2015年08月05日

南相馬市鹿島区の方を対象とした集団訴訟 (相馬地域は地理的に不利ー相馬市で裁判できない)



南相馬市鹿島区の方を対象とした集団訴訟


(相馬地域は地理的に不利ー相馬市で裁判できない)



相馬市とか南相馬市とか前の相馬郡は福島県でも地理的に不利な立場だった。
中通りは東北道や新幹線も通り仙台に直結して便利だった。
イワキも東京までの直通の通勤電車が常磐線からでているし複線化している。
郡山市も東京に近い,特に新幹線で近くなった。一時間半くらいで行けるとなると近い。今になると相馬藩だった地域はエアポケットのような場所になっている
空白部分のような地理的に不利なものとなっている


廃藩置県で福島県となったときも相馬藩が福島県になるという地理的には無理な面があった。
阿武隈高原にさえぎられて県庁となった福島市は相馬から遠いのである。
鉄道もないしバスもあっても便が少なく不便だし前は相馬市から福島市の便は廃止されたでも福島市に県庁があるとき福島医大で医療などでも行政でも関係することが多い。
それで相馬の病院でみてもらってもわからないむずかしい病気になった人が福島市の医大まで車で通っていた。それも近道がわかったとかで時間を短縮して通っていたという。
福島市は県の中心にあっても相馬地方は不便なのである。
今度確かに相馬市と福島市を結ぶ高速道路が工事中だから改善はされる
それでも地理的な不便さは残るだろうしこうした地理的なものは地形が変わらないのだからなかなか克服されない。
相馬地方には松川浦がありそこに港もあるからここを物流として福島県として発展させることもいいことである。
島商会では中古の車をロシアに松川浦の港から出しているのである。
飯館村の木材は石巻から出しているのも何なのか不便である。


そもそもこの地理的な条件というのは戦国時代であれ日本列島ができて以来地球自体が地理に制限されて発展してきたのである。
だから地理的条件から人間は逃れることはできない、相馬藩は歴史的には江戸時代から独立した藩である。伊達藩には組み入れられなかった。
でも廃藩置県でさらに地理的に隔離されたような地域になってしまった。
相馬藩が明治に磐城県になっていたことでもわかる。磐城太田という駅があることでも磐城の延長として古代はあったが廃藩置県でもそうなった。
そして新地は相馬郡になったが新地は伊達藩であった。
でもなぜか相馬郡に取り入れられて福島県になったのである。
そういうことが選挙区でも影響していた。
最初は浪江とか相馬郡とか原町市とか相馬市が衆議院とかの選挙区としてあった。
それが今度は小選挙区で福島市の方と合体した選挙区になってしまった。
相馬藩という地域はそれだけの人口もないし大きさがないからそうなった。


原発事故も双葉とか大熊とかはイワキと相馬地域の中間地点だったのである。
戦国時代は境界争いもあった。夜の森とは相馬藩主が余の森だといったからその地名になった。
その中間地点もエアポケットのような地域だった。
そこには大きな病院がないので自分が南相馬市立病院に入院したとき浪江の人が30分かけて介護しにきていた。往復一時間かかる。
他に双葉の人も入院した。その付き添いの妻がバスで埼玉に避難するのを見た。
そういう場所に原発が建てられたのである。
皮肉なのは原発事故になったとき浪江から飯館村から福島市まで放射性物質が流れて意外と中通りでも被害があった。南相馬市とか相馬市とか浜通りとかより放射線量は高かったのである。
地理的一体感がもてないと福島市は思っていたが原発事故では風は山を越えて吹いたから関係なかったのである。
それで東京はもちろん事故を恐れてフクシマに原発を作った。
福島市でも双葉とか大熊は遠いから事故のことなど考えなかったのである。
地理的には阿武隈高原にさえぎられていたから安全だと思っていたに違いない。
しかし放射性物質は地形の影響というより風で運ばれるのだから山にさえぎられても関係なかったのである。
それは行政でもかなりの誤算だった。科学者だったらわかっていたのかもしれないがそこまで見通せなかった。
原発事故ではやはり福島市も中通りも一体だったということに皮肉にもなったのである。


