩田)五反歩を寄進す

慶長津波の前にここに塩田があり寄進しているのである。

(1611)慶長16年相馬年胤小高城より中村城に移り翌年17年5月岩の子此の地に社殿を復興す

慶長津波があったとき小高城より中村城に移転したのである。
津波があったときなぜ中村城に移転したのか?津波の後に移転したのか?
いづれにしろどっちにしろ700人も溺死したときなぜそんな大被害があったとき城を移転するという大事業を行ったのかとなる。
そんな力が財政的にも人手でもあったのかとなる。
そもそも城の移転とか他のことはこうして記録されているのに慶長津波は記録されないのか?
佐藤氏の磯部館から今の鬼越館の移転も記されている。諏訪神社の移転も記されている。諏訪神社にはそこまで津波で何か流されてきたとか伝説が伝わっている。
あそこまで津波が来たのかとなる。ではなぜ松川浦から今の市の奥の方に移転したのだろうか?
それも謎であるが時代的には前だから慶長津波のことを語るものではない
でも何か移転するには理由があったとしても語られていないのである。
そしてなぜそこに津波の伝説が語られているのだろうか?
これはおそらくもしかしたら松川浦にその神社があったとき津波があってそれが伝えられているのか?
ただそれが慶長津波かとなると疑問になる。年代が明確に記されているからである。

小田原「自落」と記すものもあり、津波と早雲の軍勢の両者によって大森氏は抵抗をあきらめたとのニュアンスが感じられる

慶長津波の時は戦国時代であり熾烈な領土獲得の争いをしていた。
その時の津波は相馬氏にとって有利な方向に働いた。小高の港が壊滅したら岡田氏の力がそがれたとか佐藤氏でも伊達に味方していたとか相馬氏とは対抗していたのである。
だから慶長津波は相馬氏に有利に働いた。
だから津波の被害は記録として残さないし語らなかったともなる
それで海老の大工が移転した中村の天守を造営に行こうとしたら引き止められた。
それが津波を現していた伝説かもしれない、大原と関係していたのは相馬氏は大原から小池と勢力を伸ばしていったからである。
海側は相馬氏の勢力圏に支配下に入っていないのである。

牛越城でも泉氏が泉官衙跡のある港を支配していたから山の方に城を築いたのである。海の方はあとから相馬氏が進出したのである。
ともかくなぜ慶長津波の記録がないのかということ自体が謎であり不可解なのである。
元禄時代になると記録が残されるようになったとしてもそれでもその前からの記録もこうして記録されているのである。
それが全くないことはかえってその記録をしない、あえて津波があっても記録しないというふうに考える
その時は戦国時代であり津波の被害より敵に勝つことが第一になる。
すると津波が海側の豪族の力をそいでくれたので相馬氏がその時都合よく勢力を拡大して中村に城を移転できたとなる。
それは津波のあったとき同じ時期だというのもそういうことからかもしれない。
津波によって海側の有力豪族が抵抗をあきらめた。
磯部の佐藤氏も伊達側だったのだからそうなる

(1611)慶長16年相馬年胤小高城より中村城に移り翌年17年5月岩の子此の地に社殿を復興す

社殿を復興すとはこの社殿がどうなったのか、津波がここまで来たのか?
今回の津波では来ていない、でもあの高台に神社があったのか?
それも一つの謎である。今ある場所に神社があるとは限らないのである。
平地にあれば流されて高台に移したということも考えられる
ただ古歌が残っているからあれは今の高台から歌ったものである。
とするとあそこにもともと神社はあったとなる
いづれにしろ外から来た研究者が津波がなかったのではという推測したのも慶長津波の記録がないからである。
相馬藩政記に一行あったとても津波の被害のあった場所になにかしら記録が残っていてもいいのである。それが伝説にしても不確かなのである。
伝説の弱点は年代が不明なのことなのである。
だから原釜の津神社(つのみや)に津波が来たとき逃げると助かるということが伝えられてきたというコメントが松川浦の人からあった。
ところがこの津(つのみや)神社は相馬藩内にいくつかありそれは津波とは関係ない、ツノガノアラシトのツノであり製鉄関係で渡来人が移動してきた跡だったのである。
その関係の神社でありそれが渡来系だから隠されてきたのである。
その伝承もいつの時代のものか特定できないから困るのである。


