朝ひびく厨に我や蝉の声
南北に沸き上がるかな夏の雲
夏菊や一雨ふりて水写る
復興や朝日のさして実りかな
復興や墓地の回りに実りかな
復興や故郷の実りうれしかな
山鳩の番いの飛ぶや実りかな
朝畑に一仕事かな菊の花
根を下ろカボチャの花に菊の花
菊の花雨ぬれしっとり湿る土
津波の来た所は田んぼになっていない、ただ試験的に一部今年は稲か実っている
田んぼがあり稲が実るということは当たり前のことだった。
それがなくなってこの辺が草原化したことが本当に不思議だった
だからそのことを報告してきた。
墓地の回りも実りがありまだ草原もある。まだ田んぼが全部は復興していない
でもそれなりにかなりふえた、五分の一は復興したというからそうなのだろう。
この実りがあるというとき故郷を感じる、故郷に実りがあってはじめて故郷なのである。故郷とは何かなど考えもしなかったろう。田んぼがなくなることもイメージすらできなかった。
だからこの辺はいろいろ考えさせられる場所になりそれを書いてきた。
今は米など余っているとかいろいろいわれてきた。
でも本当の故郷とは故郷に実りがあってその実りで養われてこそ故郷である。
今は米だって外国から入ってくるから地元にこだわる必要がない
何かグローバル経済だから米なんかどこからでも入ってくるから金さえ出せばどこのうまい米でも食べられるからいいというふうになっている
そのことが何かもう当たり前であっても人間の生活として理にもあわない変なものではなかったか?
地元に実りがなかったらよその米を食べるばかりだったら故郷意識もなくなる
故郷に住んでいる意味すらなくなるという感じになる
それは農業している人だけの意識であり今は違うというのもわかる
でもそもそもそういう感覚になってしまったことが原発事故をまねいた原因にもなっているとも書いた。
故郷の実りはここだけではない、他でもないがしろにされてきた。
そして原発でも何でも建ててもっと金を得て贅沢をしたいとなっていた。
だから無理して借金して立派な家を建て今度は原発が建てられると金になると言う人も小高にいた。でもそれも中止になった。
農民は農民でもう農業など手間がかかり苦労ばかりでやっていられない、跡継ぎもいないとか嘆くばかりだったのである。
それはここだけでの問題ではない、日本でも世界でも農業はおとしめられていたのである
米は安い金にならないということでしたくないという声ばかりだった。
今度は放射能汚染の風評被害で米は売れない、だからやめたという人もいる
でも本来の人間の生活はまず地元でとれたものを食料にするのが基本だろう。
地元に米かとれなかったらまさに実りを感じないのである。
だから4年ぶりとかにその実りの米を食べたとき農民はどういう感覚になるのだろうか?
米をとれてありがたい、この米は売れなくても自分たちで食べてその実りに感謝するとかなるかもしれない。それとも売れないのでがっかりしたとなるのか?
ともかくグローバル経済とか広域社会はすべて否定できないものだし必要なものである。でも何かそれが人間の正当な生活の道をふみはずしている。
それがすべてでないにしろ原発事故をもたらした原因になっていた。
自ら作る農民であれ農業しなくてもそこに住む人であれまずその土地の実りに感謝することがない、ただ金があれば何でも買えるからまず金だとなっていた
もう頭に誰でも金しかない、そしてこいつは金もっている金を盗ればいいとかまでなり
相手が困ろうが苦しくても病気でももう関係ない、相手はまさに金にしか見えなくなっているのである。
そういうことにここだけではないなぜなってしまっているのか?
そういうことが原発事故でも問われたのである。
そうはいっても現実社会は東京で一千万以上住んでも都会に住む人も農業とは直接関係していない社会である。
だから田舎に住んでいる人が何を感じているかもわからない
金さえ出せば食料は手に入る、外国からも入ってくると考える
でも何かが津波のような大災害が起こり本当に国内からももちろん外国からも食料が入らなくなったらどうなるのか?
そういうことが今回のように起こりえるのである。
その時現代の文明の矛盾がこの辺のように肌身で感じるようになるのである。
いづれにしろ故郷の実りは放射能汚染でも老人は食べるべきである。
故郷の実りを食べてこそ故郷なのである。
田舎だって他から食料が入らなくなることがある、だから本当は地元のもので最低限はまかなうということが備えになるのである。
ともかくこの辺はまず田んぼなくなのなどイメージもできなかった。
それでいろいろ考えさせられる場所になったのである。