ともかく南相馬市は鹿島区の不満は30キロからはずれてしまったことである。
だからその30キロの境目の辺りの人が補償金がもらえないので困っていると泣いて訴えていた。子供も争っているとか言って訴えていた。
何か夫も遠くに勤めるので不便になったとか言っていた。
30キロで区切られたことが大きな影響になった。
補償金も原町区はなぜ一人十万で2年2カ月とかもらえるのだろうか?
これは全部そうなのかわからないが原町区は30キロ圏内ということで補償されたのである鹿島は一人十万で7カ月分であり自分は確かに二人分140万とかもらった。
でもこれは原町区に比べると少なすぎると思った。
その一番の原因が30キロで区切られたことなのである。
でも被害は確かに変わらない、半分は避難したのである。耕作できなくなったのも同じである。
原町区と鹿島区の被害はさほど変わらないのにこんなに差をつけたことが不満になる。
それで小高区は補償金がそれ以上に多いから鹿島区の人たちは避難している小高区の人に対して大きな不満になり分断されてしまったのである。
だから小高の人と鹿島の人とはつきあわない、同じ南相馬市として合併したのに補償金で分断されてましったである。
この責任は東電とか政府にもあるが南相馬市の行政市長にもあるとしきり言う人がいるし鹿島区の人たちもそう思っている。


いづれにしろ裁判所に訴えても最初は東京の裁判所に訴えたが東京では離れているとか実情を知ってもらうことがむずかしいとかで今度は福島市の裁判所に訴えた

原告らは、本件訴訟の提起にあたり、法律上、相馬支部ではなく、東京地方裁判所(以下「東京地裁」という。)を裁判管轄として選択することも可能であったが、あえて相馬支部を選択した。原告代理人の大半が東京の弁護士であり、交通費の負担などを考えれば、原告らにとって、東京地裁を選択した方が費用負担は少なく済んだはずである。それでも、原告らが相馬支部を選択したのは、@ADR申立の苦い経験から、被害地域から離れた東京の裁判所の判断に委ねるべきではなく、自分たちにとって身近な「地元の裁判所」の判断を求めるべきである、A被害の実態を正しく伝えるためには「自分たちの裁判」として積極的に審理に参加すべきであるが、「地元の裁判所」でなければそれはかなわない、と考えたからであった。


平成26年10月31日、相馬支部の裁判官より連絡があり、主たる理由として、相馬支部に裁判官が1人しかおらず、合議体(裁判官3人体制の審理方式)が構成できないという理由により、本件訴訟を福島地裁本庁に回付する方針であることが示された。これに対し、原告らは、平成26年11月7日付け上申書において、「地元の裁判所」による審理を嘆願し、事件を回付しないよう求めた

相馬支部では裁判する人員が配置されていない、それで福島市での裁判にするように命令された。
ところが福島市では交通が不便なのである。
ここはもともと仙台の方が常磐線があったときは便利だったのである。
今でも仙台に学生とか通っていたり仙台と関係が深いし地理的に便利だから仙台に行く、むずかしい病気の人は仙台の病院に通っている。
相馬地域は仙台市の方が福島市より交通ではつながり深く便利なのである。


ともかくこの裁判でも地理的なものが影響していたのである。
確かに相馬市に裁判所があってもそこでこれだけのむずかしい裁判ができないということである。
でも地元からすると地元で裁判したいということがわかる。
自分は相馬郷土史研究のプログから発信するというときメデアでも土着的ならねばならないと書いた
なぜ土着的でなければならないのか?
それは土着的なものとはその自然環境でもそうであり地理的なものでもそうでありあらゆるものが土着的なものとして人間はもともと存在していたからである。
土着的なものが失われると今回のような原発事故でも起きる
地震とか津波があるのが大きくみれば日本の地理であり風土である。
また浜通りは津波の危険があることは東電も分かっていて想定していたのである。
土着的なものというと今や関係ないようになったが宗教でも法律でもやはり関係していたのである。科学でも土着的なものから離れることはできないのである。
土着的とはトータルな総合的なものとして人間をみることだからである。


とにかくこの辺は様々な問題の場所であり、裁判など関係しなかったが全員が関係するものとなった。
だからこの辺は何か今までありえないこを実際の自分たちの問題として考えざるをえなくなったのである。

posted by 老鶯 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

戦後経済十年の不思議 (自給自足で外から入る物がまれな時代)



戦後経済十年の不思議

(自給自足で外から入る物がまれな時代)


戦後十年くらいの経済はふりかえると不思議である。小学生時代まで経験したことは今と比べるあまりにも違っていた。
ただ子供のとき経験したことと大人になって経験することは違っている。
子供のときは貧しくてもそんなに貧しさとか感じないということもある。
その頃確かに貧しかったのだが貧乏でいやだなとかみんな感じなかったろう
みんな同じような暮らしをしていたからだ
ただ違っていたのはかえって農家の方が豊かだったのである。
食料が自給自足のような時代は自家生産している所が豊かになる
農家ではまず鶏を飼っていたから卵が食べていたし鶏の肉も家で殺して食べていたのである。納豆までも自家生産だったしなんでも自給自足が基本だったのである。