慶長津波のことをいろいろ探求してきたかがこの辺は結論になるのかもしれない
これ以上調べようがないからである。
他の人がまた新しい情報が教えてくれればまた別な見方もでてくる
結局歴史というのは記録されずに消えることもありうる
何か重大なことでも記録が消えて歴史に残されないということもある。
今でもそういうことは現実に起きている。マスメデアで報道することがすべてではない
確実に重要なことが報道されないのである。
その報道されないことが最も重要なことなのである。
それは権力で隠されるし表に現れないのであ。闇に葬られものがいくらでもある。
その真実が知らされないから原発事故とかにつながる。
つまり情報というのは権力によって操作されることが多いのである。
権力者にとって都合の悪いことは知らせない、相馬藩でも相馬藩政記にすべてが記されることはない。都合の悪いことは記さないということがあった。
それが慶長津波であったかもしれない、その理由はただ定かではない
戦国時代の中で争いの中で慶長津波は隠されてしまったとなる。



 
posted by 老鶯 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2015年09月24日

小高の老人語る戦争の話(続編)


小高の老人語る戦争の話(続編)

土手のテーブルのあるところでまた例の小高の80くらいの老人と話した。
あの人の話は面白いのである。
ともかく戦争の話を延々としている。戦争に参加したわけでもないのに戦争の話を熱ぼくしている。
もちろん自分の姉も従軍看護婦でシンガポールに四年いた話を延々と聞かされた。
それは死ぬときまで話していた。そことが一番印象に残っていたからである。
もともと話好きな人であったこともある。
話が面白い人と面白くない人がいる。それはその人の体験したものがどういうものだったか話からわかる
その人は工事関係でいろいろな所に行っていた。なぜか沖縄にも行っていたし横田基地でもGHQのもとでも働いていた。
そこで面白いのは鉄砲玉を盗んで帽子に隠してもってきたという。それは見つからずにすんだ。その鉄砲玉は高く売れたという、そのGHQお進駐軍に物がありそれを売ってもうけた人もいる。盗んだというのもそこに物があったからである。
当時の日本には何もない、敗戦で食べるものもない時代である。

そして進駐軍で秘密が厳守なので英語のできる人は別にしたという、英語がわかると中の様子がわかり秘密がもれるからだという。その人は英語がわからないから入れたと言っていた。
軍隊はもともと秘密厳守である、もれたら命にかかわるからである。
それで日本兵のことで隊長クラスの人が肺が悪くなり隊についていけない、その時どうするかというと殺すほかないという、なぜなら生かしておけば置き去りにしてもその人から軍の秘密がもれるからである。だから殺すことが規則なのである。
でもその隊長についていた部下は殺さずに放置した。
放置したらしんでいるはずだが死なずに戦後5年してその部下のもとにたずねてきたという、なにかベニヤ板の商売で成功して社長になっていたという。
その人がなぜたずねたかというと部下をうらんではいないし殺さずに放置したから助かったということでたずねてきた。
普通は殺すのが規則であり体調も知っていたからである。
軍隊はそれほど厳しい゛かわいそうだと思っても生きる死ぬかとなると人軍隊は全員の方を守らねばならない、根こそぎ一部隊が敵に通報されて全滅ともなりかねないからだ。
戦争というのはやはり現代の戦争でも戦国時代でも似通ったものはあった。

