2015年09月09日

マヤやインカの文明の意義は何なのか (日本も大きな文明の転換点に来ているー日本文明が再興が志向される時代)


マヤやインカの文明の意義は何なのか


(日本も大きな文明の転換点に来ているー
日本文明が再興が志向される時代)

マヤ文明というときこれも謎である。紀元前までさかのぼるから古いのである。
そしてまず文明とか歴史を知る基礎がやはりその土地の自然環境とか地形にある。
人間は地理に制約されて生活するから当然だとなる。
マヤ文明の生まれたところはジャングルであり大きな川がない、小さな川しかない、
ジャングルに60とかの都市国家がばらばらに発展したのである。
その文化はつながりがあり共通性があっても統一した国家を作っていない
その原因がその自然環境に地形とかにあったのである。
なぜなら大河の辺にナイル川とかチグリスユーフラテス川とかインダス川とか黄河の辺に大文明ができたということは大河が大きな役割を果たしてた。
大河があるということはまず交通するのに便利であり大河が道となる。
大陸の大河は運河と同じなのである。船が往き来するようにできている。
日本の川が滝だというときまるで違っていて運河のようになっている。
それはヨーロッパでも同じである。日本にないものはこの大河でありだから大河とか草原とか砂漠がない日本は外国のことが実感としてわかりにくいのである。

常に自分が言ってきたことはまさにこの地理がわからなければあらゆることがわからない歴史も地歴であり地理がわからないと歴史も根本的にわからないのだ。
だからマヤ文明もまさに地理を知らなければ知りえようがないのである。
ナイル川がエジプト文明を作ったとか黄河が中国文明を作ったというのはまさにそうである。
あれだけの大きい川があれば統一国家ができやすいのである。
それはむずかしい理屈は知らなくても実感としてわかるのである。
ナイル川とピラミッドは結びついていた。大きな船がナイル川を往き来していたのであるナイル川は今よりはびっと広く流れていたからピラミッドに近かったのである。港がありピラミッドがあったともなる。
大河があり砂漠があり草原があるとそこは自然の道となり移動しやすいから交流しやすいから大きな統一国家が成り立ち安いのである。
アンデス文明、インカ文明も地理的にみると山が多く孤立した文明なのである。
他との文明の交流がなかった孤立した文明になっていた。
孤立した文明なるが故に石器文明であり鉄が作られなかったし文字もなかった。
それでその歴史も謎であったがマヤにはマヤ文字があり解読されつつある。

一方日本は海に囲まれても大陸文明と中国とかかわり文明をとりこんでいた。
だから漢字がありその前にも言葉があり歴史が残された。
ヨーロッパ文明とも信長の時代にかかわっていたから孤立文明ではない。
明治維新でももしマヤやインカのように孤立文明だったら西欧化できない、
簡単に滅ぼされてしまったろう。
日本文明がありその日本文明はすでに歴史的に中国文明とか大陸の文明をとりいれた厚みのある文明だったのである。
もし鉄もない、文字もない、マヤやインカのような文明だったらとても西欧化などできないのである。その基礎がないからできなかったのである。
技術的にもそうだし文化的にもそうである。
そもそも封建制というのはヨーロッパと日本にしかなくそれは文明的に進んだものだったのである。中国には封建制はなく王朝であり常に一党独裁になりやすい国だった。
日本は合議制とか村々であり民主化しやすい土壌があった。

日本は日本文明がありそこに誇りをもたねばならなかった。
ところが明治維新後から太平洋戦争の敗北で日本文明のアイディンティティを失ったのである。
例えはキリスト教が入ったとして日本文明がありえたのである。
仏教が入ってきたとき中国の仏教と韓国の仏教と日本の仏教は違った如く日本のキリスト教も違ったものとなっていた。
日本文明はやはり独自のものであり誇るべきものがあったのである。
その日本文明が純なる日本というものが今や何かわからない失われたのである。
日本文明というとき天皇のことではない、政治的なものだけでなく文化的なものもあり全体のことである。
全体から文明が生まれる、ただその日本文明が何なのかとなるとわからなくなった。
だから日本文明の復古(ルネサンス)が必要になったのである。
それを自分は文化的な面から俳句でも短歌でも詩とかでも追及してきた。
日本は今やいろいろな面で曲がり角にきている。
それは世界でもグローバル化の矛盾が危機的状態になっている
そういうとき新しい文明を個々の国でも地域でも目指すように強いられているのだ。
それは容易なことではないにしろ時間がかかるにしろそういう歴史的転換の時代なのである。
津波のような天変地異もまた大きな時代の変わり目に起きたのである。

政治的な面と文化的の面は別々にではなくやはり一体であり最近集団的自衛権とか中国とかの関係がとりざたされるのもまた右傾化するというのもそうである。
政治的にも日本の独自の道を追及せざるを得なくなったとかもそうである。
何かそうした時代の大きな変わり目にきているのである。
それはなかなか意識しにくいがグローバル資本主義でもそうであり日本自体も変革を迫られている
それは大きな歴史的変革になる。単なる経済が衰退するとかではない、それは目先のことであり日本文明自体の復古であり変革なのである。

古代文明を考察することは現代を知るためであり過去の死んだ遺物を個々にみるのもまた新しい発見なのだけどそれだけではない、現代を知るには古代を知ることにより古代の時代の意味を知り現代に活かされることなのである。
現代の文明は別に人間が進歩したものでもない、かえって人間的には退歩した奇怪な文明とすらなっているのである。
現代の文明は経済と科学の機械文明であり日々語られることはそれしかない
神官は科学者であり経済の話しかない、古代の文明の遺物を見ればかえって自然と調和した豊かな文明だったということがみられる
マヤとかの文明が不思議に縄文土器と共通性があり装飾性が豊でありその時代はかえって今より人間は人間らしく自然と調和して生きていたことがわかる。
現代はビジネスとか科学と機械とかそうしたことしか話題にならないのである。
だから何か自分が山と石とか樹から発想することが別世界のことのようになってしまっている。

そのことは古代文明が別世界の文明にみられるのと同じなのである。
縄文の文明とマヤとインカの文明が土器などに共通性が見られるのはエジプト文明でも
動物と人間が一体化していたことなど深く自然と密着して生活していたことは同じだから共通していたのである。
現代文明は自然から遊離しているからこそ異様な文明、人間が人間でなくなる文明になっている。
そのことが原発事故をもたらして故郷にすら住めなくなったということが大きな観点からみればそうなる。
津波とか原発事故は大きな文明の転換をうながしいる事件だった。
天変地異が文明を滅ぼしたり変えたりしてきたからである。
だから今はこれから百年とかは大きな文明の転換期であり日本文明の再興(ルネサンス)の時代になる。
個々の小さな事象にだけ注目するのではなく全体を見ればそうなるし全体が文明だからそうなる。
いづれにしろ歴史は連続したものであり今は世界的視野でグローバルに地球を見る時代である。
マヤ文明とかインカ文明も世界史のなかで意味が与えられる時代なのである。