こういう自給自足生活は江戸時代から戦前と戦後十年くらいはつづいたのである。
燃料は炭であったから山の方では炭焼きをしていて街に供給していた。
水道はなく裏の小川で洗濯していたし料理は竈でもあった
トイレは離れにありその糞尿は近くの農家の人が肥料としてとりにきていた。
それは百万都市だった江戸でも同じだったのである。
便をふくのは新聞紙だった、新聞は何かいろいろ紙として役にたった
今のように石油から紙とかいろいろなものを作れていないから紙も貴重だったのである。勉強でも鉛筆は相当な貴重品だった、それは戦前の話になるがもう手でつかむことができないほど小さくなっても使っていたのである。
物というのはあらゆるものが貴重だったのである。


自分の家では最初駄菓子屋のような子供相手の店をしていた。
新聞紙は母が毎日袋を作っていた。お菓子でもなんでもばら売りだったからである。
酒でも一合とかを買いに行かされていた。
何か買うとうしたら隣近所にある店を使っていた。
魚屋があり豆腐屋があり酒屋があり駄菓子屋があり呉服屋があるかである。
そして確かに鉄道が通っていて外から物が運ばれてきていた。
それは実際は鉄道で多くのものが運ばれていたのかどうかわからない
駅前が栄えたのは鉄道があったからということは確かである。
それで駅前旅館とか駅前に自転車屋があるのは自転車が鉄道で運ばれてきていたからである。
それから引き込み線がありそこで荷物を運んでいた、縄屋とかあるのは縄が梱包するのに必要だったからである。

ただその時の経済は外部から入ってくるのは少ない、例えばバナナは戦後十年くらいまで普通に食べいない、バナナの叩き売りとあるのはアキイチとか祭りとか特別の日に売っていたからである。
自分の家では父が病気になったとき仙台からバナナを買ってきたのである。
この辺ではバナナは常時売っていなかったし高価なものだったのである。
まず外国から入るものは都会では一部あったにしろ輸入してまで食料が入る時代ではなかった。
記憶としてはミカンは食べていた、ミカンは東北ではとれないから鉄道で運ばれてきた
なぜならその時トラック輸送などはあまりしていない、鉄道が遠距離輸送をになっていた

戦後十年くらいは物がないから物があれば売れたという時代だった
でも野菜とか米とか食料は国内というより地元のしか食べていないだろう。
自分の家で店をしていたとき、姉は力があり自転車で野菜を近くに買いに行っていた。
自分は子供のとき自転車で農家に卵を買いに行っていた。
当時の店は何でも地元で生産されるものでまかなっていた。
自転車というときそれは一生使うものでありいつも磨いていたのである。
姉は保健婦であり自転車で一軒一軒回っていたのである。
こういう自給自足の経済というのが理解できなくなっている
例えばさらに鉄道が通らない、山間部でこの辺だと葛尾村(かつろう)とか飯館村などがあるがそこではどんな暮らしをしていたのだろうとなる
まさに江戸時代からの継続で自給自足になる

家事にしてもその頃電気製品は一切ない、家には裸電球一つがどこの家でも同じだった。自分の家はトタン屋根でいつも雨漏りがしていた。洗面器を並べて雨漏りの水をためていた。その時道は舗装されていない、土ぼこりのたつ道だった
ただわからないのは野馬追いのときその土の道は車が来たのを数えていた
そのとき車は確かにあった、それはバスが中心だったかもしれない
自家用車をもっている人はその時まだほとんどいないだろう。
でもそんなに車が来ていたというのも不思議である。
バスと鉄道が交通手段だった時代である。
リヤカーは物を運んでいた、それで農家の人が梨を積んで相馬市まで売りに行ったというのを聞いた。原町や中村(相馬市)くらいは物の売り買いはあった。
明治時代には天秤棒で川俣まで鹿島の人が鰻を川俣に売りに行ったという話を聞いて信じられなかった。天秤棒で歩いてそんな遠くまで行けるのかと思った。

それは江戸時代とまるっきり同じだったのである。
でもその範囲を越えると物の売買はむずかしくなる
今になるとそういう自給自足の暮らしが理解しにくくなった
人間はもともとそういう自給自足の暮らしが江戸時代から戦前戦後十年くらいまでつづいていたということが今になると不思議なものになる
今や大工すら地元で家を建てるというのではなく建て売り住宅で大東建託とかが
この辺では津波原発事故で十棟くらい建っているのに驚く
それはみんな会社の人がきて組み立てているだけである。
自給自足というときもともとは地元の資源を活かして地元の人が働いていたのである。