その老人はいろいろなことを話する。特攻隊のことを良く話する。原町の飛行場で訓練した特攻隊は銅像も立っていたという、肉弾なんとかで神扱いされていた。
霞ヶ浦に大きな飛行場がありそこから支店のように原町飛行場が作られた。
その人が言うにはガソリンがない、ガソリンがないという話だった。
ゼロ戦でもガソリンがないから片道飛行であり帰ってこれないということになる
ゼロ戦でアメリカの船にめがけて飛んでも当たったのはわずかだった
ほとんどは海に沈んだ、その前に海にわざわざ特攻隊は荷物をすてて軽くして逃げたのだという、島の方にも逃げたりとし特攻隊がみんな勇ましく死んだわけでもなかった
人間魚雷でもあれも逃げたらしい、というのはアメリカでも人間魚雷が来る前に丸太をその前に投げたらそれにぶつかって何の役目も果さなかったという。
つまり最後の日本軍の抵抗は巨象にねずみがたちむかうような状態になっていたのであるそれは物資や武器の面でもそうだった。ゼロ線でもトタンで作っていたヤハなものだった、アルミニウムなら柔軟性があるがトタンでないしヤハものだった。
アメリカのB29は二気筒四気筒エンジンとかで大型でありゼロ線は最初だけは効果があったがあとは歯がたたなかった。
面白いのは竹などで作ったゼロ線を並べていてあるようにみせかけていたという。
こんなことまでしていたのは何か戦国時代ともにている。

中国でも馬で輸送していて軍刀をもっていたのだから戦国時代ともにていた
中国人はまず馬の頭をねらって打ってきたというのもそうである。
馬のことはいろいろ書かれているし馬の戦死したので墓まである寺がある
それは野馬追いではないけど戦国時代とにていたのである。
そういう古風な戦争だったが実際は航空線になっているのだから時代が変わっていた
山本五十六は海軍の出て東郷平八郎に教えられて海には通じていたが飛行機には通じていなかった。
日本では戦艦大和とか巨艦を作ったがそれは東郷平八郎がバルチック艦隊を破って以来、伝統として日本が海軍が主力になっていたのである。
東条秀樹は陸軍であり山五十六とはあわず争っていた。陸軍と海軍は一致して戦争していない、争っていたのである。東条秀人を憎んでいたとか目の仇にしていたとかなる

そしてそうした日本軍の内部でも上官と下士官は対立していた。
下士官への上官の虐待は知られていてそのことで戦争終わってからも下士官が恨んでいたのである。だから戦後に北海道開拓に入った上官が下士官に殺されたということもあったという。戦争終わったとき上官は下士官をいじめていたから下士官の復讐を恐れていたのである。それほど下士官をビンタとかなんとか制裁するのが習わしになっていたからである。
上も下も組織的に団結してアメリカと戦うということも日本軍にはなかったのである。
日本は下士官の方が優秀だったというのは本当である。
日本軍が天皇陛下のもとに団結していたから怖かったなどはなかった。
アメリカはその時、日本のことを知り尽くして勝てると確信していたのである
その装備から海軍と陸軍の確執とか日本軍内部でもまとまらない軍隊だった。
上官は九州から沖縄に行ったけど島に逃げてまた鹿児島に帰ってきたという
沖縄本土にいたらアメリカ軍と戦うから他の島に逃げたのである。
日本の上層部は指揮官や上官はだめだった。逃げる算段をして戦っていた。
下士官は返って優秀であり良く戦ったとなる。

戦争のことを語れば調べればきりがない、自分も姉が従軍看護婦だったからそのことを死ぬ直前までしゃべっていた。その戦争がまさに青春だったからそうなる
だからそういうことは別に認知症になっても忘れなかったのである。
その老人も何か自殺した人がかなりいたといっていたが病院でも苦しくて窓から飛び下りる人がいたなど自殺した人がかなりいたのである。
それは戦争がどれだけ過酷だったかを示している。そんな病院でどんな手当てをしていたのかもわからない。まさに地獄だったかもしれない。
ただ従軍看護婦は人を殺したりしないからいろいろ語ることができた。
ともかく戦争は今でも80くらいでも少年のとき戦争していたし親から戦争の話を聞くからまだ生々しいのである。自分も聞いているから遠いものではない
でもその次の代とかなると直接経験した人から聞けなくなるから遠いものとなってゆく
80才くらいの人とでも自分は貧乏な時代でも経験しているから話は通じる。
同世代はやはり話が通じる。戦後十年の炭とかの燃料の時代の人とは話が通じる。
でも戦後生まれでも十年くらい年が離れるとまた違ってくる。
高度成長時代になってくるから貧乏な時代でなくなってきたからである。