 
タグ:マヤ文明

火と海の抽象画(fire and the sea) (画像類似検索からいくらでも類似の抽象画が見れた)


火と海の抽象画(fire and the sea)


(画像類似検索からいくらでも類似の抽象画が見れた)


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火と海の花

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花の細胞




これも最初の線のような色合いが原画であり変化させたものである。
抽象画は無限の変化であることがわかった
最近佐野氏のエンブレム問題で類似の画像検索が簡単にできることでわかった
同じようなものが検索でいくらでもでてくる
そこからさらに類似のものを芋ずる式に出せる
それで画像検索の範囲が無限に広がった
キーワードだけでは限界がある
ともかく画像は言葉が違っても世界共通に理解できるから便利である。
おそらく一つの原画から無数に変化したものが出ているかもしれない
インターネットは世界的だからそうなる
インターネットとかソフトとかはまだ使い方がわからないのだ
この世界はハードより使い方が理解するのがむずかしいのである。
何事今や本当は物を買っても使い方がわからないのが多いのである。
機械でもそうだし何でもそうである。
つまり現代というのは消費社会だというときその消費が実は創造的な消費になりやすいのである。
ただ浪費するのとは違う、何か買ってもそれをいかに活かすかが労力かかる創作的になるパソコンでもインターネットでもそうだし買うとうしもそれを使いこなす労力の方が手間になるのだ。

そもそも電子楽器を買ったとしてもそれをみんなが簡単に演奏などできないのである。
たから消費というのも今は何か創造的消費になる。
お前は消費するばかりで何も与えないとかなるが旅も実はこれも創造的消費だった。
旅でも旅に集中しないと記憶にも残らない、どういう場所に行ったかもわからない
あの時かわいい子がいたなとかそんなことばかりが頭に残っていたらその土地のことも自然も記憶に残らないのである。
そしてたちまち時間が過ぎてしまいもうその場所に二度と旅にも行けなくなっている
だから旅の時間も貴重だったと今ではふりかえる

ともかくハパソコンとかインターネットとは創造的に使いこなすことが強いられる
それが今までの機械とは違っている
消費するというけど今や消費することが手間であり労力がかかる
老人になると何も買うものがないというとき消費するのにも体力とか労力とか知能とか経験が必要になっているからである。
金があってバイクにまた乗ってみようとするときこれも体力と時間と労力が必要になる。若いときとは違うからである。だから老人になってみて何かを消費すること自体金があってもできないとなっているのだ。
本を買っても読めないとかいろいろなことができないのである。
最近自分は忙しくて花さえ活けられなかったし見てもいられなかった。
家事から介護をしているとそれだけ追われるからそうなる

ともかく抽象画は無限の変化であり変化を楽しむ芸術であることがわかった
類似検索というのは優れた検索方法だった
これも今になって知ったことでありどういうふに使っていいのかわからないのである。
まずインターネットというのは検索が一番の問題である。
どこになにがあるのか知ることはもうできない,ただ偶然に出会い知るとなっているからである。
世界的だからもうその数は計り知れなくなっているからである。

タグ:火と海

2015年09月10日

記憶したものが人生となる (人間の脳の大事な機能は記憶すること-罪も記憶され消えない)


記憶したものが人生となる

 
(人間の脳の大事な機能は記憶すること−罪も記憶され消えない)


人間の快楽を追及するのは性だけではない、様々なもので快楽を追及する、食でもそうだし誰も苦になるもの不快なことはさけるのである
それは人間の本能である。人間の本能は快を求めるようにできている。
人間の不思議は一旦快を覚えると脳に記憶される
そしてまた快を求めるようになる。
だから麻薬であれ酒であれ快を覚えるからやめられなくなる、中毒になる。
この中毒をとめることがむずかしいのは節制とか禁欲がむずかしいのはそれが本能だからである。
苦行など誰もしたくないのである。欲望を否定することは誰もできない
人間の欲望は性だけではない、様々な欲望があり否定できない
人間の欲望をおさえることができればこの世は楽園になるだろう。
あらゆる問題が人間の欲望とかかわっているからだ
子供はまだそうしした大人のような様々な欲望がないから純真でいられる
それでも子供で快を求めていている、一度うまいものをたべるとまた食べたくなる
何か人間はうまいということを脳で感じて記憶される
そして一旦覚えた快はまた味わいたいとなる
性は最も強い快だからあくことなく求めてきた、老人になっても脳がその快楽を記憶しているから求めているのである。
体ではなく脳の快の記憶が求めているのである。

脳には体の神経のすべてが集まる、体にはりめぐらされた無数の神経が脳で感じる
風が涼しいとか冷たいとか感じるのは体の神経であり脳が記憶する
それは生まれたときから風を感じているし夏には涼しい風を感じている
だから涼しい風をまた感じようとしている
もし神経だけで感じていたら脳に記憶されなかったら涼しい風を求めないだろう。
認知症になると涼しいとか寒いとか暑いとかの感覚がなくなっていた
それは脳が麻痺してそうなっていたのである。
寒いところでも薄着で外出していたから脳が感じなくなったということである。
そのことは何らか危険な状態にもなっていた。
認知症の人が寒さも暑さを感じないということ外でそのまま凍死したりすることになる
寒いということを感じなければ外にいつまでもいるとなるからだ。

人間の能力意外と大事なのは脳で様々なものを記憶されるからではないか?
人間の一生も終わりになる何を記憶したかが生きた証拠のうよになってしまう。
老人が何度も何度も過去を語るのはその記憶が生きた証だからである。
自分の姉は従軍看護婦としてシンガポールに四年間とかいて辛酸をなめた。
そのことがどうしても忘れられないから死の直前までそのことを語りつづけていたし
認知症になると同じことを百回とか千回も言う、前言ったのを忘れていることもある。
ただ人間は一番人生で印象に残ったことを語りつづけるのである。
つまり記憶されないものはないものと同然になってしまわないか?