現代は国内だけではない、グローバル経済だから外国から当たり前のように食料でも入ってくる。でもそんなに外国から食料まで入ってくることに違和感を覚えることがある
もし何か天候異変とか戦争とかがあり食料が外国から入らなくなったらどうなるのか?
そういう不安がある。東京ではもう食料は国内産でなくてもいい安いのが外国からいつでも入る、日本の農業が金がかかりすぎる、都会の人間が税金をとられすぎるとかなる。
自給自足の経済だったら外から入らなくてもなんとかやっていけるという安心がある。
これだけグローバル化する経済は誰も理解できない
カナダの国債がいいから買ったがカナダは石油資源があるから格付けで世界で一番いいとか言われるとそうなのかとなる。そうしたら日本の国債を買う人は少なくなる
これもどうなっているんだろうとなる。金はグローバルに流通している。
だから金持ちは外国に投資して危険回避するためにあずけている
こういうグローバル経済広域化経済が社会を根本的に変えてしまったのである。


なぜこの辺で原発事故で人が住めなくなった地域で避難した地域が沖縄から北海道までになったのか?
普通ならイワキとか相馬市とか南相馬市とか新地くらいまでならわかる。
こんなに全国にちらばったのはなぜなのか?
その市町村で受け入れるということもあるが何らか親戚関係を頼って避難したということもあるだろう。
今の婚姻は遠くになるのが当たり前であるからだ。
そしてあらゆるものが家を建てるにしても大東けんたくとか建て売りであり外部から来ている
だから自給自足とはあまりにも違っている社会なのである。
それがどういうふうに影響するかというと前にも書いたが金さえあればその住んでいる場所にこだわらない、金さえあればどこに住んでもいいとなる


川内村とかでは不便な場所だから補償金もらって郡山市にすんだら帰りたくないとなったのもわかる。
こういうふうに何か自給自足経済ではない、金があれば九州産の食べ物であれ外国の食べ物であれ買って暮らせばいいとなれば地元のものにこだわる必要がない社会である。
そうなると一億円もらった他で暮らせばいいなってしまい避難者は帰らないとなり
町や村が簡単に解体してしまうということがあったように思う。
また自給自足の経済でこんな事故が起きたらそれこそ水も土も木まで汚染されたのだから壊滅した。
不思議なのは別に飲み水は金で外部から買って使っているし放射能に汚染されないものを外部から金で買えばいいとなる。
ただ補償金はいつまでももらえるものではないからそれが打ち切られたら金が入らないし自家生産できなければお手上げになってしまう。


ともかく今を知るには今だけでは今がわからないのである。
そこに昔を過去を歴史をふりかえり今が何なのかを知るのである。
例えばなぜ結婚しない人たちが増えたのか?特に男性に増えたのか?
それはフリーターとか派遣とか若者に経済力がないからだとかいろいろ言われる
それも理由だが今は一人暮らしでも結婚していないくても家事が楽なことも原因かもしれない
自給自足の経済になると家事は大きな仕事になる
洗濯でも手で洗っていたし食事の用意だけで大変な手間がかかることになる
それを男が一人でやるということはかなりの労働になってしまう


だから戦前では中産階級ですら二人の女中を雇っていた。
家事をするたげでそれだけの手間がかかったからそうなった。
今は機械化しているし外食も便利だし金はかかっても手間はかからないのである。
このことは一人くらしでも楽であり結婚しなくてもやっていけるとか思うようになる
自分も七年間家事をしてきたけど今母を施設に三日ほどあづけたら楽である。
自分一人のことだけなら本当に楽である。
まず朝はパンだから手間がかからない、昼間だってちょっと外食すればいいとかなり
夜は多少料理をしても他は楽である。
だから今や結婚して外で働く主婦が多いが主婦の専業の方がいいというのもわかる
つまり昔のように手で洗濯したり何でも人間の力でしている時代とは違う
みんな機械でやると主婦は楽である。


とにかく戦後十年くらいの子供時代の経験は貴重だった
あういう生活があったということが今になるとあまりにも今と違いすぎる
その対比で現代が何なのかとか今回の原発事故を問いなおすことも必要である。
ただ自給自足生活というのが理解できなくなった。
戦後十年とかさらに二十年とか三十年とかなるともう全く経験していないのだから理解できなくなった。
そういう生活もあったということを知る必要がある
そして現代の生活を見直すと原発事故がなぜ起きてこんなふうに故郷にも住めなくなったのか、こんなに外部頼りの生活でいいのか?こんなに便利で金に頼る生活でいいのか?
何かそういうことを考えるには昔を知る必要がある





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posted by 老鶯 at 12:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)