ともかく小高の人でも仮設に住んでいる人の問題は何もすることがない暇で困っている
それでパチンコとかギャンブルに行っている、日がな何もることがないというのも結構楽じゃないだろう。
ただこれまでも老人はパークゴルフなどをやっていた。
老人は昔を語るのがある意味で仕事でありそれが郷土史の一端になっている。
自分は貧乏な時代も知っているし10年くらいの年齢の差があっても話が合わせられる
でも戦前生まれと戦後生まれの差はある。
でもそんなに差はない、ただGHQとかに実際にかかわっていたのはその時代の人だと思った。進駐軍の時代が戦後あったから必ず話題になることだったのである。

それからその人は仙台に行ったら黒人が百人くらい自衛隊の服を来て日本人と一緒に訓練していたという。百人は多いと思った。アメリカ軍には黒人が多い、貧乏な人は兵隊になるということもある。
集団的自衛権が適応されればますますこうしたことが普通になる。今までもこうして日米は協力してきたからである。
百人の黒人を見るということはこの辺ではなかなかない、黒人が色で目立つのである。
仙台には外人が多いというのは本当である。通りでもそうだしどこでも外人がいる国際都市になっている。
そして小高の人が原町に家を建てたがそこで働いていたのは中国人だとも言っていた。
建て売りだと組み立てるだけだから中国人でもできるのだろう。
一週間くらいで組み立ててしまうからである。このことからもすでに人手不足が深刻なのである。この辺でも人手不足で介護であれ工事現場であれ不足して復興が進まないとういことがある。これは今日本の大きな問題なのである。


タグ:戦争の話
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2015年09月25日

日本軍の組織の上官と下士官は封建制から引き継がれたものか (アメリカは平民の国であり上と下を差別しなかった)



日本軍の組織の上官と下士官は封建制から引き継がれたものか


(アメリカは平民の国であり上と下を差別しなかった)


幕末にアメリカの船に乗った仙台の一藩士がその船の中で死んだ、そこで艦長以下すべてがその水兵を上官が下士官の弔いに自らでてきて悲しんでいる。このことにひどく感動した。それに比べると日本では足軽が死んだって、犬馬をと同じ扱いだった。
「故に上下の情日に薄く、却って彼に恥じること多し。」やたらややこしい礼儀作法などやっていてけどいたに上と下が信頼関係で結ばれているか、だからこそ、「緊急の節は、各力を尽くして身を忘る、。その国盛んなるもまた故あるなり」(樋口陽一-個人と国家)より


日本の軍隊は上官と下士官の差が厳然としていて封建時代の武士と足軽のような関係にあった。学徒出陣した学生も「お前らより弾丸の玉の方が大事だと・・」か言われたり日本軍には上下の信頼関係が希薄だった。何か上からの一方的押しつけが強制が大きかったのだ。日本軍が負けた原因はいろいろ言う人がいるし立派な上官もいた。ただ江戸時代からの日本人の伝統がなお生きていたのかアメリカ人のような平民的感覚はなかった。侍の世界は一面、格式とか礼儀作法がうるさい自由のない社会だった。これは江戸時代の否定的側面である。必ず社会にはいい面と悪い面がでてくるのだ。

結局日本軍の士気は実際は強制されたものであり上官と下士官の乖離は信頼関係がなかったことはその当時の体験者が語っているから間違いない、アメリカ軍の方が実際は士気が高いことが敗北の原因の一つだった。戦争とかには技術力だけではない士気がかなり影響している。それを示したのがベトナム戦争だったからだ。真珠湾攻撃からアメリカ軍の士気が高いし日本軍は実際は自主的に戦争に参加した人は一部の軍部出身者でありそれらは国民を強制的に徴集して奴隷のごとく戦争させたのである。
ベトナム戦争でアメリカが負けたのは「地獄の黙示録」の映画のようになんのために戦っているのかわからなくなった
ただ人を殺すだけであり人心が荒廃してジャングルで地獄化していったのである。

日本はやはり江戸時代の身分制が尾をひいていたのか?