40年前とかにともに過ごしたとしてもその人のことは忘れてしまう。
認知症になると息子や娘でも「あなたは誰ですか」とかなるともうその人自体が記憶にないということは存在しなくなることである。
人間にとって記憶が記録などでも意外と大事なのは人間は何でも忘れやすい、40年とか過ぎる何でも忘れてしまうのである。
そしてこの辺で避難区域になり村や町に人が住まなくなった所がある
例えば飯館村には人が住まなくても家が残っている
すると錯覚していたのは家があるから人がいると思っていたのである。
つまり家というのは一つの記憶として形あるものとして残っていたからそう思ったのである。

一方で全くこの辺では磯部とか海老と烏崎村では家もなにもない、全く何もなくなった。残ったのは土台だけでありそうなると何も記憶するものがなくなった。
それは本宇とに空恐ろしいことだった。
そこには幽霊すら住んでいないとまでなる
まだ山の村の幽霊屋敷とか童話にしたけどあそこにはまだ人が住んでいるという気配が残っていたからそんな物語も書けた
しかし磯部とか海老とか烏崎とか他でも津波の恐ろしいのは記憶させるものがなにもなくなっていたことなのである。
幽霊すらそこには住んでいないという恐ろしさだった。
廃屋でもそこには人の気配が以前としてあるが津波で壊滅した村には何も記憶を呼び出すものがないのである。
村の歴史でも何でも避難して人が住まなくなればその記憶が失われることなのだ。
そうするともうその村の存在すら消えてしまう。
古い碑とか墓とか地蔵とか神社とか祠は何かその村の歴史を記憶を維持しているものでありそれも村人が消えればその記憶もやがては埋もれてしまうのである。

記憶と記録はまた違っている。記録になくても記憶に残ることはある。記録は文書とか何か形あるものであるが記憶が何かまた形にならないものである。
家族があるとするとそれは愛情でもって成り立つのでありその愛情というのは記録されない、記憶されても記録はされないとなる
だからすべてが記録されることはできない、記録という点では機械がコンピューターの方が優れている
最近近くのスーバーでレジを機械化した。これが意外と便利なのである。
お釣りを十円のこしていたとすると機械が教えてくれる
そこでは金を払ったとか払わないとかのミスがなくなる
確実にいくら入っていくらお釣りを出したということが記録されお釣りが残っていたら警告して教えてくれるからこれなら人間のミスはなくせる
つまり記録する点では機械の方が優れているのである。
デジカメでも次々に旅行した現場をとっていってあとでそれを記録したものからふりかえることができる。

でもそうして記録しないと人間の思い出すことは限られていてあらゆるものを思い出すことができなくなる
こういうことは歴史でも資料があればそこから過去をたどることができるからにたものはある。
ただ記憶と記録は違っている。人間はあらゆることを記録できないが記録したものの意味と価値を与えるのは人間にしかできないのである。
自分は膨大なものをプログとかに書いているけど自分の書いたものを読んでいてこれが自分が書いたものかと不思議になる。
自分の書いたものすら忘れていたのである。だから記録することは人間にとって大事だともなる。記録したものから過去を読み解く作業ができるからである。

老人が若者より優れていることがあるのは人生で記憶したことが多いからである。
一時代でも生きているとその長さから時代をみることができる
若い人はそれができない、これから記憶することになるからである。
戦前から生きている人はやはり記憶しているのものがあるから違った見方ができる
ともかく脳の機能で大事なのは記憶していることである。
記録したものはまだ別であり記憶したものがその人間を作っている
記憶はまた消えやすいのだけど若いときのことなどの記憶は消えないことがある
若いときの奔放な無謀な欲にまかせた行動などの記憶がよみがえり消えない
なんであんなことしたんだろうとか後悔しても消えないことが怖いのである。
悪い記憶も消えないのである。罪として記憶される刻印されているということも怖いことである。
それは別に警察につかまるとかではない、脳に心に記憶されたことなのである。
悪行は明らかに脳に心に記憶される刻印されるから怖いのである。
カインのように額に徴しをつけられたということもそのことを言っていたのである。

若いときはそういうことを考えない、欲望のおもむくままに生きるし老人になってどうだこうだなど考えないのである。
だから推理ドラマのテーマは必ず若きの到りとか若いときた悪行が老人になって暴かれるとかがテーマになる。
それはたいがい若い時はそういうことが多いからテーマになる
それがのちのちまでも老人になっても影響しているのである。

「耄碌した好色家は接吻することができないのになお接吻したがり少しでも味わいたいと思うのです」チョーサーーカンタベリー物語

これは脳科学から考えれば一度覚えた快は忘れられないのである。
だからうまいものの味を覚えたらまた食べてみたいとなる。
嗜好品というのはそういうものである。
そういう脳に記憶された快の記憶は肉体が衰えても消えないのである。
自分の場合は何か体力もないし欲望も強くないからそうした罪からはまねがれた
それでも罪は犯している
でも優秀な体力ある人間は大きな罪を犯す、この世で大きなことを成す人間はまたそれだけ欲望が強いともなるのである。

聖ペルナルドゥスはこうおしっています「人はこの世で自分に与えられたいっさいのもについて決算を提出せねばならぬ、それらのものをいかに費やしたかを報告せねばならぬ、それであるからほんのとうはつ毛一筋を失ってもまた生涯のうちのほんの一瞬を時を失ってもそれについて計算を提出しなければならないのである」
チョーサーーカンタベリー物語

人間は老人になったらすべての決算を否応なく決算を強いられる。
それはカルマもそうであり様々なカルマを人は積んできた、だからカルマの清算を強いられる

なぜ自分に起きた苦難はカルマだったのである。
なぜなら60年間も母は自分のために食事を用意してくれた。それのカルマ返すことを要求されている。毎日ともかく食事を出し続けねばならなくなったのである。
そして人はカルマがあるが恩があったら必ず返さねばならない、それを怠るととうなるのか?
さらなるカルマが重なりもう返せなくなり破綻することにもなる
その人は恩など何も感じない、それは親の代とも関係している
親の代のカルマは二代くらいはつづいているのである。
その人は全くのそのことも意識していない、だからまたカルマを積んで窮地に追い込まれたりする、恩とかは明らかにカルマなのである。
それを無視したりするとさらなるカルマが負わされることになる
親との関係もまた恩でありそれは返さねばならない、親は愛情があるからだとかにならない、やはり恩というのは返すことが強いられるのである。
それをしないものは親子ではなくなるし親子の縁も実際はきれるのである。

ともかくたいがいの人はは「俺は悪いことはしなかった」とか自分に威張って言う
ところがそれを自分に威張って言うことではない、神に向かってそういえばいいのであるそんなことを自分に言われてもそうですかと言えないだろう。
人に悪くした人は最後に必ず後悔する
継母だった人は最後に「悪かったな」と言って盲目になり苦しんで死んだ。
ただ最後に頼るものもなくなり継母にいじめられた母が後始末をしたからである。
別に優しくしていればそんなことはなかったのである。

生涯のうちのほんの一瞬を時を失ってもそれについて計算を提出しなければならないのである

これは老人になればわかる。いかに時間が大事でありそこで記憶するものかが大事であるかを言っている。
この世の時間はたちまち過ぎる、その時間を何に使うかは最後に問われるのである。
つまりいかに時間を無駄にしているか、時間を失ってはじめてわかる。
故郷を失ってはじめて故郷の大事さが価値がわかる。
愛する人を失ってはじめてその人の大事さがわかったとか人間の弱点は失ってみないとわからないことなのである。
何かありふれたものでも実は尊い価値あるものだったとかは失った時わかるのである。
だから人間は結局みんな老人になって後悔しない人はいないのである。
特に時間の大事さがわからないのが人間の最大の弱点だったのである。





 
タグ:脳と記憶

抽象画(京の紋様)



抽象画(京の紋様)


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これも原画がインターネットにあって変化させたものである。
京都の紋様というとき京都ならではの紋様はすでに無数に作られている古典的なものがある。
インターネットにも出ている。
その延長としてのパソコンとインターネットの抽象画のバターン化なのである。
日本では紋様の芸術はすでに豊富にあった。
それがパソコンで容易にパターン化できるようになった。
このパターン化がパソコンでは一番得意なのである。

 
タグ:京都紋様

2015年09月11日

鬼怒川の堤防決壊の原因 (ソーラー発電とも関係していたし10年に一度の洪水を政府で予想していた)


       
鬼怒川の堤防決壊の原因

(ソーラー発電とも関係していたし10年に一度の洪水を政府で予想していた)

●ソーラー発電も自然破壊?