新しく編成された戸籍のうち、昭和13年以降は華族、士族の俗称は戸籍に記
載されましたが平民の俗称は記載しないことになりました。


昭和十三年まで華族や士族が戸籍に記載されていた。明治から継続していたのである。
平民と記されなくなっても華族や士族は身分制として戸籍に一応残っていたのである。
足軽とかは江戸時代は人間扱いされていなかったのだろう。
そういう封建制的なものが昭和まで太平洋戦争でも継続されたのか?
明治維新では下級武士が革命の主体となったのは侍のなかでも身分制の影響があった。
下級武士は封建制の中ではいつまでも下級武士であり上には上れない仕組みになっていたそういう不満が鬱積してくると時代の変わり目に爆発して革命になる。

上官と下士官は身分制のようなものだったのか?
ともかくアメリカ人は平民の国であり貴族はいない、日本兵が死んで人間としてみんなで葬ったとなる。
一方でまた人種差別の国でアジア人差別はあった。それはこのときはそうした戦争になる前の話でありここでは日本人でも人間扱いされて同等の待遇を受けたとなる。
身分制というとき、貴族はヨーロッパやロシアには支配階級としてつづいていた。
日本は比較的そうしたあからさまな差別がない、平等の国とされてきた。
でも形だけでも戸籍に華族とか士族を残していたのである。

日本軍の敗因はいろいろ言われるがアメリカは平民の国でありヨーロッパやロシアや中東でもサウジアラビアなどは極端な一部の氏族が支配している階級社会である。
アメリカはただ金があるものが支配するが貴族はない社会だった。
物資が豊富だとかも敗因になったがその国の成り立ちとか国民がどういう仕組みの中で生きていたかも関係していたかもしれない
良く「天の時、地の利、人の和」が勝利の原因になるというとき日本は天の時がまちがっていた。
日本は戦争する力をもっていなかった。そして人の和もなかったから負けたとなる。
結局天の時というのも大事である。時代がはずれると英雄的な天才的な人でも活かされないのである。三島由紀夫が何か一人芝居で終わったように英雄になれなかった。
でも今の時期になると中国の台頭とかで集団的自衛権が通るように別なものになって時代を動かしたということもありうる。

人間はやはり時代の影響が大きいのである。その時代がまたどういう時代なのかというのもあとになってはみないとわからないのは人生でも同じである。
青春時代には青春時代にしかできないことがありその時期を過ぎるともうできなくなる
時代でもそうでありその時代にしかできないことがあり時代が変わると価値があったことでも意味のないものとなってしまう。
時代は常に変わっている、高度成長時代を生きたものはやはりその時代の恩恵に欲している、平和の中で生きられたということは戦争があったときと比べれば恵まれたことだったなぜならまた不穏な時代になりつつあるからだ。
今になると自分が自由に旅できたことは相当に恵まれていた。なぜなら今は海外でも円安でありしにくいし国内も外国人が多くなりビジネスでもホテルがとれないとなると相当に旅行しにくい時代になったと思うからである。
要するに旅すらその時代にあわないとしにくくなるということがある

何か社会は時代は常に変わるからその時できることをしないとあとはできなくなる。
ふりかえれば時間は限られたものだから余計にそうなる。
外国人が旅行するにはいいが日本人が旅行しにくい時代になったのである。
それは海外旅行熱になったことと逆の現象になったのである。
貧乏な国は観光で稼ぐというのが多いからである。日本も貧乏になりそれとにてきたともなるからだ。
ともかく日本のいいときは終わった。高度成長時代のようなことは起こらない
だから中国の脅威がましてくるしアメリカの安保条約でも見直される
つまり中国とかアメリカの力関係で日本は窮地に追い込まれる
朝鮮半島の悲劇が日本で起こらないと限らない、すでに沖縄は中国の属国化が進行しているとか言われるからである。すでに日本国自体が分断化されることが現実化しているのである。

この文は時事問題の深層に加筆したものです

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原発の専門家が肝心なことを知らなかった (吉田所長も知らない、直接たずさわった人も知らなかった)


 
原発の専門家が肝心なことを知らなかった

(吉田所長も知らない、直接たずさわった人も知らなかった)


原発の「安全神話」が間違いだった理由(1) 固有安全性の欠如(武田邦彦)
http://takedanet.com/archives/1040937013.html

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「非常用復水器(IC:アイソレーションコンデンサー)」です。ポンプを用いずに自然の作用を利用したもので、福島第一原子力発電所では1号機に設置されています
(2号機3号機にはせっちていなかった)
現場の責任者である福島第一原発の吉田所長は、ICが停止していることを知らずに復旧計画を立てていた
ことが明らかになっており、初動段階でのミスが致命的になったと専門家チームは見ています。
 「津波が来て全交流電源が喪失した状態で、(非常用復水器を)目いっぱい使いなさいと指示があれば、
原子炉の溶融を防げたかも・・・、本当に残念です」(北海道大学【原子炉工学】 奈良林 直 教授)


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吉田所長の手記がでていたけど吉田所長の専門は補修担当であり原子炉のことなど詳しく知らなかったという、ええ、あの事故の指揮をとった所長が知らなかった
複水機のことを知らなかったということはこれは重大なことだろう。
それで指揮できたの?これも不可解なのことである。
吉田所長は原子炉について詳しい人だと思うのが普通だからである。
そもそもその重要な複水機について知らないでどうして指揮できたのかとなる
そういう人がなぜ所長になれたのかというのも疑問になる。

直接原発にかかわった科学者の武田邦彦氏がが知らないで報告していたことをわびている別な分野の人が知っているということで安心していたという。
つまり原発というときそれはもう一人の専門家では知り得ようがないものだった。
それは別に原発だけではない、現代文明のあらゆる部門でそうなっている
最初のパソコンはたいがい相性が悪いとかで付属の部品が使えないものが多かった。
それはパソコンがまだ初期の段階で技術的に不完全なものだったからである。
パソコンの全容もまた知り得ないものだったし今でもそうである。
だから壊れたら初期化するしか方法がないのである。
そして会社では使えなくても責任はとらなかったのである。

そもそもそうして専門家すら原発の全部を知ることはできない、そしたら素人のものは全く知り得ようがないものだった。
専門家すら個々に分かれて全体を知るものがない、事故が起きると他の分野の専門家がうまく処置していたはずだとかなる。分野が違えばもう自分の責任ではないとなるし責任がもてないとなる。
それはあらゆる組織で起きていることである。役所でもそうだし医療でもどこでもそうである。
自分の課の問題ではない、他の課に行ってください、それは私たちの課の責任ではないですとなる。
法律の分野も様々な分野があり分かれている、ここでも法律全体を知る人などいないのである。


西洋の学問とか科学はまずは部分に分割して物事をみる、それで原子の発見につながった人間の体でも物質でもどこまでも分解してみる。
ところが人間の体は一つであり何らかつながっているから一つの臓器だけを直しても見てもわからないことがある。
全体が影響して部分も悪化する、全体から離れて個も部分もないというのが東洋的考え方としてあり漢方薬が生まれたのである。
つまり人間の体質に応じた健康法とか治療法である。
それも明治以降は西欧文明の医学のみが進んでいるとなり否定された
人間はやはり体質がありこれに応じた健康法が大事である。
だから人間の体質を実と虚に分けた見方は必要でありそれに応じた生活とか健康法を学ぶのがいい。
宗教も宗(むね)なる教えとなったときすでにいろいろに細分化していたから宗なるものが必要になったのである。
その東洋的なものが現代では不明になった。

結局文明には限界があり全知全能の神を作ったものでもないから必ず破綻する運命にある専門家となるとその人たちが原発のことを知っていると思ったが肝心なことを指揮する吉田所長まで知らないというのは意外だったのである。
それほど原発の全容を知り得るものはいなかった。
それは現代の文明全体もそうである。誰もその全体を知るものなどいないのである。
だから知り得ないからこそ必ず事故も起きる運命にある。
つまり事故はもう防ぎようがないのである。
「安全神話」ではなく事故は防ぎようなく起こるということを前提にして始めねばならぬものだったのである。
人間の作ったものは完全ではありえないからである。
人間自体も完全に作られたものではない、だから病気があり死がある。
だからこの世では人間は不完全なものとして生きるほかないのである。
そして人間の作るものは完全でないから事故が起きる、そう思うの当然なのに「安全神話」を専門家と権力者とかマスメデアとかが一体となり作り上げ宣伝していたのである。
もう宗教のように安全だ、安全だと唱えていないと原発は継続できないからそうなる。
その無理は事後につながったのである。
日本は神国だから負けないとなったのともにている。