ことし3月下旬に若宮戸地区の住民の方より丘陵部の一部が掘削されているとの通報があり、現地を直ちに確認し、鬼怒川を管理している国土交通省関東地方整備局下館河川事務所へ報告したところでございます。当該地区は民有地であったため、民間事業者の太陽光発電事業により丘陵部が延長約150メートル、高さ2メートル程度掘削されたものでありました

これから、豪雨による土砂崩れが
山間部のソーラー発電所で起きるのは時間の問題か
  ↓
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【 民主党政権・菅元首相の大成果 】 ですけど・・・

台風でソーラーパネル破壊される

「太陽光による地球に優しい、エコのエネルギー製造」というイメージを振りまいて普及させている。さらには、潰れた後の廃棄物となった場合の処理方法も確定していない




ソーラー発電がエコとかなんとか盛んに言われたけどそうでもなかった。税金がかかるのはそもそもエコではないと武田邦彦氏は言っている。エコがエコにならない、エコと言えば聞こえはいいがどうしてもエネルギーを人工的に作り出すと自然破壊になると。
今回の洪水も原因はまだわからないが情報はインターネットでは早い、ある程度の骨格になる情報がすでにででいる。
写真で説明しているから説得力もある。決壊した自然堤防にソーラーパネルを設置するために削っていた。これはまだ調査されるがそれなりに写真を見れば説得力がある

ソーラーパネルは自分は何か嫌だった。景観を破壊するから嫌だった。実際を山を削ったりしているしすると大雨がふったら土砂崩れになるとか危険である。
それは写真を見るとなにか説得力が増すのである。だから現代は何でも写真の時代になるソーラーバネルは何かと実際は自然破壊なのである。
そしてコストが高くなった分国民が税金として払っている。いろいろな会社が参入しているのもそのためである。
屋根にだけ設置しろというのはそれが自然破壊にならないからそう言うのだろう。
ソーラーパネルは日本のような広い平坦な土地がないところには向いていないのかもしれない。
山をケ削るとか森を切るとかして設置しているのは景観だけではない危険でもあるからだとにかく原発事故周辺は本当にソーラーパネルが多いのである。
自分の場合は景観的に嫌だったが実際は自然破壊になっていた。
ダムだって自然破壊でありこれも洪水との関係を調べる必要がある。ダムの水を大量に放水したらその水流も過重になり堤防決壊につながったかもしれない。
その原因はいろいろだがソーラーパネルが出てきたことも何か今らしい問題だった。

●国土省では10年に一度洪水になると予測していた

そして国土交通省でも10年に一回は決壊するとか明確に予測していた。工事も計画していたが間に合わなかった。
これも原発とにている、東電では津波の高さ10何メートルくると予測していた。
だから専門家集団がとやかく言うが理系の優秀な人たちがいて予測していた。
ただ予測してもその対策が実際にできなかったのもにている。
それはは民主党がコンクリートから人だとか無駄な公共事業を減らそうとしたこともあるだろう。
それで今は批判されている。

なんか原発事故でもそうだが本当はこれは東電とかの一会社の問題ではなくまさに国土省の問題だった。国土省が国土を守るものであり民間の会社はコスト重視になるから国土を守るという意志が働かない、国土省の役割が大きいのだが民間の会社が現代では大きくなり国の力が及ばなくなったのも問題なのだろう。
官僚を批判しても今回は10年に一回決壊すると予測していたし工事の計画もたてていたのである。
日本は災害列島だから国土を守る国土省の役割は大きいと思った。
官僚はそうした国土のことを知っている、政治家は一時的に大臣になったりしているが国土のことを知らないだろう。だから支持できないということもある。
そこに政治家の限界があり官僚はそうした知識を津は重ねているから予測できたのである
何か政治家が頼りないというとき、そうした官僚のよう知識も技術も知らないということはある。原発のことだって官僚の技官は知らなかった。
というのは原子力は河川とはあまりにも違っていたからである。
国土省は歴史があり積み重ねがあるから違っている。
一方原発を知っていたのは東電であり国土省ではない、だから津波の高さを予測していたのは東電だったのである。

●国の力の弱体化も原因か?

国の力の弱体化もこうした災害を防げないことが起きている。中国でもあれだけの大きな川があるから治水が国を治めるとまでなっていたことがわかる。
それは強大な国家権力でしかできないことがわかっていた。
権力というと今は抵抗があるから全面に押し出せないけどそういう治水とか災害にかかわるものは国家が担当しないとできない
民間だと絶えずコストが問題になり原発でもコストカットして事故につながった。
原発事故ももう国では保安院など何の役にもたたなかった。
原発に関しては東電の方が上であり政府で何も言えなかったのである。
官僚さえ技官でも原子力についてはわからないからである。
そのことは東大出でも法学部であり理系ではなかったからである。
その時、管首相とかは理系で原発を知っていたとしてもやはり大学で学んだだけであり
原発のことを知らないのである。

現代は会社が企業が国より力が上になっている。政治家は何もできないとかいろいろ言われる。それは会社が実際の事業をしているのであり政府が何か事業をしているのではない富を作り出しているのは会社でありサラリーマンだとか言われる
政治家は何もできないとか低くみられているのも現代である。
実質社会を動かしているのは会社だとなる。
それで東電を批判したとき電気をめめたらとうなりますかとか脅した東電社員がいたことでもわかる。
電気をとめられることはそれだけ社会の実験を握っていることになる。
だから国の力がどこにあるのか、国の力は世界的に弱くなっている。
そしてグローバル化したとき多国籍企業が世界の実権を握っているのであり国ではないとか国の力が弱体化しているのである。
例えば土木事業でも実際に仕事するのはゼネコンであり政府ではない、政府はゼネコンに受注するだけである。
だからそうした建設関係の大会社を自衛隊に一時期入隊させる案がでているのもそうした大会社はある意味で戦争のときロジステックとがでもそうであり戦争体制がすでにできている組織だからそうなる
政府で徴兵しようとしたら国民の許可が必要であり簡単にできないからである。
つまり大企業に国の防衛でも戦争でも代わってやってくれとまでなる。

一面そうした国の力の弱体化が原発事故とかでもそうであり今回の洪水でもそうである。実際の力は会社にあって国にはない、政治家にはない、政治家が東電のように電気を作り出せないのである。政治家が何か生産するわけでもないのである。
だからこそ今は東電であれ大会社が国を動かしているとなる
そうなると会社はコストが第一だからどうしても安全面とかに力を注がれないのである。国土の安全を守るのが国土省である。
でも実際に工事をするのは民間の大会社である。その力関係はどっちが上なのかもわからないのである。
現代はマスコミは目立っていろいろ言うけどこれも実際は会社の宣伝で成り立っているから東電は批判しなかったし原発は批判しなかったのである。
何百億という金が宣伝費としてマスコミに流れていたからである。
つまり会社の力が今は国より上であり会社が社会になっているのが現実である。
地域社会も東電によって原発が建った時買い上げられたとまでなっていたのである。
それだけの力を東電はもっていたのである。
ここに巨大化する会社、グローバル化する多国籍企業の問題がありそれは自然破壊にも通じている。
国の力が弱まれば多国籍企業にとっては好都合である。国になにかと制約されると多国籍企業が自由に活動できないからである。
その結果として様々な問題を世界的に起こしているのである。
環境とか国土とか文化を考えるのは国の役目であり多国籍企業はそういうことを考えない、もうければいいとなれば文化も邪魔になるし環境に考慮すればもうかならないとかなるだから津波のことを東電で予測しても対策が実行できなかったのである。

●TPPはアメリカの多国籍企業に国を売ること

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政治家は多国籍企業の代理人にすぎないのか?日本の首相もアメリカ大統領すら



これらのリストを見れば分かるのですが、「アメリカ」という国一つを相手にしているのではなく、その裏にいるこれだけ多くのの多国籍企業をTPPは相手にしており、TPPでアメリカと交渉するということは、これらすべての企業を代表するアメリカ政府と交渉する、ということを意味します。


TPPとは、弱肉強食の新自由主義を、さらに推し進めるものです。
その力の源は、グローバル・エリートの「国境なき」国際金融資本です。
原子力を推進しようとしている人々の中には、同時にTPPを推進しようとしている人が多いという事実。
これは偶然ではありません。
そうした企業に出資したり投資をしたりしている国際金融マフィアは、原子力マフィアのご主人様と同一のグループだからです。

この二人は、政治家ではありません。
多国籍企業の代理人です。

この二人は、国家と国家の主権をかけて議論しているのではなく、国家の枠を飛び越えた資本の力に後押しされて、多国籍企業を、どうやったら今より儲けさせることができるのかを話し合っているのです。
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-1542.html


多国籍企業に政治家は支配されTPPが促進される。それだけ企業の利益るなるからTPPが推進される。アメリカも企業によって政治家でも動かされているし前の野田首相は財界のために犬木となって動いているとこのサイトで指摘している。
政治家も財界が動かしているのである。財界もアメリカと同じく多国籍企業であり国を動かしているのである。
現代の世界自体が多国籍企業が動かしているのであり国ではないとないとなる。
原発もこうした多国籍企業によって推進されている。アメリカという国を動かしいるのもアメリカの財界になる。だから国の力は弱まり実権があるのは多国籍企業であり政治家より会社の幹部が世界を支配するという構図になっているのが現代である。

そういう多国籍企業の言いなりになっていると国々の文化は破壊される
国土を守ることもできなくなる。文化というときその国の風土とか環境とか国土とかと関係してくるからである。
世界が株式市場になるときまさに国を越えて多国籍企業が自由に活動するということであり国という障壁はない方がいいのである。
その時その国の文化とかは破壊される、風土とかその国独自の国土から形成された文化や歴史が破壊されるのである。

ここは結構読みごたえがある。
自分の思想とも通じるものがある。
これを読むのも結構大変である。
インターネットの世界は知らないことが実に多いのである。
タグ:鬼怒川
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厚寿苑であったしっかりした小高のおばあちゃんに感心 (自分が苦しいのに看護師や介護士を思いやっていた)


厚寿苑であったしっかりした小高のおばあちゃんに感心

(自分が苦しいのに看護師や介護士を思いやっていた)


今日、厚寿苑であった90前のおばあちゃんはしっかりしていたし好感もたれるおばあちゃんだった。
小高の塚原の人だった。あそこには120軒とかあり前に自分の庭を作ってくれた大工さんを知っていた。
その女性は脳梗塞になり一時意識不明になった。
それで一年間くらい厚寿苑にいたという、そんなに長くいられるのかと思った。
一カ月六万円というのは安い、それは小高の人は相当に介護でも援助されるから安くなっていたのだろう。
意外と母は三日いて2万2000円とかとられから高いなと思った。三日でそのくらいである
だから一カ月もいたら実際は15万くらいとられると思った
介護は思った以上金がかかる場合がある。施設でも最低でも15万は月に払わないとあづかるところはないだろう。
だから年金がそれなりにないと施設には入れない
貯金より年金の額が左右するのである。自分は年金を70才からもらうことにした。
そうすると結構もらえるからだ。ただそれまで収入がないので貯金を取り崩すので苦しくなる。
投資して定期的に収入が入ると思ったか中国の株価下落で150万とか引かれたのは痛かった。
意外と老後はそれなりに金がかかる、一人でも15万以上もらえないと今では苦しい
そこから介護保険がひかれたり物価も上がるからともかく貯金していようが年金でも一割とか目減りしているのである。

そのおばあちゃんは脳梗塞になってから看護師に世話になったのでなんとか迷惑をかけないように頑張ったという、脳梗塞で一年も厚寿苑にいたということはそれなりにリハビリとかして正常とほとんど変わらないよにう回復したのだろう。
そのおばあちゃんはいちいち看護師を呼んだり助けてもらうのでそれではまずいと自分で思い相当に自分でそうならないように努力したのである。
まだそれまでできる力が残っていたというよりその女性がなんともそういう苦しい状態でも相手を思いやる心があったという不思議である。
何かしてもらうにもいろいろ相手のことを察して言葉をかけているのである。
だから看護師でも介護士でも親切にしてもらえることがありありと見てわかったのである普通病気になり苦しくなれば自分のことだけで精一杯になる。
そういう状態でも自分のことだけでなく助けてくれる人を思いやり言葉をかけていた。

そういうことがうまいというか自然にできる、そういう人柄なのか、あういう女性は助ける方も助けたくなると話してすぐにわかった。
あういう女性は施設にいてもみんなから親切にしてもらえることは確かである。
一方で金持ちでも威張っているような女性はいくら金があっても親切にしてもらえないだろう。
そこが病人とか介護が金だけで解決しない問題なのである。
世話してもらう方になったときうまくいかない人がいる。
その人は世話してもらうことは実にうまいので感心したのである。
世話してもらうに相手のことを思い言葉をかけるからこの人なら親切にしてやりたいという気持にさせるのである。
こういう人であればまず施設に入ってもみんならか親切にしてもらえることはまちがいないと思った。
金だけでは老人は親切にしてもらえないことは確かなのである。