もう一つは技術家が政治と経済の論理でねじまげられたという。原発の危険を言うなというときそれは政治と経済の論理であり技術者が危ない、安全を計れないとなればそれは技術者の良心が問われる。でも政治と経済の論理で技術者がいくら言っても負ける
ドイツのVWの車がソフトで偽っていたとしたらそもは技術者が知っていても会社の経営と経済からおしきられたとなる。
技術の力と政治、経済の力を比べれば技術者の力は弱いからそうなる
医者でも不用な薬と手術するのは技術者として良心に反していても経済の経営の論理からすれば仕方ないとなる。
そこには理系と文系の対立の構図もある。
でも技術者でも理系でも嘘をつくということはモラルに反する悪いことなのである。
もし嘘をつかないという単純なことを守ることができるならば事故にもつながらない。

フクシマ原発では再三指摘されていたけど「安全神話」で権力によって隠されていたからである。
戦争でも勝った勝ったとしか国民に知らせないのも政治家は軍人はマスメデアは嘘ついていたとなる。
要するに情報も権力によって操作される、科学技術者でも権力に従う、経済、経営を第一となり嘘を言うブラックなのがこの世だとなる
それで犠牲になるのは国民なのである。
ともかくこの世で上から下まで嘘をつかないという人間はいない、盗まない人間もいない、それは自分でもそうだったし正直に告白すればみんなそうなるだろう。
そういう単純なモラルが実行できないことから大きな事故が起きる、技術者のモラル、政治家のモラル,学者のモラル,官僚のモラル、、、、、
そういう指導するもののモラルが崩壊するときすべてが下でも崩壊してゆく
だから上に立つもののモラルは最も厳しくしなければならない
責任も厳しくなるから侍は切腹して責任をとった

でも現代は戦争でもそうだったが上の人は責任を逃れて誰も責任をとらない、それが日本のシステムだとなっている。
まずそんな体制だったら誰も真剣に物事にあたらないだろう。
どうせ責任などうやむやにすればいい、国民など簡単にだませる、あとは権力手中にして甘い汁を吸っていればいい、それができるのも権力のうまみだとかなってしまうし現実になっているのである。
要するに上に立って指導する侍のようなモラルに欠けていたのである。
それは明治維新後日本は武士道もなにもなモラルがない社会になった。
アメリカと同じように金のみが立身出世で利益を得ることだけが目的化したのである。
それは福沢諭吉の学問もまさに栄利栄達のためでありモラルはない
指導者がそうなっていれば下々も当然そうなる、つまり指導者の堕落というとき民主主義のおかしな点は指導者に選んだものにモラルを求めていない
大衆の団体組織の利益代表として選ばれたのでモラルがどうのこうのなど関係ないのである。
利益をもたらすものの代表として選ばれたからである。モラルがどうのこうので選ばれていなしそもそも大衆国民にモラルなどない、そしたら選ばれた人たちもモラルがない
だから議員があからさまに大衆にこびへつらうのは当選するためであるというのもわかる大衆もまた議員に求めるのはモラルではなくご利益になるからである。
だから民主主義自体がモラルを育まないものだとなる。






タグ:吉田調書
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2015年09月26日

抽象画-街を歩く女性(sreet womans)



抽象画-街を歩く女性(sreet womans)

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これは何

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蝶の輪舞




テレビでファッションのデザインのことを放送していた。
モネをまねたファッションにしたいという
ファッションセンスは何か抽象画と通じている。
服の模様が抽象画に向いている、具象画では向いていない
紋様はだからパソコンのソフトで作るの向いている
無数の紋様ができるからである。
それを自動化して製品化する方法も確立してるらしい
つまりファッションもパソコンと相性がいい