それから若い人なのだが自分が母につきそって立っていると椅子をもってきてくれたのである。
そしたらそのおばあちゃんがあの若い人と気がつくいい人だよといった。
男性でもその人は気がつく、なかなか男性はそういうことがしにくい、でもその男性は介護に向いた人だとなる
まず人間を相手のことを思いやったり気がつくことが意外とむずかしいのである。
だからその若い男性は介護に性格的にも向いている人である。
誰でも介護に向いているわけではない、介護なんかそんなもの最低辺の仕事だとか盛んに言うが給料のことを考えないならやは介護士というのも一つの新しい仕事であり
それに向いた人と向かない人がいるのである。
でもする人がいないから誰でも雇うとなり問題が起きている、老人虐待などが起きている自分が思うにはあらゆる仕事には適性がありどんな仕事でも誰にでもできるものはない
例えばヘルパーはかお手伝いさんでも誰にでもできるものでもないのである。
何か常に適性があり誰でもいいという仕事はないのである。


そして最近人工知能とか機械が代わりに仕事するから人間の仕事が奪われるということを言う人がいるが現実そうなってくると思うし本当になっている
レジの金の出し入れを機械化したのもその一つである。
人手不足になると余計にそうなる、でも機械化できない、コンピュターでもできない仕事がありその一つに介護士があるというのもわかる。
介護士とは思いやりと何か気づく相手を察するということが必要になるから機械的にはできないのである。
第一介護される女性でも介護する人を気ずかっていたのである。
これが一方的に気づかっているばえりになると介護する人も嫌になる。
その女性は別に他人でも親切にしてもらうように相手をうまく誘導している不思議があった。
そういう性格なのか、やはり心根がいいのかとなる
そして脳梗塞で一年も厚寿苑にいたにしては今は話してもどこが悪いのかもわからない、頭はしっかりしているしあらゆることが普通の人よりわかっている
どこかしらおかしくなっているのが普通であるがその女性はなっていなかったのである。
そのおばあちゃんはまた子供にも恵まれていた。何人かいて自分の所に来いと言われている。原町にも立派な家を建てた息子もいた。
あのおばあちゃんなら子供も歓迎するし嫁ともうまくやれるだろう。
なぜなら嫁のことを気づかうと思うからである。
そういう人徳が備わっている感心したのである。
人間はまず相手のことを思いやるとか気づかうということがなかなかできないのである。そんなことが簡単じゃないかと思うがそれができない人が多いのである。
自分も何か雑でありできない、だからほめられていた椅子をもってくれてきた若い男性はまれな男性だったともなる

ともかく介護の時代だというとき、介護士という仕事でもこれから見直されることはありうる。
つまり機械化できない、コンピュター化できない仕事としては直されることはありうる
いづれそういう人は他からも優秀な人材として評価され高給とりになるかもしれない。
介護士でもレベルがありみんな同じではない、向き不向きがあり今は人手不足だから
誰でもいいとなっている。でもこれからはどうなるかわからない、みんな機械化して仕事がない、介護士でもやるかと言ってもあなたには適性がないとしてつけないかくなるかもしれない。
介護は人のことを思いやる気づかう高度な仕事であり誰でもできるものではありません
今は選ばれた人しかなれませんとかなっているかもしれないのである。
つまり仕事というのも時代によって常に変わるしその価値も変わってくるからそうならないとは限らないのである。
タグ:介護士

2015年09月12日

限界集落化してゆく原発避難地域(小高など)


限界集落化してゆく原発避難地域(小高など)

昨日厚寿苑で話を聞いた人は小高の塚原の人だった。あそこも被害が大きかった。
津波で立派な家を建てたけど流されたという。他にも新築の家が流された家が結構あったそのおばあちゃんの息子は原町に新しい家を建てて住んでいるという。
息子はもう小高に帰らずに原町に住む、するとおばあちゃんも小高には帰らないだろう。家も流されたし行くとしたら息子の所だろう。
それでもまだ原町だからいいとはなる
鹿島に早い時から小高の人は帰らないと家を建てた、その時地価がまだあがらいなときだったのか賢い決断だったかもしれない。
その後地価がぐんぐんあがったからである

塚原に庭を造ってもらった大工さんもいたがその人も新築の家が津波でやられた。
小高も津波の被害が大きかった。息子と一緒に住んでいたがばらばらになった。
小高でも他の原発避難地域でも津波で街が壊滅したところでも個々の事情は違っているが若い人が帰らないという現象がにている
老人だけは土地に愛着があるから帰りたいとなるが若い人は帰らない
テレビで移していた小高と飯館村の人もそうである。
若い人は帰らない、そして老人だけが帰ってどうなるのか?
南相馬市だと小高に老人ばかり住むことは負担にもなる
例えば厚寿苑の人がディサービスのために車で回るとしても手間になる。
原町より小高はさらに遠くなるからである。

それは小高はいろいろなことで不便になる。ある夫婦は妻が75くらいで病気になり娘の所にいる。夫が待っているが帰れないというのは病院がないからである。
あっても前の小高病院ではない、看護師も医者もたりないし入院もできないのである。
そうなるともう老人でも帰らないとなる。
そういう高齢化の問題がそこで最も深刻な状態になる。
老人ばかりの街になりやがて限界集落としてまさに限界がきて消滅してゆく
そういう場所にそもそも若い人が帰らないのだから維持できないのである。

限界集落というとき何か鹿島とかは原町と比べるとずいぶん不便である。
買い物でも何でも不便である。
スキヤにはいろいろ弁当があったり軽い食事ができたり便利である。
鹿島にはそういう所もなくなった。でも車がある人はそういう不便をあまり感じないかもしれない、車がないとまず小高には買い物もできないから住めない
一人暮らしはいろいろなサービスがある都会の方が本当は住みやすい
ただ環境としては自然が豊かな田舎の方がいいとなる
その両方をかなそなえるのがむずかしいから最低でも4,5万の都市がいいとなる。
鹿島でいいのは原町とか相馬市でも近いからその都市圏の中に住んでいるから
限界集落にならない、限界集落というときそうした都市圏から離れ山の中で孤立しているような村がなりやすい

現代は車社会だから近くに都市があれば限界集落にはなりにくいだろう。
でも小高は老人だけが住むとなると南相馬市では負担になる
インフラでも限界集落になると百倍とかかると言われる
水道であれ電気であれインフラを維持するのは高くつくから批判される
何も自給自足で医療とか福祉もなかった昔なら何も言われなかった
あまりにもそうした現代の便利な生活には負担がかかるから税金がかかるから都会の人もうるさくなるのである。