抽象画でも具象画から離れられない
今回の絵はまず街の通りを歩いている女性をイメージして
その女性を抽象化した
青い街というのが何か海辺の街とかイメージする
それをソフトで変えた

ただここでは具象画として街を歩いている女性にこだわっているのである。
抽象画でも全く具象画から離れると鑑賞もできなくなる
この絵は何だろうととなるのも多い
でもこれは街を歩いている女性だとしてイメージすると鑑賞しやすい
この変化はまだあるがどれでもいいとはならない
街を歩いている女性のイメージにこだわっているからである。

輪舞する蝶というのはこの最初の街を歩く女性から偶然にできたのである
抽象画が偶然にできるのが多いのである。
ともかく街を生き生きと歩いている女性をイメージすればこの抽象画も活きてくる



タグ:女性

2015年09月27日

抽象画(窯元のデザインー窯変がパソコンでできる)



抽象画(窯元のデザインー窯変がパソコンでできる)

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窯変(ようへん)とは、陶芸作品を焼成するときに、
炎の性質や釉薬(ゆうやく)の含有物質などが原因で、
陶芸作品に予期しない色が発色すること。

これはずいぶん前にデザインしたものだけどパソコンは前に作ったものでも変化させるのが得意である。
特にペイントショップはいろいろに変化できる
ただこれを自由に使いこなすことが相当な訓練が必要である。
ソフトも自分なりに使えないとだめである。
窯変というときこれは火の加減とか偶然に生まれる
陶器は焼いてみないとわからない、何ができるかわからない
パソコンでもそうである。何ができるかわからない
いろいろ操作してみてこれいいじゃないかと選ぶ
つまり偶然の作用によることが多い
だから化学変化であり窯変とにているのである。

窯元というとき何か自分は旅していて回ったのが窯元だった
お土産となるとその土地の個性あるものとなると日本では陶器になるからだ。
窯元の種類は多いのである。
だから窯元によった思い出がある
窯元をたずねるのが旅の楽しみだということもある
自分はふりかえるとこんなことをしていたこと自体相当に暇だったのである。
今になるとつくづく恵まれた平和な時代だったと思う
こんなして旅ばかりできたということか今になると不思議である。
なぜなら今や近くすら自由に行けない
食事を用意しなければならないし介護だから離れられないのである。

こんなことになるとは予想もしなかった
どこにでも自由に行きいつ帰るのも自由だった
考えてみればこんなことできたこと自体相当に恵まれていた
結婚して勤め人になり子供を育てるとなるとまず自由が若いときから喪失する
勤め人は何日かしか休暇がとれない
自分は一カ月くらいふりと旅して帰ってこなかったのである。
ただ外国はそれほど旅したとは言えない
日本はほとんど隈なく旅している
ただ登山は体力がないのであまりしていないのが心残りだった
アルプスを上っていればよかったとつくづくふりかえる
登山もきついから若いときするものだったのである。

とにかく茶道があるように陶器は日本の文化である。
だから窯元を回ることは日本の旅になるのである。
何か自分にあっていたのは一日絵を描いているとか
一日轆轤を回して茶碗を作るとかに向いている
ビジネスとか商売とか勤め人とかに向いていない
自分は団体生活にも向いていない
だから学校は自分には向いていなかった。
結局その人の性格にあった生活ができれば幸せである
ただマイペースで何でも学問でも芸術でもやれば上達した
学校のようにおしつけられると嫌いになってしまうのである。

とにかく芸術とか学問とかなると平和でないとできない
今のようなこの辺の状態は異常である
そうなると何か芸術とかの創作には向かなくなる
回りが混乱していて生活が落ち着かないからである
そうなると優先的になるのは元の生活の回復になる
それが容易でないからこの辺は芸術などの創作には向かない場所になった
とはいえ、原発避難者が補償金で毎日ギャンブルだ、パチンコだと遊んでいるのも
異常なのである。
除染とかで働いているのは外から来た人たちなのである。



タグ:窯変