原発避難区域が復興がむずかしいのはそうした現代の事情が反映してなった。
少子高齢化などがここで他より急速にすすむ。
小高は限界集落化して南相馬市の財政的にも負担になる。
だから別に津波や原発事故の前からこういうことは言われてきた。
それがこの辺では急速に現実化したのである。
だから中央の高級官僚が三陸など岩手県でもジジババしかいない所に援助しても無駄ということを言って顰蹙をかった。
それはインフラとか福祉とかそれだけ金がをつぎこんでも復興しにくいということがあった。
若い人が住まないでどうてし復興できるのかとなるからだ。
老人ばかりだったら負担ばかりでありやがて限界がきて消滅してゆく
つまり老人だけだと家でも町でも市でも跡継ぎがなくなり途絶えてしまう
そして少子高齢化で空家が全国で800万軒とかこれも大問題となるし
人口がへることは日本の国力も落ちるからそれも全国的に衝撃になる。

コンパクトシティというときそれは地方でもそうだが日本自体がコンパクト化ししてゆくのである。ダウンサイズ化してゆく、
だから団塊の世代が死んでゆく、その次ぎの世代もやがていなくなるときまさに日本はコンパクト化した日本になる。
そういう過渡期でありそれがこの辺で津波と原発事故で急速に現実化したのである。


 
タグ:限界集落
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2015年09月13日

初秋の街道をロードで相馬市まで(ソバナの花)


初秋の街道をロードで相馬市まで(ソバナの花)

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街道の実りや城へ6万石
街道の細道つづきソバナ咲く
街道の家並変わらず秋の蝉
街道や芒女郎花祠かな
中年の労務者あわれ秋薊
プレハブに労務者あわれ秋薊
故郷をロードに走る実りかな
初秋の風きり走るロードかな



街道というときこの辺では浜街道であり日立木から相馬市の道である。
あそこはいつ行っても情緒がある。
今はなかなか街道を知ることができない
なぜ情緒があるかというと道が細いから花も映えて人間的になる。
日立木の道は細いけどあそこが昔のままの道なのである。
あの家並も昔のままだから情緒がある。
浜街道でも昔のままに残っているのはまれだてわからなくなる

今はソバナの花が街道沿いに咲いている
この花が何かこの辺の街道にあっていた。
桔梗でもない素朴な花であり街道にふさわしい花である。
現代の旅はなにか情緒がない、旅にならない、六号線を突っ走っても旅にはならない
街道の細道、つまり「奥の細道」だったら旅になっていたのである。
まさに「奥の細道」であったからこそ芭蕉の句もできたのである。

この辺はまた工事であり騒々しい、以前として簡易宿泊所のプレハブが増えている。
それだけまだまだ労務者が入ってきている。
その数も多いから活気あるようにみえるのである。

自転車は今の時期は気持ちいい、昨日はロードで相馬市まで行ってきた。
これは最近乗っていなかった。
これは荷物には弱いが早く走るにはかえって電動自転車より軽いから風にのるように気持良く走れる、まず自転車が好きな人は値段の高いロードにのるだろう
つまりこれは走っていて気持いいからである。
スピードを出して走ること自体が気持いいからである。
自分の八万くらいであり軽いのだが安定性がないのが問題である。
これも忙しくて乗っていなかった。
何かいろいろなことができなくなった。
家事とか介護とかに追われてそうなった。

一週間ショートスティであずけたから楽であった。
でも意外と金はかかる一日5000円とかかかる
だから施設で一カ月15万とかなるのもわかる
物価高であり田舎でも最低で15万はかかる
でもそれだけを負担するとなると田舎では金をもっている人は少ない
自分も年金をもらっていないし母の年金はわずかだから
かえって在宅だと金はかからない
介護も金の問題がからんでくる
やはり年金が老後は大事になる。だから自分は年金は70才からもらうことにした。
そうするとなんとかなるがあと二年とかなるとそこの金の工面が苦しくなる
老後難民になるのもわかる
自分は親に恵まれていたから金銭的には苦しんでいない、その他のことで苦しんできたのである。



文明は何でも何らか自然破壊で自然に復讐される (ソーラーパネルもそうだった)


文明は何でも何らか自然破壊で自然に復讐される

(ソーラーパネルもそうだった)

 

文明とは自然破壊が必ずあり自然破壊がない文明となると縄文文明くらいだった。
弥生文明ー稲作文明も自然破壊だった。その前の焼き畑農業も肥料にするために森を焼いたのだから自然破壊である。
稲作文明は自然と調和した文明のように見えた。それですら自然破壊だったことが津波で判明した。
松原というのは自然林ではない、人工林である。ちょうど杉林が自然林でないのと同じである。
自然林とはいろいろ樹が交わった混生林である。松とか杉とか一つの種類だけになるのは人工林である。東南アジアでもゴムの樹だけになると人工林でありそれは外国の企業でそうしたのである。
稲作だけの米だけを作るとなるとそれも自然破壊になっていた。
東北で米を作ったのは江戸に米を商品として売るためだったのである。
だから東北で飢饉が起きたときは米ばかりに頼ったためだという。
いろいろいな作物を作っていれば米が不作でも例外に強い作物も作っていればそうはならなかった。
そもそも自然は混生林であり様々な種類のものが混生して生きているのが自然なのである何か動物の一種類でも増えると自然のバランスが崩れるのと同じである。

だから文明そのものが自然を破壊するように宿命ずけられている。
レバノン杉がもう絶滅すほど切られたのは船の材料に使われたからである。
これも文明のために消尽された。他にも森がヨーロッパで消滅したのは文明化が原因している。
稲作文明も自然破壊だというとき海側の湿地帯を開拓した結果、そこに松原を防潮林としたのだが今回の津波でその防潮林の松原がなぎたおされて消失した。
つまり文明は必ず自然を破壊したら自然に復讐される
まさか松原がそういうものとはいつもそこにいて思わなかった。
もし自然林の混生林だったら津波の被害はかなりおさえられた。
なぜなら松は根が強く張らないので津波に弱かったのである。
他の樹はあれば混生林だと津波の力を弱めたとかいことがありえた。
それは稲作だけを広げることが自然破壊であり人間にも影響した。
一つの作物を商品化してしまうことは不自然なのことなのである。
いすいろて種がありいろいろなものを食べていた方が人間にとっても自然である。
そうしていれば飢饉でも米が不作でも他のものを食べて生き延びるととういこともあった縄文文明は自然と調和した文明であり大災害からまねがれたことはありうる
でも縄文文明だと人口は増えない、増やせないのである。
稲作文明になり飛躍的に人口が増えたのである。

今回の鬼怒川の氾濫でもソーラーパネルを設置するために堤防を削ったとか、民主党のレンホウ議員が仕分けだとして公共事業を削ったためだとか批判されている。
ソーラーパネルは別に自然と調和したものでもない、山の森とか削って作っているから
大雨になったら土砂崩れとかなって危険なのである。
ソーラーパネルは景観の破壊でもあり自然と調和したものではない
これも民主党が推進たから今になると批判されている
もちろん鬼怒川の堤防決壊はソーラーバネルを設置するために堤防をけずったためであるがそこの住人が訴えていたのに国土省は無視した。
自民党の責任も大きいし今の公明党の大臣も責任があるとなってしまった。
だから国土省は訴えられるとまでなった。

ともかくダムだって自然破壊であり文明化したものは何でもなんらかの自然破壊である。その自然破壊は必ず自然にまた復讐されるということである。
そもそも人間は自然に従うことによって生きるようにできている。
もし自然には逆らえない、いくら文明が発達しても自然には逆らえない
自然の力は津波でわかったようにとても人間の力では制御できないのである。
人間が生きるために自然の力に謙虚に従う他ないのである。
文明の力が増すと人間は奢る、自然を征服できるとか奢る
それが一挙に砕かれたのが今回の津波だったのである。

いづれにしろ人間はその国土の風土の制約を離れる他とはできない
その国土に風土にマッチした生きる他ないのである。
原発はそもそも地震とか津波がある日本には向いていなかったのである。
グランドキャニオンとかあるアメリカには向いていた
日本の国土は狭いし山が多いし津波もあるから向いていなかった。
そういう風土を自然条件を無視すると自然から大きな災いを受ける
自然に従うとなると津波の来るような所には住まない方がいいとなる
いくら防潮堤を作っても今回は防ぎようがなかったからだ。
そもそもがそういう危険な場所に住んだこと自体過ちだったとなる。

民主党はまた今批判されている
「コンクリートから人へ」というのも批判される
日本のような災害の多い国では国土を守ることが第一とされる
この言葉が今回の津波であれ震災であれ鬼怒川の氾濫であり再認識されたのである。
要するに日本の風土とか国土とか無視すると天罰が下る、これは仏罰ではない、
国土省はそういう重責をになっていたのである。
だから公明党の大臣まで批判の対象になってしまったのである。


 
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原発避難民とシリア避難民 (原発避難民は小高でも帰り再建すべきだろう)



 原発避難民とシリア避難民
 
 (原発避難民は小高でも帰り再建すべきだろう)

 
 なんかこの辺の高校生がアフガニスタンの避難民に同調して訪れたとかのニュースがあった。
 確かに同じ避難民ではあるがまるで違っている
 シリア難民を見ればわかる、もう国が崩壊している、そうした戦争している中で取り残された人たちが700百万人とかがISに脅されながら暮らしているというのも悲劇である。
あれをみていたら何か生きた心地もしないだろう。
ISは狼でそこにいる住人は羊になる。

イスラエルにいたときシリアに行ったという人がいてシリアはいい、素朴でいいと盛んに言っていた。シリアは独裁政権でも庶民には素朴な人たちが多いということだったのか?
江戸時代のようなところがあったのかもしれない
だからなぜあのようになったのか悲劇だとなる
ただあのような状態になったら安全にまず暮らせないから国を捨ててでてゆくほうがいいとなる
それで資金とか英語の教育を受けた人たちが外国に難民として出てきた。
英語ができる人がヨーロッパでも中東でも知識人には多い。
ギリシャでもそうだった、英語できると外国に出て働けるとなる
英語は国際人になるには不可欠だとなるのも確かである。

この辺と確かににているのは小高でも浪江でも飯館でもその他避難区域になった所はもう住めないとか他に家を建てたり故郷を捨てている人が多い
特に若い人は多いというとき何かシリアの避難民とにている
取り残されているのは老人とか障害者とか子供とか弱者だという。
この辺でも事情は違うが老人が残され若い人は故郷を捨てて住まない
それにしてもシリアくらべればこの辺はいくら放射能が怖いとしても
あまりにも差がありすぎる
シリア難民から見たら何なのと思うだろう。
避難民は多額の補償金をもらい遊び暮らしている
シリア難民は命懸けで脱出して残った人はどん底の暮らしをしているからだ

原発避難民は原発貴族だとか言われる
すでにインフラも水道でも電気でも何でも使えるのだから帰って再建できると
シリア難民からみたら思うだろう。
なにか避難民という名があってもシリア難民とかとはあまりにも違いすぎる
たから比べれば贅沢きわまりない避難民だとなる
そんなものに同情できるかともなり避難民と地元の人はつきあわない
なにも同情するものがないとみるからである。
原発避難民にいろいろ言い分があってもそうみてしまう
「お前らぐだぐだ言っていないて自分たちの故郷を町を再建しろ」となる

一方で今回のシリア難民で考えたことは国がなくなることの恐ろしさである。
国が崩壊することの恐ろしさである。
イラクとかシリアはイラク戦争以来無政府状態に陥っていたのである。
そこにISが勢力を伸ばした。それはヤクザの一団のような盗賊の一団のようなものだったかもしれない、そこには暴力しかないからだ
だから国が崩壊すればあのようになるという見本だった。
もう家族も守ることができない、国を脱出するしか生きる方法がなくなる
国など当たり前にあると思っているが国がなくなるということもある
故郷が当たり前にあると思っていたのがなくなったのと同じである。
国が崩壊すれば家族も守れないし街もなにかも失ってしまう
無政府状態になり盗賊が跋扈してやりたい放題になる
だからそうした無政府状態より独裁政権でも良かったと今ではなる
イラクの独裁政権の方が良かったとなる
あの辺はそういう独裁でしか治めようがない国だったのである。
民主化するような国ではない、民主化するにはそれなりに国になっていないとできなかったのである。

いづれにしろなんか日本も動乱の時代である。だからシリア難民と比べるのだがあまりにも違っている。
避難民が威張っていて避難者を受け入れた方が小さくなっている。
それは在日と同じだとか言う人もいる。やがて避難民を受け入れた国は母屋を化して庇とられとかなると言われる
避難民は図々しい、それは何か原発避難民にも言われている。
なんだあいつら俺たちより何でも優遇されて金があり新しい家を建てているとか批判される
こんなことはシリア難民などにはまだありえないことである。
食うや食わずで避難してきた人たちだからである。
今日食べるものが与えられればいいというだけである。
ただトイツに避難するのはそこは豊かな国だからである。

原発避難民は何か恵まれすぎている。何が避難民なのか?小高などは放射線量が低いのだから帰って十分に生活できるし再建もできる
なんでしないのか?なんで故郷を捨てたのか?
戦場と化して破壊された街とも違う、十分に家は残り暮らせるのである。
多少の不足あっても暮らせる、シリア難民と比べるのが間違っているというのもわかる
でも何か同じ避難民でもあまりにも違いすぎるのである。
人間はやはり甘やかせそれに甘んじる、補償金もらえばそれで暮らそうとなる
お前がそんなこと言えるのかといえばそれも言える
でもなんか同じ避難民でもこれは何なのだろうとなるしみんなもそうみているのである。



 
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